富士川游著述選 第四巻  瑞華雜話  東京中山文化研究所発行  刊行の辞  回顧すれば、不可思議なる因縁で約三十年前私は図らずも富士川先生に面唔の機を得、それ以来多年大いなる力の下に指導啓発せられたのである。偶々、大正十三年中山文化研究所の綜合機関創設と共に児童教養研究所、女性文化研究所其他の各分科機関整備充実に当り、先生は私の希望を容れられて、特に女性文化研究所々長として、女性の文化生活上科学知識の普及並に精神生活の信念確立に関する重要問題の研究指導に当られ、其後文化研究所長として之を主宰せられ、昨昭和十五年十一月六日高齢七十六蔵を以て逝去せられる時まで、その該博なる科学的知識と、深遠なる宗教的思索とを以つて、本所創設の使命遂行のために熱心尽瘁せられたのであつた。  先生は常に、真の文化の根帯に欠くべからざるものは宗教的信念なりと唱道せられた。然るに宗教に就いての一般的理解が識者の間に於いてすら皆無に近いか、或は極めて幼稚であり、又甚だ歪曲せられて居ることを遺憾とせられ、先生の後半生は殆どその全力を真の宗教的信念の普及に傾到せられたのであつた。就中、文化研究所に於いて婦人精神文化等の講座を順次に開催せられ、宗教の本質に就いて、或は科学と宗教、或は哲学と宗教との関係について諄々と説述せられ、以つて宗教の真髄を闡明《せんめい》することに力められたのであつた。さうして一面「釈尊の教」「親鸞聖人の宗教」「弥陀教」「倫理と宗教」「宗教生活」「迷信の研究」等の論著を公にせられ、又雑誌「精神文化」及び「法爾」等には毎月その宗教的思索と体驗とを載せられたのである。  今や曠古未會有の難局に際會し、国民思想の昏迷は識者の最も深き憂とするところ、殊に、大東亜建設の重責を有する我が国民の精神生活にゆるぎなき信念を確立しなければならぬということは、心あるものの齊しく考へてゐるところである。この時に方り、真実なる宗教的信念を確立し、正しき情操の涌養に力めて国民の感情を醇化《じゆんか》することは蓋し最も喫緊の要務である。今こそまことに富士川先生の如き透徹せる宗教的信念に生くる指導者を要望すること最も大なるの秋である。随つて私は常に先生の矍鑠《かくしやく》さと其の高潔なる風格とを以つて更に長く後進を薫陶せられむことを切に願つてゐたのであるが、今やその希望は空しくなつた次第である。仍つて其の遺稿遺文を輯めて之を世に公にすることは本研究所本来の目的達成に資する所以なりと信ずる。幸にして、深遠なる教義を平易に闡明せられたる先生の珠玉の文字は累積してゐるので、夫等の内から代表的なりと思はるるものを選びて上梓し、其の芳躅を永へに遺し、千載の後なほ真実の道を伝へ、これを求むるものの指針たらしめむとし、敢て之を公刊して江湖に薦むる所以である。  昭和十六年四月下院  中山文化研究所所主  目次  瑞華雜話  無畏三蔵  卯右衛門  快川禅師  馬鹿の至誠  僧模師  有生の樂  頼光と智光  仏祖の賜  物を活かせ  智慧を離る。  欣求浄土  妙了尼  真の幸心  高藤の中将  御引立  不生の仏心  発露の涙  楠木正成  同行を賜はる  薩摩の千代女  法音を聴く  浄念  自力を捨つ  孝女お石  正信念仏  争議巳む  松居遊見  北條早雲  坂本浄念坊  佐藤一齋  三河善蔵  廊三法師  少女安心  上杉謙信  姿の儘  無我の心  仏に遇ふ  餅屋の市五郎  神仏を欺す  かす念仏  毛利元就  報恩生活  中江藤樹  紅蓮尼  北條泰時  仏の御使  無我に喜ぶ  芸州喜兵衛  法林寺嘉代  他力廻向  預かり物  夢窓国師  恵心院僧都  越中おたか  報謝の心  木屋妙浄  傅大士  姑嫁和合  北條時頼  深語院慧雲師  宗教の世界  法華一乗  至誠の感  姑と嫁  播州小松女  念仏の信  難有与一兵衛  宗教叢談  富士山信仰  二軒の家  宗教的要求  一日ぐらし  明信寺師  寄附の禮  偽筆を憐む  省察  慈脱和尚  慎独  六字名號の歌  筑前正助  真撃の志  池無名  願求無驗  煩悩其儘  念仏彦右衛門  石州善太郎  以心伝心  地獄因  次左衛門  千萬の夢  本願信受  捨身求法  和兵衛  後生の明暗  高慢の儘  三州おみつ  内証の世界  物種吉兵衛  浄閑  南無阿弥陀仏  後生  仏の慈悲  六字のいはれ  喜びの心  地獄一定  千代女  おみせ同行  光明の御はからひ  他力  自分一人のため  聞法の生活  反求其身  地獄か極樂か  感心上手  仏性尊敬  八種懈怠  乞食桃水  鹽屋徳兵衛  増吉  顕智房  動静兩忘  鈴木正三  聖覚法印  安住の心  慈悲の中  機の計ひ  安心坐談  安心  内心の領解  宗教の心  平忠度  慈母  知足  寛仁  喜悦  精進  闘争の心  愚底和尚  孝養  仏佐吉  婆子焼庵  ビシャカ  治郎右衞門  俳諧の殿樣  袈裟に供養  金持尊崇  陳善院僧僕師  袖口同行  仏性  真仏  安樂の善道  仙腰a尚  人間に生る  広い心  悪業を憐む  かよ女  不思議  信心歓喜  すがる心  貞心尼  弥陀を頼む  以心伝心  地獄因  次左衛門  千萬の夢  本願信受  捨身求法  和兵衛  後生の明暗  高慢の儘  三州おみつ  内証の世界  物種吉兵衛  浄閑  南無阿弥陀仏  後生  仏の慈悲  六字のいはれ  喜びの心  地獄一定  千代女  おみせ同行  光明の御はからひ  他力  自分一人のため  聞法の生活  反求其身  地獄か極樂か  感心上手  仏性尊敬  八種懈怠  乞食桃水  鹽屋徳兵衛  増吉  顕智房  動静兩忘  鈴木正三  聖覚法印  安住の心  慈悲の中  機の計ひ  安心坐談  安心  内心の領解  宗教の心  平忠度  慈母  知足  寛仁  喜悦  精進  闘争の心  愚底和尚  孝養  仏佐吉  婆子焼庵  ビシャカ  治郎右衞門  俳諧の殿樣  袈裟に供養  金持尊崇  陳善院僧僕師  袖口同行  仏性  真仏  安樂の善道  仙腰a尚  人間に生る  広い心  悪業を憐む  かよ女  不思議  信心歓喜  すがる心  貞心尼  弥陀を頼む  以心伝心  一日一善  仏性  一心三界  邪心  頑空  理想の世界  月愛三昧  まゐらせ心  禅門浄念  殺生  新右衛門  祈願  鄙者自隘  念仏麹屋  人間の喜び  懈怠の心  智覚禪師  宇右衛門  孝信喜代次  不思議の信受  心光  信心  長右衛門  行持を尊む  懈怠を戒む  今生大事  他力の意味  江州權四郎  壬生の五助  越前小兵衛  南溪勸学  伊賀六兵衛  冥加を畏る  謹厳  自分を知らず  念仏を授かる  慈悲の花  石泉師  頼むべからず  江州采女  水戸義公  貞信尼  伊左衛門  小島屋權七  報恩の志  不立文字  讃岐の庄松  了智坊  信救  我賢の心  真の知見  俗人の仏法  團扇の運命  心の花  一座一芥も仏物  荻生徂徠  学問沙汰  生活と宗教  宗教の徳  感情の統一(一)  感情の統一(二)  他力を感ず  生を樂しむ  自然法爾  物と心  法を聴く  無我  心の相  小我と大我  真実の智慧  宗教の心  瑞華雜話  本稿は、昭和十三年八月より十四年七月まで雑誌「精神文化」に掲載せられたるものである。  無畏三蔵  無畏三蔵が始め印度よりして支那に来りしとき、酒を飲み、肉をくらひ、言行甚だ良くなかつた。その頃、支那に宣律師といひて持律堅固なること印度までへも聞えて居つたので、無畏三蔵は宣律師に見えむとて律師を尋ね行つた。宣律師は無畏三蔵の挙動を聞きて心に喜ばずして室内に入れず、戸外に宿せしめた。夜に入りて宣津師虱を取りて床の下へ投げたるに、無畏三蔵は戸外より大いに呼びていふやう「律師、律師、仏子を撲ち殺さむとしたまふか」と、宣律師これを聞きて大いに慚《は》ぢ、無畏三蔵のただ人でないといふことを知つたと伝へられて居る。無畏三蔵の意、大小の二つの命に於て、心に隔てなく、虱を仏子と称して、さきの物には大小あれども我より向ふところの慈悲の心には二つなきことを示すのである。すべて大小はみな相対の仮名にして神識には決して大小の別がない。今我身よりも大身大力の人が来りて我をひねり殺さむに、我は微細なるものなりとて甘心して殺さるるものは無い。虱とても彼が心には小さきものとは思はず、我執かたく身を持するものである。それ故に一切の有情に快樂を与へむと思ふ慈心を起し、又諸の苦悩を救はむと思ふ悲心を起すことを、主とする仏教にありては、独り人間同志に対してのみでなく、蚤や虱の如き小さきものにまでも同じやうに慈悲の心を向けるべきであるといふのである。  さうして、此の如き慈悲の心は、道徳の教によりてこれを奨励すべきことは勿論であるが、しかもそれが徹底的に実行せられることは宗教の心のはたらきに待たねばならぬのである。無畏三蔵が始め支那に来りしとき、その日常の生活がその頃までの仏教の行儀に背き、酒を飲み、肉をくらふといふが如き破戒の甚しきものであつたので、持津堅固の宣律師から排斥せられたのであるが、しかしながら、さういふ行儀を守るといふことは固より宗教ではない。宗教はその心がよく修まりて、苦悩から離れることを主とするのである。無畏三蔵が禁欲生活をなすことなく、しかも生き物としては甚だ小さい虱をあはれむ心を起したことこそ真に宗教の心のあらはれである。徒らに外儀をつくらふことに心を労して、その心を修むることを怠ることは、決して宗教の心をあらはす道でない。  卯右衛門  むかし播磨国揖東郡太田村の出屋敷といふ所に卵右衛門といふ奇特の信者が居つた。この人若年の頃は殊の外身持悪しく、かりそめにも大酒博突喧嘩口論をなし、固より貧しい暮で、農業とてもはかばかしくはせず、馬追を渡世として常に遍路の町へ通いて駄賃を取りて悉く酒にかへ、酔狂して人を打擲するのが常であつた。これによりて近村のものまで皆もてあまして居つた。女房には早く離れ、男子一人ありたれども子を思ふ心もなく、ただ気随気儘に歳月を送つて居つた。ところがあるとき、例の如く馬を牽きて姫路の町へ出たが、荷物のつけ合せ悪しく、彼所此所と荷を尋ねてあるく中に、本願寺の御坊の前を通ほりかかりしに、折から木山より講師の出張にて勘化最中、參詣のもの群集せるを見て、卵右衛門は馬を門前につなぎ、自身は参詣の群集と共に門内に入り御堂の縁に腰をかけ、あながち聴聞する心にはあらざれども、何の気もなく、聞くともなく、聞かぬともなく、勸化の声が耳に入つた。造悪の凡夫、一善を修したる覚えもなし、たとひ其身、阿修羅王の勢ありとも無常の殺鬼に防ぐこと能はず、闇魔王の使に引き立てられ、焦熱の苦しみを受くるとき、血の涙を流したりと萬劫苦患を免かるることかなはず。しかるに弥陀超世の悲願といふは一たび此仏に帰命し奉れば、たちどころに光明の中におさめ取られ、命終れば極樂浄土に往生せむこと何の疑かこれ有らむと、こまごまと聞えたのである。このとき卵右衛門は宿善開発の時節到来したか、発露涕泣し、信心肝にそみて、夢のさめたるが如く、年頃の悪行を後悔し、後には大声をあげて泣き出した。このとき卯右衛門、年四十ばかりであつた。それから、卯右衛門は此日を始としてその志大いに改まり、口に称名を絶やさず、身に一寸の悪行をせず、まことに前日の卯右衛門とは別の人のやうになつた。それより馬士をやめ、農業に出精し、かりそめにも人と争はず、ただ法義を喜び無二の信者となつた。しかるに、卯右衛門の息子、成人の後、嫁を迎へたるに、この嫁生得慳貪邪見にして舅卯右衛門に対して不孝であつたが、卵右衛門は一言も咎め立てをせず、却つて嫁をそだてて日を送る内、あるとき、嫁は舅の物の言ひざま、おのが心にかなはぬとて、有り合せた横槌を取つて舅へ投げつければ舅の額にあたりて血が流れた。息子はこれを見て、堪忍せず、かかる不孝者は家に居ることならずと、女房を引き立て、門口へ出かける。卯右衛門は大いに驚き、片手には流るる血を拭い、片手には我子の袂を引留め、さまざまにわび言すれば「これほどの不孝もの、切りきざむでも飽き足らぬものを何故に追出すことを留めさつしやるか」と言へば、卯右衛門は、「さればそれほどの不孝もの故、追出すことを留めるのぢや。この家でさへ、辛抱の出来ぬ嫁が、他へ嫁入して一日も辛抱が出来るのか。此家を追出すと嫁は片時も身を置くところがない。このやうな心得違ひな嫁を貰ふたは其方の不仕合、おれが宿業のわるいのぢや、何事も堪忍せよ」と言ひ宥めて、仏壇に燈明を上げ、額の血を拭きながら称名を悦むだ。これを見て、流石の嫁も大いに後悔し、ひたすらにあやまると、亭主も漸く納得して無事におさまつた。又あるとき、卯右衛門、嫁もろともに麦畑へ行き、畝をこしらへけるに、嫁は舅の先に立ちて鍬にて畝を削り、卯右衛門はあとより土をかけた。しかるに嫁の鍬づかひ荒らく、畝がゆがむのを見て、卯右衛門は後より声をかけ「すこし気をつけてやれ、畝がゆがむぞ」といふ。短気者の嫁はそれを聞くと、そのまま鍬を畑に打ちつけ、ものを言はず、家にかへつた。卯右衛門は驚き、これまた家に帰り、そのまま仏壇へ燈明を上げ、仏の前に跪て「さて、地獄一定の愚痴のおやぢが、あさましい心より嫁を叱りました故、嫁が腹を立てました。これ全くこのおやぢめが、悪るうござりました。お許しなされて下さりませ」と、くり返し言ふた。これを聞いて、さしもの嫁もだまつて居らず、舅の側へ行き「これは私が了簡違でござりました。堪忍して下さりませ」と言へば「いやいや、そなたの悪るいのではない。このぢいが愚痴なからぢや」といふ。「いえいえ私がわるかつた」と、嫁の我慢の角も折れて、後々は孝行の嫁になつたといふ。  この卯右衛門の話は「続々鳩翁道話」に載せて、まことに我なしの行状にてよく法義を聞き得たる信者といふべしと賞讃してある。古歌に「さへられぬ光もあるをおしなべてへだてがなほる朝霞かな」とあるを引て、卵右衛門が年四十にして、忽ち悪念をひるがへして信心を得たることは化導の利益とはいへ、偏に仏智の致すところである。しかし仏智ありとも卯右衛門に仏性の存したことも考へねばならぬ。諺に「仏法と藁屋の雨は出て聞け」とある。何様聞かねば信心も起らぬと「続々鳩翁道話」の著者は説いて居る。  この卵右衞門の事は僧純師の「妙好人伝」篇の中にも載せてあるが、それに拠ると、卵右衛門は太田村の浄因寺の門徒にて二十ばかりの頃より法義を大切にしたやうに記してある。何れが事実であるか、よくわからぬが、卯右衛門が此の如き信心を獲得したことは教を聞いたことにより、又それによりて全く無我の行状をなすに至つたのは後年のことであつたと思はれる。  或年の冬、卯右衛門が姫路の町より帰るとき、途中にて隣村の馬士が追つきて言ふやうは「太田の阿弥陀殿、今晩わしが所にて報恩講をつとむるが初夜時にまゐりて下され」といふ。卵右衛門は大いに喜び、「それはありがたいことぢや、左樣お辞儀なしに參詣致しませう」と約束を定めて別れた。この馬士、生来粗悪なるもの故、卵右衛門があまり法義を悦ぶと聞きて、片腹痛く思ひ、だまして迷惑させむと計り、うまく偽りて我家にかへり馬を洗ひかたづけて、初夜頃門の戸をしめて寝しが、卵右衛門は偽りとも知らず、我家にかへりて後、刻限になりければ、かの馬士の方へまゐる。折節薄暮より雪降りて面出しもならぬ程の気色なれども約束をたがへじと、蓑笠を著て草鞋をはき、杖にすがりて二十丁ばかりの所をたどりたどり彼家につきて蓑笠をぬぎ、門の戸をあけむとするにあかず、しきりに戸を叩き、「卯右衛門がまゐり」と言いければ、かの馬士は寝ながらこの声を聞き、今夜の雪にはよもや来まじと思ひしに、さてもさても意地なおやぢぞと、肝をつぶし、息を呑むで空寝入してその動静を伺ひ居りけるが、卯右衛門は音信も返事もなく、又燈火る見えぬ故、これは今夜俄に用事でも出来て他所へ行かれたるか、ただしは刻限が違ふたか、何にせよ此儘に帰りては約束に背くことなれば、いざ軒下にてしばらく帰りを待たむと思ひて蓑笠打しき坐を占むれば、折ふし西風強く吹雪しきりに身に降りかかりければ、竹の子笠を前にあて、御恩を喜むで居りしに、野も山も白妙となり、寒風身をさくやうに覚え思はず声をあげて、「さてもさてもかたじけなや、今夜我屋に居るならば御恩も忘れて暮すべきに、ここの主人の御庇にてここへ来ればこそ御開山の御苦労のほど此身に知らせたまへることのありがたや、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と喜ぶ声のしみじみと馬士の耳にこたへ、何となく貴くありがたく思はれこらへかねて表の戸を引あけ、卵右衛門を内へ伴いて、偽はりし事を重々わびて、それより卵右衛門の勧めによりて終にありがたき同行となつたといふ。  何れにしても卵右衛門は、その始めは人並すぐれて「我」の強かつたものであるが、一旦法を聞きたることによりてその「我」の価値が否定せられるやうになりて遂には「無我の境地に達したのであらう。「無我」といふことの宗教上の意味は、自分としてのはからひのないことである。自分としてのはからいが無くなれば、言ふことも行ふことも、皆異質であるから、それによりてすべての人が感動せしめられることは当然である。  快川禅師  武田信玄の子、勝頼が織田信長に攻められて菩提寺の慧林寺へ逃げ込むだとき、信長は数百人の兵士を引き連れて慧林寺を囲み、山門の上に逃げて居つた快川禅師を下から薪を積み重ねて火をつけて焼き殺さうとした。その時快川禅師は「安禅何ぞ山川を須いんや、心頭を滅却すれば火も亦涼」と言つて、悠々火焔に包まれて端然として居られた。たとひ身は火の中、水の中にありても精神さへ鍛練されて居れば、火の中も決して熱くない、水も決して冷くない。快川禅師は蒙々と立ち上がる火焔の中にありながら弟子達を振り向て「これが最後だ、末期のおつとめをしやう」と言つて、既に衣の袖に火がつくやうになつて居るのも物ともせず、打ち揃ひて焚死せられたのである。我々は固より此世に用がありて此世に生れたのである。この世に執著することは当然である。しかれども機縁が熟して此世を離れねばならぬとすれば、それはまことに巳むを得ぬことである。しかも我々が此世を離れて行くべきところは此世より一層立派なる理想の世界であるといふことを信ずれば、火に攻められる苦しみも何のそのである。宗教が我々の日常生活の上に強い力を与ふるのも全くこの点に存する。  馬鹿の至誠  むかし、石州に馬鹿の至誠さむと言はれた篤信の人が居つた。年を取つてから「阿弥陀経」を覚えやうと習つたが、三年かかつても読むことが出来ぬほどの馬鹿であつた。しかしながら仏のお慈悲を感ずることは甚だ深かつた。あるとき寺へ説教を聞きに參詣して居つたが、高座の下に坐つてじつと聞いて居つた。やがて説教が終つてから、阿弥陀仏の前へ行つて、兩手を合せて「馬鹿だ馬鹿だ」と言ひ続けて居る。これを見た他の同行連は「あのやうな馬鹿者でも、人から馬鹿だと言はれると腹が立つらしい」と話合つた。その内、一人の同行が至誠さむの側へ寄つて「至誠さむ、何が馬鹿だといふのですか」と尋ねた。さうすると、至誠さむは両眼に嬉し涙をたたへて  「阿弥陀様だ。馬鹿な阿弥陀様だ。このやうな馬鹿な私を助けなければ気のすまぬ阿弥陀様はよつぽど馬鹿だ」と言つて泣いた。全く自力のはからひを捨てて仏の本願に信頼するところに、真の仏の慈悲がありがたく感受せられるのである。知識の方面から見れば馬鹿ものと言はれた至誠さむでも、仏の慈悲を感受することは所謂賢者よりも強かつたのである。あるとき、同じお寺に法要があつて客僧が見えた。至誠さむはお説教を聞いた後、座敷へ客僧を尋ねていろいろ法義のことを聞いて居つたが、そこへ寺の奥さむが来て、客僧に入浴の案内をなし、又至誠さむに客僧の背を流して上げて下さいと頼むだ。至誠さむは快く承諾して客僧の背を流した。その時至誠さむは始終念仏して居つたが客僧の方は一向念仏が出ない。至誠さむは絞つた手拭でドスンと大きな客僧の背をたたいて、「御仏壇は立派だが、阿弥陀様はござらぬわい」と嘆息した。辛辣なる皮肉の言に客僧も定めて自ら慚つたことであらう。  僧模師  陳善院僧模師あるとき、旅に出て、とある寺の前を通ほりかかると、説教の声が聞えるので、僧模師はつかつかと門をくぐりて聴聞の坐に列なられた。すると高座にあつた説教師は有名なる僧模和上の参られたことを覚つたため急に辨舌がまはらなくなつた。そこで「生死の苦海ほとりなし、久しく沈める我等をば、弥陀弘誓の船のみぞ、のせて必ずわたしける」といふ和讃をくりかへしくりかへし述べた。しかるに僧模師はくりかされるこの和讃を声毎に一句一句味はれて、はては兩眼に一杯涙をためて喜ばれた。この有様に他の同行達も引き込まれて感泣したといふことである。これこそ真に仏に救はれたる喜びの姿である。仏の救ひの前には老若、賢愚、男女の差別なく、一切を乗せて渡されるのである。  有生の樂  恵心僧都の法語に  「それ一切衆生三悪道をのがれて人間に生ること大なる喜びなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家まづしくとも餓鬼にはまさるべし。心に思ふことかなはずとも地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとふたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは菩提をねがふしるべなり。このゆゑに人間に生るることを悦ぶべし。信心あさくとも本願ふかきがゆゑにたのめばかならず往生す。念仏ものうけれどを唱ふればさだめて来迎にあづかる。功徳莫大なり。このゆゑに本願にあふことをよろこぶべし」  生きとし、生けるものの数多きが中に、人間に生れて、その身も心も他のもろもろの生き物にすぐれて居ることはまことにありがたいことと喜ばねばならぬ。さうして、与へられたる身と心とを以て、与へられたる境地に生れ出でたる我々としては人間としての本性を発揮して、ありがたさに報ゆることをつとめねばならぬ。それ故に我々は有生の樂を知つて第一に自身の生命を尊重することを肝腎とするのである。しかるに、一方に於て、仏教は穢土を厭ひ離れ、浄土をねがひ求むべしと説くがために、一知半解の輩は仏教を以て厭世の概念を貴ぶものであるとなし、現世を卑しみ来世を貴ぶものと誤まりてその宗旨を排斥するものも少なくないが、これは仏教の説くところを誤まり伝へたものである。元来仏教は我々が人間として生れたることを喜ぶべく、又この世に生れて仏の法に遇ふことを喜ぶべく、又この世に生れて仏の法に遇ふたことをありがたく思へと教へる。ただこの世の生活の意義を明かにするがために、我々のきたなき心にて造りたる世界をたのまず、これを厭ひ離れよとすすめるのである。折角生れ出でたことを喜むで居るところの世界を穢土として排斥し去れといふのではない。穢土を穢士と知らずしてそれに執著して、迷妄から免かれることの出来ぬ心を戒めるのである。我々はどこまでも、この世に生れ出でたことを喜び、さうして与へられたる任務を果すためにその生命を尊重すべきことを忘れてはならぬのである。むかし越後の蒲原郡黒澤村にお霜といふ厚信の同行が居つたが、夫が病死したる後は人に雇はれて日を暮し、わびしさ言はむ方もない有様であつた。貧苦に迫れども人の施を受けず、その生活の態度は殊勝なるものであつた。あるとき同行某問ふて曰く  「この世は仮の世なり。未来永生樂しみの究まりのない極樂浄土へ急ぎ參りたく思ふならむ。この世の貧苦を忍ぶにつけても未来の大福長者とならむこと願はしからずや」 お霜これに答へて曰く  「仰せの如くにては候へども早く死にたしとは思はず。只一日も娑婆に長らへたく存ずる」 同行曰く  「それはいかにもいぶかしきことである。仮の世に執著せらるるは何の樂しみがありてか」 お霜曰く  「此世は固より四苦八苦の娑婆なれば、たとひ有徳の人たりとも苦しみなしとは言ふべからず。まして貧苦に迫る身の何の樂しみかあらむ。大経とか申す経の中に、此界にて一日一夜善根を修すれば、浄土に於て百年の間修するより勝されりと承りて候。さればこそ、この寸善尺魔にありて一日も長く称名念仏し広大の仏恩を報ぜむがために死を急ぐ心なし」  かやうにして、お霜は貧困孤独の身ながらもその生を樂しむで生活して居つたのであると。真に宗教としての仏教の精神を味ふことが出来たならば、誰人でも必ず此の如くあるべきである。徒らに仏教を排斥して厭世の数とするのは一知半解の人の考へに外ならずと言はねばならぬ。  頼光と智光  奈良朝時代、奈良の元興寺に智光と頼光と二人の学生が居つた。智光は学者、頼光は学者ではなかつた。この二人は一緒に勉強して居つて、部屋も同一であつた。ところが頼光は年を取るまで学問もせず、物も言はず、只ごろごろと寝てばかり居つた。ところで頼光は死亡した。智光が考へるのに、頼光は学問せず、物も言はず、ただ寝てばかり居つたのだから今何処に生れて居るだらうかと心配した。或夜の夢に頼光の居るところに行つた、見ると立派なところで、極樂と聞いた所に似て居る。そこで智光は頼光に向ひて「ここは何処だ」と聞いた、さうすると、頼光が言ふやう「これは極樂である。お前が自分の生れて居る所を知らうと思ふたから知らしてやる。しかしお前はここに居るべきものでないから早く帰れ」と言つた。智光は驚いて「自分は一生の間極樂に生れやうと願つて居るのである。それに極樂に来たものを直ぐ帰れとは何事ぞ」と言つた。頼光曰く「お前は行業して居ないからここには居られた。ここに居る資格がない」智光は驚いて「お前は学問もせぬ。物言はず。ただぐうぐう寝て居て、さうしてここへ来た。それはどういふ訳か」頼光曰く「自分は元興寺で仏教を修業するとき、始はいろいろな御経を聞いて見て、どうかして極樂へ生れやうと願つた。所がそれは学問で行ける所でないとわかつたから、それで物言はなかつた。ただ、弥陀の相を思ひ、死んだならば必ず弥陀の国へ行くといふことを念願して居つたから、寝て居つた。お前はいろいろの書物を読み、よく義理を知つて居るけれども、いくら智慧が十分に働いて居つても、心が散漫して居るから駄目である。早く帰れ」と言ふ。そこで智光は「それならどうすれば往生が出来るか、教へて呉れ」と頼むだ。頼光曰く「自分はそれは知らぬ。若し知りたければ直接に仏様に問へ」と言つて、何処からか、仏様を連れて来た。智光はその仏様に聞いた。仏の曰く「仏の莊厳を念ぜよ。浄土の荘厳を念ぜよ」と。智光は「それは凡夫の心では出来ません」と言ふ。仏様は何とも言はないで自分の右の手の中に小さい極樂を見せられた。そこで夢が醒めた。  これは「今昔物語」に載せてある話を写したのであるが、往生は学問の力に拠りてなすべきものでなく、一切の自力のはからひを捨てて、一心に仏の言に從ふことによりて極樂に往生すべきであるといふことを夢に托して記したものであらうと思ふ。奈良朝時代に行はれたる仏教は三論宗・成実宗・倶舎宗・法相宗・律宗・華厳宗・いはゆる南都六宗で、何れも深遠なる仏教の学問の研究を主とし、若しくは所定の戒律を堅固に修することを務とし、各自の心を自由安静の境地に導くことを目的とする宗教の方面は全く論外に措かれて居つた。かやうな時節に方りて頼光のやうな学問を主とせず、戒律を守らずして、ただ一心に仏を憶念することをつとめて極樂に往生することが出来るといふことを示したのは、明かによく仏教の宗教の意味を示したものと言はねばならぬのである。  七三郎  むかし、三河の国に七三郎といふ厚信の人が居つた。あるとき一人の僧侶が尋ね行きて「安心のこと」を尋ねたるに、七三郎答へて「南無阿弥陀仏ととなふるより外に安心といふことは一向存じませぬ」と言つた。そこでその僧侶は「口にただ南無阿弥陀仏ととなふるばかりにて往生するやうに皆人おもへり、それはおほきにおぼつかなきことなりと蓮如上人のお歎きである。今まで聴聞の御領解まへがあらうほどにお話なされ」と言つた。七三郎は「はづかしいことぢやがお領解とやらいふことはわかりませぬ。ただ如来樣の御助けがわかりまして朝夕御恩を喜びます」と言つた。僧侶は更に「御改悔の文は何とあげ申さるるや」と尋ねた。改悔文といふのは蓮如上人が造られた極めて簡単な告白文で、浄土真宗の家のものが朝夕仏前で捧読するのである。七三郎は「はいろくろくに覚えませぬが、もろもろの難行難修自力の心をふりすてて一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみまうして候、たのむ一念のとき往生一定御助治定」と改悔の文を暗誦したれば、僧侶は「よしよし、しからばひしとたのみ申候とあげなされ候て、たのむで置いてこそ御禮の称名を申すことあるべし。そのたのむだ如来様へ虚言を申しあげぬが御改悔ぢや。しかと頼むだ覚えがあるか。ないならおたのみなされ、香花燈明をさしあげ、三業揃つてお助け候へと、声を出して頼みなされ、さあ頼ましやれ」といふ。三業とは意に仏を念じ、口に南無阿弥陀仏と唱へ、身に仏を拝むことの三業にて、この三業揃へて仏にたのめといふのである。七三郎はそれに対して「いやこの七三郎は三明六通の阿弥陀如来様ぢやと聴聞いたしました」僧侶の曰く「それは知れたこと」七三郎の曰く「そんならそのやうなやぼな阿弥陀様でもございますまい。高声に言はにや知らぬといふやうな仏様なら、三明六通の如来様ではない。たすけたうたすけたう思召す阿弥陀如来、それほどに他儀作法を立てずとも、お助けなされて下されます。如来様のお前へ出るほどの人が、少しは地獄へ落ちても大事ないと思ふ人は一人もあるまい。皆助かりたいと思ふてござりませう。自力の心をふりすててたのめとあれば、どうもあぶなくて滅多なこともなりませぬ」と言ふ。さうすると僧侶はおこり出して「いやこの同行はめつさうな人ぢや。何を言ふてもぶりついて蒟蒻を馬に乗せたやうな御領解ぢや」と言ふ。それに対して七三郎は「はいはいわしが御領解は菊錫を馬に載せたやうな御領解ぢやから、如来様のよい御領解にて助けなされて下さります」と言つた。そこで僧侶は「其の元の安心はつかまへ所がない」と叱つたので、七三郎は「はいはいわしの安心がつかまへ所のない安心故にあぶないと思召して、まじりのない如来様の安心でまわらせて貰います」と言ひたれば僧侶は呆然として返す言葉もなかつた。元来、宗教の心は人々が自分の心のはからひにて兎や角と詮議することがやみたときに自からにしてあらはるるところの喜びの感情である。さうしてこの喜びの感情がその心の本となつて、考へ方も、意志もそれによりてきまるのであるから、他から何と言はれてそれによりて動かさるることはなく、まことに金剛不壊のものである。七三郎の心はまさに此の如き美しき宗教のあらはれであつた。かやうにして宗教の心がよくあらはれたものは自分の心のはからひを捨てて、宇宙の大いなる心を心とするのであるから、多くの人々に見るやうに、自分の心を迷はすやうなことがなく、自分の得手勝手に神や仏を弄ぶやうなことせず、何事も自分にはわからぬ仏の慈悲の力を仰いで日々の生活を樂しむのである。  仏祖の賜  生きて行くために毎日飯を食ふことはあたりまへである。教へられなくても人々は皆、食べきことを知るものである。さうして食ふべきものは昔世の中に与へられて居るのであるから、多くの人々が食事に関して考へることは尋常平凡なことであらう。むかし陳善院僧模師といへる浄土真宗の碩徳の方が、法話のために芸州に參られ、某寺の縁にて仮寝せられたとき、夢の中に、その寺の庫裡にて坊守と下婢とが相対して食事をして居つた。ところが、その下婢の食ふものは尋常の飯であつたのに、坊守の方はまのあたり火を食ふて居つた。夢醒めて猶撲師が庫裡の方をながめられしに、夢中の如く、主婢相対して食事して居つた。固よりそれは尋常の飯にて夢中の如く火の燃ゆることはなかつた。そこで僧僕師は庫裡に行き、先づ下婢に向つて「お前さまはいかなる心にて食せりや」と問はれた。さうすると下婢は  「私のやうな下賤のものが、かやうな書き処に仕へて、朝夕仏祖の賜を受候ことのかたじけなさよと存ずるのみである」  と言つた。それから坊守の心得はと問はれしに対して、坊守は顔打ちあかめて  「まことに仏物を頂戴しながら、ただそのこととのみ存じ、折々は不足の念ども生じまする」 と懺悔したといふことである。まことに食ふといふことは尋常茶飯事と言つてもよいことであるが、食ふことに対する心持には敬虔のものと、さうでないものとがある。さうしてその敬虔のものは確かに宗教の心に本づくものであると言ばねばならぬ。  物を活かせ  白隠禅師の侍者が或日の朝、手水鉢の水をかへるとき、さぶりと庭前に撒いて仕舞つた。その様子を見た白隠禅師は  「これこれ、お前も情けない奴ぢや、こんなことを言ふのは好ましいことではないが、お前のためにならぬから話す。物といふものは大は大、小は小、それぞれ活かして使はねばならぬ。水をかへるときも、元の水はそこの庭木にかけてやる。それで木も喜べば水も活きるといふものぢや。ここに陰徳といふものがあるのぢや」  と言つて侍者を教誨せられたと。  智慧を離る。  真宗大谷派の碩学香月院師が、本山の使僧として伊勢の桑名別院へ下られたときに源道という仰信のものに遇はれた。そのとき香月院師は源道に向ひて「お前は信が得られたといふことであるが、その信の得られた心を此処へ出して見せて呉れ」と言はれた。さうすると寺の門の外に多くの草が刈り干してあるのを指して「信の得られた心は彼の刈草のやうなものでござる」と源道は答へた。香月院師はその意味がわからず、思案せられた。そのとき源道は「貴僧は青表紙を少し読んで理屈のわかつた位で高上りして見えるが、学問位で知れるものではない」と言つた。香月院師は何とも言はれなかつた。側に居つた侍者はその顔に怒りの色をあらはして居つた。源道の無体なる言葉に腹を立てたのであらう。しばらくして香月院師は口を開いて「私はあやまつた。分らぬことは聞けばよいのに、何ほど考へてもわからぬ。どうぞその心を聞かして呉れ」と頼まれた。さうすると源道は曰く「貴僧は他力廻向の信を無有出離之縁としめうたれてある機の上に出し物に立てて見えるが、それが間違の本ぢや。この機はもう根の切れた刈草同様、水につけても菩提の芽の吹くことはない。それに貴僧の尋ねられるは聴聞の功によりて此機を生かした信の得られた心を尋ねなさる所存であるが、そんなたわけたことがあるものか、そんなことは信の得られた心でも何でもない、我が機をたのみて弥陀を捨てて居る疑心自力の親玉だと思ひ、刈草のやうなものだと言つたのぢや。安心は学問で知れるものではない、何ほど学問したからとて我身のことを忘れて我身が信を得ずして信の得心がわかるものでない。まことに宗教は智慧を離れて起るところの感情が本となりて、それが言葉に出されるのである。それ故に源道の如き、学問の無いものでも、その言ふところは徹底したる宗教の心をあらはして居るのである。  欣求浄土  あの人は善くないといふ。あの人の善くないことは自分には何等責任はないと言つてもよい。しかしそれを善くないといふことは自分が人の悪口を言ふのであるから自分が悪人であるといふことを考へねばならぬ。あの人は欲張りであるといふ。さてさういふ自分には貰ひたいといふ貪欲がはたらいて居るのではないか。愚癡や小言は人をこまらせ自分の心を悩ますことの外には何の利益もないのであると知つても、動もすれば愚凝や小言を列べるのが我々の常である。かういふことを内観して、自分の心の相がいかにも醜いものであることを知れば、我我は他を裁くことは出来ぬ。又決して自から殊勝ぶることは出来ぬ。よく考へて見れば世の中の相、世の人の心が正しく自分の相がそこに写し出されたのに外ならぬのである。  かやうに反省して、自分の責任が重大であるといふことを知れば、どうして我々は自分の進み行くべき道を見出さねばならぬやうになる。仏教にてはすなはち転迷開悟の道を説いて、これを我々が進み行くべき道であると示すのである。言ふまでもなく愛欲は罪悪であり、名利は煩悩である。これ等の悪心を除き去れば、元来の本性たる仏心があらはれて転迷開悟の道は成就することであらう。しかしながら、さういふ真理は実際に我々をして徹底せしめることはない。少しく法を聞いて得たりと思へば傲慢に落ちる。欲を棄て家を捨てたりとて心の苦悩を除き去ることは出来ぬ。かういふ現実の苦境に気がつけば、どうしてその解決を未来の理想に求めねばならぬのが人間の心の常である。欣求浄土といふことは明かにこの種の理想である。転迷開悟を目的とせる我々が現実の世界にてその目的を達することが出来ぬといふことを知りて、次の世にて転迷開悟しやうとの理想として浄土を欣求するのである。現実の苦境の相を明かにしたるものが、現実にあらざる世界をあこがれるは必然のことで、ここに永遠の感情があらはれるのである。それ故に未来といふも来世といふもそれは我々の現実の心の上に開けるところの感情の世界である。この感情が強くあらはれて来世をあこがれるところに現在の生活がこれによりて真実となり、平安となり、迷妄を離れるところに宗教生活はまことに真実の道であると言はねばならぬのである。重ねて言ふ。厭離穢土とは我々が道徳的に内観して感ずるところの現実の世界の相である。この苦境に眼がさめてそれから離れるために立てるところの理想が欣求浄土である。  妙了尼  豊後の玖珠郡の並柳村に、妙了尼といふのが居つた。まことに正直なる婦人であつた。あるとき、日田の真蓮坊という人の法話に「末代無智の御文に、たとひ罪業は深重なりともかならず弥陀如来はすくひましますべしとは十八願の御手柄、聖人一流の御文に、不可思議の願力として仏のかたより往生は、治定せしめたまふとある、そつくり丸のまま他力にて仏にして下さるる」とありしを聞きて「さてもさてもありがたい」と涙をこぼして、さて真蓮坊に向ひて「釈迦如来様と蓮如様とは同じ時の人でござりますか」と問ふた。真蓮坊「それは大違ひ、釈迦如来様は三千年先きに御かくれなされた。蓮如様は三百年先きの事ぢやと教へたれば、妙了尼は「やれやれ御いとしいことぢや。釈迦如来様もおらが親父と同じことで、これほどありがたい事を知らずに往生なされたのですか」と言つたといふ。  かやうに、妙了尼は宗義のことや、歴史のことなどの知識に乏しく、釈尊と蓮如上人との時代の前後すら辨へぬほどの無学にて、その言ふところはまことに笑ふべきであつたが、しかしながら、それは宗教の上から見れば固より問題とすべきことではない。妙了尼が阿弥陀仏の本願を聴聞して「如来様の本願は助けてやらうとあるを助からぬは大きな損、われわれを助けたいばかりに御苦労をなされたとあれば早く御受を申し上げて念仏を申し如来様に肝精焼かせずとも喜ぶより外はない。助けずば置くまいといふ御誓ぢや」と誓のままを正直に聞きて安心し、誰が何と言ふても外へ心を散らすことはなかつたといはれるほどの仰信者であつたことが、この一話でもよく見はれるのである。  真の幸心  手島堵庵著の「ありべかかり」巻上に、次のやうなことが書いてある。  「或人の一団が、大和巡りをしたときに、七十ばかりの老母を負い、西国巡思する孝子に會つた。その時一團の人々は皆感涙を流し、手拭、鼻紙、或は路用、菓子なんど、我も我もとはなむけしてありがたがつた。この一團の人々は皆富家にて本より我等常々恥入し人々なり。其身本心故、人の本行なるを見ては感じること亦深しと感涙を流せしが、折節遠国の道者と見えて三十余りなる男、通ほりかかり、孝子に対し、国所を尋ね問ひ、矢立を出して我が国所を書いて渡し、必ず尋ね来られよと契約し、道中筋の心得になるべきことども委しく教へ、さて自身の細き帯を解き、孝子の背中の帯に結びつけ、あぶみの如く兩方へ垂れ、老母の足にほどよくふませ、ふらつけば血が下り、必ず腫の来るものなりと、懇に介抱し「さてさて其元は美しい。我等も去年老父を負て西国を廻りしが、熊野を一箇処発し、来春は又熊野詣でと、親子樂しみ煮せしに無常の風相待たず、其秋身まかりたまひし。夫故に此の如く位牌を負て熊野へ御供致せしたり。去年の春の道中には樂しみありて、力ありしが、此旅は樂なくして力抜けたり。さてさて其元は美しき人なり」と見上げ見下ろして羨みぬ。此人は只人の親の存命なるを羨みて人の子の孝行なるをさのみ感心する体なし。我等如き弱味噌は人の力の強きを見ては身の及ばざるを以ての故に、感心すれども、力の強き人の目からは珍しからぬことなりと感心せざるが常なり。此人至孝なるが故に、人の孝行なるを見ても、きのみ珍しからぬと見ゆ、同伴の感心も若しくは弱味噌の仲間なるべし」  孝心の強い人が、他の人が親に対して孝行する有様を見ても、それを左ほどに思はぬといふことは実際であらう。しかしながら、それは必しも行する人の状態を見てそれを何とも感じないのではない。孝行する人の有様を見て、感歎の念が起ればこそ、いろいろと同情の心を置して、背に負ひたる母親の苦痛を覚えぬやうにと世話をして遣つたのである。その上に同じ孝行を心がけたる人としては、尊崇すべき男が亡くなつたといふ不幸に対して、今目の前に老母を負ひて巡体をする孝子の幸福を羨むだのである。「大集経」に「若し仏なきものはよく親に事へよ、親に事ふるは則ちこれ仏に事ふるなり」とある。さういふ心持にての孝行こそ、真に徹底せる孝行であらう。  高藤の中将  むかし文治の頃、高藤の中将貞平といふ人おはしけり。あるとき黒谷の法然上人にまうでたまひて、「われすでに一生半ばすぎぬるまで、渡世の營みの名利にからまれて、仏の道を知らず、忙然と暮して、いまだ宗旨をだに定め得ず、八宗の内いづれがすぐれたる宗旨にて候やらん。願はくは上人の御教を以て、よき宗旨を定め申さばや」と申されければ、法然上人「それこそやすきことにて候へ、よき宗旨をみちびき候べし。さりながらかやうの事はよきききてなくしては証拠なし。御供の中にかやうの事心得たる人の候はば一人御呼び候へ。ききてとなしてよき宗旨を教へ申さん」とぞのたまひける。中将やがて供のうち「そんじやうそのなにがしまいれ」とて法然上人の御側近く呼び寄せ」此者さやうの事にすこし心得たるものにて候。御きかせ候へ」とぞ申されける。  法然上人「申までもなし。はやそれにて御心得あるべきことなり」とのたまひければ、中将「是にては何とも更に心得がたし」と申されけり。法然上人「されば召使ひたまふ主人はただ一人なれど、御内のものはその末々まではその数多し。そのものに皆同じ名をつけ置きたまはば、わきて一人それと呼びがたし。十人には十の名をつけ置きて、我が心の赴むく所の用所あるものを一人呼びたまふが如くなれば、御身の心の赴かん宗旨になりたまふべし」とぞのたまひける。中将の曰く、「我が召使ひ候ものは其者の善悪を知りて、それぞれの用所に召使い候なり。我はいまだ八宗の善悪を知らず」とのたまひける。法然上人「八宗の祖師はみな仏菩薩の再来なれば、何が故に、あしき道を教へたまはんや。何れも皆成仏の道なり。宗旨に顕密難易の品々はありといへども、もとより法に二法なし。ただ一味の法なれば宗旨の根本に於て善悪の二つはあるべからず。ただその願ふ衆生の心の向けやう、信不信によつて、その人の心中に善悪の二つはあるべし。その故は上根上智の人は易を捨てて難を守り、是を善とす。下根愚鈍の衆生は難を棄てて易を守り是を善しとするものなれば、善悪はただ衆生の機根智恵の上下によることなり。かるが故に仏も末世の衆生の機をよく鑑みて正像末の三つに別ちて法を説きたまふといへども、正像ははやすでに尽き、今末代下の衆生なれば上智の法は中々及び難くしてさとる人稀なり。然りといへども、弥陀の誓願には光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨と誓ひたまへば、今濁世末代下根の衆生のためには時機相応にかなひ易き法なり。この御誓にまかせ深く名號を信じ唱へたまふべし。まことにありがたきかな。  念仏の衆生は上下智愚ともにあまねく捨てさせたまはず。たとへば大空の月の善悪智愚によらず、あまねく衆生を照したまふ如くなり。されどもその月を見る人の心にさまざまの道あり、心の受けやうにさまざまの道ありといへどもその月はただ一なるが如し。仏法も源は釈尊一体にてましませど、その末々の祖師達、我がむねむねのさとりに入やうの成仏の道さまざまなれば、それぞれに法を説き弘め、いづれの道にてなりとも衆生我力の及ぶ所のすける道にて仏道に引入れんため、その末々にては名をかへ、八宗九宗と別ちて、いろいろにやはらげたまへり。ここを以てよく得心あるべし」とのたまひければ  中将又問ふて曰く「我等如きの無智の衆生の及び難き宗旨あり。愚痴無智にしてもこの宗旨にさへなり候へば成仏を得てんや」。法然上人答へて曰く「宗旨に難易の道あれば御身の賢愚によるべし。我が力に応じたる宗旨になりたまふべし。いかに善き宗旨をえらびても賢智もなく、下根にしてその祖師の教を聞別たずして法度を背き、その道を信ぜず、後世を願はず、悪事をなして、いかに宗旨よければとてたすかるといふ道あるべからず。又何の宗旨になりてもその祖師の教をよく聞入れて、法度を背かず、その道を深く信じ悪事に恐れて善心を起し、後世をよく願はん人、宗旨あしきとて成仏せずといふことあるべからず。一心さへまことの道にかなひ、深く是を信じ常に唱ふれば極樂に往生せずといふことなし。  中将又問て曰く「むかしの祖師知識にも善悪ありといへり。その流を汲む宗旨なればなど善悪なからんや」。法然上人答へて曰く「白露紅葉に置けばくれなゐの玉と詠みしが如く、黒き器に入れては悪く見え、赤に入れては赤く見え、其器の色に從ひて見ゆるものなり。されば祖師知識は器なり、宗旨の法は水なり。水は器に応じて方円をなし、空しき色にも鏡にうつるものなり。法も又かくの如し。その知識の勝劣によりて法も善悪を仮にあらはすものなれば其器をえらびたまふと宗旨をばえらびたまふべからず」と仰せられけり。  中将又問ふ。「その悪しき器に入たる水をなどよしとして是を信ぜんや。」法然上人答へて曰く、「惣じて水は根本いさぎよくして人の身の垢をよくおとし、よごれるものをすすぎ、不浄をきよむるものなればその悪しき器に入れたる水にて、いかにも白きものを洗いて見たまふべし。すこしもその器の色に染まずして垢よくおつるが如し。己が一心まさにきよければ器にも更に頓著あるべからず。又法報応の身と申す事あり。もろもろの仏菩達、我が体を具足し、十方の大空に法如として来りもせず、去りもせず、いつもたえずましますを法身仏となづけ、形をあらはし浄土を立てすみかとしたまふを報身仏と名づく。八相成道したまひて法を説き衆生を利益したまふを応身仏と名づく。これ皆、同一体なれば三身をとりわけ、一身を信ずるは迷の前の仏なり。三身即一、一即三身と観じて、いづれをも信ずるをさとりの前といへり。その如く、八宗をとりわけ、一宗を信ずるは迷の衆生の信心なり。八宗即一と観じて、いづれをもへだてず信ずるをさとりの前といへり。其の如く、八宗をとりわけ、一宗を信ずるは迷の衆生の信心なり。八宗即一と観じていづれをもへだてず信ずるをさとりの人とは申なり」  中将又曰く「仏のおもむき、いづれも得心したりといへども、ここに大きなる不審あり。むかしより今に至るまで宗旨の善悪を争ひ、宗論と號し勝負を決することその例多し。是れ宗旨の勝劣にあらずや。」法然上人答へて曰く「むかしより宗旨を争ふことは、それは皆、善悪をも辨へざる無智我慢の門徒等、他宗をそしり善悪を論じ、我意にまかせて争ふ故に、我身の熱火をはらはんがために宗論と號して勝負を決することありといへども、是れ宗旨の勝にあらず、又宗旨の負にもあらず、ただその時の論ずる知識の勝劣にあり、宗旨の勝劣にはあるべからず」  かやうにして高藤の中将貞平は法然上人の説明を聞きて「さてありがたき御事かな。今日よりしては御弟子たるべし」とて則ち誠文を授かり、仏道に入つたと。  この話は寛文二年刊行の「為愚痴物語」巻八に載せてあるものを抄出したのである。法然上人がかやうに答弁せられたることが果して事実として信ずべきものであるか否かは別問題として、高藤中将が提出したる疑問は今日にありても同様の疑問が多くの人々から提出せられるものであるから、かかる疑問を懐くもののためにこれを探録してその參考の資とすることも無益でないと信ずるのである。  御引立  大和車木の惣右衛門といふ同行、江州長滝の同行中の請待にて其地に赴き、越前屋といふに宿泊した。この越前屋は長濱一番の大家で、亭主は法義者であつたが、女房と嫁とは一向法義がなかつた。惣右衛門は亭主と同道にて越前屋に參つたが汚れた布子一とつ著て、髪は乱れ、乞食見るやうな体裁で、御客といふも外聞悪しく家内のものはそこそこに致して居つた。亭主要用にて外へ行きたる間、惣右衛門はただ小座敷の片隅に小さくなつて居つた。日の入る時分、夜食を喰へといふにつき、座敷へ出で御馳走になり、ただ念仏ばかりして居つた。そこへ十八九になる嫁女が出て来て下女を呼ぶ。下女は何の御用でござりますと、手をついてかしこまる。嫁女は下女に提灯つけよと命じ、弓張をとぼしたる下女が先きに立ち行き、厠の口にて戸を開き、嫁の用事の間待つて居る。嫁女厠より出づると、手洗場にて下女、水をかけ、手水をつかひ帰りける。惣右衛門脇よりこれを見て、懐より肩衣を出してその嫁女を拝む。さうして言ふやう「さてもありがたうござります。御引立下されます。添うござります」と喜ぶ。家内みなあきれて居る。嫁女は「あの御方は厠に參り帰ると、ありがたいの、御引立のと申されますが、私はおどましい。かかさまさう言ふて下され」といやがる。そこで越前屋の女房が惣右衛門に尋ねて「御まへはなぜ此処の嫁が厠より帰るを見て、そのやうに言はんす、何がありがたうごさりますか」といふ惣右衛門それに答へて「嫁様が厠より御帰りなされたがありがたうござります。この惣右衛門は地獄の鬼さへ、おそろしいとは思はぬに、こちの嫁子様は此様に土蔵やら垣やら、厳重にかこてある厠さへ、独り行かれぬおそろしいと思召すからは、定めて地獄の鬼はどのやうにおそろしいと思召さん。野辺の送りは百萬石の大名も直ぐに其処ぎりで見てやれるものは無い。ただ一人くらいやみぢをたどる。なんぼ大家の内儀様も、来世へは共は連れられませぬ。さて御引立下されます。御ありがたうござります」と喜びければ、家内始めて自分をかへり見て、これが縁となりて、法義に入つたといふ。常の人の心にて嫁女が厠に入り用事をすまして出て行くさまを見れば何でもないことである。しかるに惣右衛門のやうに、その心が宗教的に開けて居るものが、嫁女が下女に提灯をさげさして厠に出人するを見れば、そこに忽ち浮ぶのが「人間愛欲の中にありて独り生じ、独り死し、独り来り、独り去りて何物も代るものはない」といふ仏の教である。この教を思ひ出すことによりて自分の心が引立てられるのを感謝して「御引立下されます」と言つたのである。香樹院師の語録の中に「心のふり向けやうが甚だ大切なるものにて日々に三たび我身を省みよといふたも、この心のふりむけやうを教ふるばかりなり」とあるが、まことに我々はただ単に浅く物を見る心をば、深く物の奥にあるものを見る心に向けることが肝要である。嫁女が下女を連れて厠に出人する有様を見ても、その態度の奥に存するものに心をふりむけて見れば、我々はこの世にておそろしいといふことをのみ知りて、独生独死の界にありて、いかにさびしくとも、外に連れとなりて呉れるものが無いといふことを考へぬことがいかにもあさましく、又いかにも愚かであるといふことが教へられて居るのである。  不生の仏心  播州網干の龍門寺に居られた盤珪禅師は臨濟宗に属した人であつたが、禅師は仏語祖語を引いて人に示すことなく、仏法も言はず、又禅法も説かず、ただ今日の身の上の批判をして、多くの人々を導かれた。禅師と言つても在来の禅宗の高僧とは全くその類を異にして居つた。  盤珪禅師の考へでは、人々が親から生みつけて貰つたものは仏心で、仏心は不生にして霊明なものである。人がこの仏心で居て迷はねば外に悟りも求めず、ただ仏心で座し、ただ仏心で居、ただ仏心で寝、ただ仏心で起き、ただ仏心で住して居れば、平生行住座臥、活仏ではたらき、別の仔細はない。しかるに人々はこの仏心の貴いことに気がつかず、仏心を何とも思はずして、腹を立てては修羅道にしかへ、我欲を出かしては餓鬼にしかへ、愚痴を出かしては畜生にしかへ、種々様々のものに心をしかへて迷ふのである。かやうによく自分の心の相をわきまへて、思慮分別を離れたる仏心で居れば、その生活がすなはち活仏であるといふべきものと説かれるのである。  一切の迷はかやうにして、向ふのものに貪著して、我身のひいき故に、仏心を修羅にしかへて自分で迷ふ。向ふのものはいかやうにありと、それに向ふて貪著せず、我身のひいきをせずして、ただ仏心のままで居て、余のものにしかへねば、迷は決して出来るものでなく、常住不生の仏心で日を送ることが出来る。それが今日の活仏である。  盤珪禅師の説法は此の如く、自分の心の相を内観してその醜悪なることに気をつけさすことを主とせられたので、別に仏法の語などを用ひられず、仏の慈悲のことなどを説かれたのではないが、禅師の法話を聴聞したものに、ありがたく、又喜びの心をあらはしたものが多かつたことが禅師の「法語」に記されて居る。その一例をここに抄録する。盤珪禅師が伊予の大洲に居られたときのことであるが、大洲より二里ばかりの在郷者に大洲の或人の娘が縁つき、一人の子も出来た、所がこの夫婦中あしく喧嘩がたえなむだが、あるとき大喧嘩をして、一人の子も夫に渡し、この女房は家を出でて親の所へ帰らむと、急ぐ途中、盤珪禅師の庵に説法があつたので、大勢に交りてその日の説法を聴聞し、説法が終りて家へ急ぐ道にてこの女房は隣家の人に逢ふた。そこで隣家の人が何の用にて家に帰らるるかと聞くので、この女房は自分が今朝夫婦喧嘩をして、親の処へ帰らむと急ぐ途中、禅師の説法を聴聞したが、今日の御説法は皆私のことでござつた、さて恥かしや、今日私が夫の家を出たのは皆、私の心が悪るかつたので、夫も姑も色々と引きとめられたが、私はよしなきことに腹を立て始にも夫に腹を立させました。今日の御説法にて我身の悪しきことを得と合点いたしましたほどに、親の方へは帰らず、これより在処へ戻りて私が誤を懺悔いたし二人の衆へ降參して、このありがたい御説法を語り聞かせ、後生をすすめませいでは聴聞いたした甲斐はござらぬといふ。隣家の人は心配して、さういふゆきさつでは一人で戻ることは六ヶ敷い、私が同道して首尾のよいやうにしてあげやうといへば、この女房、いやいや、何の首尾と申すこともござらぬ、とにかく私が悪しふござる故に、二人の衆の機嫌をとり首尾よきやうに致して其上にありがたい御説法を私ばかり聴聞致しても何の詮もござらぬ、二人の衆へも聞かせましてこそ聴聞いたしたいと申すものでござれと、いそぎ在処へ帰り、二人の衆にいふやうは、私は親の家に謝れとも仰せられざるに我が無分別にて各の御心に背き家出を致し、親の処へ帰らむとして途中盤珪禅師の説法を聴聞し、私の心底の悪しきことをよく知りましたほどに親の方へも參らずお寺よりすぐに帰つたことを話し、自分の不都合わびたれば、姑も夫も滿足して嫁の罪を許し、それより三人づれにてたびたび盤珪禅師の説法を聴開するためにその庵に參つたといふ。  自から深く内観して自分の心の相が醜悪の一言に尽されるものであると気がついたとき、自分といふものを頼むことが無くなりて、そこに感ずるところのものは小さき我を包めるところの大いなる我の心である。仏教の言葉にて言へば仏の光明に照らさるるのである。さうして仏の光明といはるるものは仏の智慧であるから、仏智不思議のために自から正しい道へと進むことが出来るのである。この女房が偶然にも盤珪禅師の説法を聴きて、忽ちに内観の極致に達せることはその人の特性によることであらうが、甚だしく腹を立てて自我の相が自分にもよく感ぜられた時に場の自我排斥の説法がよく聴き容れられたのであらう。何れにしても悪なる自分の心の相が明かに自分に知られたときに自からにしてあらはるるところの愉悦の感情が感知せられるのである。さうしてその愉悦の感情によりて自分のものとして受け取られるのが仏教の言葉として聴聞したる仏の慈悲である。さういふ慈悲の力をしみじみと感ぜられることがすなはち宗教の心である。  発露の涙  むかし元禄年間、洛東粟田口に義山上人とて遁世の知識が居られた。智道兼備の殊勝を以て聞えた人であつた。あるとき性均と学応と二人の学生が義山上人の草庵に至りて法義を聴聞したるが、すでに初夜に垂んとしければ二人は立ち帰らむとせしに、上人の曰く「幸に和州郡山の香里より小豆を送り来りしものあり、粥として食ふべし」ととどめられしかば又暫く講話に時を移しけるに、上人つゐ立ちて棚の辺に塗たる新しき箸のありけるを持て、ややしばらく独言に「無始の串習なる、賊人かな賊人かな」と言ひて目を塞ぎ涙ぐみけるを、二人は如何かる所以とも知らず見居けるに、学応あまりに不審に思いて「何故にか」とその故を尋ね問ふた。すると義山上人はその箸を打捨てて、さめざめと泣きて曰ふやうは「今夜新しき箸の無ければこれをこそ各々へも与へむとて取出しけるに、又却つて思ふに、この箸は有馬の名産の桑箸なりとて昨日人の与へしもので、我が平日受用の客にすべしあたら箸を人の用ひてはいかがと思ひぬる一念の萌しこそ、極めてあさましき念慮の起りしことぞや、いまだ彼我の念のやまざることは何事ぞ、即今の一念の所に大に実我実法の常見幾重意か萌し起る。人我が心室は乱れ入りて法財を奪いぬることのくやしさよ」とて、又さめざめと発露の涙を落した。かやうにして、老僧がしきりに打ちしはぶきたる声にて、わななきくどかれたる気色、道心色にあらはれ至誠人を感ぜしめたるに学応性均もろとに感心の涙を落し、これより学応は出世の希望をやめて永く捨世の人となつたが、性均はその著「新選発心伝」にこの事を記して「予が如きいかに強面の身にも心澄む夕、夢覚むるの暁には此時の有様の身を終ふるまで思ひ出され、今も坐るに苔の袂をぬらしぬるにぞ侍る」と言つて居る。  楠木正成  我邦忠臣の第一人者と称せらるる楠木正成は風に心を禅要に委ね、諸方の師に參じて居つたが、あるとき大和を旅行して片岡を経たときに一人の禅僧に遭ふた。さうして、色々と禅の要義を質して得るところがあつたが、最後に「此上更に密旨があるのではないか」とただした。それに対して禅僧は何とも答へずして「貴公の名は何といふか」と問ふたので「楠多聞兵衛正成」と答へた。すると禅僧は「正成」と大声を出して呼むだ。正成はすかさず「応」と答へた。呼べば答へる。これ何のある所ぞ、正成と呼ぶは彼、応と答へるは我、彼と我と一体、その間に何が存するかが問題である。正成は此時悠然として悟る所があつた。それから此僧に就て心要を問ふことがしばしばであつたが、あるとき「道を以て軍に勝つは如何」と問ふと、禅僧は只一語「至善を兵とせよ」と答へた。正成はこの言によりて心胸を開き、兵を用ふることが自在であつたといふ。この僧の名は伝はつて居らぬが恐くは関山慧玄禅師であらうと思はれる。  かやうにして、正成は「非理法権天」の五大字を旗印として用ひた。理の法には勝たず、法も確には勝たす、しかも其權も天には勝たず、人を相手とせず、天を相手とするといふ意である。要するに正成の兵法は至善を本とするに外なかつたのである。  時に建武二年五月十六日、正成は論旨を奉じて京都を発して湊川に至り、広厳寺の前に陣を取つた。広厳寺は楚俊禅師が支那から来たとき、御醍醐天皇の勅願によりて立てられたる寺で、楚俊禅師はこの広厳寺に居つた。正成は広厳寺に至つて楚俊禅師に参じ「生死交謝のとき如何が覚悟すべきか」と問ふた。すると楚俊禅師は「兩頭を裁断すれば一剣天に倚りて寒し」と言つた。生だの死だのといふ心を捨て去れば一剣天に倚りて寒しといふ所に落ちつくと言つたのであるが、その一剣天に倚りて寒しといふことの意味がわからなかつた。そこで正成は「落ちつくところは何処か」と聞いた。すると楚俊禅師は一喝をくらはした。それは生死の兩頭を裁断すれば必ず善処に落ちつくのである。しかしそれは決して執著すべきでないと示したのである。このとき正成は疑團氷釈して通身汗を流して禅師を拝して禮したといふ。  それから正成は足利尊氏の軍と、接戦十六回の多きに及び、遂に正成の軍が利あらずして正成は広厳寺の無為庵に入り弟の正季を始め一族十三人、手のもの六十余人と共に自刃したのであるが、「太平記」には六間の客殿に二行に井み居て、念仏十返ばかり同音に唱へて一度に腹を切つたと書いてある。そのとき正成座上に居つて、弟の正季に向ひ「そもそも最期の一念によりて善悪の生を引くといふ、九界の間に、何が御辺の願であるか」と言ふ。正季はからからと打ち笑ひて「七生まで只、同じ人間に生れて朝敵を亡ぼさばやとこそ存じ候」と言ひければ正成まことに嬉しげなる気色にて  「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり、いざさらば同じく生をかへてこの本懐を達せむ」 とちぎりて兄弟共にさしちがへて同じ枕に臥したと伝へられて居る。楠氏が相手とめざすのは朝廷に背くところの重罪のものである。しかも七たびまでも生をかへてこれを亡ぼさむとする罪業深き悪念であると言うところに、正成の心が極めて宗教の心を強くあらはして居つたことが思はれる。しかも同時に朝敵を亡ぼすことは論旨によるのであるから、正成の心は、南無阿弥陀仏と打ち出す剣には敵も味方も西方浄土へ行けよと念じたのであらう。  同行を賜はる  伯耆のある所に松田屋清兵衛といふ信者、酒造家と実家とを兼ねて一村の富豪であつたが、法義を大切にすること世に稀なる人であつた。子供が九人あつたが、生るる度毎に「善き御同行を下されたり」と言ひて大いに喜び、その名を附くるにも古昔の信者たる人の名を附けて御同行御同行と言ひて仏法を尊むやうに撫育した。自分の子として子供を見ればそれは自分の後継者として愛すべきものであり、それを立派なものに育て上げて自分は樂隱居をしやうと思ふは多くの人の心であらう。しかしこの清兵衛のやうにその子供をば仏より賜はつたものとして見れば、自分の子といへども自分の私有のものでなく、自分と同じやうに仏に成るがために此世に出されたものであるから、それを粗末にしてはならぬ、善き同行としてこれを尊重せねばならぬ。俳諧寺一茶の句に「子供らを心でおがむ夜寒かな」とあるが、夜が寒くして寝につきにくいときに、子供等の貴さをしみじみと感じて心の中で子供をおがむといふ、何というありがたい宗教の心ではないか。言ふまでもなく我々は多くのものを子供に与へるのであるが、しかしながら深く考へて見ればそれは与へさせられるのである。又子供から与へられることも決して少くない。「子を持ちて知る親の恩」といふ諺もある。さういふ心持から自分の子供をおがむといふことも、要するに子供の上にあらはれたる仏の慈悲の心をおがむに外ならぬと知らねばならぬ。  和泉国大島郡高石村に安右衛門といふ仰信の人が居つた。三十五歳の頃より法義を大切に聴聞し、如来の本願を深く信じて称名をよろこび、極めて平安の生活をして居つたが、小児出生すれば氏神のかはりに手次の寺の仏へ御禮を遂げさせよ、現当二世の御めぐみを頂きたてまつる御仏なれば現世を祈り御無心申す人と同じやうの振舞をなすべからず、腹の中より如来聖人の御門徒にして此世から安穩に暮しをさせて頂く身なれば朝夕の御禮はかくべからずといひしと。  又同郡東村に庄助といふ信者ありしが、此人も子供出生の事は男女に限らず如来様よりたまはりし同行ぞと喜び、その御禮として金一兩づつ本山へ上納いたし、その子成長に及べば舌もまはらぬ内から改悔文を教へ、仏の慈悲を申し聞かせたりと。  いにしへより子寶と言ひならはして子供を尊重することはありたれど、それは多くは自分の財産としての子供を尊重したので、子供を育てて置けばそれが生長して自分を養ふて呉れるから、左團扇で暮せるからといやうな自分勝手の利欲の心からして子供を大切にするものが多かつたのである。しかるにこの安右衛門や庄助の如きは然らず、如来より賜はりたる同行として子供の出生を喜び、又これを尊重したのである。まことに美しい心であるといはねばならぬ。  薩摩の千代女  寛政の頃、薩摩の国の領主の家中に青木清助とて五百石の侍があり、その娘に千代といふものが居つたが、いかなる宿縁にや、世を憂きことに思ひ、仏法に志深く、あらゆる知識に遇ひて「法華経」を始めさまざまの御法を求めしも罪済き女人の助かるべき教のなきを欺いて居つた。不図したことで浄土真宗の同行に出會、阿弥陀如来の本願の法義を聴聞し、まことに自分の根機に相応する御法なりとて無二の信者となつてひそかに御恩を喜び称名念仏怠りなかつたが、その頃薩摩の国は浄土真宗厳禁で、国の掟が厳しかつたので同行に親しみ不審のことども思いの儘に問ひたづぬることもかなはず、花月遊山にことよせて同志のものにかたらひて、親鸞聖人の御教殘るかたなく聴聞したのである。あるとき千代女は同志のものに向ひて「かかる貴き御教を聴聞いたすことはひとへに親鸞聖人の御かげである。この教ましまさずばあさましき女人の身の上、悪趣にこそ赴くべきを、さてもさてもありがたき事に侍るかな。この御恩をいかがして報ひたてまつらむ。あはれ一たび御本山へ參詣いたし一天無二の御真影樣に拝礼を遂げ御恩を喜び申しなばさぞかしうれしからむ。其上には此世に望みさらになし。おのおのいかが」と言ひければ、木村良會が妻せん、外記村の百姓初右衛門ならびに藤蔵、口をそろへて「さてもありがたき思召にて候、まだ御若き身のよくもこそ仰せられけれ、我々も其志かねておはし候へど国禁を恐れていまだ本意を遂げ申さず、さらば不定の露命、一日も早く思い立つべし」と、ひそかに旅立の用意をして上方見物と申して、同五年うしの春、千代女年十八歳にて同行三人を伴ない、終に參詣をとげ、御真影様に御禮いたし国の名をかくし、善知識の御盃を頂き、御膝元の御法延にもたびたびあひたてまつり、御安心の御礼しをうけ、わが領解のあやまりなきことを喜び、名所舊跡の見物には少しも心をとどめず、これ生涯の始め終りなりとて兩御堂ばかりに御禮をとげ、速かに国に帰り、かねて御法度のことなれば此こと誰にも言はざりしが、いかがしてか漏れ聞えけむ、千代女二十一の秋七月朔日、思がけなく吟味の席に呼び出され、長役長瀬谷常也、筆役杉原長八その外役人二十七人列を正して四人の者をめしすへられ、長瀬谷、千代女に向ひて申しけるは「其方ども何と心得て御国の御法度をそむき、浄土真宗に帰依し、京都本願寺までも參詣致せしや、有体申上げよ、その頭取は誰なるぞ」とありければ千代女手をつかへ「頭取は則ち私にて御座候、御国に住居仕りながら御法度を背きし御咎は誠に以て恐れ入りたてまつり候、只後生の大事のみ心にかかり、はからずも御国政をそむき候段、一言の申訳は御座なく」と申し上ぐれば、役人重ねて「御法度を背き浄土真宗に帰依するものは御仕置に相成ること、かねて承知もいたすべし。其方ども御国を立ち出で候こと本願寺參詣にてはこれなく、伊勢參宮どもにてはこれなきや」といひしに、千代女はさしうつむき、しばらくありて申しけるは「心にもなき白状を仕候ことは、第一殿様へ偽を申し上げ候道理にて実意を背き申候、かく露顕の上は致方御座なく、全く本願寺參詣にて、神まうでにては御座なく候」といふ。長瀬谷常也は眉をひそめ「さてさてそれは是非なき白状なり。さりながら以来吃度心底を相改め、浄土真宗の教をふつつりと思ひ切り先非後悔の御わびを申し上げなば何とかとりなしの致方もこれあるべし。これによりては御助命にも相なるべし」と言ひければ千代女涙を浮かべ「こはありがたき御なさけには候へども露の命をおしみ、後の世の大事をしそこなひ候事なげかはしく、はた又願力の御不思議より御戴かせにあづかりし信心に候へばこの千代女が料簡にて改め候事も出来仕らず、其儀は平に御断り申上たく、只恐入候ことは、御法度を破りかく御厄介をかけたてまつること宗門の戒めにて、若しも善知識樣聞し召さば御胸をいためさせたまふらむ。それのみ心外に存じ奉り候。それを露顕の上なれば力に及ばず、何事も私の不調法に御座候、一日の命に後世の大事はかへられ申さず候、御仕置は覚悟の前に御座候間、御定法の通ほり御取行なひ下され候ていささか御うらみに存じ奉らず」といふ。長瀬谷は外三人のものに向ひ「改心だに致せば助命のとりなしをも致すべし、生死二つの境なれば心静かに返答致せ」といひしに、三人口を揃へて「お千代どの一人の頭取と申すにても御座なく、何れも同様にて、今死しても往生一定と覚悟の外は御座なく候、御作法の通り、御仕置を願ひ奉る」と申し述べければ役人も詮方なく、心には深く感じけれども国の掟なればとて四人ながら一とつ枕に御仕置とぞ定まつた。国内の同行もよそながら暇乞の心にて我も我もと御仕置の場所へ見物に出でけるが、千代女始め四人の者、金剛堅固なる有様に、かかる不思議の体相を拝し、覚えず異口同音に称名の声天地にひびき出役檢使の人皆涙を催したりと。  右の話は僧純師の「妙好人伝」四編の中に載せられたるものであるが、聞くに忍びざる悲惨の状況に直面しながら、千代女がすこしも憶するところなく、露の命をおしみて、後世の大事を仕そこなふに忍びずと、金剛堅固の心の上には、自分の罪状を覆ひかくすことをせず、国法にせられて何のうらむことがないと放言し、しかも其の金剛不壊の信念は仏より頂きたるものであれば自分の料簡にては如何ともすることが出来ぬと断言して憚らざるところに、千代女の宗教の心は全く煩悩具足・罪悪深重の自己を捨てて、大慈大悲の仏の本願に信順したのであつた。  この千代女の如きはまことによく法を聴いた人であると言はねばならぬ。我々は常に外側の世界のみを見て、見ること、聞くこと、觸れること、嗅ぐこと、味ふこと、何もかも欲にまかせて、自分の愁望を滿足させやうと勉むるのであるが、かやうな外側の世界を見る眼を転じて、内側に向けるときにそれは必ず仏の心と一致するものである。物を怖れず、卑まず、心に驕らず、閉ぢ籠らず、すべての物を心によりて生かして行くことが出来るのである。この世界に入りて始めて世の中の一切の物にある価値が認められ、自分も他人も相共に和合して生きて行くことの出来る幸福の世界があらはれるのである。真に仏の法を聴くとは此の如き心の開けて来ることを指すのである。  法音を聴く  天保の頃、備後国品治郡の万能倉といふ所に、医師寛斉といふ人の妻にてつねといふ婦人が居つた。容貌は醜悪であつたが心ざまはやさしく、貞節を守りて、よく家事を治め、近隣の人々に対しても卑譲を専らとし、老を尊み、幼を愛して、かりそめにも人と争ふことがなかつた。また深く仏法を信じ、晝夜不断称名念仏の声たゆることなく、しかもその声うるはしく面に数喜の色があらはれて、はからず高声念仏することあれば、不信の人といへども随喜感歎せざるものは無かつたほどで、時の人あざなして仏御前と言つた。或僧がつね女に尋ねて言ふ「おぬしの称名は念々にいさみありて聞く人随喜せざるはなし、いかなる心得にて称名せらるるや」と。つね女それに答へて曰く「わが念々の称名はすべて人に聞えむことを願ふにあらず、常に法音を聞く思ひに住し、十方諸仏の百重千重囲繞して喜びたまふとうけたまはりて候へば諸仏囲繞の御前にて申す念仏なりと心得候より外なし」と。つね女の念仏は、かやうにして、仏の本願に信順して念仏まうするのを助けむとせらるる阿弥陀仏を喜ばせ又さういふものを喜びてまもりたまふ十方諸仏を喜ばせやうとして申す念仏であつた。それ故につね女の念仏は常に法音を聴く思にて唱へられたもので、人にきこえむことを願ひての称名ではなかつた。親鸞聖人が「一人居て念仏せば二人と思ふべし、その一人は親鸞なり」と言はれたと伝へられるが、若し真に親鸞聖人がさういふことを言はれたとすれば、つね女の心もこれによく似たものであつたと言はれやう。つね女の卑謙なる心にては念仏は仏が我々衆生に呼びかけて浄土に来いよとすすめられる声である。すなはち法音である。常にこの法音を聞く思に住して居つたつね女の念仏はまことに貴いものであつた。  時に同国福山笠岡町の島屋惣平といふゆかりのものに所用ありて、六月の炎暑を凌ぎかしこに行きけるに途中より病つきて後、立つこと能はず、医療手を尽せどもしるしなく、たのみなく見えける中に称名念仏おこたることなし。人の病を訪ふものあれば苦痛を忍びて法義を談じ称名念仏の声平生にかはることなし。かくて廿八日の曉天に、娑婆の対面今日限なるべし、未来は必ず安樂世界の百寶の臺にて待ち申すべし。さりとて夫寛齋に生前にまみえざること殘り多し。我なき後も必ず称名念仏怠りたまふべからず。永きわかれとは思はず、やがて浄土にて対面すべしと、くれぐれ申つたへたまはれと遺言して、後は口に別事をいはず、称名念仏することさながら苦痛なきが如し。正午頃称名念仏数十遍となへて合掌して息が絶えた。  浄念  安芸国高宮郡狩留家に源蔵といふものが居つた。その家貧乏にて油しめを業とし、諸処にかせぎに出て、わづかの儲にて兩親を養ふて居つた。うまれつき柔和にして若きときより仮初にも人の悪口を言ふことなく、若し人ありて他の悪しきさまを言ふときには返答せず、称名して居り、更に悪口雑言の相手になることが無かつた。深く仏法を信じ法義を喜むで居つたが、この人の喜び振は目立つことなく、異風ある喜にあらず、正直にして何時もかはらず、強信なること比類の少いものであつた。年六十に及びて落髪し、浄念と称して禅門になつたが、常に人に対して言ふやう「私が髪をおろし、十徳を著て御同行の所へ御禮をさせて貰ひに行く途中にて、折ふし月影にて私の影法師を見れば十徳の袖長く見えて御出家様によく似たり、さてもさても愚なる今剃の禅門が御出家に似たとは恐れ入りたることなり、これも如来様の御めぐみなるべし」と、涙せきあへず、喜びしとぞ。浄念の心は仏を敬ふの志が深く、その仏が僧となりて自分の前にあらはれるのに対して敬虔の心を深くあらはしたのである。それ故に、自分が禅門となりて十徳を著けたる姿が目の形に似たるのを見て、恐れ入つたのである。三寶の一とつとして自分の目前にあらはれたる僧の形に面して、自分の煩悩具足・罪悪深重のすがたを明かに見ることによりて、自分の態度が分を顧みざる不遜であると恐縮したのである。しかも浄念の心は己れを空しうしてよく仏の心を受けたのであるから、さういふ場合にも、これ、仏様の御めぐみなるべしと喜ぶことが出来たのである。  自力を捨つ  美濃平野においやといふ妙好人が居つた。まだ年が若かつたとき他の五六人の同行と共に仏照寺の老師の処へ行つたところが、老師はおいやに向つて「お前は此頃引き続き参つて居るが、何が不足で苦し相な顔をして居るかや」と言つた。おいやは今こそと思ふて「他の御方はうれしさうに聞いて見えるが、この私は何とお聞かせ下されても、この機はちよつとも聞いてくれませぬ」と言つて胸一杯になつて泣いた。さうすると、老師は「お前は善いものを持つてゐるなあ、その機が無くてはこのたびの往生はかなはぬぞよ。お前の持つて泣いてゐる、いふこときいてくれぬといふ其機が仏の目当の機ぢやぞよ、この機が無くてはこのたびの往生はかなはぬぞよ、御浄土參りに無くてはならぬものを持つてゐながら、それをにくむといふことがあるものか」と示された。おいやはこの教を聞いてその心が開けて遂に名高い妙好人となつたのであるが、後には常に人に語りて「このきいてくれぬ心にや困るでのう、けれども仏照寺様はその心がわるいと仰しやらずして、愚図愚図言はず死んでみなされ、何処へも行かりやせぬぞよと、常に持つたままの仕合せをお知らせ下された、嬉しいのう」と喜むで居つたといふ。自力を捨てるといふことはさういふ悪るい心に気がついても、それをどうにかしやうとするはからひをせぬことである。  孝女お石  周防国吉敷郡岩淵村の百姓関蔵といふもの病身にてはかばかしく耕作も出来ず、兄弟も悉く死亡して末の弟伊八一人殘りしを順養子にして関蔵夫婦は隠居同然になり、近村より嫁を貰ひ伊八にめあはし家業を継がしめた。この嫁の名をお石、時に年十七であつた。人生れて女の身となることなかれ、百年の苦樂他人にまかすといふ諺の如く、女は一旦夫の家へ嫁すればその身の終るまで夫に從ひて生活するが道であるとせられて居つた時代にはその夫の心得次第で、氏無くして玉の輿に乗ることもあり、さはなくと、衣服に花をかざり食に珍味を欠がさず、下男下女を多く使ひて樂に暮すことも出来る、或は又夫の心得によりて貧乏の生活に苦しみて暮さねばならぬこともある。お石は嫁入して後、舅姑によく仕へ、真実の親のやうに介抱せしが、夫の伊八といふ男は生得、心さま悪くして、お石を妻にしてよりいよいよ身持よろしからず、農業を嫌ひ、田畑の仕事を女房一人にまかせ置きて自分は小商にかかり、呑酒屋をして大に売るより自分がさきに飲み上げ、ばくちの算用に取られ、菓子屋豆腐屋などをして損ばかり、その癖、短気にて喧嘩口論をなし、遊びあるきて、仕事をせず、女房を責めつけ、猿をつかふやうに追廻はし、困窮の生活をさせた。それ故に近処の人々からは疫病神のやうに嫌はれた。  お石は少しもこれを恨まず、一言も口答せず、千羊萬苦して舅姑の介抱と農業とをなし、その上に亭主の悪るづかひの尻ぬぐひに日を送ること凡そ六年ばかりに及むだ。まことにめづらしい奇特の心がけの婦人であつた。お石の親元は相応に暮して居つたので、度々婿の伊八へ金子を用立てたのであるが、淵へ投げ込むやうで、何ほど入れ足しても役に立たず、その上に娘が相応に難儀するのを見て、両親はお石に対して、幸に子供なし、縁を切りて家に帰れとすすむれども、お石は兩親に向ひて  「夫伊八の身持のわるいのは私の仕へやうのよくない故でござります。何れから申しても、麻につれる蓬とやらで、一方が直ぐなれば、おのづから直ぐにならねばなりませぬ。伊八どのの心得違の直ほりませぬはやつぱり私のわるい故でござります。其上伊八どのは兎もあれ、舅姑御は此上もない結構な二親でござります。伊八どのがわるいと申して振り捨てて降らるるものではござりませぬ。ただ此儘に捨て置いて下されませ」  と願ふた。その志止しければ里の親たちもせんかたなく、この儘に捨て置けば困窮にせまり終には縁を切りて帰ることもあらうかと、これより後は一向に音づれもせず、心もきかず、心ひそかに困窮に迫るのを待つて居るばかりであつた。  この場合お石の態度は尋常の人に取ることが出来るものであつた。父母の許を受けて夫の家に嫁し、それから後にさまざまの苦労をするも、又結構なる身になるも、要するに天命である。天命によりての困難とすれば遁れむとして遁れる道はない。よし無理にのがれて親里に帰りても同じ天地の間なればその形をかへて難儀することであらう。百人に一人、夫を見捨てて里へ帰り、又外に嫁入して結構なる身になる人も無いではないが、それも此人、身は結構なれども心には必ず苦労することが多からう。それ故に、与へられたる境界に安住して、しかもそれに処するために出来るだけの力を尽すお石の態度はまことに美しいものであると言はねばならぬ。  かくて伊八は次第に困窮甚しくなりて、一足飛びの儲をせむと、借金してはうろくを焼かし、下関に持ち行きて一儲せむとし、船に乗り出発せしが、暴風のために難船して、船頭と伊八とは命だけは助かつたが、品物は海に沈みてどうすることも出来ず、今更在所へかへることも面目ないので伊八は何れへか逐電した。村のものはその報を聞いて疫病神を退治したやうに喜んだが、もとよりお石は舅姑と共に伊八の出奔をかなしむだのであつた。  お石の親里ではこれをよい機會に縁を切りて戻つて来い、若し此度も縁を切らず、親の言に背くならば余儀なく勘当せねばならぬとおどかした。尋常なる親の情としてその子をあはれむのあまりに、かやうな処置を取つたのである。しかるにお石は  「御勘当はかなしいけれども、夫伊八の行方が知れませぬから、誰にことはつて縁を切りて帰りませうぞ。何事も私の不運でござります。今更里へかへりましては舅姑の介抱は何人が致しまするぞ。これからが嫁の入用、身を粉にくだいてなりとも、夫伊八と二人前の孝行は私がせねばなりませぬ。お言葉を背きまするは不孝なれども此義はお許しなされてくださりませ」  と言つて中々承知せず、これによりて終に親里とは手切になつた。この時石の年は僅に二十二歳であつた「孝経」に父に争ふ子あるときは即ち身、不義に陥らずとあるが、若し親に不義あるときに子がそれを争ふのがむしろ孝行である。仏教の上にて言へば、親に孝行をするといふことは親の意を迎へ親の気に入るやうに親に大切に仕へることよりも、親を仏にすることが真実の孝行である。お石は固より「孝経」の教を受けたのではないであらうが、自分よかれとはからふ私の心を離れたるお石の心の上にあらはれたる仏の心は自からお石をして真実の孝行をなさしめたのである。  それよりしてお石はますますよく舅姑に仕へ、家業をいそしみ、一年余も過ぎしが、舅関蔵は大病に罹り遂に腰ぬけとなつた。そこでお石は時に姑に舅の介抱をたのみ、自分は農業をつとめ、舅の療養の費用を得るために人に雇はれ、草履をつくり、荷物の運びなどをした。此の如くお石は弱き力にて、労働に從事すること十年近くにもなつたが、お石は少しも弱りたる気色を見せず、又少しも努力を厭はず、見る人皆感歎せぬものはなかつた。  或る日、お石は人に雇はれて家を出たが、夜遅く帰つて来て門口より声をかけしに何の返事もなかつた。こは不審と内へ入りて見れば舅姑はさめざめと泣いて居る。其故を問へば、いふやう  「我等夫婦いかなる宿業にや、伊八の不所存ゆへに困窮に迫り、其上二人とも業病に取り合ひ、此年月そなた一人の介抱で今日まで命をつないだが、今夜そなたの帰りの遅いので、若しや我々夫婦を捨てて親里へ帰つたかと、ふと疑の心が起るにつけ、よくよく思へば此年頃の娘難辛苦、中々真実の娘もこれほどに介抱は届きはせまい。されど永の年月のことなれば退屈の心の起るも無理ではない。さりながらそなたが殘つて呉れねば明日より我等夫婦は乞食もならず、たちどころに飢えて死ぬると思へばただ何となくものかなしうなつて思はず泣きましたが、よう戻つて来て呉れた」 と、又うれし泣にさめざめと泣いた。舅は病気のためにいざりとなり、姑は眼をわづらひて盲目となつた。二人共業病といへば業病、まことに気の毒の有様であつた。お石は気の毒さ、言ふばかりもなかつたが、わざと打ち笑ひて「今夜は余儀なき用事にて遅くなりました。たとひ此後帰りが遅いとも、必ず弱いことを思し召すな。我身は死むでも心は死にませぬ。いつまで介抱して御先途を見届けます」と言つた。関蔵夫婦は安心して一と寝入りして、ふと目をさませば、お石がしくしくと泣いて居る。驚きて何故ぞと尋ぬれば、お石は曰く  「されば、伊八どのが家を出でられてより巳に六年、里の親から縁を切りて戻れと言はる。固より帰る志はござりませぬ。それのみならず、御大病の後はなほ側を離れてはならぬと心一とつに御介抱申しますれども、折折の雇はれごとに手が引けまして、十分に御介抱の届きませぬは、まだ私の尽さぬ所があるによりて親里へ帰つたかとの御疑も起りまする。これ全く私の届かぬのでござりまする。どうしたら御安心になりませうと思へば寝ても寝入られませぬ」  と言ひわけをする。すこしも舅姑を恨まず、ただ自分の介抱の行き届かぬことを嘆くのである。関蔵夫婦も気の毒に思ひ兎や角と言ひなぐさめて寝入らしめた。それよりお石は外へ出でて雇はれ仕事をすることをひかへ、僅かなる賃仕事にてその日の煙を立て舅姑の心をやすめて介抱せしとぞ。  あるとき、隣村の寺院に京都本山より使僧来りて法莚開かれしが、お石は舅姑にすすめで參詣せしめ、それもいざりと盲目とであるからお石は自から兩人を負ふて一里あまりある寺院まで運むだ。それも往復一人づつ運むだのであるから往復四里あまり、法筵が開かれた間、毎日かかさず、その労苦はとても尋常の人のよく堪へるところではない。使僧も大いに感じ、帰京の後、法主へ言上しけるによりて感賞があつた。防長太守よりも関蔵夫婦へ生涯二人扶持を下され、お石は萩の城下に召よせられ褒美を賜はつたといふ。このお石のことは僧純師の「妙好人伝」二篇下に載せられて、その信徳と孝徳とのあらはれを賞賛してあるが、元来この関蔵は山口の円龍寺の門徒にて親鸞聖人の教を奉じたもので、お石も幼より法義に志厚く、その素行の摯実なりしことは皆人の賞賛するところであつたといふ。自分のためにはからふ心にて此の如くに摯実に舅姑に仕へることは出来ることでない舅姑によく仕へて奇特の名を得やうとするが如き私心にて、よし一時的の孝行は出来るにしても、十余年の久しきに渉りて少しもかはることなく舅姑によく仕へるお石の態度は美しき宗教の心のあらはれであると言はねばならぬ。  正信念仏  仏の本願は、浄土を願ふて念仏するものを必ずたすけるとあるからと、深く信じて念仏することは自分のはからひを捨てて始めて口に出づるものである。念仏して往生しやうと願ふて念仏するのではない。全く形式のない念仏である。それ故に、この念仏は自然にその口から出るものであるとせねばならぬ。  筑前の住吉村の中村甚右衛門といふもの、法味愛榮の志深く、称名の声常に絶えず、念仏おやぢとあだ名をつけられるほどであつた。或時赤間屋といへる家に婚禮の式ありて甚右衛門は長女琴と共にその家に招かれしが、赤間屋は日蓮宗の門徒にて、しかも婚禮の席なるが故に娘の琴は甚右衛門に念仏の声の出づることやと心配し予め注意して、甚右衛門に向ひ「此家は日蓮宗なれば念仏を大いに嫌はるる、その上今夜は婚禮の席なれば念仏を申さぬやうにしたまへ」といふ。しかるに甚右衛門は行住坐臥常に称名間断なき故に、知らず知らず念仏した。同席のもの大いにこれを嫌つて、念仏おやぢが来たと冷笑するのを聞いた琴女は甚右衛門に向ひ「先刻申した通ほり故に。なにとぞお謹しみあるべし」といふ。甚右衛門は諾してしばらくは称へざれども又しても念仏が口に出る。琴女又これを告げしに甚右衛門の曰く「余が力にて称ふる念仏なればたえることがあるが、如来様より称へさせたまふ称名なれば止めやう思へど止められぬ」といふ。宴終りて家に帰る道すがら甚右衛門の曰く「やれやれ牢屋を出たやうな心持がする」と。まことに自分のはからひを全く捨てて、ひとへに仏の本願に信頼せる心からの声が口から出るのであるから、自分の力で念仏するのでなく、如来様よりして念仏せしめたまふと言つてよろしい。かやうな正信念仏はつとめてする念仏に異なりて、止めやうとしても止むものではない。身体が疲労してあくびが口に出づるのと同じやうに、本願を信ずる心の声が口に出るのはこれを止めることが六ヶ敷い。これがつとめてする念仏であれば止めやうとすれば何時でも止めることが出来るのである。しかしかやうな念仏はつとめてするも、又これを止めるも、その価値の少いことにかはりは無いとせねばならぬ。  争議巳む  むかし、伊賀の藤堂和泉守の家臣に九瀬孫之丞といふものが居つた。もと輝宗であつたが浄土真宗に帰して無二の信者となつた。此人後に大和国古市の代官となりて赴任したが、その支配下にある雲井寺(真言宗)と百姓との間に争議あり、一方は寺の門前の道を広くせむとし、一方はこれを広くすることに反対し、三箇年間争ひて代官も裁決することが出来ず、その儘になつて居つたのを九瀬が更代して古市に赴いたのである。そこで九瀬は彼寺の住職を密かに招き、前後三箇年も公事に及ぶと雖も是非定め難しとあれば不肖の某、何ぞ虚実を糺さむやこの事日夜思ひ煩ふことである。此頃腰折をよみたり、伏して添削を乞ふとて差出した。   広かれと願ふは法の道なれや世の通路はよし狭くとも  住職は謙虚なる九瀬の心によりてあらはれたる態度に自から恥ぢ入りて村中へあやまりを述べ、出家の身として三年の間各々と争ひしことの恥かしき、向後は道を広げ候まじといひければ、村人もこれを聞きて誠に恥ぢ入り、村中申し合せて終に道を広げて寺へ寄附したりといふ。この九瀬は明和七年六十八歳にして死亡したが、命終に近き頃、六首の歌をよみしが、その中   何事も皆みほとけに任す身は心にかかるうきふしもなし   あなたよりたすけたまへば我はただ忝しと思うばかりで   伏しおがむ仏の御手にかかる身は何かさはりのあらむ後の世  かやうに美しき宗教の心の持主たる九瀬孫之丞なればこそ、三箇年にわたれる争議を僅かに一首の歌によりて解決したのである。まことにこの人の態度の和らかにして且つ暖かつたのは、別に何等の言葉を用ふることなくして相方当事者の闘争の心を止めしめたのである。  松居遊見  江州北五箇圧の篤信者、松居遊見、巨萬の富をなし富裕の暮しをして居つたが、常に法味を愛樂して念仏した。あるとき、天井より小便が漏れたるに、これは鼠にはあらずと不審に思ひ探し見たるに、果して盗賊が隠れ居たれば家僕は驚き捕吏に急報せむと騒ぎけるに、遊見はやさしく、「さふことはするな、早く握飯をしてやれ、さぞや空腹ならむ、かあいさうなことなり」とて、小遣錢を与へ、今後の改心を諭して放せしが、後にその賊の物語に「折角忍び入りたれども夜更に及ぶも翁が念仏の声たえざれば出るときを得ず、遂に夜が明けて通れることが出来なかつた」と。かういふ場合、それは念仏の徳であるとせられるのが常であるが、もつと深く考へて見れば、念仏する心よりしてあらはるる平和の態度が、流石の盗賊をして逡巡して盗むことを得ざらしめたのであらう。  北條早雲  北條早雲は室町時代末期の豪傑にて、本性は伊勢新九郎長氏、山城の人ともいひ大和の人ともいふ。明応の頃に伊豆の韮山に至り善政を布き民皆悦服した。北條氏の娘を娶り自から北條と名のり名を氏成と言ひ、後髪を剃りて早雲と號した。早雲は武士でありながら仏法に心を染むることが深く、上杉を追ひ、三浦を亡ぼし相模を略し、小田原に拠つた。永正十六年八十八歳にして死亡したが、その子の氏綱が京都の大徳寺に撲して伽藍を湯本に建て金湯山早雲寺と號した。  或日早雲が琵琶法師を呼びに「平家物語」を所望し、那須の与一が扇の的を射るといふ所に至り「さて与一が弓を引きしぼり扇の的にねらひを定め……」といふ所になりて熱心に聞き居たる早雲は急に「止めよ止めよ」と言つて琵琶歌をやめさした。近侍の武士や女中達は自分に一番面白い所、いよいよ佳境に入らむとする所を止められたので、どうしたことかと不審した。すると早雲は涙を浮べて「お前達は琵琶の音色や歌の調子につられて単に面白いとばかり聞いて居るから駄目だ。与一の身になつて聞くがよい。与一は扇の的がはづれたら源家の恥辱は勿論、武士の面目のために切腹して相果つる覚悟であつたらう。今弓を射やうとして、じつと的をねらつて居る、その心持は自分にはよくわかる。武士が命をかけて矢をつがへて引きしぼつた、矢は将に弓をはなれやうとする今、こちらがじつと坐つて歌を聞いて居られるか」これを聞いた人々は、はげしい武将の心に宿れるやさしい心に感激して、自分等の聞き方がおろそかなることに恥ぢ入つたといふ。  坂本浄念坊  江州比叡山の麓、上坂本といふ所に浄念坊といふ殊勝第一なる遁世の僧ありけり。すなはち其所に毎月持齋の旦那あり、彼の旦那今日は親の祥月なれば御布施まゐらせむとて料足二百みづからこしらへて、持仏堂の傍にぞ置きける。彼の浄念坊、常の如く来たり、持仏堂に打ち向ひ、念仏数遍となへて、廻向し、すこしもへつらひなき人なれば、時過ぐるとひとしく、暇乞をもなく、つい立ちかへられけり。旦那あとにて「こしらへ置きたる御布施はまゐらせたりや」と問ふ。「忘れて誰もまゐらせず」と答ふ。「さては仏壇の傍にあるべし、尋ね出しもちてまゐれ」といふ。ここかしこさがせど、折節つやつや見えざりければ無しと答ふ。旦那きはめて腹あしくすこしも遠慮なき人なりければ、よく見よといふことをも言はずして、以ての外に腹を立て「この坊主、布施たりと思ひて取りてかへれるものなるべし。やり手もなきものを案内なしに取ることであるべき。大のぬすびと、破戒の比丘なり」といひて大いに怒り、いきまきかねて坊主のもとへ使を立つる「今朝仏前に置きける錢をば何とて御取り候やらむ。これ破戒の比丘なり、さうさうかへさせたまへと、あららかに言ふて、我がいふ趣を有りの儘に申すべし」と堅く教へて言ひやりければ使ゆきて有りの儘にいふ。坊主聞きて何の一言にも及ばず、つい立ちて、すなはちめんざうに入り、二百の錢を取出し打ち笑ひてぞかへされける。使取りてかへり旦那に渡す。旦那「されば思ふにすこしもたがはず、大のぬす人坊主なり、今までは殊勝第一の人なりと思ひて、この年月持番坊主とせしことのくやしさよ。向後この坊主よすべからず。」と、疊をたたき悪口しけるところに、其後座敷をはくもの「ここにも錢の候」とて、かたはらより二百取り出し、旦那に見せければ、旦那これをつくづくと見て、「是はまさしく今朝わがこしらへ置きたる錢なり」坊主よりかへされける錢はこれより遙かにすぐれり。不思議に思ひて「坊主何ともそのことは無きか」と使のものに問へども、「いやいや何の一言にも及ばず、ただ打笑ひて御かへし候なり」と答ふ。さても不思議なることやと思ひて、この錢四百をたもとに入れ、急ぎ坊主の許へ行きていひけるは「今日は親の祥月なれば御布施に参らせむために仏壇の傍にこしらへ置きたる二百の錢は御取候やらむと思ふ」坊主の曰く「旦那も賜はらざるをば何しに取るべきや」と答ふ。「さてそのことはりもなく使に御かへし候は如何」坊主「使の者の申せしは旦那殊の外に腹を立て瞋恚を起し玉ふよし申せし儘、その瞋恚をもやすめ、悪念をはらし、結終せむために、昨日よそより布施に取りたる錢、折節二百候へばかしぬ」と言はれける。旦那掌を合せ「さてもありがたき殊勝第一なる御慈悲深き御心中にてこそ候へ。すなはち神仙にて候べし。左様の御心中をも知らずして仏を凝ひ申せしことの罪深さよ。さても無念口おしく候。今まで申せしことは生々世々御許し候べし。向後は後生の事をたのみ奉り候なり」と、掌を合せ禮拝し、感涙を流し、泣く泣く四百の錢を取り出し坊主にぞ參らせける。坊主聞きて「我を生き仏とは何事ぞや。釈尊の外に生き仏といふものをいまだ聞かず。又御身の後生をたのむなどとは是れまた何事ぞ。釈尊だにも三世不可得と説き玉へるごとくなれば、まして今、末世下根愚鈍の我等にて、学問修行もなく、後生の道をば何とて知るべき、知らざる故にかやうに遁世の身となり道心を起すものなり。我さへ後生を知らずして人の後生を何として受け取るべき。今時世間に多き東堂長老能化上人などと位に上ぼり、仏法修行し、みづからの後生をきはめ玉ふ知識達こそ、人の後生をも受け取り助け玉ふことなれ。それさへ思へば心もとなし。況や我等如きの無智にして学問修行もなく、坐禅・三学の道にも至り難き故、せめてかやうに遁世の身となり、道心を起し、浮世の望をきり、心中には阿弥陀仏をおさめ奉り、其外をば打ち捨て、多念を起さず、穢土を厭ひ、浄土を願い、仏の御教にまかせ、只一向に他力をたのみ奉りて、名號を唱へば定めて浄土に往生せむらむと思ふばかりなり。此外は少しも知らず、後生はただ手はげみなり、人だのみなるべからず。されば黒谷の蓮生が歌に   やくそくの念仏は申すまで候よひかふ引かじはみだのはからひ  と詠みしとなり。我等も其分なり」と言ひて大いに笑い、あをのきに打ち臥し、肘をまげて枕とし、あしふみのべてを居たまひける。旦那いよいよ貴く殊勝に覚え、感涙を流しかへりしとなり。まことにこれこそ道心あるもののはだへなるべけれ。  今時世間に多き道世道心者などといふものを見るに、まことの世捨人にはあらず、ただみな世に捨てられて詮方なき儘、名利の世を渡らむためならば、かみに殊勝ぶりの無欲顔なりといへども、内心に浮世の望み多し。かるが故に恣心を離れず。その故は形に影の添ふ如くに望みには必ず恣心添ふのなり。恣心内にあれば必ず富貴をうらみ福人を詔ひ?をなすものなり。これ皆名利のそひものなるべし。まことの遁世道心者なるべきには富貴栄華を見ては顔を振り、これを後になして許山が耳をきよめ麗老が寶を海に沈めしことをうらやみ願ひてこそまことの道ともいふべけれ。あまつさへ富貴栄華をうらやみ、名利の望み心中にたえざる心根まことに愚なり。心ある世にある人より遙かに劣れり。つらつら思ふに、みな世に捨てられて心ならずの遁世なれば、ただみな餓鬼の断食、悪女の賢者ぶりならむとおもはるる。   遁世のとむの一字ぞかはりけるむかしはのがる今はむさぼる  この話は寛文二年(今を距ること約二百七十余年)に発行せられたる一為愚痴物語」巻七の中に出て居るものであるが、当時世間の人々が道を求めて仏門に入るには、家を棄て世を遁れることを第一としたのであるにも拘らず、実際に遁世のものは少くして貧世のものが多かつたのである。今日のやうに、文化の進みたる世にありては、道に入るために家を棄て世を遁れることを必要とはせぬのであるが、しかしながら、身を修め心を治むることは何れの時代にありても同じやうに必要であることは言ふまでもないから、かやうな話もこれを一とつの昔話として聞き捨てにすべきではない。  佐藤一齋  佐藤一斎は江戸幕府時代の末期の大儒にして、名は坦、拾蔵と称した。一斎はその號である。林大学頭の門下に列し、その塾頭となり、遂に昌平黌の儒官に挙げられ、斯道の耆宿《きしゆく》、一世の重鎮として尊崇せられたのである。その学問は固より当時幕府が支持せる朱子学であつたが、一斎は又王陽明の学に志し、斯学の大家として有名であつた。  朱子学は性理の説を立て、格物究理を主とし、学問は必ず聖賢の遺意をその書中に求めねばならぬと教へ、又修身の法は必ず小より大に進み、洒掃応対より順序を遂て聖人の域に達せざるべからずとしたので、六経を以て金科玉條とした。しかるに王陽明の学は其心を尽すことを以て学問の要旨とするもので、すなはち心学と称せらるべきものであつた。それ故に一番の学は己れを尽すことを主とし、ひたすら大道を簡明することを務めたので世の所謂信者とはその趣を異にするところがあつた。殊に一斎が著述するところの「言志録」は四部に別たれ、文化十年一齋が四十二歳の時から嘉永四年八十歳までの間に起稿したもので、或は天地自然の美を説き、或は人間渉世の道を論じ、字句も簡潔にして、好簡の修養録として推奨すべきものである。今ここにその中から省心の資に供すべきものの一二を救出する。  「言志晩録」に曰く「人事は期せざる所に赴むく。つひに人力にあらず。人家の貧富の如き、天に係るあり、人力に係るあり。然れどもその人に係るものは竟に亦天に係る。世に処して能くこの理を知らば苦悩の一半を省かむ」とある。まことに我々人間が望みをかけてすることは期せざるところに赴むくのが常である。思ふところも多くは的がはづれて、意外の結果を得ることが多い。一齋はこれを見て、それは人力にあらずして天に係るものであるといふ。人若しその業を怠りて懈怠の心をやめざればその結果は当然貧困に陥るであらう。これは固より人に係るのである。しかもその業をつとむることに精勘にして一生懸命に努力すといへども時に天災などによりて意外の障碍に思ふて貧困に陥ることがある。それから考へれば、人に係るものも究竟天に係るのである。思ふに一齋の心にては我々人間が自分の心と学力とをたのむことがあまりに強きに過ぎて何事にても皆、自分の心と力とによりてこれを能くすべしと考ふることを戒めたのであらう。我々人間は傲慢にして、精神一到何事か成らざらむと意気込むことはまことに立派であるが、若しその事が成らずして失敗するときは意気忽ち挫折し遂には人をうらみ、世を呪ふやうになるのである。一齋はさういふ場合の傲慢の心を矯め、すべての事の成否は天に係るといふ。自分の小なる心と力との上に大なる心と力とがあり、我々はそれに服從せねばならぬことを示したのであらう。  「言志晩録」に「一燈を提げて暗夜を行く、暗夜を憂ふることなかれ、ただ一燈に頼れ」とあるのも亦、この意を示したものであらう。既に暗夜の行歩し難きを覚つて一燈を授げて行くのである。我が心と身とをたのむことは一切やめて一燈をたのむべきであるといふ。すべて世の中のことは自分の心と力とのみにて成就することがむつかしい。必ず傲慢の心を捨てて己を虚しうして頼むべきものを頼むべきである。  三河善蔵  三河国中たちといふ所に善蔵といふ厚信のものが居つた。七三郎といふ妙好人の取立にて名が高くなつた人であるが、あるときこの人の所へ能登の溝八といふものが御舊跡參拝の途中尋ね来りて一夜の宿を乞ふた。善蔵は家貧なれども舊跡参拝のものを報酬に留めて喜ぶ人であつた。清八は一向に法義に志なく、法義の話はやかましいと思ふほどであつた。しかるに善蔵はありがたく女房も喜び手ゆへに「やれやれよふこそ御尋ね下されましたさあ御上りなされまして御引立て下され」といふ。清八は會釈もなく上りて夜食を飽くまでに喰ひ、御仏前の方へ足を踏み出して寝る。女房言ふやう「今晩は亭主は御取越に呼ばれて同行衆の方へ参りまして帰りは知れませぬ、御光りを上げました、どうぞ御参りなされて下され」といひたれば清八は「御免なされ、私はくたぶれました。明朝參りましよ」と言つて一向に起き返りもせぬ。女房あきれ、御光をしめし善蔵の帰りを待つ。夜更けて善蔵かへる。女房いふやう「今日も御開山の御客がござりました」善蔵「それはありがたい、御引立に遭ふたか」女房いいえ、御くたびれだとて直きに御休み御光あげて參りて貰ふたか」「いいえ、御くたびれとて御參りなされませぬ」善蔵「どりや參りて聞ひましよ」と、又火を打ち御光を上げ見るに、御前に足をぬつと踏み出して寝て居る。善蔵手をついて「若し若し御同行樣よふ御泊りなされました、さあどうぞ御參りなされて下され」と言ふたれば清八あをのけに寝ながら「御亭主御免なされ、大きにくたぶれました」と中々起きる気色なし。亭主は夫婦もろともに懇に三首引御文様を戴けども清八は足も引かず、亭主はとつくりと御禮を遂げ御光をしめし、清八の枕の方へ廻り涙を流して「さても忝ない御異見、今晩は報恩講に呼ばれ、我物知り顔、信心顔に一人して口を叩いたが、我が心を知らずに居た故に御開山様よりの御使を以て御責め下さる。さても御ありがたうござります、御引立下されます」と頭を下げて敬ひければ、清八はむつくと起き「こりや御亭主、そのやうに拝んで下さるな。わしか起きてまゐらぬと思ふ。つらあてに其様にする」とおこり出しければ善蔵「いやいや御前様は知らぬこと、今晩は御開山より御前をば此へ御使、わしが昔の心を忘れて信心者ぶりする故に、その心を改めよとありての御催促、わしが如来樣の方へ足を出してた奴なれども、それを忘れた故じや。さてもかたじけない、御引立下さる」と誠より言ふ故に、清八も驚きて、遂に法技に入つたといふ。世に舊跡參りと称して親鸞聖人の関東に於ける舊跡を巡拝するものが昔から多かつたが、しかし舊跡參りが必ずしも法義の心から行はれるものでなく、中には見物のために、或は糊口のために名を舊跡參りに借りて回顧するものもあつた。清八の如き其一人であつた。しかるに善蔵はそれを見て、すこしも咎むることなく、却つてひたすらに自分の心を内観して、清八の法義にうとき心をば自分の心にくらべ、自分もまた同じことであると考へてかやうなものが救はるるといふ仏の恵みを感謝したのである。  廊三法師  寛永年中、三河の刈谷に廓三といふ僧が居つた。年十九にして洛都に出で、後所々の叢林に遊学し数年を経てその功成り?輩も敢て肩をならぶるものが無かつた。壯年以後道心ますます堅固にして深く名利を厭ひ故郷に帰り専光寺の山麓に柴を縛して膚となし專ら淨業を修めた。この法師平生道業清素にして最も雑談を嫌い、常に沙門の放逸なるを見ては憤然として嘆息して曰く「無量去来生死の身を受けて、今たまたま仏教に遇へる身の若し袈裟の下に人身を失はば何を以てか信施の償をなさむや。むしろ法ありて死すとも法なくして徒らに生くることをせず」と晝夜專精に進修せるが、日日に血を刺して浄土の三部妙典を書写すること数月、巳に血枯れ膚かしげて殆ど倒れむとするまでに至つたが竟に其功を全うした。ある人、法師に対して「易行の念仏にて事足るに、何が故に血を刺して苦行を修するや、恐らくは本願の弘誓を疑ふに近し」と言ひしに、法師答へて曰く「往生の業は念仏に如くものはない。我れ何ぞ不足の想をなさむ。今血を刺して経典を写すのは全く自力の機巧を募るのではない。ただこれ仏恩の深きことを謝し、法のために身命を惜まずして、願生の心の退陣せざらむが為の助道とするのである。円光大師の歌に法のため身命を惜まざる心を、かりそめの色のゆかりの想にだに選ぶには身をもおしみやはする。かつ又六尺の?百年の命、全く仏陀の恩致檀越の信施であるのに、我は織姉の勞を知らず、耕作の苦を顧みず、飽まで食ひ、煖かに衣て徒に費し妄に用ひて、剰《あまつさ》へ罪業を造る。頂きより踵に至るまで膚受信施のとがを償ふに処なし。それ故に、慚謝の志ばかりである」と言つて涙を流したといふ。見聞するもの感歎に堪へず皆袖をうるほしたと「新選発心伝」に書いてある。まことに法のために身命を惜まさる廓三法師の行状は放逸なる仏法者の戒とすべきものである。  少女安心  安国安佐郡の三入村といふ所の百姓の娘きぬよ、年僅かに十五にして病に臥せしが、医師の診断に肋膜炎とありて本人の驚きは言ふまでもなく、父母兄弟も大いに心配し百方手を尽せしが、幸にして医業其効を奏し、漸くにして病床を離るるに至つた。しかるにきぬよはこのたびの病気が因縁となつて法を求むるの志を起し、父母に乞ふて寺へ参り、説教を聴聞し法味を受樂しつつ、農村の事とて、麦の収獲やら、田植の仕事やら、勇ましく父母の手伝をして居つたが、間もなく肺病をして再び病床に臥するやうになつた。しかるにきぬよは泰然として「私はこの前の病気が直つたときに寺へ參り懇に聞かせて貰いました。肺病は不治の病と聞いて居ります。私は死の宣告を受けたのです。今私は如来様の光明にだかれて念仏申しただ此世を去るときの近づくばかりです」と言ふ。その所へ四国の大師廻りの旅人が来て強ひて宿を乞ふによりて巳むなく宿泊を許せしに、旅人は大いに喜び、病床に至りて、お札を病人の頭にあてて何事をか口誦するので、きぬよは兩眼を開き「あなたは何をしたまふや。私の病気は肺病です。そんなことは駄目です。若し新橋で病気が直るならば世の中に死ぬる人はありますまい。そんなことは止めて下され」と涙を両眼に浮べて拒絶するので旅人も無禮を謝し、折角謂ふた一夜の宿そこそこに言葉を濁して立ち去つた。その後数日にしてきぬよは念仏もろともに安らかに死に帰した。少女ながらよく自分のはからひを捨て、仏の心に包まれて安樂の世界に逍遙することが出来た事は、誠に不思議と言はねばならぬ。  上杉謙信  上杉謙信は幼少の頃、菩提寺林泉寺の住職にて天宗といふ和尚の室に入りて経史の書を学び、又参禅して身心の鍛練を怠らなかつた。しかも単に禅に參したばかりでなく、仏教の全体にわたりて聴聞した。それ故に勇猛にして、身を修むることに精進し、人に対しては飽くまでも慈悲哀憐を主とした。謙信の態度は全く仏種に帰因すると言つてよいほどであつた。当時の状勢にありて謙信はしばしば戦争に従事したが、それは自から称して義戦としたもので、名分なき戦争はしないと言つて居た。  天宗和尚は永禄六年に寂したので、次で林泉寺第七世となつた宗謙和尚に参禅した。謙信は深く宗謙和尚に帰依し、法名を謙信と號したのも宗謙の一字を受けたのであるといふ。この宗謙和尚が林泉寺上堂の始めに、謙信はいささか日頃の修練を自負して寺に參りて見ると、宗謙和尚は丁度、梁の武帝が達疇に見參するという公案を挙げて法戦正さに閑なところであつた。そこで宗謙和尚は「達磨不識の意旨、作麼生か會す」と謙信に向つて質問した。これは達磨が梁の武帝の「聖諦第一義は」と問ふたるに対して「廓然無聖」と答へた。武帝はこれを悟らずして「朕に対するもの誰ぞ」と更に問ふた。達磨は所詮相手にならぬと思つて「不識」と答へて立ち去つた。その故事を挙げて謙信の虚を突いたのである。謙信は窮して何も言ふことが出来なかつた。さうすると宗謙和尚は「此事相応を得むと欲せば直ちに大死一回して始めて得べし」と言つた。  大死一回とは迷いの此身を捨てて新に真如実相の境界に生れるといふことである。この迷妄の娑婆世界を離れて新に悟りの境界に生れるといふことである。謙信はこの指教を受けて、かねての法縁がますます熟して、ますます參究を怠らず、遂に豁然として大死一回の新生涯に入ることが出来た。或時謙信は禅僧の法興といふものに會して法問をしたことがあるが、それは法興が本日城に登らうとして城下まで来ると丁度謙信が出陣の門出に出あはしたので、一寸道を避けて前を通ほる軍隊をながめて居つた。謙信は後方に居りてこれを知り、部下のものをして和尚に「兵を進むるに神速を規矩とす。法を弘むる方便、何を以て規矩とする」と尋ねしめた。すると和尚は直ちに「兵を進むるに死を先にす。法を弘むる死を先とす。今日当体、生を知つて死を知らず」と答へたその所へ謙信の馬が進むで和尚の傍に至つたので謙信は馬を捨て、軍扇を振つて言ふやうは  「弱きを見て退き、強きに向つて進む、逆なるや、順なるや」  和尚これを聞くとひとしく  「死を恐れざるは易く、生を樂しむは危し、強弱進退、死生の迷悟、当れるかな」  と言つた。そこで謙信は莞爾として  「死の中に生あり。生の中に生なし」  と言つた。和尚はそれを聞いて珍重々々と褒めた。かやうに謙信は參究工夫の結果、生死を超越して、人生を達観したのである。この達観こそ謙信の一生を描いた因子である。  姿の儘  丹波の三田源七といふもの、年尚ほ壮にして後生の事に心を注ぎ、十九の時に家を出でて諸国を週はり、有名の信者や名師を訪ふて法を求めたが、ある時美濃国の矢島にておゆきといふ信者を訪ひ、四日間滞留して辞し去るとき、おゆきは源七に向いて「兄さんお前様は信を頂かにや二度と我国へ帰らぬと言ふたのう」といふ。源七は「へえ其心でござります」と答へた。するとゆきは言葉に力を入れ「お前様は何処まで尋ねて行かれるか知らねども、いよいよ得られたはやいと言ふものが出来たら、御開山樣と仏縁が切れたと思ひなされ、本の相《すがた》で帰つたならば御誓約通ほりと思ひなさい」と涙ぐみて言つた。源七はその心がわからぬので、参河の松林寺の住職に遭つて、その事を尋ねた。すると松林寺の住職は大いに感心して「今日でもそれほどうまいことを聞かせるものが有るかや、此国を捜し廻はつてもそんなことを聞かせるものは一人も無い。何が故にこんな処まで尋ねて来たか」と言ひながら兩手を打つて喜むだ。源七は尚ほその心を解せず「これが本真でござりますか」と尋ねた。すると住職は「貴様何をいふ。姿のまんまと指された外に何があらう」と言いながら、同行の某等二人のものを呼び寄せ「此男があんまりうまいことを聞いて来て聞かせて呉れたで、一人してきいて居ても惜しいと思ふて呼び寄せたのじや。此男がなあ美濃のおゆき同行に遇ふて別れのとき、かやうかやうお聞かせであつたげな」と前の話を逐一述べて「今でもこんなうまいこと聞かせる者があるかなあ」と喜むだ。二人のものも「これはしたりこれはしたり」と兩手を打ち身を踊らせて喜むだと。まことに蓮如上人の言はれたやうに、法を心得たと思ふのは心得ぬのである。迷の心から離れて真実の法に接することが出来たとなれば、それは煩悩具足の凡夫を助けると言はれる如来の本願を離れるのであり、この如来の本願を我々に説き示すことに骨を折られた親鸞聖人と縁が切れてしまうのであるといふことを考へねばならぬ。  学と信  大阪備後町の西方寺住職に元明師といふ人があつた。もと伊勢の国の生れであるが、修業中に大谷派の講師の香樹院師に就て勉学せられたが、香樹院師は当時有名の大徳で、師に就学したものの数も甚だ多数であつた。西方寺の元明師はその多数の門人の中でもすぐれた人で、あるとき他の門人達に向ひ「これほどに御互、右手《あて》すごいて為て居る学問、何にもならぬことをして居るなあ」と言つた。そのとき香樹院師は襖の内でそれを聞いて居られたが、じつとして居られず飛んで出て「元明、其方はそれに気がついたか。えらい事をして呉れた。とほうも無い事をして呉れた」と手を組むで言はれた。その後で傍に居る坊さん達に向ひ「そちどもは盲目やそちどもは盲目や」と言はれた、坊さん達はその場では何とも言はずに居つたが、其中で学問のすぐれた坊さんは集つて「香樹院師は私等の学に目がつかぬかいなあ」と言つた。その話が遂に香樹院師の耳に入つた。香樹院師はそれを聞いて、 「其樣なことは知らぬではない。其様な事を申すによりて盲目やと言ふのじや」と言はれた。仏法の要は信にあり、学問によりて知識を増すことは宗教の上に何の役にも立たぬことである。  無我の心  「松翁道話」三篇巻下の中に曰く  「或所の旦那殿が本心を知らしやつて、家内のものへ、金一兩づつやらうほどに、しつてくれいと御頼みぢや。それで家内のものが、我一にしつて見たれば我はない。我がなければものを貪る心もない。さてさてありがたい事といふ。其金を一人も取るものがなかつたといふ事ぢや。まあそれ程の事ぢや。ほしい、をしい、悔い、かはいいも、我があればこそ出来たのぢや。我がなければ、あな面倒な、何の為に其様なものを拵へて苦しまんや。爰をよう合点してごらうじませ。本心を知ると、壽命は限りなし。天地萬物が心なる故、どこへ行つて自慢するといふ世話も入らず。憎いのかはいいのといふは右の手と左の手を引張り合ひして居るやうなので、よう算用して見れば、我たつたひとり狂言して居るやうなものぢや。大体気しんどなものぢやない。其樣なあほらしい事にして居る暇はない。又一切萬物が我が心なら何にも不足はない。そのかはり世界の難儀が我が難儀、世界の悦びは我が悦び。此からだが直ぐに天の御心なる故、天地の間の座一本、薬一筋も無益にものを費すは、すなはち大地の功徳を破り損ふといふものぢや、況んや人に於てをやぢや」むかし最明寺時頼公は浮世の人の情のないは皆我が情の行届かぬのぢやというて、世を情みて、諸国御廻りなされたといふことぢや。誠に親が子を憐みて、うろうろなされた様なものぢや。是れ何の為ぞ。皆大地への御孝行ぢや。天の心で生れた人が、世をいたはり、世を助くる心のないは直ぐに天地を盗んで居るといふのぢや。むかし軍のあつたも、皆義の為、その為の戦ぢや。其義も孝も何方へ立つる義ぞ、皆天道へ立つる義ぢや。それを我が身の為や、我が威勢の為に立てた衆は皆亡びてしまふたぢやないか。是で我の立て甲斐のないことをよう御明らめなされませ。又どのやうにしても我のないが元直ぢや。その無い我をこしらへて、春はどうしよう、秋はどうしよう、子供の行衛がどうならう、何をいふても金の事ぢや、金がなうてはどうもならぬ。ハァハァスゥスゥともがき苦しむ。辛度の仕損。はなしが竹の筒の上でからつぽばつかり掻いて居るのぢや。終日歩而不歩一歩一、日々食而不食一粒皆此方の不調法ぢやによつて、本心知らにやならぬ。本心知つて御らうじませ。ねつから其様なものはない。実相無漏の大海で、汗手拭洗ふやうなものぢや。何も思案分別はいらぬ。世界中が我が心ぢやによつて、生れて居るとも思はず、死んで居るとも思はず」  我といふものがあればこそ、貪欲も起り、瞋恚や、愚痴の心に迷ふて苦しむのである。それ故に本心を知れといふ。本心を知るは別にむつかしい事は要らぬ。ただ我が心の無心無念なることをよう合点するのであると説くのである。  仏に遇ふ  芝居の狂言に肉屋源右衛門といふものが色々様々の悪だくみして居る処へ、飛脚が状を持つて来て、もうし此あたりに肉屋源右衛門様といふはござりませうかな。いいえ其様な人はここぢやござらぬ。そこで飛脚が、どうでも此あたりと承りましたが。夫で源右衛門が言ふに、御待ちなされや、どうやら聞いたやうな名ぢやがと、小首傾けてああ成程思ひ出した、聞いたやうな筈ぢや、すなはち私でござります。狂言で見ると、たはひもないやうな事なれど、大概此位に皆迷ふて居るものぢや。日々の人欲に引張られて肝心の我信心をよその事のやうに思ふて居る。こわいものぢや。是ぢやによつて、心中、身なげ、首くくり、色々の禍も出来る筈ぢや。それがいやさに先生方が心を砕き、本心の知りやうを、工夫の仕よいやうに、寄る処を御すすめなさるのぢや。どなたも御知りなされて御らうじませ。本心を知るは我のないことを知るのぢや。この我と思ふて居るは、たとへば蔵の内に火をとばして、あかいあかい何不自由なことはない何不自由なことはないと思ふて居るのを蔵の外へほり出してやるやうなものぢや。それで油さすことも、火をかき立てる事の世話も要らず、大抵自由なものじやない。どうぞ知りて御らうじませ。京都にさる御医者樣の母御、六十四になる婆々様が、嫁御が御気に入らいで、毎日毎日無間の業、家内くらやみ、自身も火宅のくるしみ。それで或知識に御相談なされたれば、知識のおつしやるには、先づそなたに腹立さすものは誰ぢやぞ、そこで婆々樣がはい嫁でござります。いやいや嫁がどのやうな顔したとて、こなたの構にはならぬことぢや。それを彼此と腹の中で世話やいて腹立てるのは何ものぢやぞ。夫を詮議してつかまへてござれと御示しなされた。それから婆々様が毎日毎日静座して、とうとう生きた仏に御対面なされた。其時の歌に    かりの世のあるじを知れば息仏火宅といふ名もあらばあれかし  廓然として唯息のみぢやといふことを合点なされた。    我なしになつて見たれば世の中は何不足なきものとなりけり  唯今まで仏様に向ふぢや向ふぢやと思いましたが、今といふ今、私が腹の中ぢや。さてさてありがたい仏様に御目にかかりました。肉屋源右衛門と同じことじや。聞いたやうな筈ぢや。すなはち私でござります。    ありがたや我が本尊をひらくれば森羅萬象弥陀の全体  今まで口でばつかり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といふて悪業つくりました。これからは嫁大事、仏樣大事になりました。と互に仲よしになつて家内が極樂幕しになつた。  これは中澤道二翁の「道話」の中に出て居る話であるが、よく心を静めて我といふものを捨てて世の中を見れば萬物が皆阿弥陀仏のすがたであるといふことを平易に説いたものである。世の人の常に、仏といへば自身を離れたる高い処に居ますもののやうに誤まり考へて、仏に取り囲まれて居ながらそれに気がつかぬのである。  餅屋の市五郎  播磨国赤穂郡相生浦に、餅屋の市五郎といふ念仏の行者があつた。あるとき同行兩三人寄り合ふて茶を呑み居りたるとき市五郎は忽ち泣き出した。一人の同行がその由を尋ねたるに、市五郎は涙を押へて言ふやう「今猫が鼠を伺ふ。何ぞ鼠のみならむや。我もかくの如く地獄の獄卒に待たるるものを」と言つた。  この人の女房は夫に似合はぬ邪見のものであつたが、市五郎はこれを不便に思ひ、他から美食の到来せるときは先づ女房に興へ、又産業も苦労なることは手代して客の如くもてなしける故、ある人市五郎にその故を問へば、市五郎の言ふやう「彼に後生の一大事を毎々すすめ誘へども無宿善と見えて、聊かも聞く心なければ、それが不便なる故に、せめて此世でたりと樂させてやりたい」とありければ、流石邪見の女房も夫の実意に感じて終に法義に入りて夫婦もろともに御恩を喜びて安穩の生活をなすに至つたといふ。  市五郎のやうに、後生の事に心をかけ、如来の本願を信じて、煩悩具足・罪悪深重の身を以て、めでたく浄土に往生することが出来ることを喜むで居るものの心からすれば、その女房が現在の生活に執著して、理想の世界を希望せず、うかうかと暮して居るのを見れば、気の毒に感ぜらるることであらう。これが普通の人の人情から言へば、深切に法義に入ることを勧め、どうにかして仏の道に入らしめむと市五郎が導くのに、女房は頑としてこれに魅せんのであるから、市五郎が普通の人ならば必ず腹を立てて叱責するに相異ない。しかるに市五郎はよく自分の心を内観して、決して人の師となることの出来るものでないといふことを知り、自分もそれと同じく愚痴のものであるといふことをも悟つて居るのであるからそれを見てただ不便に思ふのみである。さうして此の如く現世の生活に執著して、うかうかと暮して居る女房のすがたを見て、後世は兎も角も現世でなりと樂にしてやりたいと憐みの心が起るのである。決して自分の意に從はぬことを不快に思ふてこれを叱責するといふやうな態度には出ぬのである。これがすなはち一切のものを摂取して捨てざる仏の心のあらはれである。  神仏を欺す  「口に宗旨の意味を述べて仮初にも珠数をはなさず、いかにも後生願と見えたる人が思ひの外にその所作を見ますれば、不足錢を払つたり、借りたる物を返さなんだり、念仏円目を唱へながら、妾狂ひしたり、婿や嫁をいじり出したりする様なつまらぬ信者が、悪うすると天竺にはあるさうで御座ります。此の様な信心は皆引きあてのあることで、畢竟神仏が物をおつしやらねばこそよいやうなものの恥かしいぢや御座りませんか。是についての話がござります。さる所に其日暮しの困窮な夫婦があつて、その女房が産の気がついた、生憎難産で三疊敷をウンウンいうて這ひ廻る。常に取りあげ婆様にも、医者どのにも御無沙汰しておくゆゑ、呼びに行つて来てはくれず、亭主一人が打つたり舞うたり、非常に女房が苦しむを外に見てもゐられず、さればとて我が腹は痛くもなし、詮方尽きて門口にある井戸へかかつて水汲みあげ、二三杯頭からかぶり、合掌して高声に南無日頃念じ奉る象頭山金比羅大權現、ただ今嚊が難産にて苦しみます。どうぞ恣なう出産を致します様お守りなされて下されい。若し安産致しましたら其の御禮に金の鳥居を奉納致しませうと大声で言ふ、女房もがきながら是を聞いてこれこれめつたな事を言はつしやるな、ひよつと安産したら、金の鳥居はどうして工面さつしやるといへば、亭主は目顏手付で、女房をおさへ「やかましう云ふな、斯う云うてしておる内にちやつと産んでしまへ」と言はれた。何と面白い話でござりませうがな。銘々共も神仏を欺すとは思はねども、悪るいことして極樂を願ひ、商賣不精で金持になりたいと無理な事を神仏へ祈るのは、我が本心を欺しているといふのぢや。我が本心を欺すのは、直に神仏を欺すのでござります。勿体ない事ぢや。」  これは「続々鳩翁道話」に載せてある話であるが、「心学道の話」の中にもこれと同じ話が挙げてある。宗教の上にて、ふところの神仏がどういふのであるかがわからず、ただ人間と同じやうなものの、智慧と力とか非常に大きなものであるかの如くに考へて、それを拝み、又はそれに祈るのであるから、さういふ間違ひが起るのである。  かす念仏  原口針水和上は浄土真宗の碩学で、信徳が厚かつたので有名であつたが、和尚の説教を聴聞して居つた庭作りが、あるとき比叡山に往つて庭作りの間に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称へて居つた。それを聞いた比叡山の方丈は「お前はそれを何と思ふて称ふるか」と尋ねられた。すると庭作りは「私を助けて下さつた、あとのかす念仏で御座います」と言つた。「何この大切なお念仏をかすとは誰から教へられた」と言はれたので庭作りは「これは原口針水和上様が仰せられた」と言ひました。さうすると「今日日当をうつから、和上をここまで呼んで来い」と命ぜられた。庭作りは仰せを蒙りて針水和上の所へまゐり、右様の始末を話しましたら、和上は「行くのは行くが、そのやうな高調子では法はうつらぬから、方丈に下りて来いと言へ」と言はれました。庭作りは万丈のところへかへり、そのままのお話をすると、方丈が腹を立てると思ふて、中をはからつて「今日針水和上様はお差支へがあつて出られませんから、方丈様に下りて下さるやうに、と仰せられました」と申したら、方丈は「それは、わしが悪るかつた、さあ下りやう」と言つて、一つはまの下駄を穿いて、針水和上の処へまゐられた。方丈は針水和上に「今日は庭作りが斯様々々の次第で、此の大切なお念仏が、私を助けて下さつた、あとのかす念仏ぢやと申しました故、それは誰から教へられたと申しましたら、針水和上様が仰しやつたと申しました、何卒そのかす念仏のわけをお教へ下さいませ」と言はれた。さうすると、針水和上は「そうそうかすともそうそうかすとも、私を助けて下さつた、あとのかす念仏、称へる念仏が功になるのであつたら大騒動、自分のすることは雑誌ばかり、乗せて必らず渡すの道だけあいてをります」と言はれた。すると方丈は大変に喜び「どうぞそれを書いて下さいませ」と言はれた。そこで和上は老の手にて「弥陀弘誓の船のみぞ」とまでは書かれたが「乗せて必らず渡しける」は、貴方お書きなされませ「船のみぞ」までは釈迦様のお言葉、「乗せて必らず」は貴方が弥陀様に乗せられてゐる身ぢやで、「貴方お書きなされませ」と方丈に書かせられたといふ。これは直接原口針水和上に接したる三田源七の物語の中に見えて居ることであるが、針水和上の信心の態度として、必ずさうであつたことと思ふ。  毛利元就  毛利元就といへば小学校の児童にもよく知られて居る筈であるが、安芸の吉田で、僅か三百貫ばかりを有して居つた豪族の支家に生まれた人で、後には中国の数箇国を領するに至つた英雄である。  当時周防、長門及び九州の北部を領する大内氏が西に居り、出雲、伯耆、因幡及び備前、備中に勢力を張つた尼子氏が東に居り、毛利元就はこの二大豪族の間に居りて奮闘をつづけ、遂に此等の強敵をたをして威を中国に振ふに至つた。そこで毛利元就は智、仁、勇兼備の英雄であると称せられて居るが、しかもその根本には烈なる宗教の心のはたらきが強かつたために此の如き大成功をなしたことを知らねばならぬ。  元就は十一の年に土居に居つたときに井上古河内守の所へ客僧一人が来て念仏の教を説きたるに、元就は他の人々と共にこれを聴聞して、それに帰依し、終身毎朝、朝日に向つて高声に念仏十遍づつ唱へたといふことである。さうして元就は、念仏を怠らぬやうにその三人の子供に遺訓したのである。  遺訓は永禄四年十一月廿五日附にて八個條あるが、その第八條に次の通ほり記してある。 「我等十一蔵土居に居る日、念仏の大事を授かり、当年の今に至るまで無意無量壽仏に帰命し、無上功徳の御名を称すれば後生の義は不及中、おのづから今生の祈祈にも相成候事と承はる、実に一念弥陀仏、即滅無量罪乃至十念の謂れ、子孫に伝へて必ず御疑あるまじく、これ我が存念に候、かく申置候事、本望不可過之かへすがへすめで度候穴賢」  この遺訓は隆元、隆景、元春の三子に与へたるもので、三子がこれを了承したといふ書付もある。父毛利元就が常に言つたこととして伝へられるのは  「軍陣にのぞみては真宗門徒は他宗の徒にこえ、平生業成の宗教にして常に恩を報じ、義を重んじ、死を軽んずること、物頭より弓鐵砲長柄のものまで勇気の心厚く味方に取りて其利莫大なり」  かやうにして、元就は先手には必ず真宗門徒を選び用ひたといふことである。その子三人の内、隆景は殊に本願寺と深き因みをなし、朝鮮征伐のために渡海せしとき、釜山に浄土真宗の道場を建てた。光徳寺といふのがそれである。これに拠りて元就は自身念仏の教を奉じてそれに帰依して居つたばかりでなく、人に勧めてこれを奉ぜしめ、又その素養のあるものを信用したことも明かである。  又元就の遺訓の中に  「我等事、不思議に厳島を大切に存ずる心底にて年月信仰申候、云云」  とあるが、それは元就が初陣のとき、合戦が始められると、すぐに厳島神社から石田六郎左衛門といふものが偶然にも明神の御所橋の巻数を捧げて元就の陣中に来たので、元就は深く明神の靈驗を予告されたやうな気になり、それに非常なる力を得て奮闘猛進して敵を破つたものである。天文廿三年に厳島で陶晴賢と戦つたが、此時も勝利を得て晴賢を噎した。元就の言に  「大明神御加護も候と心中安堵候ひつ」とあるにても、此時元就の心中には厳島大明神の信仰が強くはたらいたことであらうと考へられる。さうして、かやうに大明神の威力を仰ぎ信ずることによりて元就の心にあらはれたる勇猛の力は尋常の意志よりも遙かに強盛のものであつたことと思ふ。  報恩生活  むかし越中に政蔵同行といふ妙好人が居つた。政蔵の法義が家内中に及んで、家内では毎日毎日口癖のやうに  「浄土の次の間浄土の次の間」と言ふて美しい日暮しをして居つた。或る夜のこと、婆さんが竈の上に皿を置き忘れて寝た。翌朝竈の上を見れば皿がある。なるほどあれは私が昨晩置き忘れてそのまま寝たのであつたか、まああぶないことであつた。猫が知らぬでよかつた。何でもすぐに片附けねばと思つたが、急ぐ用事があつたので、それをしまふてからと思ふ間に、つい又忘れてしまつた。嫁もその朝それを見て何でも片づけねばとまでは思つたが、これも又急ぐ用事に気を取られて、ついそのままになつてしまふた。その内にチャランと音がしたので嫁はアッと思ふて行つて見ると、案の條猫が皿をわつてしまふた。これはしまふたことをしたと思ふから、早速政蔵爺さんの所へ行つて、兩手を疊について「実はかやうかやうの次第でありまする。私が気がついて居りながら早速かたづけなんだためにこんなことになりました、全く私が悪るかつたのであります、以後は気をつけますから、どうか此度だけは勘忍して下されませい」といふ声を婆さんが聞きつけて「いや昨夜あそこに置き忘れたのは私であつた、そうして今朝も何でも片づけねばと思ひ思ひつひ片づけなかつたために、こんなことになつたのぢや、嫁の知つたことではない、私が悪るいのですから爺さんどうぞ勘辨してくださいませ」すると次の間から息子が出て来て、「何のそれや、たつた今の事、私が次の間で煙草をすいながら、あぶないことぢやと思ふて居る所に猫が来た。あぶないと思ふて居る間にガチャンとやつてしまふたのです。皆は忙しい用事があつたのぢやが、私は現に煙草をすいながら見て居り、片づけなんだのぢやから、私が悪るかつたのです」というのを、政蔵はヂット聞いて居つたが、横手を打つて「それが浄土の次の間ぢや、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、世間並なら今頃はお前が悪るい誰が悪るいと、互に角をはやして修羅道の有様ぢや、ありがたいありがたい。婆さんもよう言つた、息子もよう言ふた、嫁もでかした、みんな浄土の次の間ぢや次の間ぢや」と言ふて家内中、称名相続したといふ。これこそ正しく浄土真宗でいふところの報恩の生活である。  中江藤樹  近江聖人と称せられたる中江藤樹先生の名は固く世に聞えて居る。王陽明の学を奉じて知行合一、致良知の説を唱へ、これを以て世の人々を導かれたことは世人の既によく知るところである。始め朱子学を修められたが、年三十三、四歳の頃「翁問答」を著した頃から陽明学に転ぜられたのであつた。  この「翁問答」の中には仏教が攻撃してある。その大要は  「元来釈迦達磨の法を立めされたる心根は衆生迷ひてあさましき体をあはれみかなしみて色々樣々の寓言を立てて勧善懲悪の為なれば一段殊勝なれども、云云、元来、釈迦達磨の心根は勧善懲悪なるべけれども、末流には善を破り、悪を勧め、人の心を迷はしむること淫声美色の如し、これ皆末代其流を汲む比丘のあやまりと言ひ乍ら、本来狂者の見る所熟せざるにより、その教法粗属迂潤なる故なり」  狂者とは道体の広大高明なる所を悟るも未だ精微中庸の密に悟入せざるより見性成道の心術が粗属迂闊で、修行異相に逸狂なるものであるとの意味である。釈迦は勝れたる狂者でその教は逸狂偏僻であると罵倒してある。更に進みて仏法の教義につきて非難してあることは大略次の通ほりである。 (一)釈迦成道の後、人間本分の生理を営まず、人倫を外にし人事を厭ひ棄てた。これ無欲無為自然を極上としたる無欲安行の誤である。末派のものは無欲安行のあるを似せたるばかりにて我慢の邪心凡夫より深い。 (二)三綱正常の道は今生幻の間の営みにして菩提の種にあらずと誰誘し、或は主親を殺したる極重の悪人にても念仏の功力によりて必ず極樂浄土へ往生することと教誨する。此の如くなるはよく学ばざるの過であるが、根本は釈迦無欲の安行より起る。 (三)殺生或は仁に似たる不仁、善に似たる悪、是に似たる非である。邪淫を戒むるは天地の真にかなはず。出家に不浄を戒むるはすじもなき妄法である。是等の戒は邪僻である」  かやうな非難は主に仏教を奉ずる僧侶の不心得を責めたもので、仏教そのものにつきては見当違の非難と言はねばならず、殊に悪人正機に対する非難の如きは本来の意味を正常に理解せず、これに関する知識が浅薄であつたのに由来するものであると言はねばならぬ。藤樹先生の門人が書きたる「翁問答改正篇」の序文に  「先師嘗て曰く、問答の中、儒仏を論ずる所の如き、今これを読むに其理精当を得ざるを覚ふ」 とあり、先師とは藤樹先生を指すのであるから、藤樹先生自身に仏教に関する考へがよくなかつたことを悟りてこれを改められたのであらう。後に至りて著はされたる「鑑草」には仏教を論ずることが「翁問答」に於けるものとは相異して居る。  「明徳仏性の修行、すなはち後生仏果を得る修行なり、いかんとなれば後生すべて心に有り、今生に心なければ此身しがいにして、今生のはたらきなし、後生に心なければ極樂地獄の果を受くるものなし。肉身に生死ありといへども心には生死なきによりて今生の心即ち後生の心なり、今生の心明徳仏性明かにして清浄安樂なれば後生の心即ち極樂の果に至る、今生の心三毒盛にして迷妄苦痛なれば後生の心即ち地獄の責を受く」  藤樹先生はもと当時の多数の儒者の如く、仏教を嫌忌してこれを修められなかつたが、その母が熱心なる仏教信者であつたがために、藤樹先生は老養のために仏書を講じ、崇仏の儀禮の手伝などをせられたために、仏教に対する理解が深くなつたのであると伝へられて居る。いづれにしても藤樹先生は始め仏教を排斥して居られたのであるが、後には仏教に対して厚意を示されたのであつた。  熊澤蕃山が始めて藤樹先生の門に入つたとき    皆人のまゐる社に神はなしこころの底に神やまします  との詠歌を差出したるに、藤樹先生は    千早振る神の社は月なれやまゐる心の内にうつろふ  と返歌せられた。蕃山の歌の心は道徳的である。いかにも誠の心の底に神はましますべきで人間が建築したる神社の内に神はましますものでないといふことが出来るが、もつと進みて宗教的に考へれば神社は月のやうなもので、今も心の内にそれがうつるのである。藤樹先生はこの世界の一切のものを統制する偉大なる精神の存在を信じてこれを神明と名づけられたが、この神明は神社に参る心の内に感知せられるのである。法然上人が「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」と詠ぜられた歌の意とも通ふて宗教の心が全く主観的のものであるといふことを示されたものである。  藤樹先生が中川良貞の老母に答へられたる書状の中に次のやうなことが書いてある。  「後生の事一大事と思召候由御尤に存候、後生一大事なれば今生猶一大事にて御座候、いかんとなれば今生の心迷ひぬれば後生悪趣に赴むく理ある故にて候、仰の如く後生一大事と仏の教へたまふる今生の生を明かにさせん為にて御座候、大乗の法門は皆この心得にて御座候、あした夕をはかり難き浮世にて御座候得者、心の中の如来を拝したまはむこと何より以て大切なる御事に御座候」  これは藤樹先生が自分の心にあらはれたる宗教の感情を仏教の用語にて表現せられたものと見るべきである。  紅蓮尼  今はむかし、南北朝時代の頃に、出羽国象潟に一人の商人があつた。子供が無いので観音様に祈願をこめ、幸ひ一人の女の子を得たので大いに喜び蝶よ花よとその娘をいつくしみて育てた。兎角する間に、十五年ほど過ぎて、さきに祈願をこめた観音様に御禮参りをすることになりて、その商人は単身奧州三十三箇所の観音順拝にかけた。さうすると、途上でたまたま一人の旅人に遇つた。その人も同じやうに観音巡拝を志して居る人で陸奥の国の松島の住人、名を嘉門といつた。二人は互に語り合つてよいつれを得たことを喜び、それから打ち連れて津々浦々の観音巡拝をおへ、いよいよ分れて帰郷するといふ前夜、白河の町のある宿屋で別れの宴を張つた。その時、象潟の商人は嘉門に向つていふやう「前からお話したやうに自分には一人の娘があつて、今度の御禮參りもその娘のためであるが、段々成人して行くので、よい婿をさがして居るのであるが、いまだに心にかなつたものが見つからない。聞けば貴方も自分と同じやうに観音樣に祈願して一人の御子を奉げられたとのこと、さうしてこのやうにお互に御禮參りの道すがらお出遇ひしたのはまことに観音様の御引合かと思はれる。この御近づきを末永く保つため、自分の娘を貴方の御子孫にめあはすことが出来ればこの上ない幸福である」と、真心をこめて話したので、嘉門は一方ならず喜むで、早速その申入れを承諾し、やがて二人は東と西へ別れて行つた。  かくて一年の後、象潟の商人はさきの約束を果さむと、人に連れさして娘を松島の嘉門の元につかはした。ところが嘉門の一子児太郎はこれより前に病気にかかり兩親の手厚い看護もその効なく、到頭不帰の客となり、丁度野辺のおくりをおへた所へ、はるばると許婚の娘が訪れて来たのであつた。娘は驚天し、当惑し、ただ愁嘆の外はなかつた。嘉門夫婦は泣く泣く娘の背をなでながら「自分の一人息子は天運拙くして早世してしまつた。おん身の嫁ぐ人は死むでしまつた。御身の歎きは尤であるが、まだうら若い身である。児太郎との縁はこれまでとあきらめて、どうぞ早く象潟へかへり、善い縁を求めて下さい」と涙ながらに言へば、娘もまた涙の下から「妾の父さんは児太郎さんに妾をめあはして下さつたのに、折角来て見れば頼みし御方には御目にもかかれいとは残念至極のことでございます。しかしながらこの君と一旦心を許した上はどうしてこのまま、家へ帰ることが出来ませう。どうぞ末永くここの御家に置いて下さいませ」と決心岩より堅く、嘉門夫婦がいくら勧めても更に動く気色がないので、嘉門夫婦も致方なく娘の請ふままにこれを養女としたのである。そこで娘は心を尽して舅姑に仕へ、又亡き夫の冥福を祈り、操を守ること十数年に及むだ。その内に嘉門夫婦も相ついで、世を去つたので、娘はいよいよ決心の臍をかため、その地の円福寺の明極禅師の弟子となつて、髪をおろして紅蓮尼と称したのである。  さうして、この寺の境内に亡夫児太郎が植ゑた梅の木の側に庵を結び、一人寂しい燈を友として朝夕の読経を怠らなかつた。かくて年月を継る間に、或年の春、亡夫のかたみの梅の花が咲いたとき、紅蓮にはなつかしさにたへかねて    植ゑおきし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ と詠みしに、不思議や、その翌年には一とつも花は咲かなかつたといふ。紅蓮尼はびつくりして、また一首の歌をよむだ。    咲かけし今は主とあがむべし軒端の梅のあらむ限りは  すると、その翌年にはこの梅の木に花が美事に咲いたといふ。至誠天に通ずるといふのはこのことであらうと見聞の人々は驚嘆したといふことである。紅蓮尼は夫の靈に対して本仕する傍ら、自分で煎餅を造つて、行き交ふ人々にひさぎながら、法の道に精進したが人々はこれを紅蓮煎餅と称して大変な評判になつたといふ。  北條泰時  北條恭時は北條家歴代の中にて政治の功績の大いに見るべきものがあつた。恭時は元来、仏教を深く信じ、宗教の心が強くあらはれて居つた人であるが、当時栂尾に住して釈尊の教法を宣伝された明慧上人に接し、法話を講聴してよく其心を修めたのであつた。かやうに時が明慧上人に親炙して聞き得たる仏教の精神に本づきて政治を行ひたる治績はまことに著明なるものが有つた。そのことにつきて享保年間に室鳩巣が作したる「駿台雑話」に記述したるものがある。鳩巣は程朱学を奉じた儒者であるから、儒教の精神に引きつけてあるが、これは全く宗教の心のあらはれに外なしと言ふべきものである。曰く  「鎌倉治世の後に至りて北條泰時こそ漢の丙魏、唐の魏宋にもはづかしからぬ人にて候へ。我国にはあまり比類なかるべし。此人栂尾の明慧にあふて「某不肖の身をもて重任に当り、群下に臨み侍る、いかがして衆を治め争をやめ侍るべき」と問はれしに明慧「ただ無欲になりたまへ」と言はれしを泰時重ねて「某ひとり無欲になり候とも群下なにとて無欲になり候べき」といはれけるに明慧「下に目をつけずして御身先づ無欲になりて見たまへ」といはれしを泰時深く信じて、父義時死去の時、所領財寶大かた諸弟に配分して其身は確かに足るばかり取られけるを二位の尼、泰時に「自分の取られやうあまりすくなき事といはれしに「某は家督をうけ候へば、何の乏しきこともなく候、只弟どものゆたかなるやうにとこそ思ひ候へ」といはれしかば、二位の尼も感涙に及ばれしが、其後年を遂て親族瀬穆し、鎌倉の武臣を感服しけり。明慧浮屑なれども孔子の季康子に宣ひし「苟子之不欲、雖賞之不竊」といふにかなへり。泰時の明慧の一言を信用して鎌倉よく治まりしにて聖人の言いふべからざる事を知るべし。明慧を唯人にはあらざりけらし。さて泰時家督以後日ごとにつとめて公廳へ出でてひねもす寒々として庶務を治められしに、群長を待つこと恭誦にして争を分ち訟を聴かるること明恕なりしとと「東鑑」を見て知るべし。昔ある老儒の語るを聞きし、泰時あるとき訟をきかれしに、雙方対決しけるが半になつて一方の相手忽に理に服して「只今まで己が申す所をよしと思ひて候へばこそ争訟に及び候へども今日始て手前の非を覚悟いたして候。此上はもはや一言申すに及ばず」とてやみぬ。泰時感じて  「此争は汝がまけなり。理非によりて決断すべし。但し其今まで多くの訟をききしかども即座に汝が如く理に服するものを見ず。これを賞せずして何をか賞すべき」とて別に恩賞を行はれしが、後は争訟やうやく稀になりて訟庭もいまになりしとぞ。此一事にても泰時の公明にして無情者は其辞を尽すことを得ず、又恩威二つながら正しきことも知られたり。其孫謀のよき、後嗣に及びて時頼、時宗いづれも遺訓を守り成法によりてよく政を勤められしかば四方の人心鎌倉に帰嚮《ききよう》せざるはなし。北條氏皇朝の陪臣をもて天下の權を執りて数代の安きを得たるは泰時の功といふべし」  室鳩巣が記述したるところは此の如くであるが、北條泰時が自身にその事を門人の大連房覚知に話したる所であるとして「明慧上人伝記」に記載してあるものを見ると、明慧上人が「国が乱れて治り難きことは何より起るぞといへば欲を本とせり、先づこの欲心を失ひ給はば天下自から命ぜずして治まるべし」と言はれしに対して、泰時は「我身ばかりは心の及ばんほどは此旨を堅く守るべしといへども人は皆これを守らむこと難し、如何すべきや」と相談せしに、明慧上人答へて「それは易かるべし、只太守一人の心に依るべし。古人曰く、其身直うして影曲がらず、其政正しうして国乱るることなしと。この正しきといふは無欲なり。又云く君子居其室其事を出す、よき時は千里の外皆これにすと。このよきといふも無欲なり。只太守一人実に無欲になりすまし給はば其徳に誘はれ其用に恥ぢて国家の萬人自然と欲心薄くなるべし。小欲知足ならば天下安く治まるべし。天下の人の欲心深き訴来らば我が欲心の直らぬ故ぞと、我方に心をかへして我身を恥しめ玉ふべし。彼を咎に行ひ玉ふべからず、たとへば我身のゆがみたる影の水にうつりたるを見て、我身をば正しくなさずして影のゆがみたるをいかりて影を罪に行はむとせむが如し。心ある人の傍にてをこがましく思ふ事なり」と言はれしを聞いて泰時は深く感服したと書いてある。  仏の御使  奥州三春在に搴gといふ人が居つた。妻と子供とが僅かに二日許の臥病にて疫痢のために死亡した。看病に来て居つた妻の姉吾亦伝染して死亡した。増吉は悲歎やる方なく、花を見てる月を眺めても、樂しいとは思はず、世の中一切が灰色であつた。この地方には高神參りとて高山の神に參りて祈願すると死者に遇ふことが出来るといふ俗信があつた。増吉は彼此の高山へ巡拝して祈つたが、そのしるしは無かつた。或日大乗寺といふ真宗の寺へ行きしに坊主から「増吉どん、今度は御不幸で、さぞ力落しのことでせう。さぞ逢ひたからうね」と言はれて搴gは「逢ひたいですが、逢へません」と、自分の本音を出した。増吉は寝ても醒めても妻子に逢いたいと思ふて居るので、嘘でもいいから遇はせてやると言つて貰ひたかつた。  坊守は「それでは妻子に遇ふことを考へてあげやうが、大事なことであるから改めて明後日おいで」と言つた。増吉は元来仲宗の家であつたが、此時始めて坊守から真宗の法を聞いたのである。  「人は生れた初があれば死ぬる終がある。ただ生に遡りて生の初を知らず、生々流転して迷を重ねる凡夫である。さればおり、今生この身の迷を打止として、不死の浄土参りを願はねばなりません。それには信心が肝要である。」  増吉はこれを聞いて大いに感じ、妻子の死は皆私を呼びかけて下さる仏の御使であると知ることが出来たのである。和泉式部の歌に    かりの世にあだに果敢なき世を知れと教へてかへる子は知識なり とある心持になりて、それより熱心なる念仏の行者となつたといふ。  無我に喜ぶ  播州の大林平兵衛といふ同行、無我に喜びて生活した。他の同行これをなじつて「貴方はただ如来のお助けがありがたいとばかり言つて居られるが、それでは頼む一念がぬけて不足に存ずる」と言ひければ、平兵衛の曰く「私は頼むすべも知りませぬ愚もの、頼まねばならぬことなれば如来様よりよきやうにして下さるでござりませう。このやうに愚なものを御助けとはありがたや」と言ひて落涙せりと。うるはしき宗教の心のあらはれである。  芸州喜兵衛  親しい人であれば家内の人でも、余所の人でも、誰でもかまはず、夜寝て居るものを時々ゆり起して、其人が目をさまして返辞だけすれば「お留守お留守」といい、称名すれば「めでたいめでたい御内でござる」といふ。或時妻が燵辺に兩足をのばして苧をうんで居るのを見て、喜兵衛は火箸をもつてその足をはさんだ。妻は腹を立て、ひどいことをすると言つた。すると喜兵衛は「燵辺になげ出してあるから、わしは薪かと思つた」と軽く言つた。妻はますます立腹して「人の足を薪と取りちがへるわけはない、何ぞ悪るいわけがあるのであらう。いふて下され」とつめ寄つた。そのとき喜兵衛の曰く  「人は常の慎しみが肝要だ。この燵には仏飯の鍋をかけることもある。常に慎しまねば仏飯をたく時も平常の癖が出て、若し足を投げ出しては恐れ多い」  妻も大いに感じて、不行儀を慎しむだといふ。  法林寺嘉代  越前鯖江の法林寺の坊守、三十六歳の時に夫に別れて、三人の子を養育したが、内二人は男で後に共に有名の僧侶となつた。壇信徒の中に嫁の不足を訴へるものがあり、又姑の邪見を告げるものもあつた。しかるに嘉代女はその一方の言葉に肩を持つやうなことは決してせず  「それにつけても思ふやうにならぬ浮世を知らして貰ひませう。まことに善い鏡であります」と言つて、不然としてこれに対し、それによつて相手の気をゆるめたと。  他力廻向  ある人、香樹院師の前に出て、美しく領解を述べたれば、香樹院師の仰せに  「述べた口上に間違はないが、その言葉をたよりにするな。言葉さへ言ひならぶれば信心を得たるものとするのではないか。それでは他力廻向とも、仏智より獲得せしむるとも仰せられる所と相違する。御教化の御言葉に隙のないやうになつたが実の信心ぢやと思ふても、それでは言葉は他力でも心が自力の執心ぢやほどに。」 又曰く  「頼むいはれも、信ずるいはれも、随分聞いてわけはわかり、如来の御慈悲の趣も、何から何まで聞けば尊いといふまでは、殘らず呑込で居れども、畢竟言へば薬の能書を覚えた心持なり。往生一定御助け治定と口には言へども心中は今死んでもよいとは思はれぬ。いかさま今少しありがたくならねばならぬことなれども、死ねる迄の間にはありがたくなられやう。最早如来の慈悲あるからは、よもや捨て玉ひはすまいと手前からただおしつける計にていろいろ思ふて居るが分際である。」  預かり物  享保二十年田中元陣著述の「いへば草」巻四に「いへば言ふ。慈悲なさけとて人の上を身にかへてもいたわることあり。是も二通ほり有べしや。出家沙門杯は布施の行とて、妻子までも手をひらいてやつてのけよとおしゆる。俗は其まねすると鴉のまねする鳥より阿房の名をとるぞかし。我身を立先祖をけがさず主君の軍役を勤むる程そば身をはなさず。其余りにて人を救たるがよし。軍役へあてたるたくはへは本来自分の物にて自分の物でなし。主君の用か、先祖の用に立つるまでの法界よりの預り物をかし。是をも我物とわるく合点する故に、肝腎の時節、不埒千萬なる有様なり、それよりちかきに此身さへ自由にならぬは畢竟、法界よりの預り物ヘならずや。    何物も借り物なれや我身さへままにならざる人の世の中  自分の体も、また自分の心も、何れも自分がつくり出したものでない以上、宇宙よりの預かりものと考へることも当然である。  夢窓国師  夢窓国師があるとき、侍僧を連れて天龍川を渡られたとき、折悪しく船の中に大変酔つぱらつた一人の武士が乗り込んで居て傍若無人に振舞ふのを見かねられて、夢窓国師は制止の言葉をかけられました。ところがその武士は「いらざる御世話だ」と言つて手にして居つた鐵扇で夢窓国師の眉間を打ち割りした。これを見た侍僧は腕に覚えがあり、その無禮にたまりかねて掴みかからんとするのを夢窓国師制止して、忍辱こそ僧形者の持すべき態度なることを説いてこれをなだめ「打つ人も打たるる人ももろともにただ一ときの夢のたはむれ」との歌を詠じて懇に教へられたので、侍僧慚愧し、武士も亦感歎の心を起してここに仏門に帰したと伝へられてゐる。  恵心院僧都  恵心院源信和尚、年始には必ず首楞厳院の洞より出でて朝親の行幸を見たまひけるを、御妹の安養尼と申しける人の、この事を怪しみて、君は無極の道心の人なり、何の料に、年毎に出でて朝親の行幸を見たまふぞと問ひければ、昔の十戒の力によりて、今十善の位に生れたまへるがなつかしさに見奉るなり。又大臣公卿より始めてあやしの唐笠持ちたるものに至るまで、前世の戒力によりて上下の差別あるを見るにつけても過去遠々の流転の事のみ観ぜらるるなりと答へたまひけるとぞ。念仏の行者として、世に名高き恵心僧都がかやうな仏教的人生観の上に立ちて念仏申すことをつとめられしことを思へば、その宗教の心はまことにうるはしきものであつたことが想はれるのである。  越中おたか  越中の或村はづれに一軒の農家があつた。家族は姑と息子夫婦と、それに子供一人の四人暮しであつた。或夜のこと嫁のおたかがふと目をさますと、火は打ち消えて真の闇であつた。おたかはそのときすぐに母親の心として、子供の用便のために不便であらうとの考へを起したが、それから起きて火をとぼさうとするときに「待てよこの黒闇は火をともせばよい。しかし出て行く後生には何をとぼさうか」と、自分の行末を思ふて、ぢつとして居られず。そこでおたかはお寺へ行かうと思い、家人の熟睡を忍びて家を出た。お寺の住職は夜半、女性の来訪に驚いたが、信心を求めるおたかの切なる心情に動かされて「おたかさん、何か聞きたいのか」と言つた。おたかは「私には安心がないのです。どうぞ安心を頂かして下されませ」と哀願した。それを聞いた住職は「はあ!明るくなりたいのぢやな。それなら光明を取つて来なされ。おたかさん、信じた上の明るさとはたとへば盲人が目あきに道を聞いて、はいわかりましたといふやうなものぢや。聞かぬ昔も、聞いた後も盲人は盲人ぢや。暗い眼があいたのではない。ただ深切なる人の言葉一とつがはつきりと聞え、此処を行きさへすればつまづく心配はないとの仰せ一とつにはつきりなつたのが明るくなつたのぢや」と教へた。しかるに、おたかはそれが腑に落ちなかつた。住職はその様子を見て、すこし腹を立て「おたかさん。安心ぢやの、得心ぢやのとは生意気なのぢや。三世の諸仏に捨てられた悪人に明るいも暗いもあるものか。地獄の外は何もないよ」と声を大きくして怒鳴つた。おたかは子供の事が気にかかり、帰宅を急いだ。おたかの夫はおたかの時ならぬ外出を咎めたことは言ふまでもない。おたかは苦しい辨解をしたが夫の誤解は解けなかつた。姑に仲裁を頼むだが容れられず、途方に暮れておたかは家出をした。さうして夢中に草原をあるいてあてどもなく進むで行く途中に、おたかは「わかつたわかつた昨夜住持が三世の諸仏に捨てられた悪人と言はれたと承はつたが、それは我身のことであつた」と、その儘、あとへかへし、お寺の住職に心を述べ、更に住持の収持にて夫や姑にわびて円滿に元の家庭へおさまつたと。  自分の心を外にして、世の中のすべての物を見ることを転じて、自分の内の方を見よと勧められるのが宗教である。自分の内の方をよく見てその身と心とがたのむに足らぬといふことがよくわかれば、自分の周囲にはたらいて居るところの大いなる慈悲の力がすぐにわかるのである。そこに動いて居るところの法が声を出して我々に対して居るのが聞えるのである。  報謝の心  博多の七里和上の所へ、ある同行が參つて「和上さま、私は平生御法話を承つて、極樂往生には凝が無いと安心して居りますが、時々仏様のお顔を拝みますと、何となく平生の怠惰が恥しくなつて、こんな怠惰者で極樂參りが出来るだらうかと心苦しく、不安なる心地さへ起りますが、これはどうしたものでござりませう」と尋ねた。さうすると七里和上は  「医者にたのみて病気が全快した。全快したのは医者のお蔭である。だから禮をするのは病人の報恩義務である。しかるに禮を怠つたからとて病気が再発することはない。それだからと言つて半年も一年もお禮を怠つて置いて、突然途上などで医者に遇つたとき、心が苦しく穴へでも入りたい心になる。自分の病気をなほして呉れた医者であるから遇へば嬉しい筈であるのに、心苦しく思ふはお禮がしてないからである。仏のお慈悲もその通ほりである。御体をしないからとても極樂參りに間違はないが、御恩報謝をしなければ仏様の顔を見て心苦しくなる。不断のお禮が大切である」  仏の恩に対してお禮をするといふことは、要するに仏の思召にかなふやうに身と心とを持つことである。七里和上の譬喩にて示された教も、ただ形式の上にて仏様に対して御禮を申すといふやうなことではない。称名念仏するといふことが仏恩を報ずる唯一の道であると言はれるのであるが、その称名念仏することの精神は我を捨てて仏の本願に信順することであるから、我を捨てて仏の思召にかなふやうに身と心とを持つことが仏恩を報することでなければならぬ。  木屋妙浄  摂津大石村の木屋妙浄、富家の老母なれども身を軽くして仏恩を重んじ、無我に法を貴むだ人である。常に子達に対して「親に孝行する心あらば衣類はよきものは要らず、寒暑さへ凌げばよし。又食物もひもじくさへなければ事足るほどに、ただ御法義を大切に致すこそ孝行なれ」と戒められた。又御法義に志ある同行に厚く親しみ、未法義のものへは法話の書物などを持ち行き「願はくはこれを読みて、この書物の中に書いてあることを私に聞かせて下され」とひたすらに頼まるる故、懇情もだし難く、読み聞かすうちに、其人も終に法義に入るに至りしとぞ。  傅大士  傅大上は支那の東陽といふ所の人で、今から凡そ一千五百年前に生れた。その家は農家で、子供の時から淡泊なる性質で、学問は少しもせず、毎日里の子供達と共に魚釣をして居つた。しかし傅大士は魚を釣つて何にするといふことなく、釣つた魚を竹籠に入れて水中に沈め魚はいくらでも逃げさせた。從つて伝大士を真に理解せぬ人は大馬鹿者とばかり思ふて居つた。妙光といふ妻を持ち、子供二人を設け、二十四歳の頃までは不相替魚釣を続けて居つた。或日のこと、例の如く傅大士が魚を釣つて居ると、そこへ当時支那に来て居つた達磨、時の人に高頭陀と称した印度の高僧が来て、いふやう「私とお前とは今はまるで行方を異にして居るが、しかしこれでも実は二人の心の歩み方は少し違つては居ない。私は坊さんで殊に天竺から来て居るといふのを大変ゑらいやうに思はれ、お前は氏素性の知れた土地のもので、毎日魚釣ばかりして居るので馬鹿のやうに言はれて居るが、この事を私は心の中に苦笑して居る。実を言うと、私は坊さんの姿とそして居るが、お前の無智無学かる純真さにくらべると、どうも私の心の方が濁つて居るやつに思はれる。お前の行き方は溝いと思ふ、仏の国にはお前だけの清き心にならねば生れることは出来ぬ。お前は今すぐにでも仏の国の人となれるが、恥しいことには私は今少し修行せねば、お前ほどの純真にはなれぬ。実は大昔に仏のお許で、私とお前とは一切衆生の最後までの友達にならうと誓を立てて、二人は此世まで修行をつづけたのである。無論お前が今、さうして魚を釣ることを貴い仏道修行の一とつである。私は坊さんとして修行して来たが、お前の方が私より仏様の御心にのんびりした心持で触れて来ただけに私の様に捉はれなかつた。お前は今のお前の心の儘で弥勒仏の浄土に往生することが出来る。お前は今のお前を大切に保つことを忘れてはならぬ。若しお前が私の言ふことを信じ兼ねるならば、今お前の姿の川水にうつつて居るのを見なさい。お前の顔には少し高慢と邪見といふものがない。お前の無心の顔から光明を放つて居る。お前は只のなまけものの魚釣ではない。本当のお前が今こそお前の目に見えたであらう。お前は其儘でよい。その儘浄土に生れる」と告げた。心ある人から見れば広大なる寺院に住み、立派なる著物を被て、常にお経を読み、威張つて居る坊さんよりも無心に魚を釣つて居る無学の若者の方が遙かに尊い心を持つて居ることが認められるのであらう。  しかも傅大士はこれを聞いて、自分は此で往生が出来るとはまことに有難いことである。此上とも心のどかに魚を釣らうといふやうな心にはなれなかつた。「私は只今、心の眼をあなたに開いて頂いてありがたうございます。しかし私は少しの実行もない私を貼ります。私は此弥勒の浄土に往生することは勿体ない。私共の目前には気の毒な人が多く居ります。私は私の今の心持の儘を生涯かかつて実行したい。私は私の心持の通ほりのものを私共の目前の人々のすべてに理解して貰ふために、どんな犠牲でささげたいと思ひます」と言つて、傅大士は長い間の釣道具を捨て、松山といふ所に往きて、草庵を結び、自から雙林樹下当米解脱善慧大士と號した。これは自分は弥勒仏であるといふ意味を示したもので、魚釣の若者から一躍して弥勒仏の自覚に達したのである。  発心と共に妻子を捨てるのが常時仏道修行の常であつたが、伝大士は妻子を捨てなかつた。世の中の人の生活を正しくするためには妻子と共になければ嘘であると信じたのであつた。妻子に理解せられずして自分だけ高い心を持つて居ることは善くないと考へたのであつた。此の如くにして伝大士は夫婦諸共に仏道修行に入つたのであるが、それもお経を読むのでなく、神聖的なる行を敢てするのでもなく、二人は一生懸命に百姓の仕事をして、晝間は真剣にはたらき、夜分は多少お経を読むだり、お経の話などをしたのである。  此の如くにして七年の間労苦を続けた傅大士の名は高くなり、誰言ふとなくその身から金色の光明を放つといふ噂が立ち、伝大士の徳を慕ふて来り集まるものが日に日に多くなつた。時の役人が来て見ると、いかにも見すぼらしい、又少しも宗教家らしくない伝大士を見て、これは山師に相異ないとて獄に投じたのである。四五十日を経て、その事情がわかりて傅大士はゆるされて獄を出ることが出来た。それから伝大士は妻の同意を得て、家屋田畑人に施して自分のものとては自分の身より外には無いものとして、ますます仏道修行につとめて、七十二歳の高齢に達して死亡した。「安心決定鈔」に「唐朝に傅大士とてゆゆしく大乗をさとり外典にも達してたふときひとおはしき」と言つて、伝大士の言葉を紹介してあるが、その言葉は「夜々抱仏眠、朝々還共起、起坐鎮相随、語黙同居止、繊毫不相離、如形影相似」であるが「安心決定鈔」にはこれを邦語に訳して「あさなあさな仏とともにおき、ゆふなゆふな仏を抱きて臥すといへり」と言い、更にこれを釈して「これは聖道の通法門の真如の理仏をさして仏といふといへども修得のかたより思へばすこしもたがふまじきなり。摂取の心光に照護せられたてまつらば行者またかくのごとし。あさな報仏の功徳をもちながらおき、ゆふなゆふな帰陀の仏智とともに臥す」のであると説いてある。  姑嫁和合  常州江戸崎に鍋屋の何某、近頃女を迎へぬ。其妻姑と甚だ中あしかりければ、或時亭主ひそかにその妻にいふやうに「我れよく見るに、我が母、甚だあしく、汝に無理なし。しかし世の口ふさぎがたければ、廿日斗も孝行の真似せよかし。さもあらば我れ母を夜分に誘い出し池堀へ突き落すべし。其時人沙汰にも、さては嫁にあまりに孝行せられて、さすがの猛き鬼婆も、恥ぢ入りけんや、池に身を投げたりとあらば、汝は此家に恐るるものなく、汝が心の儘なるべし」と言へば、妻うなづいて曰く、「二十日ばかりのことなれば堪ヘ難きながらも孝行の真似せんほどに必ず約を違へたまふな」と、それより朝夕に心にもあらぬ母の機嫌をとり、食事萬端に気をつけてさも孝行がましく見えければ、さすがに岩木ならぬ姑も心やはらぎ、声もやさしく十日過、二十日過ぐる其内に嫁もうそがまことになり、世にも稀なるよき仲合となりければ、亭主妻に向いてもよく孝行の真似せり。今宵ぞ母を誘ひ出でんといふ。妻これを聞きて、泣き出し「世にも勿体なき心かな。かくやさしき母さまを何とてさは思召すぞや」という。その時亭主の曰く「古より諺に、我善きに人の悪しきはあらばこそといふは此事なり。汝これよりいよいよ其心を忘るべからず。若し今宵我母を池堀へ突きはめよと言はば此座はたたせず、斬つて捨てんと用意せし」とて、双を示してこれをおさめた。それより今に年月を重ねて孝行なのは聞くも由々敷亭主の智謀、世の諺に、嫁姑犬と猿とに善き手本なり。  これは貴暦五年に刊行せられたる「大進夜話」巻一に載せられたるものであるが、それから後に著はされたる心学の書物にも同様の話が載せてある。或は譬喩を挙げての訓話であるかと思はれる。兎も角も方便のために用ひられたる孝行の真似が、先づ姑の心を動かし、巳に動きたる姑の心が更に嫁の心を動かし、その結果我欲のために心の失明をして居つたのが、その心の奥に潜める仏性の心に覚醒せられて、此の如き平和の状態を呈すに至ることを示したものであるが、これこそ人間迷妄の心が宗教の心のはたらきによりて、心機一転するものであると言はねばならぬ。  北條時頼  時頼落髮の後は最明寺道崇とぞ申ける。諸国の人民、守護の虐政に苦しみ、奉行目付の横逆になやみ、或は無実をかふむりて言ひはるるに道なく、或は贔負のさたにて理を非に曲げらるるものやおほからん、これ極めて不便のわざなり。人してきかせたくはあれど、其人又人にまひなはれ、依怙出でき、或は私曲にひかれて偽ることもあれば甲斐なく、只自から天が下をめぐりて見ききにはしかじと、思ひたたれける事のありがたさよ。そのさまは諸国行脚の僧の如くにて、人それと知ることもなし。めくり終りて鎌倉に帰入られし後ぞ、ことごとく諸国の理非をばただされける。おごりまがれけるものは素直に、うきにしづみし人は浮びぬ。又たぐひなき大陰徳ならずや。人皆知れることなれば、つぶさには言はず。  江戸時代有名の儒者、藤井懶斎は以上の記事をその著「和漢陰騰録」の中に載せて、その後に自己の意見を附して居る。即ち  「北條氏の事先阻時政、義時はよからぬ人なりしを、九代まで相続して芽出度く世をおさめられしは、ただ泰時、時頼の報応なるべし。徳不詳にかつとは是なり。さて時頼阿国の内に、佐野の源左衛門あしやの藤榮が事あり、それを猿樂などのうたい物には、人ききて気味よく思ふやうにと作りなせるあり。実はさる事あるにはあらず。諸国をめぐり、人のよしあしをひそかに見ききて、年経て鎌倉に帰られて後、いつとなく大きをばよくし悪しきをばあしきやうにせらるべし。その時はその人々何故に此の賞罰にあふとも知るまじきなり。是天下古今無類の陰徳か。若し時頼事をあらはして、我こそかの修行者よ、梅櫻を火に炊きたる代りに、梅田、櫻井をやるぞなど云はれたらば、時頼にてはあるまじきなり。尤又陰徳とするにもたらず。人それこれを知れや」  深語院慧雲師  元文の頃、西本願寺に僧模といふ名僧あり、一代の泰斗であつた。寛延十二年四十四歳にて歿し、陳善院の謚《よびな》を贈られた。この人の門人に有名なる碩徳《せきとく》が二人ありて、其一人は越中の僧露といふ高僧で、他の一人は広島の深諦院慧雲師であつた。この二人の高僧は当時の教界にありて、東と西とに対峙し、多くの優秀の門人を養成し道俗から尊崇せられたが、中に深諦院師は天明二年年五十三歳にして死去するまで広島報専坊に住持してその間大濠、石泉、履善を始めとして幾多の英才を育て芸州轍の名を獲て、僧錦の越中派に対峙したのであつたが、天性温良恭謙にして決して人と争はず、人の非行を挙げず、人の善行を見れば極めてこれを称識し、若し他人の失を語るものあるも応ぜず、却つてその勝れるものを挙ぐるを常とした。学徒に対しても師弟の名称を用ひず、学友には伴侶と称した。酒を飲まず、煙管を奔せず、みだりに菓子を食はず、又茶を喫せず、小豆大麥を懲りて以て茶湯に易へて用ひた。三時餐食の外は一物をも貧らず。これ皆人の及ばざる所であつた。  ある年、「大無量壽経」を龍原山に講ぜられたとき、予州の禅僧恵敦といふもの出席してこれを聴き、大いに感じて改宗を慧雲師に乞ふた。さうすると、師の曰く、一心に弥陀に帰命すれば、則ち是れ真宗たるべし、何ぞみだりに宗を改めむや」と、まことに宗派の偏狭を離れて仏法の真意を体驗したる人にあらざれば言ふことの出来ぬことである。又あるとき弟子南洞を伴なひて因幡の鳥取に趣むき、正覚寺に泊せられしが、大山の麓の真言宗の寺院の住職某が来りて教を乞ふた。住職の僧は他力本願の妙法によつて安心を得たき由を言つた。慧雲師の曰く、「蘭了と申す大徳の在る筈、同師につきて問ひ極めらるべし」とありしに、其僧の曰く「某はその蘭了の弟子である。師の後を嗣ぎて住職となつたが、師の遺物を整理せしに、小さき桐の箱ありしを何心なく開き見しに、阿弥陀如来の御影を安置し、正信偈、和讃、御文章の小本を納めてあるのを発見し、師も内心に弥陀一仏を信じて、めでたく往生の素懐を遂げられたといふことを知り、下根下劣の身にて自力悟道の及び難きを欺き、一たび芸州に赴きて法縁に浴せむと存ぜしに、図らずも当国巡化のことあり、此夜宿泊のことを聞きて遠路推参したのである」といひ、慧雲師の法話を聞き大いに感じて、弟子となりたしと願ひしに、師の言はるるやう「聞法歓喜せられなば、以前の身分にありて化他の大行を勤められよ」と示して弟子の義は許されなかつた。祖師聖人が「何を教へて弟子といふべきや」と言はれたことが思ひ出されていとも貴く覚ゆることである。  ある年、弟子の厳城と共に北越から関東へかけて師の舊跡を巡回せられしことがあつたが、厳城天性剛直にして其意に適はざるときは師の言といへども譲らず、厳城言はざること三日、師も亦黙然たること三日といふやうなこともあつた。此時河合の枕石寺に詣でられた慧雲師は「聞説厳冬夜、薄雪臥門前、枕石今猶在、何耐就安眠」の一詩を賦して感慨無量の意を表せられたが、厳城は和歌を作つてその意を伝へた。    石枕雪をしとねの御苦労をおもひやりては得こそねむらめ  慧雲師常に家族門弟を戒めて一余固に非才薄徳、生涯毫場を徒食せり、其罪大なり。死後決して余のために墓碣を建て、ために仏物を浪費し以ての罪を重ねること勿れ」と。これに因りて寺中に師の墓を建てなかつたと。かやうな謙虚の心の上にこそ、真に仏の慈悲が加はることであらう。  宗教の世界  何と言つても世間の道は嶮岨である。苦しみに始まる人間の生活は終りに至るまで苦しみである。曲りくねつた山道に小石や木の根がむくれ上つたり、水が濡して居るやうに、人間の世の道は平易ではない。さういふ人間の世を平坦なる道に直して、ただ外側ばかり見て、素足であるくとすれば、その結果、傷つくより外はないと言はねばならぬ。  宗教といふものはその道を平かにするのではなく、嶮岨の道をあるく心を平かにして、自分も傷つけず、又人をも損することなくして歩むことが出来ることを示すのである。これを要するに不自由な世界に住みながら自由の天地に生きて行くことが山来るのが宗教の世界である。佐藤一斎の「言志録」に  「人事は期せざる所に赴く。竟に人力にあらず。人家の貧富の如き、天に係るあり、人に係るあり。然れども其人力に係るものは竟に亦天に係る、世に処して能く此理を知らば苦悩の一半を省かん」  人事が期せざる所に赴くのは世の常である。「朝夕のめしさへかたしやわらかし、思ふままにはならぬ世の中」まことによろづのことはたのむべからず。しかるに人々は深く物をたのむが故に、常にその期する所に赴かざるを見て失望し、怨恨し、所謂煩悩具足の世界を造るのである。しかれども、人間として自から進むでこの世界を離れることは到底出来ぬことを明かにし、自分の心をたのみにして期待することを避け、自分の外に存ずるところの大なる心の世界に觸れるときは、ここに我々の心に新たなる世界が開かれるのである。さうしてこの宗教の世界に入るときは失望とか、怨恨とかといふやうな苦悩が起らぬのが常である。むかし北国に厚信の家があつた。  毎夜寝るときに家内中のもの、代る代る仏前に參り、御燈明を消すことを常とせしが、或夜下男が其番に当り、掌にて消さむとて油をこぼしたので、勝手に戻りておそるおそる其由を告げて詫び入りしに、主人「それは誠にありがたきことなり。若しもなくば我は明日まで仏前に參ることなし。誠にありがたき御縁なり」とて、自から仏前に行きて油を拭きけるとぞ。  伊勢国藤堂家の領分安濃郡萩野村の人にて市左衛門といふもの、家貧しく暮せしが、徳行・勤勉の聞えが高かつた。常に家人に対して「世の中は善き事も、悪しき事も有り勝ちの事である。一箇月の中にも晴・曇・雨天もこれあると同じことである」と言ひてみだりに不平を訴ふることを誡めた。それ故に、市左衛門は凶作の年に遭ふとも、少しも憂慮することなく、ただただ人の田もよかれ、我田もよかれと思ひ暮したと。  法華一乗  奈良朝時代にありて、我邦に盛に行はれたる仏教は性相や唯識のことを八釜敷言ひ、仏に成るにも相当の資格を有することが必要にして、特殊の階級のもので無ければ成仏は出来ぬと説いて居つたのであるが、日本天台宗の祖伝教大師はこの妄を破り、法華一乗の妙法によりて何人でも皆成仏することが出来ると説かれたのである。奈良朝時代の仏教の所説にては、人間には生れつき定まつた性があるが、その内にてある種の性のものは断じて仏となることは出来ぬと言うのであつた。生れて以来、悪るいことのみをして一善をなさぬ者などは、仏の慈悲によりても仏に成ることは出来ぬといふのであつた。伝教大師はこの誤りたる考へを破り「法華経」に本づきて一切衆生、悉有柿性の説を挙げ、この点に於てすべてのものは平等である。現実の人間の心には善悪邪正あれども仏性の大なる力の前には問題にならぬとせられた。  かやうにして、一切のものが仏性を有する以上、草も木も皆成仏するといふのが「法華経」によりて示されたる仏教の精神である。それ故に、法華一乗の妙法とは要するに大和合の精神に外ならぬのである。仏法は和合すべきものである。その和合が一切のものにあらはれたものが仏である。さうして、この心は人々の心の中にありて互を和合せしむるものである。さうして天台大師の説に拠れば観心によりて仏と和合することが説かれて居るが、観心は容易のことでない。我邦にありて聖徳太子はこれを具体的に説明して和を以て貴しとなすとせられた。伝教大師の法華一乗の説は全くこの聖徳太子の精神を実行したものである。  至誠の感  豊後の碩儒三浦梅園が著せる「愉婉録」に一話を載す。曰く「至誠の人を感ぜしむること、金石つらぬくべし。我つねに碎玉話にのせたる、夜盗を退けし女の事を愛し、誠を説くの話柄とす。暗記なればたがひもやせん。見ん人、本書にてらすべし。むかし天正、永緑、世の中静ならざりし頃、美濃尾張のかたはわきて四達の地なれば、盗賊ども処々に哺聚し、多く村に押入て、人の物掠め奪ひなどするが、ある村落を夜盗ども押入せんと、めぐりうかがひけるに、ひとつの家に夜ふかく、一女子ひとり飯かしぎてありけるが、其体甚閑雅、人なしとて怠れる客なし。飯の熟やうを見るとて、飯粒を箸にはさみ、蓋の上におき、指にておしてこころみけるを、うかがひて、多くの人々なき所にてはかならず、容すさみ、行堕るものなり。さるに此女、暗室を以てみづから欺かず。かかる家なば侵さぬものぞとてよぎて行けるとぞ。是即誠の感なり。至誠はやむ事なしと、ふるき文にもありて、只積む上にしてあらはるるなり」三浦梅園はこの話を挙げたる後に「目に見へぬ鬼神も誠には動くなり。ましてや人におけるをや。されども誠の道は善は善をつみて感じ、悪は悪をつみて感ずること、影と響とのごとし」と言つて居るのである。  姑と嫁  姑嫁和合のことに就て、中江藤樹先生の「鑑草」に載せられたることを鈔録する。  「人間は明徳仏性をもつて根本として生れたるものなれば誰も此性なきものはない。この性は人の根本なるによりて又本心とも名づけたり。この本心は愛敬せざる所なきものなれば本来姑は必ず嫁を慈しみ愛し、嫁は必ず姑に孝行なる理なり。かるが故に、誰人を孝行とほむれば喜び、不孝とそしれば怒る。きはめて不孝なる人も隔心なる人の前にて必ず孝行のふりあり。しかれども、姑はそのことを思い過すによりて本心をくらまし、嫁は物我の隔心に迷いて本心をくらまし、互にあしき心行あるものなり。それ嫁はいとおしく思ふ人の妻なれば姑の本心は慈しみ愛するものにきはまれり。後々に悪くみ嫌ふ如くなる心、始よりあらば何のために取り迎ふべきや。取り迎ふるときに悪む心なけれども、世の常の親の習ひにて、其子を思ひすごすによりて嫁の容儀才徳のよくそなはらんことを願へり。才は女の萬のしわざなり。徳は心だて身の行のやはらかに道あることなり。容儀才徳のよくそなはりたる女は世に稀なるものなれば、嫁のそなはらざる所を責むる心、はげしきによりて慈しみ愛する本心くらく日にそひ悪くむ心起るなり。嫁の方にも物我の隔心というものあり。世の人の常の習にて、他人は必ず我を悪くむものなりと、迎へ滞ふる心あり。この物我の隔心よりして慈しみ愛すること出来ぬなり」  播州小松女  播州鹽屋町灘屋林八の娘小松というもの、文政十一年、十六歳にて奇特の往生を遂げしと伝へられて居るが、この少女は浄専寺といふ浄土真宗の寺院の門徒にて八歳の時より弥陀の本願を深く信じ尊み喜びしといふ。    食うたびに大悲の米の味ひはかめばかむほどうまみ出でけり    食ふて見ればみるほどうまひのにこれがいけずば病ひなりけり    病なら捨てておきてはなほるまい六字の薬たてかけて飲め    妙薬のききめが今あらはれていつも教のめしのうまさよ  小松が八歳の時によみし歌なりとぞ。鄙俚の辞であるが、法味を甘んずることは深いと言はねばならぬ。あるとき、仏前に供ふる御花の松を洗ふに一葉一葉すごきて洗ひ、あまりひまどる故、母たづね行き、「それほどにせずともきれいになればよかるべきに」と言ひければ、小松は涙を浮かべて「この小松がために五劫永劫の御苦勞と思へば我を忘れてひまどりし」といひけるに、母も共に感涙にむせむだと。又或時母に連れられて寺參りせし道すがら、諸仏菩薩の前を通ほるときは我がための御苦労の御姿と拝したてまつり、又神様の前にても我を導きたま御方便のおすがたと拝し、又御公札の前にても信の上よりは身をつつしめとの御教だとありがたく喜むだといふ。見聞の人々いと殊勝なりと隨意せざるは無かつたとのことである。  全体、児童が宗教的の概念を理解することが出来るのは十歳頃で、それより以前にありては始の間は魔法的で神仏も具体的に考へられるのである。それが進みて神仏の観念が明瞭となるに從ふて漸次に精神的・抽象的のものとなるのである。さうして、児童は暗示性に富み、何事をも信じ易きものであるから、宗教の教理などを信ずることが出来ても生活に即して体驗せらるることは困難であるが、この小松女の如きは、まことに一とつの異例と認むべきものであらう。  念仏の信  香樹院徳龍師は大谷派本願寺の大徳で、前後に例の少い高名の人であつたが、師に随つて常に法を聴いて居つた越後の貞信尼に向つて、あるとき次のやうなことを言はれた。  「少しでも後生大事といふことの思い知られて念仏申すやうになつたのは如来様に手を握られたのぢや。如何なる善人でも念仏申す妨げになるなら悪魔ぢや。如何なる悪人でも念仏申すに助けとなるならば善知識ぢや。貞信、ただ精出して聴聞せよ、精出して開き開きすると、訳のわからぬなりに助けて下さるということがわかるからなあ。貞信。わしはなあ、京に三百函、国に三百函、都合六百函の書物を見あかしたが、ただ念仏して助けられると言ふて聞かす外は無いぞ」と、真実信心を起し難きことは経釈に説き示されてある所にて明かである。強ひて疑を去りて信を起せよと勧めても、それはのどがつまつて物が食へぬ病人に強ひて飯をすすめると同じである。すべからく仏祖に哀謂して專心に称名すべしと教へられるのを守りて、常に念仏して居るときは信が獲られると言はれるのである。  難有与一兵衛  天明寛政の頃、備前邑久郡富岡村に油屋与一兵衛といふ人があつた。農家にして富裕なりしが専ら心学を修め近村の人々に勧めて道話を聞かしめ善道に導くととを樂しみとして居つた。この人に一とつの癖あり、常に「ハア、ありがたい」といふ。何事によらずこの口癖止むときなく、世人綽名して難有与一兵衛と、その名近郷に隱れなきに至つた。あるとき、近村の産神祭に詣でけるが、いかがしけん、不円往来の人に行き当り、頭打合せながら「ハァ、ありがたい」と言つて行き過ぎんとすれば、相手の人は大いに怒り、人に行き当りて詫もせず、ありがたいと言つて嘲弄する。御身はいづくの人ぞ、その儘に捨て置き難し」といきまきて言ひければ、与一兵衛は大いに驚き、腰打ちかがめ「それがし生れつき常にありがたいと申すことを言ひ出で候。唯今の無禮は幾重にも御許したまはるべし。それがしはこの隣村にて与一兵衛と申すものにて候」と言ひければ、「さてはありがた与一兵衛殿にて候ひしか。左様とは知らず大いに無禮を申したり。何卒お許し下され」とて、却つて相手よりわび言して忽ち事すみ、互に別れむとするとき「ハア、ありがたい」と言ひつつ過ぎければ、見る人々は大いに笑ひけるとぞ。  宗教叢談  本篇は昭和十四年八月より同十五年七月まで雑誌「精神文化」に掲載せられたるものである。  富士山信仰  文化の頃江戸駒込高田に藤四郎といひしものありて、殊に富士山を信仰し七十五度登山したりしとぞ。或人「いかなれば斯く富士山にのみ数度のぼりたまふぞ」と問ひければ、藤四郎答へて曰く、「世人仏法を信じて極樂に往かむことを願ふもの多し。然れども誰か一人、極樂へ往きて看て来たるものなし、死してのさきのこと、何ぞたのみならむや。富士は三国にただ一とつの山にして、登れば最も天に近く、是れ則ち天上に生を得たる心地するなり。また富士の八合目にありて夜、月の来迎を拝するときは月中に三尊の如来現れたまひ、五色の雲たなびき、その尊きことたとへんにものあらず。まことに極樂といふはここより外にはあらじと思ひ候。釈尊の説きたまひし極樂は十萬億士の先にありて、凡人の往きて拝むこと能はず。我等が信ずる富士山の極樂は一年に一度づつ拝まるるを以て、ひたすら富士へ參登つかまつりぬ。但し身の行ひあしき悪人の登山するときは忽ち山荒れ、震動して時によりては人をつかみて投げおとし、行方知れざるも亦多し。是れ則ち富士の地獄なり。されば地獄も極樂もこの山に有りて外になし。是れ皆、目前見るところにして誣《し》ゆべからず。この故に我等永々登山いたすなり」と答へけるとぞ。。  この話は八島丸岳輯の百家g行伝巻二に出て居るものであるが、五岳はこの話に附けて富士同行といへる者ありて何か得知れぬ唱言などして聞くに甚だ片腹いたきものなりと批評し、又彼等が常に富士来迎三尊の事を辨ずるを笑ひて其妄なることを説いて居る。元来富士講といふものは江戸及びその近在に於ける一類の党徒であるがその開祖は藤仏といふものにて、天文十一年、富士山の人穴に入りて苦行せしときから始まる。その言ふ所は「富士山は世界始め人間の本であるからこれを信奉し、さうしてこれを信ずるものは子に臥し、寅に起き、自分の職業をよく勤め、御山の御恩を報ずべきである」とするのである。富士山そのものを以て直ちに神靈不可思議とするのであるか、或は富士山に神靈そのものを認むるのであるか、兎も角も山靈を信仰してこれを尊むのであるとするも、宗教の心の上から見れば、それはただそれを不思議と思惟するので、宗教にていふ所の信仰とは全く相違するものである。宗教の上にて不思議といふのは全く我々人間の心にて何ともいふことの出来ぬもので、すなはち人間の考へを超越したところにあらはるるところの依憑の感情である。しかるに彼の富士講の富士山信仰の如きは富士山の神靈不思議を考へて、その考へを固定したるまでのことで、宗教の上にて言ふところの信仰とは全く別のものである。しかし世の中にはそれと同じやうなことを見てこれを宗教上の信仰と同じこととして、鰮の頭も信心からと言ふやうな諺が出来るやうになつた。宗教の感情を精練してその信仰を確かなるものとして、それによりて日常の生活が指導せられるやうに努むることが聚要であることを唱道せねばならぬ。  二軒の家  今日の世に住む人々の中には二軒の家に住むで居ると言はねばならぬ人が多い。その二軒の家といふのは第一に科学的の家である。この科学及びそれに基づける思想の家に住む人は神や仏などに就きては何等知る所なく、又敢てそれを知らうともせず、それには一向頓著せぬのである。第二にすべて科学の成果は意に介せず、ただ宗教的感情及び宗教的知識に本づける思想の家である。何れの場合でも、何か急迫せる事が起つたとき、たとへば死に当面するやうな場合には、第一の家に住む人でも、すぐに第二の家に逃げ込むのである。平生は知識に富むとせられ、多少社會に知られたる紳士で、重き病に罹るか、可愛の小児を亡くした場合に、如何はしき宗教類似のものに走り行くの類は少くない。平生は第一の家に住みながら、せつぱ詰つてどうすることも出来ぬ場合に第二の家に転じやうとすることは筋道の違つたことである。  これに反して第二の家に住みながら、第一の家の思想を追ふて、学問の方法によりて、自分の問題を解決しやうとする。宗教團体に行はるる教義や神学の如きはこれに属するもので、これは自家撞著のことであると言はねばならぬ。  此の如く、二軒の家がありて、随意にそこに住むことが出来るとすれば都合のよいことである。しかしながら思惟を専とする人間はさういふことにて滿足することは出来ぬ。科学の思惟と宗教の思惟とが互に衝突して相反することは、各其本領を離れる場合むしろ当然のことである。  宗教的要求  宗教的要求は、我々人間が世に生きむとするために常に強くあらはるるものである。近時世界的大戦争以来歐洲にては宗教に対する要求は前例なきほどに強劇となつた。さうして現に今日は真実の宗教の内面化を欲するものが漸次に多きを加ふるやうになつたと言はれて居る。そこで各国の寺院は方法に從ひて、この要求を満足するやうにと努めて居る。すなはちプロテスタンチスムス(耶麻新教)は労働階級の愛顧を勧誘して社會的に活動し、教義なき寺院を造つて多数の人をそれに収容せむとする。カトリチスムス(耶蘇舊教)は人間の集團生活に権威を主張し、弱く且つ不確実となりたる僧侶の意味をその神秘論によりて恍惚たらしめむとして居るのである。さうして、これに併びて、ミスチチスムス(神秘主義)やナチュラリスムス(自然主義)のものが盛に行はれ、寺院ならざる寺院が新設せられ、又これに対してすべてのこれまでの宗教は迷信なりとして排斥せられることもあるやうになつた。  此の如き事の起るのは、全く宗教的事実につきての知識が不明瞭であるがためである。そこで歐洲にては科学的の知識にて神学の改革を実行せむと試み、或は宗教的の事項を科学的知識によりて説明せむとすることが行はれるが、しかしそれは実際、神の概念につきて更に不明瞭なる説明を増加する以上には一歩も出づることが無いと評せざるを得ぬのである。  かやうにして、多くの人々は自然科学の事実と、それより得たる結果の前に眼を閉ぢて、神を信仰することを続けることは不可能であるとまで唱道するに至つた。それは自然科学によりて我々が知ることを得たる宇宙の現象に就きて、その一切の知識に矛盾したる説明を、宗教家の口よりして聞くとき、その宗教といふものは単に一個の妄談に過ぎぬものとして考へられることは無理のないことである。しかしながらそれによりて、宗教は古代迷信の遺殘せるものなりと罵倒して、我々の生活に何等の利益もないものとするは、宗教といふものの本質を理解せぬがためである。それは別として兎も角も、宗教と科学とは全くその領域を異にすることを知らずして、科学的の思惟によりて宗教を見るがために、此の如き偏見に陥るのである。  一日ぐらし  元禄の頃、大阪に北山壽庵といふ大医が居つた。その父は明の福州の人であるが、壽庵は我邦長崎に生れ、通称を道長と称し、友松子と號した。医を以て出身せしときに、その系図を問はるるに、ただ長崎遊女の子とのみ書き附けて差出したる器量を世に称せられたといふ。その人となり、利を利とせず、名を名とせず、よく善をよみし、悪を悪くむ。性仏樂を好み、その著述を見るに、博学強記なるが上に、治療の方世に類ひ稀なりと称せられた。年いまだ三十ならずして京都に来り、医名を揚げたが、後大阪に移りて医を業とし、その門には病者が広集した。大阪口縄坂の太平寺に壽庵が生前に建てたる等身大の不動石像があるが、この石像の背面に「等身石像生前是誰、吾死後是、哉断死生爾吾空也耳、北山友松子並題」と刻してある。この石像、前から見れば不動尊にして、靈驗あらたかにして祈誓をかくるに成就せずといふことなく、別して眼病を煩ふものは必ず平癒すとて、参詣人の絶え間が無いと、寛政年間に刊行せられた近世畸人伝」に載せてある。今日でも太平寺の友松子石像は北山不動と称せられて祈請のために參詣するものが多い。  此人心剛直にして而かも方正であつたが、他の医人と商量するに親疎を別たず、其非を見ては観面に辨明し、その誤を聞きては是を面斥する。さうして曰く「鍋珠も人に補することなければ余之を傀づ」と。富豪の家謝幣薄ければ責めて之を却け、貧賊に遇へば薬を施し、錢を賜る。死すべきものと雖も手を袖にして自斃を待つことなく「これ我が忍辱の作善なり」と言つて力を窮めてこれを治療するを常とした。好んで人の急に趨《おもむ》き、得る所の資幣悉く散出した。それ故に家しばしば空乏を告げた。債を責むるものがあれば「頃来の病人皆貧賤にして一錢も得べからず」と言ふ。嘗て尾張候の聘《まねき》に応じて金銀を賜はつたとき、門に札を立て「此度名護屋候の御病気医療し奉り早速平癒し玉ふ故、金銀多く頂戴致候、古借の面々書出しを以て取に參るべし北山壽安」と記したといふ。  此の如く気宇磊落にして、しかも剛正摯実であつた北山壽俺が、一日ぐらしといへる文を作つたものが今に伝つて居る。その全文は次のとほりである。  一日ぐらし  世に一日ぐらしと云へること有り、この一日暮しといふことをよく覚悟すれば精神すこやかに身を養ふ術を得べし。夫れを如何にといふに、一日は千とせ萬歳の初なれば一日をだによく養ふことを得れば生涯を養ふもまた難きにあらず。其日一日を慕すべきほどの勤をなせば其日を安く過ごさるるなり。然るを世の人の習として明日はとやせむかくやせむと、いまだ来らざることに心を苦しめ、しかもその明日と思ふ心に奪はれて、今日の日を大かたに怠りがちに遺し、又明日に至れば、又その明日のことを思ひ量るほどに始終あすをあすをと思ひて今日を無きものにし、常に心気を遠きに費し、精神を徒らになす。兎角明日の命の程は量り知れず。さればとて今日の産業を疎かになせよとには非ず。唯何事も今日一日の勤めと思ひて励み勤めば、いかなる苦しき業も堪ふべく、又樂にふけることあるまじ。たとへば愚なる者の君父に仕ふるも年月長しと思ふ故にこそ不老不忠にも至るなれ。唯今日一日と思へば倦める心なきぞかし。されば聖人の日々に新なりとのたまひし教にも叶ひ、一日と思ひて勤むれば百千年難かるまじく、生涯なす業と思へば煩はしかるべく、生涯とは長き事のやうなれども、今日の事とも、明日の事とも、百年後の事とも量り知るべからず。凡そ人間一大事は今日の心なり。今日疎かにして明日あることなし。すべての人は遠きを思ひ量りて、眼前の理を知らざるなり。 この文を見ても、壽庵の心が宗教的に著しく力強いものであつたことがよく現はれるのである。  明信寺師  美濃国の農家の子として生れた民蔵という人があつた。幼にして仏法に志し、得度して僧籍に人り、信味に厚いのでその名が高くなつた。後京都に出で、本願寺派の法主からその厚信を賞して下された額に記された號が明信寺であつたので、明信寺師と称するのである。  晩年に、明信寺が得度した寺の老僧が病気になりて、一言の法話を熱望されたときに、明信寺師は容易に承諾しなかつたので使の来ることが再三に及むだ。すると明信寺師は涙を流して使の者に向ひて「行くことは易いことぢやが、生身の五尊さまが、日夜御立揃で御化導あらせられる所へ、何も辨へぬ自分のやうな禅門が參つたとて何を申すことがありませう」と、どうしても承知せんので使の者は是非なく帰つて、この言葉を伝へた。さうすると、病僧は今更の如くに驚いて、晒布にて総身を拭ひ、戸板に乗つて本堂へ詣で、全く自分が今日まで心得違ひをして居つたことを心の底から懺悔して、落涙すること限なかつたが、程なく絶命したといふ。  又越前から度々京都へ来て明信寺師の許で法を聴く同行が居つた。この同行が京都に来て段々と聴聞する内に何時の間にやら、無一物になりて国元へ帰つた。しかるに彼方此方で聴聞する内に、段々と信心が出来る。これでよしよしとなりて京都へ来て明信寺師に遇ふて法を聞くと、またその信心がこわされてしまふ。そこで明信寺師は「また国元でつかまされて来たな」と言はれた。かやうなことが数回繰返されて後に、漸く宿善が開発して「聴聞でかためた領解もぎ取られ土産も持たずにかへる親里」と口ずさみ、喜むで帰国したといふ。  寄附の禮  むかし鎌倉の建長寺に誠節和尚といふ禅師が居られた。あるとき信者の梅津伝兵衛といふ人が金五萬兩を持参して  「和尚さま、これは僅ばかりの志でございますが、山門の修築のために差上たいと存じて持参致しました、何卒御納め下さい」と言つた。これに対して誠節和尚は  「ああ、さうか、そこへ置いて行け」  と言つたきり一向に御禮を言はふともしない。伝兵衛は和尚の態度が不滿でたまらず「日頃から自分が心を入れてためた金五萬兩に対して、一言の御禮も言はずに、そこへ置いて行けとはあまりにひどい」とあたりの人々に不平を漏した。さうすると、それを耳にした誠和尚は  「五萬兩は固より大した金である。それで山門を建築せよとて、寄附して呉れたのは誠にありがたいことである。しかし寄附した功徳は皆寄附したものに帰つて、報ひ来るものである。自分で功徳を積むで、自分でその報を取るのである。しかるに、その上、衲に禮を言つて貰はふとは欲の深いことではないか」  と言つたといふ。この場合、梅津伝兵衛が五萬兩の金を誠節和尚に差上げたのは、仏教に言ふところの布施の行をしたのである。それ故に喜捨した筈のものである。布施の行の功徳は、布施するものの貧欲の心を尠からしめることとして布施するものに報いられるものである。それに対して他の人から禮を言つて貰はふといふやうでは布施ではない。博多の仙腰a尚は「禮を言へば恩が無くなるから禮は言はぬ」と言つて人の厚意に対して口では何ともいはれなかつたといふ。禅宗をする人々の考へ方は、この誠節和尚や仙腰a尚のやうで、いかにも自利我欲を超越した心境であると称してもよいが、しかしながら石州のおはつが志の金をお寺へ差上げるのにこれを頂いて「慳貪邪見の私に、物を上げさせたまはるは仏様より頂いた心である。この心にお禮をするのである」と言つたと、伝へられる話を聞いて、私はおはつの心に動いて居つた宗教の心の方がずつとありがたく感ぜられるのである。  偽筆を憐む  慈雲尊者は真言宗の高僧で、学も徳も共に高大であつた。播州田野の人であるが、後に河内の高貴寺に住まれた頃に、その学徳を慕ふものが夥しく集まり来りて門前市を成すといふほどであつた。尊者の教化は至つて親切を窮め、ただ高貴寺だけではなく、自から京都或は大阪へ遊化に出かけられて席の暖まる暇もなかつた。この慈雲尊者は専門の方では正法律の興復を以て自から任じ、当時の僧侶が相似の仏法を事とし、文字章何に泥むで実修実行の道が廃絶したるを慨嘆し、僧侶がただ剃髪染衣の形のみを奉じ、無戒・破戒にして道を街ひ、法を買つて生活の資を得ることをつとめ、如来の正法を説くものが無いのは、群魔が天下を横行し、群生を塗炭にするのであると言ひて、日用の貸事に至るまで、遠く律文に本づき、從来の習を一掃することにつとめられたのである。慈雲尊者はこの本務の外に、仏教の学問に関係ある梵語の研究につきても、類のない大学者で「梵学津梁」と題する書物一千巻を著はして居られる。さうしてその梵字の筆蹟などは現今巷間に数百円の値段を附けられて居るほどである。全体尊者は書に堪能で、人々の詩に応じてしばしば揮毫せられたが、筆を下すと章句を成した。語句を求むるものがあると、詩歌を作つていつもこれを第一義論に帰せられたのである。或人が尊者に向つて「近頃尊者の書はいよいよ世間の好評を博して来ましたが、それがために偽筆も中々多く、これを賣買して利益を得るものが多いといふことである。どうかあまり多筆にならぬやうにお願致します」と言つた。しかるに尊者はさういふことには頓著せず、人々の講ふが儘に次々と揮毫せられた。その数は以前よりも多くなつたやうであつた。そこで或人が再び多筆を諫めたところ、導者はそれに答へて「偽筆が多くて困るといはれるのであらう。しかし偽筆が多いといふことは真筆が尠いからである。わしのやうなものの真筆が少いために、反つて罪を犯して居る輩があると聞いては、わしもいよいよ筆を執らねばならぬと思ふのぢや」と言はれた。偽筆の罪を犯してまでも生きて行かねばならぬ人を憐れむで、つとめて揮毫せられた慈雲尊者にありては、それは確かに一つの行であつた。正法律の興夜者としての慈雲尊者にあらはれたる美しい心のあらはれであつたことがしみじみと思はれるのである。  省察  学と徳と共に秀でて、近江聖人と称せられた中江藤樹翁の道歌の中に、省察の題にて    なにごともただかへりみよ世の中にまなぶ外なきこころならずや  とよまれたのがある。常に高慢の心にて世の中の事物を見て居る我々は、自分の心にて何とか彼とか批判して、その善悪、取捨を決するのであるが、深く考へて見れば我々はもつと、謙虚でなくてはならぬ。世の中に学ぶ外なき我々の心でありながら、この心を以て世の中のことを計らふとするのは何と言つても無謀の至である。世の中に学ぶ外なき我々の心をたのみにすることは真実の生活の妨げである。  慈脱和尚  元縁の頃に、慈胞和尚という人があつた。もと美濃の生れで、生れつき聴敏で、博学の聞えが高く、諸宗の章蹟を精しく究めて、從游の学徒も甚だ多かつた。ある時、終夜、法相宗の奥義を樂じて、既に深更に及び、用事に立たれたるが、あまりに法門の奥義を案ずるとて、覚えず物につまづきて倒れられた。漸くにして立つて歩行したるに、又覚えず柱に行き当りてしたたかに頭を打つた。此時慈脱和尚は豁然として反照せられた。それは「自分が僅かなる名利にほだされて此の如く前後をも覚えざることはいと浅間しきにあらずや」ということであつた。幾多の典籍を披関してその奥義を窮めやうとすることは、固より迷妄の心を払ひ生死の苦を脱する一大事のためではなく、ただ仮名を執し、多聞を心がけ、座に登り義を談して、名をうり、利を釣ること、人に勝らむことを好むより起るのである。慈脱和尚はかやうな驕慢の心にて義辨に達するとも、それは生死を解脱する上には何の効力も無きことを悟つたのである。その後重き病の床に臥して、少しく快方に向ひしとき、たまたま霞芝の照律師の顔を見られけるに  聴教参禅逐外尋 未嘗阿首一沈吟  眼光欲落前程暗 始覚平生錯用心 とあつた。その意は、教を聴いたり禅に參じたりして、心の外の方に尋ぬることのみを務めて、未だ嘗て一たびも首を回らして沈吟靜思したことは無い。それでいつまでも眼の前が暗いので、平生の用心が誤まつて居るといふことがわかつたと。慈脱和尚はこの顔を読みて覚えず、大いに感泣して弟子に告げて言はるるやう「嗚呼、病はこれ道心の知識である。座世の妄想を消し、此身の虚幻を明らめ、深く無常無我の真相を観ずることは皆病境があるためである。自分は今までもなほ外を遂いて尋ねもとめて居つたが、今日に至りて始めて平生の誤りを知つた、若しこのたび病癒えなば孜々として如説修行すべきものを」とてさめざめと泣かれた。その後病癒えたれば、忽ち從来の所学を捨てて城州茨山に引き籠り、永く名利の修学を棄て、専修一行の念仏者となられた。  むかし平安朝の頃に増賀上人とて世に比類の稀なる無我の高僧であつたが、この上人あるとき上人に帰依せる檀徒の招きに応じて行かれたが、檀越の所へ行く間に、説法すべき様など道すがら案ずるとて、覚えずつまづかれた。その時増賀上人は思はるるやう「名利を思ふによりて、かやうにつまづくのである。庵予たよりを得たのである」とて、行き著くや否や、そこはかとなき事を咎めて施主といさかひて供養をも遂げずして帰られた。上人の意は人にうとまれに名利を捨てやうとせられたのであつた。  言ふまでも無く、宗教は生死を出離するためのものである。それ故に真実に生死を出づる学問をなすべく、時に越る名利の学問をなすべきにあらず、学道の人はたとひ、智解十分にして胸にみちたりとも、学むで行ぜずんば、晝ける食を見れども餓の止まざるが如しとむかしから誡められて居るのである。  慎独  道歌に「皆人の本の心は増鏡みがかばなどて曇りはつべき」といふのがある。煩悩はもと菩提であるから、徒らに外を見ることを止めて常に心して返照するときは心の曇りは消えるものである。美濃国高宮の群に提燈屋の長八といふものが居つた。此人の母親は後添えで長八と仲が善くなかつた。本より継母根性で育てたので、長八は以ての外の意地悪いものになりて、鬼角世話をやかせたが、生みの父親までが母親と一処になりて長八を憎むやうになりて、到頭長八一人が悪者になり、宿中の人の間にも大不孝者の評判を取り、後には近処のものも長八を怖がつて逃げたり隠れたりするほどであつた。そこで兩親も巳むなく勘当を言ひ渡したがその時長八は目をむいて「おお勘当おもしろい。此間からその詞を待つて居つた。此後は親でも子でもないぞ。此内に来て呉れといふたとて決して来はせぬぞ」と悪口たらだら出て行つた。その内にある年、心学者手島堵応の門人である北澤道二が高宮の宿に来りて心学の講話をしたことがあつた。この時聴衆が多く集まつた内にこの長八も出席して講話を聞いて居つたので、世話人が見つけて、悪るいものが来た、あばれ出さねばよいがと心配したほどであつた。この時中澤道二が講話したる題目は前訓といふので、手島堵庵が幼稚のものの行状の要旨を教示せるので、朝起きて先づ神樣をおがみ、次で俳壇を拝むべきこと、それから偽を言ふたりしたりせぬことを始めとして、悪しき遊び諸勝負事、殺生、悪しき交り、人をむごくせぬことなどを主とし、其他小言を言いはぬこと、何事も兩親の許を得てすること、兩親の心を痛むるやうなことをせぬこと、善悪とも報の来ることは逃れぬことを辨へること、長上の恩を大切にすること、殊に親孝行の大切なることなどを説いたものであるが、この長八はその一席の講話を聞いて独を慎しむといふ心が起つたのである。さうしてある者に向つて「私はこれまでは大きなる心得違ひを致しました。只今までは継母継子といふものは互に憎み合ふ筈のものぢやとばかり存じて居りましたが、今晩先生の御話で、継母は本当の親よりも大切にせねばならぬといふことを始めて承知致しました。これまで親達への不孝を後悔いたして我知らず涙が出ました」と言つた。中澤道二はそれを聞いて大いに喜び、求めて長八に面會した。その時長八は「いやもし只今までは大きな心得違いを致して居りましたが、此上は両親へ詫言して出入を許されて少しなりとも孝行を致したうござりますが、只今までの私の不埒では中々二度や三度の詫言では親達も聞き入れますまい。たとひ親達はどの様に申されませうと夫には構ひませぬ。私は子の道のあたり前として詫言を致します」と言つた。それより後は冥加のためと称して講席に出入する人の履物の世話をしたが、從前とは打つてかはつて柔和となつたので、人も又彼れ此れと世話をして兩親の方へ出入することが出来るやうになりて、毎日々々兩親の安否を問ひ訪づれ、今までとは打つて変つたので両親も大いに喜むだといふ。それから後に、長八は親の内に帰りて提燈や傘を張ることを商賣にして、精を出し、兩親にもよく仕へて、宿中でも評判がよく、段々と繁昌するやうになつたといふ。  六字名號の歌  伊達政宗は戦国の真最中に生れ、織田豊臣二氏の時代から徳川氏の泰平の世まで長らへ、寛永十三年五月に死亡した。豊太閣と時を同じくして、その人物といひ勢力といひ伯仲の間にあつたものは、徳川家康は別として西では島津義久、東では伊達政宗であつた。文禄二年に政宗の家臣原田宗時が征韓の陣中釜山にて病に罹り後方に廻送せられる途中で死亡したとき、政宗はこれを聞いてその死を欺いた余り、弥陀名號六字を句の上に置いて六首の歌をよむで追弔の情をもらした。その六首は次の通ほりであつた。   (南)夏衣きつつなれにし身なれども別るる秋のほどぞものうき   (無)虫の音は涙もよほす夕まぐれさびしき床のおきふしもうし   (阿)あはれげに思ふにつれず世の習なれにし友のわかれるぞする   (無)見るからに猶あはれそふ筆の跡今よりのちの形見ならまし   (陀)誰とても終には行かむ道なれどさきだつ人の身ぞあはれなる   (仏)吹き払ふ風にもろき萩の花たれしも今やおしまざらんや  六字名號の歌などは形式一片のものであると言はれるかも知れぬ。しかし政宗は平素禅僧と往来し、参禅して修養を怠らなかつた人であるから、その心に籠つて居る六字の寶號が、かやうの時に口を衝いて外に出たものと見ても差支ないことと思ふ。  筑前正助  安政五年に刊行せられたる僧純師の「妙好人伝」第五編に筑前正助の伝記が載せてあるが、それに拠ると、正助は内に深く弥陀の本願を信じ、外に掟を守る心堅固なる人にて、生涯その旦那寺の浄蓮寺にまゐり下向には二丁余もあとしざりして仏祖を後ろにせず、小川を渡りて道の曲りたる処より始めて前向に歩行して家に帰るのが常であつた。彼の熊谷蓮生房の東下りの逆馬に等しともいふべしと賞賛してある。いかにも珍しき妙好人であつたと思はれるのであるが、一体これまで妙好人といはれる人々の伝記は、仏を拝みそれに供養し、或は念仏を專にするなどのことが主として挙げられて居るのが常で、伝記と言つても日常生活や、又はその性格のことなどは省いてあるから、その人が真にどれほどの宗教心をあらはして居つたかを見ることの出来ぬのは甚だ遺憾の至りである。しかるにこの正助は念仏の信者であると同時に親孝行を以て名高い人で、「良民伝」にその名を載せられたる至孝善行八千余人の中にも一二の間に出づるほどであつた。それ故に、その日常の行動や性格の特殊なることなどが豁合に多く記されて居る。よりて今、「良民伝」「妙好人伝」などの諸書から正助の性格に関する記録をぬき出して、その宗教心のはたらきがいかに強くあらはれたかを示さうと思ふ。  正助は筑前の宗像郡武丸村の百姓にて、父は名を正三郎といひ、家は貧しかつたので、母は出でて他家の婢となり、自分も他人の家に雇はれて下奴となり、母と自分と、おのおの其主人に事へて、余力にて父の正三郎を養ふて居つたが、正助二十余蔵の頃に母と共にその主人の家を辞して我が家に帰り、ささやかな農業に従事したのである。近処の藤原村の浄蓮寺といふ浄土真宗の寺院の門徒にて、内に深く弥陀の本願を信じ外に国の掟を守ることが著しく人に抽んでて居つたが、孝行の心の厚いことでも有名であつた。或時夜中に便所に行くとて、誤まつて父の杖を踏み大声を発し泣きければ兩親驚きてその故を問ひけるに、正助の曰く「杖はこれ父の手なり、足なり、これを踏むことは父を踏む罪に等し、いかがせむ」と嘆くのであつた。又ある時、赤間の驛に行かむとするに父は「雨後のことなれば道悪しかるべし、下駄をふみて行くべし」といふ。正助その命の儘に下駄をはきて出でむとするに、母はその事を知らずして「道ははや乾きたり、草履をはきて行くべし」といふ。正助は父母の命ともに背くべからずとて、下駄と草履とを片足づつはきて行きたりといふ。父の杖を踏みて父の身体を踏みたると同じ罪であると恐れ、父と母との命には共に背くべからずとて草履と下駄とを片足づつはいて外へ出るといふことなど、その挙動のみを見ればむしろ一笑に価するだけのことで、別に取りあげて彼此と言ふほどのことは無いとても、此の如きで態度を示したる正助の心を想へば、その敬虔の心の強きことは常人にその類を見ることは極めて稀有であることを認めねばならぬ。  村内に妹の嫁したる家がありて其家に父を負ひて行くことが度々有つたが、或時憂ふる色が見えたので、妹が其故を問ひしに答へて「次第に軽く覚ゆるは父の老衰したまひて肉の減ぜしならむ、末の久しかるまいと思ふて悲しむなり」と正助は言つた。唐の伯瑜が父の杖に泣きたるも同じたぐひであらう。親を思ふの情が極めて深かつたことが知られるのである。  父の正三郎は酒を好むだ。正助は貧しい日暮しの中から、日々酒屋に行きて少しづつ酒を買い求め来りてこれを父にすすめた。酒屋の主人は正助の行に感激して「儲かのことなれば酒代は要らぬ、遠慮なく持ち帰りて父上に薦められよ」といひ、酒代を取らぬことになつた。さうすると正助はその酒屋を避けて他の酒屋に酒を求めることにした。その後、大分久しく正助がその酒屋に来ぬので主人は不審の思を起し、いかがせしことかと案ぜしが、たまたま正助に遇ふたので、その事を尋ねると、正助のいふやう「酒代を取らぬといふ仰せは御厚意かたじけなく存ずることであるが、それでは貴殿の振舞になりて自分の志にはなりませね。それで他所に行きて酒を買うことに致しました」と言つた。まことに常人には見ることの出来ぬ貴い心であると言はねばならぬ。いかに貧しい日暮しをする中にても、自分の金にて父親の好きな酒を買い求めてこれを父親にすすめるといふところに重大の意味が存するのである。利欲と懈怠との心に滿ちて居る人であれば、自分の貧乏を助けてやらうといふ特志者からの厚意を辞することは無い筈である。或はむしろ進むで厚意を要請するのが常人の心であるかと思はれる。正助もこの場合、酒屋の主人の厚意は固よりありがたく思ふのであらうが、それでは自分が父親に対する志が無くなるということをかなしみてその厚意を受けぬのである。私は日常生活の場合に、かういふ心があらはれるのが、宗教のはたらきと信ずるのである。  正助の家には井戸が無かつたので、毎朝二町ばかり離れたる河辺に行きて、手を洗い、口を漱き、天を拝し、それから水を汲みて家に帰り、沸かして父母の手水とする。日暮に至れば其日の農業を仕舞ひ、また河に行きて手足を洗ふ。夏冬共に此の如くであつたので、或時母のいふやう「夏秋の間はそれにてもよいが、寒気の時は沸し置きたる湯にて手足を洗ひ候へ」とありければ、正助は「仰せはありがたく候へども、御手を觸れたまひたる水にて自分の手足を洗ひ候は以ての外、恐れ多いことであるから此事だけは御免下さい」と言つて、終に母の手に網れたる水にて自分の手足を洗ふことは無かつたといふ。  正助は父母の前にては漬物の堅き物は嫌なりとて食せざるも、余所にては遠慮なくこれを食ふのを見て、人怪しみて其故を問へば「親が年老いて歯の無く候へば、かやうのものを食し候はば羨しく候はむと存じて遠慮いたし候」と答へた。かやうに、父母を崇敬し、又父母を想ふてその心を安めるといふことは道徳の行為に関し、つとめてすれば誰人にでも出来る筈のものである。しかしながら正助に於て見らるるやうに、その程度は常人に異なりて、始終あらはれ、さうしてすこし中絶することが無いのを見れば、その道徳的行為の奥の方に動くところの宗教の心がさういう道徳的行為を催進するものであると見るべきであらう。  兩親の間に心の合はぬことが有りて互に争ふことがあれば、正助は兩親の間に入りて兩手を合はせ、兩眼に涙を浮べて「兩親様、いづれをいづれと申し難し」と慎しみ居るので兩親共に笑ひてふことを止めるのであつた。かやうな場合に於ける正助の態度は正しく宗教的のもので、相手のものは常に感激せずには居られなかつたのである。  あるとき悪徒ありて、正助の心を試みむとて、道の傍に錢三貫文を差し置いて、蔭に隱れて様子を見て居つたが、正助はその道を通ほりかかりて錢の落ちて居るのを見て、その傍に坐して久しく動かなかつた。悪徒は不審に思ひて立ち出でてその故を問ひたるに、正助は「落したる人の来るを待ちて錢の番をするのである」と答へた。悪徒はこれを聞いて、大いにその罪を恥ぢて、それから正助の行を習ふて、念仏を申すやうになつたといふ。大和の清九郎は仏恩を喜ぶことの評判が漸く高くなつたとき、それを疑ふものが清九郎の心をためして見るべしとて、金子一兩を取り出して清九郎が立ち帰る途中に落し置き、物の陰にかくれて様子を窺ひ居たるに、清九郎はこれを見て「誰人かこれを落したものはさぞ惜しく思はるるであらう、願はくは落したる人の手に再び入れかし」と、道の辺の枯草の内へ、見ゆるほどに押し入れ置きて、見返りもせず帰つたのを見て、始め清九郎を疑ひしものも、その心の美しさに感じ入つたといふことであるが、正助にありては落した人の尋ね来るまで側に坐して番をしやうといふのである。何れも同じやうに、「君子は遺ちたるものを拾はず」といふやうな道徳の心より「錢を落したる人はさぞ心配して居られるであらら」といふ慈悲の心が強く動いたのである。自分の心をはげまして道徳上の訓戒を守るといふ場合にありては、そこに自分勝手の心が出て道理のことは辨べながら義理の暗くなることがある。正助のこの場合にありては宗教の心が慈悲をおいて強くあらはれてその挙動を律義ならしめたことは清九郎に於けると同じことであつた。  正助は山に往きて薪を取るに、先づ山を拝して後、その木を伐るを常とし、牛馬を使ふにも先づ人に対して言ふが如く「今日は御苦労だが田を鋤いてたまはれ、今日は重荷を運むでたまはれ」とたのみその事の終りには「今日は苦労させた」とその勞を謝したのであつた。馬に荷を運ばせた帰りに、その馬に乗るのが馬士の常であるのに、正助は決してさやうなことをせぬので、人が「何故馬に乗らぬや」と尋ねたるに、正助は「情けなきことを言はるるものかな。天の恐れもあるべし。人ならば遙々の道を荷を持たせ、又帰路に荷を持てよと言へば、おいそれと請合ふものはあるまじ。物を言はぬ畜類なればとて、さうは致されませぬ」といふ。まことにあはれみを物に施す、かやうな心こそ実に宗教の心であらう。正助は又、誰人に対しても禮し、非人乞食をも粗末にせず、常の人に異なりたる行跡であるがために、人侮りて馬鹿なりと言つたが、後には人々、その徳に感じたといふ。  正助は常に上を敬ひ、国君の江戸往来の時は必ず道の傍らに出で、私への御苦勞なりと、ひれ伏し、なほ国恩のかたじけなきことを思ひて常に遙拝したと。  天ひでりして雨降らず、又霖雨止まざるときは人皆これを歎くに、正助は少しも憂ふる気色なく「早涼共に天の命なれば怨むべからず、人はただ天命に任すべし」と言ひて、常に天道を恐れ慎しみ、いかほど疲れたときでも早朝に起きて日出を拝し、又日かげさす所に小便することがなかつたといふ。  享保十七年の頃、諸国一統大いに蝗の災ありしとき、村内の種子の尽きむことを患いて、人皆天に向ひて歎息せしに、正助の田地のみ蝗の災が無かつた。これは正助の至孝は天地を感動せしめたのであると評判せられしが、正助はその実りし籾を悉く村内の種子に分配して一粒も自分の所持とせず、自分は草の根木の皮を喰ひて飢を凌いだといふことである。その余の行ひ挙げて数へ難きほどで、隣村までおのづから正助に恥ぢて風儀をうつし、終に孝子善行にて賞誉を受けたものが三十余人に及むだと伝へられて居る。  寛永七年、正助は孝行の褒美として国主から田地と米とを賜はつた。その時正助は「我身には恩賜を蒙むるべき理はない。かやうな恩賜も父母あるが故のことである。公恩ありがたきは申すも愚かに候。ただ父母に下されたと存じて一入添し」と言つて大いに喜むだといふ。その心が尋常の人に於けると大いに相異したことが認められる。妙好人の中でも此の如き場合には謙遜の態度に出で、親に対してあたりまへのことをしたまでで、改めて褒美にあづかる筈はないと言ふのが常である。固より親に対して孝行するといふことは当然のことで故らにこれを褒美すべき筈は無いが、しかしながら実際には不孝のものが極めて多いので、不孝のものを罰することが出来ぬから反対に孝行のものを褒美せねばならぬのである。それほどに孝行をする人は稀有であるから、人から褒美せらるれば其人は何となく気分が騙りて、私は孝行したことはありませぬから褒美に預かることは無い筈であると辞退するのが常であるが、この心の中には卑下慢ともいふべき不純なるものを存して居る。少くとも自分といふものの力を考えて居るのであるが、正助にありては全く自分の力といふものを考へず、「かやうな恩賜も父はあるが故のことである」と言ひ、「自分が頂くのでなくして父母が頂戴したのであるから一人忝い」と感謝するのである。此の如き正助の態度はもと我と思ふ心のはたらきが無くて、何れのものに対しても崇敬と感謝との心があらはれたのであるから、これこそ真実の心のはたらきであると言はねばならぬのである。まことに正助の如きは貴くして且つ美しき宗教的生活をしたものである。  真撃の志  徳川幕府の名老中として評判の高かつた松平樂翁(定信)公は学問にも熱心の人で、自分の子供の定水、幸喜の二人を柴野栗山といふ当時有名の学者に就て勉強させた。ところが或時栗山先生が病気に罹つたので、樂翁公は自分の子供の先生であるからとて見舞の品を届けたがそれは極めて貧弱なる一匹の魚と、百合根少しばかりと葛餅四五箇を紙に包むだものであつた。栗山先生の周囲の人達はこれを見て「樂翁公は日頃極めて質素の人であるとは聞いて居つたが、これは又何といふ貧弱な御見舞品ではないか、これほどに倹約な人であるとは思はなかつた」といささか驚いたのである。ところがその翌日も又、同じやうな見舞品が届けられた。その次の日も又同じやうな見舞品が来た。それからして毎日、その後は一日も欠かさず見舞品が届けられた。栗山先生は百日あまり病床について居て、これを見て「いかにも貴い御方である。このやうに深切に見舞つて呉れられて勿体ない」と嬉し涙にぬれた。周囲のものも初めて見舞品を受け取つたときには「こんなしわん坊なものを」と笑つたが、樂翁公がその子供の師に対する真摯の志を見て、心からして尊敬せざるを得なくなつたと。釈尊が「外道は身業と口業とを主とするが、我れは意業を重んずる」と言はれた言葉を思ひ出さずには居られぬ。世間の人は身と口とを主としてただ形式さへ整へて居ればそれでよいと考へるのが常であるが、それよりも意の方が大切である。真摯の志は形式の如何によらぬといふことを深く反省せねばならぬことである。  池無名  池無名は大雅堂と認して書道の大家であつたが、この人の日常生活は親を中心として居つたことも亦有名であつた。父親とは早く別れて、その教養は専らただ一人の母親に向つた。大雅堂は真実の孝養はとても尽されぬ、ただ自分に出来ると思はれるのは親の命令にそむかぬことのみであると考へて、出来るだけそれを実行することに務めた。その母も取る年には打ち勝つことが出来ず、病の床に臥して起つことの出来ぬ身となつたが、それからの大雅堂の孝養は日一日と募つて、母親も亦その子の大雅堂を措いては何人にても気に入らぬのみならず、果ては他人は一切我が病室へ人れさせなかつたほどであつた。食事は勿論、その他、何から何まで一切のことは大雅堂一人で為されるのであつたが、やがて不幸の日は来た。母親は遂に不帰の客となつた。大雅堂の歎きは如何ばかり、はや葬らむとするとき、大雅堂に目から重き母親の棺を背追ふて出で行かうとするのであつた。勿論書道の大家のことであるから門人も多数に居つたので、師匠の態度を見るに忍びずして、それを止めて「私等にかつがせて下さい」と懇願した。大雅堂は一向に聞き入れずして母老いて「病むに及びては人の見るのも承知せず、三度の食事も余が供せされば食べられなかつた。それを最後の葬式といふ、人生の一大事に際して、これを人手にまかせて、自分でやらなかつたならば、母は何と思ふであらう」と言つて、遂に自から棺を負ひ行きて葬式を営むだといふ。生きて居る内は勿論、死しての後も、親の心を全ふすることにつとめた大雅堂の行為はまことに美しいものであつたと言はねばならぬ。  願求無驗  伝教大師の歌に「末の世に願ひ求むるそのことの驗しなきこそ驗しなりけれ」とあるが、神や仏は凡夫とは違ひ、正直鏡の如くなるによりて身勝手の願求は受けられぬのである。昔栂尾の明恵上人は時に取りての大徳であつたが、或人来りて「私が身の上、かやうかやうの事で力に及びませぬが上人の行力を以て、何とぞ御祈祷なし下されませ」と頼むだ。明恵上人の返答に「我れ毎朝毎朝一切衆生のために祈念を致す、定めて其許も其中に籠りてあらう、すれば今更改めて祈るには及ばぬ。叶ふ筋のことならば別に祈るにも及ぶまい。又叶はぬことならば仏力にも及びたまはぬといふもの、其上平等心に背きて其許の願ひばかりを祈りたらば親疎の差別があるといふもの、左樣に親疎の差別あるものの申し次ぎは、よもや仏も御用ひはなされまい。すれば仏の御心中もはづかしい。又仏は方々の事を一人子の如くに思ひ召すのであるから、それに願を叶へたまはぬには定めて仔細があらう。たとへば幼児の毒を食はうとするとき、母がこれを奪ひ取れば、子心にはうらめしく思ふが如く、仏神に祈りて願ふことが叶はねば一旦は本意なく思へども、後のためを思召すなれば叶はぬとて御うらみ申すべきでない。本より誠減世界の習ひ、心に叶はぬことは有りうちのこと、何につけても身を省みて前業の所感とあきらめたまふべし」と懇ろに示されたといふ。凡夫こそこの世の寿福を大きな事に思ふのであるが、何事もこの世の心にかなふは善果を転倒して真実の行を破壊するものである。現在の祈りの驗しが無くして、何事も自分の心にかなはぬことが却つて我が身の後の樂になると説かれるのである。  かやうな次第であるから、仏教にては、実《げ》にや仏の善巧方便は凡夫の知るところではない。却末の時には衆生が悪業のみを造りて、あかしくらす、この時、如来は夜又の形を現じたまひ、無間業をつくるものを取り食ふて地獄の苦を免かれしめたまふとあれば、つめるもさするも皆親の慈悲、今生一生の吉も凶もみな極樂參りを遂げさせる如来のおてまはしなればよいにつけ、わるいにつけ、広大の御恩を喜べと説き示すのである。  煩悩其儘  三河国阿知和といふ所に松林寺といふ本願寺派の寺院がありてその住職を三浦和上といひ、至つて法義に志の厚い人であつたが、或年の秋の最中、京都の本山へ用事があり、門徒の定四郎といふものを連れて京都へ上げられたとき、不幸にも大病にかかられとても全快は覚束ないといふほどになり、かねて同和上に親炙して教を聞いて居つた丹波の三田源七といふものを呼び寄せられた。源七は大いに驚きて何事ならむと京都へ上つて見れば、老和上は九死一生の大病人で、附添人もなく、たつた一人苦しむで居られたが、源七を見て「よう来て呉れた。此度御本山へ御用があつて定四郎を連れて来たが、不幸にもこの大病となり、兎ても全快は出来ぬと思ふ。故に定四郎に家内を連れて来るやうにと国へ使いに戻した。兎も角、家内が上つて来るまでは命がないと思ふから、お前に言ふて置くで、上つたら伝へて呉れ。外の事ではない。どうぞ信者の真似をして一生暮して貰ひたい」と「それでは信者の真似とは如何なることでござりますか」といへば「どうぞ御一言を御一言をで一生暮してもらいたい」と言はれた。妻君が上京せられたので源七がこの旨を伝へたるに、三浦老和上は苦しき息の下より微笑してこれを聞いて居られたと。  この重病の最中、源七に向ひて「入湯をさせて呉れよ」と言はれた。源七は「この大病に入湯なされてはお命にかかはりますからお止めなされたがよろしからう」と言ひしに、老和上は「入れて呉れと言ふたら入れて呉れ、兎ても助かる病人ぢやなし、そのため何もかも渡してあるではないか」と叱つたので、源七は詮方なく、用意にかかり、風呂の釜へ火を入れてしばらくたつと、老和上は「早く入れて呉れ」「いやまだつめたうござります」又しばらくすると「入れて呉れ入れて呉れ」と承知せぬので「それでは加減を見て下されませ」と老和上を抱いて、足を湯の中へ一寸入れたれば、まだ冷めたい「あげて呉れ」と言はれて其儘床へ行き、布團にもたれながらうつむいて落涙しながら「ああこの癇症の高い坊主が、この癇症とからくむである御本願なら、一番がけに地獄の釜にきにならにやならぬに、一大事の後生を合手取り、すなはちからくむで下されたらこそ、この癇症の儘、仕合せをさせて頂くが嬉しい」と声を上げて泣いたといふ。仏の心の中に生活するを感知して兎角の我のはからひを無くしたものが生死の苦界に安住することはかやうに安静であるといふことを思へば、宗教の心は実際、我々愚悪のものをして、一切の苦痛から離れしめるものであることをありがたく感ぜねばならぬことである。  念仏彦右衛門  元禄年中の頃、下総国本庄といふ処に、材木屋彦右衛門といへる人があつた。生得慈悲の心深くして常に乞巧及び病人を見ては、涙を兩眼に浮べ、路のほとりに糧を絶ちたるものにはこれに飲食をあたへ、或は病みて看侍するものなければこれに薬を施すこと其数を知らず、或時房州に赴くとて、其途河辺を過ぎけるに乞食の水に溺れて死して居つたのを見て、情感に堪へずして、人を雇ふてこれを葬り、懇に念仏して彼れが亡魂を弔ふたと。又ある時牢屋の辺を過ぎ死刑に定まれる罪人を見て、忽一念菩提心を発起し、大いに悲歎していふやう「この数人の罪者、皆一念の迷倒によりて悪を造りて刑を受くること、甚だあはれむべきの極である。いかがしてか此輩に仏縁を植ゑしめむや」とて、声をあげて、さめざめと泣きければ、見る人これを怪しむばかりであつた。それより家に帰ると、其儘寺にまゐり、見るところの死刑数十人のためにとて、無縁の迫福をなし、永代の読経料として、金子などを上げて、毎年その見しところの日を忌日として法事を修行した。実にこれぞ無縁の大悲にして肉身の菩薩の所行ともいふべきものであらう。これより心を法に注ぎて、自他の出離を祈つた。或時説法の會座に列なりけるに、唱導師が説きけるは「浄土の大菩提心は願往生の心である、此願往生の心が直ちに衆生済度の心であるから、浄土に生ずれば願のままに受苦の衆生を済度するのである」と述べければ、さては自他のためには念仏往生に如くことなしと領解して、それより一向に往生極樂を願求し、行住坐臥、念仏怠ることがなかつた。たとひ日常諸事応対する中にも閑をぬすみて念仏と共にこれを為し、ひとへに念仏を主とし、世務をなすこと客の如くになした。それ故に人字して念仏彦右衛門と呼ぶやうになつた。しかるに、同五年の頃、少しくいたはりけるが、病中にも名称しばらく絶ゆることなく、臨終二三日も前より時々看病人の袖をひかへて西方の空を見て「おのおの、あれ拝みたまへ、実に微妙莊厳の浄土なり」とて、感涙を流して言ふ。その様、瑞相を感じたりと見えしが、やうやう終焉に臨まむとせしとき、傍にありける人を顧みて「決定往生、只今である、あら嬉しや、ありがたや」と笑を含み、虚空を拝して念仏と共に息がたえたといふ。  これは元文二年刊行の「新選発心伝」の中に因慈悲心発菩提心の一例として挙げてある話である。世の中に一念の迷によりて罪を招き、刑罰を受けて苦報に悩むものが少くない。しかるに多くの人々はこれを見てその自業自得の当然なることを言ひ、目前に衰叫の声を開き、悽惶《せいこう》の様を見ながら、いささかもこれを情感するの心なく、むしろ却つてその苦報の巳むべからざることを思ひ、自分が行為の正しくして此の如き苦報を受けざることを悔む心を起すのが多くの人の常である。若し機縁さへあればいかなる悪事をも為すべき自分であるといふことを考へず、自分は刑罰に処せられるなどの苦報を受くべきものでないと自から恃む心が強くして、他の刑罰を受けて苦報に悩むものを損斥することは、いかにも内観の足らぬものである。彦右衛門が内観を深くし、他の刑罰に処せられるものを見て、常にあはれみの心を起したることは、その刑罰を受けたるものの上に自分の心のすがたをあからさまに認めたるためであつたことであらう。  石州善太郎  石州那賀郡有福村に善太郎といふ大同行があつた。安政三年二月八日、年七十五歳にて死亡した。妻とよとの間に三人の小児があつたが、何れも早世した。それが縁となつて仏の道に入つたものと見えるが、法を聞くに從ひてその心ますます開け、妙好稀有の信者となりて、今清九郎と異名せられるに至つた。逸話の伝へられるものが多いが、今「妙好人伝」四篇、「芬陀利華」などに拠りて、その三四の話をここに紹介しやう。  或同行、有福村の入口に来りて善太郎同行はいづれかとたづねた。ところが其人が「私でござります」といつた。そこで「お前様の家は何処でござるか」と折返して問ふたが「私は家を持ちませぬ」と答へた。それは合点の行かぬことと思ひて「誰ぞの家を借りてござるか」と言へば「私は如来様の家に置いてもらいます」と言つた。それを聞いた同行は感じ入りて、泥の中に手をついて落涙したといふ。多くの人の心は驕慢であるから自分の家を自分の金にて建てたと思ひ、それを自分の家であるとするのであるに、善太郎は自分の家に住みながら「私は家を持ちませぬ。如来樣の家に置いてもらひます」と言ふ。かやうな謙虚の心こそ真に宗教の心のあらはれである。誰人にしても謙虚の心になりて考へて見れば、柱にしても瓦にしても壁にしても疊にしてもそれぞれ人の力を借りて調へ来りて家が建てられたのである。その根本を見ればまことに如来の力のはたらきであると言はねばならぬ。世の中の一切のものは仏法領であるとせねばならぬのであるから、善太郎が「私は家を持ちませぬ、如来様の家に置いてもらひます」と言つたのはまことにありがたい宗教の心である。  善太郎の近辺に弘法大師の八十八箇所を建立して、殊の外繁昌して、それへ参詣する人、或とき二三人、善太郎方に宿を乞ひたるに快く貸してやつた。それから夕食後、仏前のお勤めをすまし、その行者達に向つて「弘法大師の御利益よりも、なほありがたきことがある」と言へば「なにとぞその御教を教へて下され」といふ。そこで自身の聴聞せしところを諄々と話した。信者達弥陀本願の貴きことを信じて八十八箇所へ參ることを止めて喜び喜び我家へ帰つたといふ。養子の兵次郎といふもの、若年の頃、法義に志が薄かつたので、附近の寺に法座がある度毎に、善太郎は養子の前に兩手をつき、なにとぞ參詣して呉れと頼み、又自分が參詣して帰つて来たときは「其方の御蔭で參らして貰つた」と禮を言ふのが常であつた。或夜のこと、遍路者「六部」が泊つた。翌朝一里半もある荒相村まで、善太郎は其人を見送つた。附近のものが「何故あんな遠方まで見送つたか」と尋ねると「昨夜から弥陀本願のありがたいことを話して遣つたが、どうしてもわからぬ。今朝お見送りながら、もう一口言ふたらわかるか、もう一口説いたら知れるかと思つて行く間に遂に荒相村までいつた。しかしどうしてもわからなかつた、無宿善とはこのことであらうよ。それにつけても、この善太郎はしあはせものよのう」としきりに仏の慈悲を喜むだ。  善太郎はかねてより出羽村の磯七同行と眠懇であつたが、或年の春、ゆざわざ磯七を尋ね、徹夜法味を味ひながら互に踊つて喜むだ。しかるに自分の踊つたことは一向覚えずして「磯七殿が踊つて喜ばれた、何とありがたかつたことよ」といふ。磯七も又自分の踊つたことは打ち忘れて「善太郎殿の踊りが面白くてありがたかつた」と互に己れを忘れて喜むだ。又或年善太郎は磯七の所に手紙を送つたが、その手紙には他の文句はすこしも書かず、半紙に四枚、始めよりありがたやありがたやとだけ書いて送つた。すると直ちに磯七より返事が来たが、これも半紙に四枚、始めよりおはづかしやおはづかしやとばかり書いてあつたと。  善太郎或時旅行したとき、旅仏を首にかけ片脇に花立を添へお花を上げれば同道せし光現寺の坊守、梅の小枝に花の二三輪つきたるを參らせたるに、善太郎頂きていふやう「この花はいづれより御貰ひなされしや」と言ひしに坊守の答に「道端にあつたのを折りました」とあつたので、善太郎「梅や桃は実の結ぶのを人の樂しんで居るものなれば此後は貰はずして手折りたまるな、人の物を盗むで供へたのでは決して仏様はお喜びになりませぬぞ」と言つたので功守も大いに愧ぢ入つたと。かやうにして善太郎は掟を如実に守つたので褒美を戴いたこともあつたが、その度毎に二分三分づつに別けて親類を始め懇意の同行へ贈つた。その余の善行はこれによりて推しはかることが出来る。善太郎が畑にて仕事して居るとき附近の光現寺の喚鐘がぢやんと鳴るのを聞いて、その寺の方に向ひ「はいはい參ります」とお受けをする。又ぢやんぢやんと鳴る、又返事をする。ぢやんと鳴ると「やれどうしやう、参りますとも」と言つて泥足の儘鍬をかついで参つたと。善太郎は又毎年報恩講の餅をつくとき「此年の報恩講も無事に勤めして頂くことが出来る、ありがたやありがたや」と杵《きね》を持ちながら踊つてついた。それ故餅はいつも冷えて滿足の餅にはならんので、幾度も蒸しかへしたと。  善太郎或年本山參詣の帰途、芸州可部の附近にて日が暮れたので、平素より熱意であつた或同行の家に泊めて貰つた。翌朝お禮を述べて出発したが、後にて袷一枚紛失したことを家人がふと気づいた。下女の曰く「あれは善太郎さんが盗むで持つて帰られました。確かに私が見ました」と。家人も女中の言を信じて善太郎の所為にきめてしまつた。翌年其家の主人が有福の温泉に来たので、ある日善太郎の家を訪問して、罵詈讒謗《ばりざんぼう》した。善太は何のことやらわからなかつたが、段々と様子がわかり、著物を盗むだ嫌疑であることに気がつき、「それはまことにすまぬことを致しました」とて、仏壇の引出より若干の金子を取り出して辨償した。それを見て主人ますます善太郎が盗むだものであることを信じ、大いにあきれて帰らむとした。すると善太郎は家へ土産なりとて仏壇の團子を紙に包むで差出した。主人はろくろく禮も言はずに立ち出で、湯治を終りて可部の我家へ帰つた。それから有福に於ける始終の様子を話しながら土産に呉れた団子を取り出し、この團子には罪はない、皆で頂かうと配らむとせしに、下女はうつむいたきりで更に貰はうとせぬ。皆のものがいぶかりながら子細を尋ねると「私の如き罪業深きものがそのお供物を手にしたら如何なる恐ろしい報を受けるかも知れぬ。実はその著物は私が盗むで罪を善太郎さんに被せて居つた」と白状した。家人は事の意外なるに驚き、しばらくは互に顔を見合せて居たが、やがて主人を始め、一同石州の方角へ兩手を合せ「赦して下さい善太郎さん、知らずに居たとはいひながら、散々にあなたを罵詈したことの恐しさ、勿体なや」とひらあやまりにあやつた。さうして翌年主人はわざわざ有幅に来り、善太郎に詫びて、その金を返した。軽々しく人を疑ふて無実の罪を其人に被せることは世の常である。無実の罪を被ぶせられて腹を立て心穏かなるを得ざることも多くの人の常である。善太郎は此の如き場合にありて、煩悩具足・罪悪深重の自分の心の相を見て、腹を立てることが出来なかつたのである。しかもその事に関して大いに憤怒したる主人の態度を見て、気の毒に感じて著物の代償を辨償したのであらう。たとひ無実のことにせよ、自分が疑をかけられたために、自分が主人をしてその胸の烙をもやさしめたことには責任がある。それにつきて気の毒の感を起したことは善太郎の心が宗教的の無我の状態であつたことを示すものである。ある時、村の若者が善太郎の納家の軒にかけてあつた干柿を盗みに来たことがあつた。善太郎は家の内よりそれを見附け「若衆、怪我をせぬやうにして取つて帰つてお呉れよ」と言つた。若者は恥ぢ入つてこそこそと逃げてしまつた。又或夜、善太郎は便所にとて夜中に戸口に出た。さうすると、庭の梨の木に二人の若者が上つて居つた。善太郎は用事を終り、納屋より梯子を持ち来り、その梨の木にかけて、静かに念仏しながらだまつて家の中へ這入つて寝てしまつた。又或夜米盗人が這入つた。善太郎に其夜近所の家の法話の席へ行き、帰りがけに、折よくも庭先でその盗人に出遭つた。盗人は驚きて米を投げ捨てて逃走した。善太郎は「暗くて困るだらう、提燈を貸してあげやう」と叫むだ。さうして善太郎はその米を家の内へ運びもせず、其儘家に入り、仏前に燈明をあげて、念仏しながら「前生で借りた米を今返へさして貰ふのだ、ありがたいありがたい」と御禮をした。逃げかけた盗人もその米に欲がついて、後戻をして雨戸の隙間から善太郎の様子をながめ懺悔の心を起して逃げ去つたと。善太郎は自分の心と同じやうな盗人の行為を責むることもせず、却つてそれを気の毒に思ふてそれをあはれみいたはる心を強くあらはしたのである。  三伏の暑熱に鐵をも鎔かすやうな真夏の或日、善太郎は終日の労働を終へて山より帰つて来たのに、どうしたことか、其日に限り女房は行水の湯も沸かさず、夕飯の仕度もろくろくして居なかつた。善太郎は家に帰ると女房と二口三口争つて居つたがやがてその癇癪玉は破裂した「おのれッ」と言ひながら側にあつた割木を取つて振り上げた。今やまさに打ち下ろさんとする刹那、強い如来の叫びに気がついた。そこで早速、仏壇に燈明をあげ件の割木を仏前に供へ、静かに合掌して「ああ善太郎が出ました。善太郎の地性が出ました」と涙ながらに念仏三昧に入つた。  まことに善太郎は稀有妙好の同行であつた。その内観がよく徹底して、日常の生活が全く無我の状態であつたことは、此の如く推称すべきものであつた。  以心伝心  播州におくまといふ厚信の同行が居つた。一生独身にて亀山本徳寺の連技の給仕役をつとめて居つた。あるとき丹波の国より善七といふ同行が、後生に迷惑のあまり十里の道を越えて尋ねて本徳寺に来りて「どうぞおくまさんに遭はせて下さい」と下女に頼むだ。下女は其由を奥に告げた。それを聞いたおくまは「何も用はないと言へ」と答へた。その一言を下女が善七へ伝へると、善七は又それについて「何と仰しやつても後生について用が出来てしやうがござりませぬ、いかが致しませう」と下女に頼んだ。おくまはそれを聞いて「まだそんなことにかかつて居るか」と言つた。ただこれだけの問答にて顔をも見ずに善七は滿足して帰つたといふ。宗教はどこまでも自分の心の問題である。自分で會得するより外に道はない。内観が出来れば、ただ一言によりて疑問は解決するのである。  地獄因  播州光觸寺の静照師は学徳共に尋常ならず、諸国に遊化して門徒の指導に盛粋せられたのであるが、或時大阪の或大家に行かれたとき、その家の妻君が小児を懷いて挨拶に出たので、静照師はその姿を見て、「長者に児なしといふことがありて、此家にも児がないか知らんと思ふて居たが、お目出度いことぢやのう」と言はれた。さうすると、妻君は「はい兎ても児は出来ぬと淋しく思ふて居りましたが、おそがけにこんな児が出来まして、喜むで居ります。こんな西も東も知らぬものが、昼間になつたと思ふと泣き出し、又は扱が悪るいと泣き出してなりませぬ。これを見るにつけても、貪欲や瞋恚の地獄因は教へざるに持つて生れて来て居ることが知られて、念仏称へさせて頂きます」と言つた。さうすると静照師はその顔をながめ「私は此家へ十八年続いて来るが、三毒の煩悩を地獄因と聴いて居られるか」と大声で言はれた。妻君は驚いて「それでは私の心得が違ひまするか」靜照師「違はいでなるものか。其機は如来の目的の機ぢや、地獄因を知らぬのなら教へてあげやう」と兩手を合せ、「これでしのがうといふ機が地獄因ぢや、ちつと気をつけて聴くがよい」と。貪瞋痴の三毒の煩悩が地獄行きの因であるといふことは無論である。しかしながら如来の本願は此の如き三毒の煩悩のものをたすけられるのであるから、我々は三毒の煩悩のお陰によりて極樂に往生することを感謝すべきである。さうして、それは全く如来の本願の力であるのに、これで凌がうといふ機は極樂往生を妨げるものであると言はれたのである。  次左衛門  むかし越前国大野領の西市村といふ所に、次左衛門といふ親孝行の百姓が居つた。父を次郎右衛門といひ、高八石あまり持ちたる百姓なりしが、女房に早く離れ伜一人をもちて居つた。それがすなはち次左衛門で、親子ともども農業をつとめて居る内に、親類よりもこの次左衛門に嫁の世話をするものもあつたが、次左衛門は合点せず、「次第に年よられる親のことなればせめて心づかひをかけぬやうに致したい。他の娘を貰へば少々親の気に入らぬことがありても義理なれば辛抱せねばならず、左すれば親に苦労をかけること故に、まづ女房は持ちますまい」と堅く断りて心易く親子もろともに生活して居つたのである。親の心をやすめやうと志して女房をことはるなどは世間普通の若いもののすることではない。固より人間が結婚して家庭を造ることは、常態にして、これによりて小は家系を織績し、大は民族を維持するために重要のものとすべきであるが、次左衛門が嫁を貰ふといふことを謝絶したのは、さういふ意味から見ての結婚を排したのではなく、他から娘を家内に入れて、それがために親の心を不安ならしめることがありではならぬとの心配からである。結婚するといふことが善くないと言ふやうな理由でなく、ただ自分が結婚するがために親に対しての孝行を欠ぐことがあつてはならぬとして、自分の不自由を忍むだのである。  次郎右衛門は、殊の外長生して、年八十あまりになり言葉を所作も不揃になり、ただ小児のやうになつた。九十六歳の高齢にて死亡せるときまで十余年の間、次左衛門はこの後先わからぬ親に事へて一度も親の意にそむかず、稀有の親孝行ものと賞められたのである。その行状の一二を挙げると、或年の冬、強くみぞれの降る日、次左衛門は村用にて城下の郷宿油屋方へ行きしに、油屋の亭主、次左衛門の風体を見るに、蓑笠も著けず半道あまりもみぞれに打たれたので、衣類は悉くぬれたれば、亭主は大いに驚き、「今朝よりのみぞれに、何故に蓑笠を著てござらぬぞ、若し寒気にあたらばいかがせらるる、早く衣類をぬがつしやれ、火にあぶつて進ぜませう」といへば次左衛門は笑いながら「イエイエぬれあるくは常のことぢや、親どものいはれるやうに致しますればお陰で寒気も身に入りませぬ。出がけに蓑笠の用意を致したれば、親どもが言はるるには、この天気の善いのに蓑笠を著たら、人が笑ふ止めにせよと申されました。それ故に蓑笠は著ませぬ」と、何気なき体にて言つた。常の人なれば飽くまで食ひ暖かに著て、なほそれにても足らず、火燵により、すき間の風をふせぎ、其上居間に火鉢を設け間を暖めるとて、しきりに暖気をこしらへるのが常であるのに、次左衛門は親の言ひつけであるからとてみぞれの降る日に蓑笠をも著けず、著物がぬれたのも厭ふことなく「親どもの言はるるやうにすれば寒気も身に入りませぬ」と平気である。尋常の人に真似の出来ることではない。次郎右衛門は老婆の体である。それに現にみぞれが降つて居るとすれば蓑笠を著るのが常である。人が笑ふと言つてそれを著けぬと意地張るべきことでは無い。しかるに次左衛門は親の言うことをその儘に受けて、何のはからひもせずみぞれ雨に濡れながら「なほ寒気も身に人りませぬ」と平然として居つたのである。次左衛門の心には我と思ふことは無く、自分のために彼此とはからはずして、ただ親の心に任せるといふ貴い心のみが動いて居つたのである。仏法にて無我といふのはかやうな心であつたのであらう。  あるとき、次左衛門は菜種を賣り、金三歩を受け取りて親に見せ「これ程になりました」といひしに、親の次郎右衛門はにこにこして「その内二歩をおれによこせ」と言つた。次左衛門は「ハイ」と言ふて二歩の金を親に渡し、更にその仔細は問はなかつた。次郎右衛門はその二歩の金を財布に入れ首に掛けて「内の馬が大分弱つた、この二分の金をあの馬に足して博労殿に往つて、善い馬としかへて来う」と言ふ。次左衛門は大いに喜び「ホンニ馬が弱りました。御苦労ながら善い馬とおしかへなされて下されませ」と言つた。実は小百姓のことで、馬などを持つだけの余裕はありませぬ。その上に菜種代の三歩はその家の経濟にて大切の金であるが、親の望むときは明日のことも思はず、ただ親の心に任せて、一言も口答をせぬ次左衛門の孝心は、まことに格別のものであつた。  それから次郎右衛門は彼の二歩の金を持ちて杖にすがりて城下へ出で古道具屋を見あるき、或家にて塗盃の欠け損じたるものと、印籠の損じたるものを見つけ値段を尋ねしに此家の亭主心ざまのよからぬものか。代金二歩なりと言ひければ、次郎右衛門は喜むで二歩の金を払ひ、かの盃と印籠とを持つて家に帰り「コリャコリャ次左衛門善いものを求めて来た、これを見よ」とて出して見せた。次左衛門はこれを見て「善いものを御買いなされました」と言ふ。次郎右衛門笑いながら「欠け損じたる所を直して置くと、お客のあるときに間に合ふと思ふて買つて来た。又この印籠は薬を人れて其方が腰に下げて居ると、田へ往つたとき、俄に腹でも痛い折に間に合うと思ふて買ふて来た」と言ふ。次左衛門落涙して「ありがたうござりまする。よう気をつけて買つて来て下されました」と真実に悦むだと。次左衛門の心は、親に対するとき、ただ親があるのみで私の心が無いのであるから親の言ふことや為すことに対してとかくのはからひをすることも亦決して無いのである。この次左衛門の孝心は人を感ぜしむることがあつたのか、後日になりて、かの古道具屋は心恥かしく思つたと見えて、二歩の金を持参し、ことはりを言ひて、欠け損じたる道具を乞ひ戻して帰つたといふ。  次郎右衞門、年九十あまりのとき一日何と思ふたか、次左衛門に向ひて「そちが月代はきつう延びて見苦しい、久振でおれが剃つてやらう、剃刀を合せて持て来よ」と言つた。次左衛門は心得て「いかさま此頃はいそがしさに取まぎれて月代も致しませぬ、それはありがたうござりまする、どうぞ剃て下さりませ」と剃刀を取り出して父に渡し其身は水にてさかやきをぬらせば、次郎右衞門は我膝を叩いて「ここを枕にせよ」といふ。「ハイ」と横になり、父の膝を枕として少しも恐れる気色はなかつた。次郎右衛門は振ふ手に剃刀を持ち次左衛門が左の?の髪をごそごそと剃り落し、手を以て其跡を撫でながら「さてもうつくしうなつた」といふ。次左衛門も又自から撫でて「ホンにうつくしうなりました」と親子諸共に打ち笑ふて居たとき、庄屋何某折節用事ありて尋ね来り、この体を見て大いにあきれ、その仔細を問ひたれば次左衛門ありのままに話して顔つき平生にかはることが無かつたといふ。  かやうな次左衛門の行状は終に領主の聞く所となり、褒美として米を賜はつたが、近村のものの中にはこれを見聞してその行状を改めたるものも少くなかつた。次左衛門は親が九十六蔵にて病死した後、甥の某といふものを養ふて、子となし、その身は生涯独身にて暮せしが寛政二年すでにその年七十歳に達した。その頃の領主某領分内の老人に対して酒肴料を下賜せむとし領分内の役人に命じて六十歳以上の老人を調査せしめた。これによりて西市村にても村役人の宅へ次左衛門を招き其年齢を尋ねたるに、次左衛門は更にその年を言はぬ。それは何故ぞと問へば「さる仔細ありて私の年はどうしても申されぬ」と言ふ。村役人もこまりて「此度の事は御領主様の御慶事につきて御酒代を下される事なれば、ありがたいことぢや。何も年をかくすには及ばぬ、あり体にいはれよと言ふに、次左衛門は一向承知せず、「何分年を申すことは御免にあづかりたい」と言ふによりてその事を上役の方へ申告したるによりて、終に上役より吟味することになり「何故年を申されぬぞ、もし申されぬ仔細あらばその仔細を申せ」とありしに、次左衛門も詮方なく「さやうならば年の申されぬ仔細を申し上げませう。私親次郎右衛門存命中私へ申しまするには、其方が年を人が尋ねても必ず言ふて呉れるな。そちが四十になるの、五十になるのと、年を言つて呉れると、おれはいかう心細う思ふによりて必ず年を言ふて呉れるなと申されました。親ども相果てまして年月は経ちますれども、申されたることはなほ耳の底に盛りまして、今のやうに覚えまする。ことさらに仏壇に見てござる故、なんぼう御上様の事でもこんばつかりは御免なされて下さりませ」と落涙して自分の年を言はれぬ事情を告げた。この事を聞いた領主は殊の外に感心して別に襲美の物を下賜した。  この次左衛門の親孝行の美譚は柴田鳩翁の「続鳩翁道話」參下に挙げてあり、さうして、鳩翁はこれを評して「これがほんの我なしと申すもの、則ち至善に止まつて居るのでござります」と言つて居るのであるが、更にその意味を説明して「至善に止まるといへば、何ぞ至善らしいものがあるやうに覚え、窮屈がつて聞くこともいやがる、至善はそんな石で手をつめたやうなものではない。あなたがたの日がな一日、何心なうしてござることが皆至善の働きじや」と言つて居るが、それはすなはち心学者一流の考へで、私心を離れて本心につけば何事も至善に止まつて、心に何とも思はず、又心に咎めることもなく我なしに生活して行くのであると言ふのである。この意味からすれば次左衛門の如きはこの我なしをよくつとめた人である。しかし次左衛門の親孝行の態度につきて色々のことを言ふ人もあらうがそれは「その場の時宜とその時の模様を知らぬ人が、畳の上で分別して、いふことじや。銘々共は鬼角、その智恵づかいがあつて、親の心に從ふことが出来ませぬ。この金がみなになつたら、あすはどうせうと、兎角前後に気がつき過ぎて、得て親の気を破りまする。孝子は親あることを知つて、我あることを知らぬ、云云。次左衛門は父を老耄せし人とは生涯思はず、さるによりて其危きを知らぬのでござります。このしらぬのが中々常人の及ぶところでござりません。しかればといふて、親が盗みをしに行くのに子がその提灯持をするを孝行ぢやというのではござりませぬ。幸に御互に箇樣の変に出合はぬはありがたいことでござります」と鳩翁は意見を述べて居るのである。  「善悪の二つ総じてもて存知せざるなり」と親鸞聖人が言はれたる心持のやうに、我といふ心のはたらきを離れてただ一心に親の命ただこれ從ふやうになつた次左衛門のことであるから、若しその親が泥坊をせよと言つたならば或は泥坊をしたことでありませう。しかしそれが果して善いことであるか、親を諫めて泥坊をせぬやうにすることが善いのであるか、さういふ理屈の上のことはさて置き、何事も親の言ふことに隨順するといふところに実に貴い心のはたらきがあると言はねばならぬ。  鳩翁は「我なしと申すもの、則ち至善に止まつて居る」と言うものは、即ち自我意識を否定してその価値を無くならしめたときに感ずるところの宗教の心にて生活することである。僧純師の「妙好人伝」三篇上にこの次左衛門の伝記を掲げて、その冒頭に「越前国大野郡西市村の次左衛門は、若き時より無常を報じて、深く弥陀の本願を信じ、念仏する人なり」と記してある。仏教の用語にて阿弥陀仏の本願を信じて念仏する心と言はるるものは正にこの次左衛門がその親に対する態度にて示されるやうなものであらう。それ故に次左衛門の心は仏の摂収不捨の慈悲の中に自分が生きて居るといふことを自覚して、その日常の生活が安樂であることを感じ、幸福であることを喜むだものであらう。  これを要するに、次左衛門の心は我なしで、自力の心のはたらきを離れたものであるから、直ちに自分の外なる力に触れることが出来たのである。それ故に次左衛門は容易にその大なる力を自分の周囲に発見することが出来たのである。それを仏教の用語にて言へば、仏性を自分の周囲のものの中に発見した。すなはちすべての物の上に仏の顕現したまふことを知つたのである。その親に対する態度も全くこの宗教の心に本づくことは疑のないことである。  千萬の夢  弘法大師の「性靈集」の中に「一念の眠のうちに千萬の夢あり」との句がある。すべてが心の世界であると悟るときは、喜怒哀樂一切のものが悉く夢であるといふことがわかる。さうして電光石火のやうな人間の一生に、名利を追ひ、愛著に嘆き、人を憎み、人を恨み、或は泣き或は悲しむこともすべて夢である。それは全く人間の心が眠つて迷ひの中にあるからである。迷があるがために幾萬とも数の知れぬ多くの夢があらはれて人々はそれに迷はされるのである。それが凡夫である。しかしながら凡夫は直ちに悟りによりてその心を覚まされる。眠からさめたとき、その身その心は仏となり、世の中の一切の実相が明かになりて、もはや夢は存在しないのである。莊厳なる自分の仏、永遠の仏が其処に光り輝いて居るのである。それ故に眠より覚めよ。千萬の夢に苦しむな。静寂の極樂へ、即刻覚めやうではないか。  これが弘法大師の宗教の精神である。これを親鸞聖人の宗教の精神に比して固より齟齬するところは無い。眠よりさめよと言はるることは自覚せよと示されるのである。自覚して仏性と法性と一とつにして二つなきことを知ればすべてが仏である。観じ来たれば我身も他身もない。永遠の仏が自身の内に光り輝いて居るのであるから衆生即ち仏である。即身成仏の意味はここに存する。  自覚して自分の仏性を見ることの出来ぬ凡夫は、自分の力にては如何ともすることが出来ぬ。ただ凡夫自からが仏性の中に存して居ることが知らされることの手段によりて悟りの道に入ることが出来る。親鸞聖人の浄土往生の教の意味はここに存する。  本願信受  むかし、四五人の同行が、京都に赴きて一蓮院秀存師の所へ參り、御聞かせに預かりたしと願ふた。すると一蓮院師は一同に対して、  「そのままの御助けぞ」  と言はれた。さうすると、これを聞いた一人が「このままで御たすけでござりますか」と言つた。一蓮院師は「さうでない」と言はれた。また一人のものが「このままで御たすけでござりまするか」と聞いた。一蓮院師はまた「さうではない」と言はれた。しばらくして後に、他の一人が「今一度御聞かせ下されませ」と願ひければ、一蓮院師は又一同に対して  「そのままの御助けぞ」  と言はれた。さうすると他の一人が、その声に応じて「ありがたうござります」と請けたれば一蓮院師は非常に喜びて「御浄土で逢ふぞ」と言はれたと伝へられて居る。  自力の心のはからひを捨てて阿弥陀仏の本願に信順するのであれば「助けるぞ」と聞けば「ありがたうござります」とただこれを自分が受け取るべきである。「このままのお助けでありまするか」などと仏の言葉を詮索すべきではない。  捨身求法  大儒物徂徠が幼時、伊藤仁斎の門に入りて儒学を修めし時学問が出来なかつた。若し学問が出来なければ生きて家に帰るなと、その母が訓戒した故に、徂徠は堀川出水の時に投身して死なふとした。仁齋その死をとどめてその故を問ひしに、徂徠の曰く「我れ愚にして学成らず故に死せむとす」と。仁斎これに対して「その水にはめる身を書物の中にはめよ、学者となるべし」と。徂徠その教に從ふて遂に大儒となつた。「連如上人御一代記聞書」に「信決定の人をみてあのごとくならではと思へばなるぞと仰せられ候、あのごとくになりてこそと思ひすつること浅間敷ことなり、仏法には身をすててのぞみもとむる心より信をば得ることなり」又「至りて堅きは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源若し徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらんといへる古き詞あり、いかに不信なりとも聴聞を心に入れまうさば御慈悲にて候間信を得べきなり、只仏法は聴聞にきはまることなり」とある。地獄の仕事にはめる身を法義聴聞にはめて見よ、御慈悲であるから信は必ず得られると示されたのである。  和兵衛  三河の野田村の和兵衛といふ人、至つて篤信のものであつたが、此人の女房は禅宗生れ、和兵衛は真宗生れ、結婚の式が済むでから三日目に和兵衛は女房に向ひ「因縁ありて夫婦となつたことぢやが、此世だけのことで、一生終つたら大猫よりも劣つた日暮しと言はねばならぬから未来も一所に仕合の身とならねばならぬ。しかしお前は禅宗生れ、私は真宗生れであるから、お互に縁のある教を聞かねばならぬによりて、宗旨は彼此は言はぬから、今後はお互に御参りの邪魔をせぬやう、堅く約束をして置くぞや」と言つて、お互に自分の宗旨の寺へ参つて居つた。ところが此家にたびたび田原のお園といふ妙好人が来て在所の同行が集まりて、朝から晩まで首をつき込むでの話の會があつた。あるとき晝飯のとき、お園が茶を汲みに臺所に出て来たので、女房はお園に向ひて「あなたが御いで下さると、内の旦那や在所の衆が朝から晩まで、さも嬉しさうに御相談をして居られますが、妾はいかなる邪見者やら、只此世のことばかりが面白うて、後生のことは嫌ひでござります」と口から出まかせに言つた。さうするとお園の曰く  「さうそうお前様もさうか、私もそれより外はない、毎日法の話をして居るが、仏法が好きではありませぬ。実は後生のことは大嫌ひで、此世のことが好きでござります。けれども嬉しいことには、後生の嫌ひな、此世の好きなものを、仏様は好いて下されますげなで、此世好きの、後世嫌ひのものが一番がけに參らせて下れますげなで、これが何より嬉しいでのう、このことを毎日談合して居るのぢや」  と言つた。女房は大いに此言に感激して、始めて真宗の法を聞きたい心が起きて遂に真宗の門に入つた。その後女房は夫の和兵衛に向つて  「あなたもあんまりじや、こんな旨い法をあなたばかり聞いて、妾には三箇年も禅宗へやつて、ほつて置くといふことがあるものか、若し今日までに死んで居つたらどうしませう」  と不足を言つた。さうすると和兵衛の曰く  「おれも言ひたうて言ひたうてならなんだが、兎角おれの言ふ帳場ではない、お前ばかりにおかかりなされてある御方があると思ふて、今日まで辛抱したのぢや」  と涙ながらに言つた。まことに和兵衛は、何も彼も法徳一とつにあるといふことを、身を以て知らせたのであつた。  後生の明暗  右の和兵衛が七十余歳の高齢に達して病褥に臥し、しかも臨終の三日前に、丹波の三田源七といふ青年が、死後のことが気にかかり、一大事の後生を尋ねるために諸国を巡りて、和兵衛の処へやつて来た。その時和兵衛は骨と皮とに痩せ衰へた姿でありながら病床にて面會した。源七はそれを見るにつけて自分も一度は此姿にならねばならぬが、後生は何となるであらうかと考へて涙にむせむだが、やうやうにして口を開き  「私は後生が苦になりてあなたのお育てを蒙むらうと、このたびわざわざ尋ねて参りましたが、お見受け申せば御大病の様子、さぞ苦しうございませう。いよいよ其身におなりなされては再び御全快は出来ますまいが、今いよいよ出て行かねばならぬと思ひなされたら、先きは明るいものでございますか、暗いのでござりますか」  と問みた。すると和兵衛は  「いよいよこの場になりて後生が明るいか暗いかとは、よう言ふて下された。病気の様子や気分の善悪は尋ねて呉れる御方はあるが、この私の後生を案じて、行末一とつを聞いて呉れる人はない、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」  と、和兵衛は苦しい病気の中にも、如来聖人の御催促と我身の仕合せとを喜むで居る。それからにつこり笑ふて  「後生は明るいかと言へば明かうもなし、暗いかと言へば暗ふもなし、唯病気が苦しい一とつより無いわいのう。若し明るい暗いを此方で見にやならぬやうなことなら、無になろ御方があるでのう」  と言つて、さも嬉しげに念仏を唱へて居つた。その時、側に居つた政四郎といふ人が横から口を出して  「この大病の中に念仏申されるのは御恩を思ふてのことか」  と尋ねたれば、和兵衛は苦しさ息の下から  「往生は仏の仕事と聞かせて貰ふ上からは、機の上のことは聞かぬでもよいわい聞かぬでもよいわい」  と言つた。まことに和兵衛の如きはよく小我の自力を捨てて、仏の他力に信頼して、所謂信心歓喜の生活をしたものと称すべきである。  高慢の儘  三河の妙好人の七三郎が親鸞聖人の舊跡を參拝して越夜に赴いたとき、刈羽郡の三郎左衛門といふものに遇ひて  「越後は祖師聖人の有縁の土地であるから信者も澤山ござるであらうが、長々御舊跡に巡りて来たけれども私が運の悪るいので難有信者に遂に一度も逢はれなんだ」  と話した。三郎左衛門はこれに対して  「私も関東始め諸国二十四輩を廻りて見たが、ありがたい信者は一人もなかつた」  と言つた。多惣次といふものが、これを聞きて、三郎左術門の言葉を咎め  「信者は一人もなかつたとは、いかにも高慢な話にならぬかい、同じ話をするに七三郎殿のやうに、私が運の悪るいので、逢はれなんだといふて欲しいや」  と言へば、仰信の聞えの高かつた貞信尼が傍に居つて  「いやいや信者のまねなどするよりは矢張高慢の儘の話が、それでよいそれでよい」  と言つた。七三郎が自分の運の悪るいがためにありがたい妙好人に一人も逢はなかつたと言ふたのは、いかにも謙遜卑下の心であると推称せねばならぬ。しかしながら貞信尼が信者のまねをするよりは自性その儘に高慢の相をあらはすこともよいと言つたのも、さういふ自性の醜悪なるところに仏の慈悲が加はることを喜ぶの心を示したのである。まことに美しき宗教の心であると言はねばならぬ。  三州おみつ  三州のおみつといふ同行は重原といふ所のもので、なかなか厚信のものであつたが、自分は地獄の釜の蓋の上に住むで居るもので、地獄に堕ちるにきまつて居るといい、自分が火の車に乗つて居るところを画工に書いて貰ふてそれを寝室に掛けて居つたといふ。渡場といふ所の同行の勘助が他の同行と共におみつを訪問したときに、おみつは皆のものに向つて「私は助けて貰ふよりは後生願ふとさへ見らるればよい」と言つた。それを聞いた勘助等は腋下より冷汗が出たと言つて大いに慚愧したといふことである。  一蓮院秀存師が嘗て同行に書いて与へられたるものに「それ人間は果敢なきものなれば、今にも無常の風来たりぬれば死なねばならぬ故に、早く未来の用心をすべし。我等は罪深きものなれば戦力にてはとても地獄は逃れ難けれども、阿弥陀仏の仰せには我を一心にたのめ、願力によりて必ず地獄へは落さぬ、間違なく我が浄土へ迎へるとの御慈悲なれば、其誓をまことと思ひて一心一向に阿弥陀仏様にすがる思ひの起るとき、はや往生は仏の方より定めたるもの故、露庫ばかりも、我心を頼みとはせず、南無阿弥陀仏の御力一とつにて御助け下さるぞと信じ奉りて、唯何の中よりも称名念仏して、はや一念のとき往生の定まりしことを喜ぶばかりなり」とあるが、多くの人人は阿弥陀様がお助け下されると聞くとき、自分をば悪の方から善の方へ転じて下さるのであると思ふから、隨つて喜びの心が起るのであるが、しかしながらそれは功利的の心である。自分で得手勝手にさう定めて喜ぶか、さうでなければ安心が出来ずして不安に悩むのが常である。これを以て見ると、おみつの宗教の心はよく徹底したものであると言はねばならぬ。まことにおみつの心には是非善悪の差別なく、いかなるものをも助けたまふ仏の御心に計はれて念仏するだけのことであると信ぜられて居つたのである。開悟院師の教に「同行衆、うろたへて居ると阿弥陀様は浄土へ連れていつておしまいになるぞ、ぐづぐづして居ると阿弥陀様に握られるぞ」とあるが、我々はただ仏の摂取の力が自分に加はつて居るといふことを喜ぶべきのみである。おみつが「私は助けて貰ふより後生願ふとさへ見らるればよい」と言つたのも全くこれと同様の宗教的の心持であると言はねばならぬ。  おみつはかやうにありがたい心に滿ちて、宗教生活を樂しむで居つたが、美濃の通徳寺が三河巡化のときに、足腰が立たぬのを子息二人に擔はれて參り、上がりはなから大声を上げて「通徳寺様」と声をかけた。その時、通徳寺は他の同行と談話中であつたが、おみつの声を聞きて、列坐の同行に向ひ「あれが来ては何を言ひ出すか知れぬで、お前達はあちらへ行け」と追ひ払はれた。おみつは「通徳寺様がおいでださうで、參らにやなるまいと思ふてやつとの思ひで、只今子供達に擔はれて参りました」と言ひながら、座敷へ通ほらせて貰ふた。おみつは口を開いて  「通徳寺様、わたしはなあ、いよいよ今が臨終と思ふと、いいか知らん、いいか知らんと思はれます」と言つた。自分の心の相をかへりみて、その醜き相に気のついたおみつには「いいか知らん、いいか知らんと思はれます」の言葉にて、仏に助けられる喜びの心が表現せられて居るのであることを認めねばならぬ。  おみつは自分の著物のよいものから、これを賣りて本山に上げて、しまひには襦袢一枚になりて、寺参りには子供の著物を借りて孫と共に平気で參詣したといふ。臨終に近くなつた頃に船見といふから手紙が来た、その中に「如来様は必ずお助けある」とあるお言葉を子息の久兵衛が三度読みて開かせたとき、おみつは  「ひよつとしたらのう」  と言つた。これを聞いた人々は皆、不審に思ふて、不定心のやうに、悪しざまに言ふたものもあつたといふ「地獄へは堕とさぬ、必ず極樂へ迎へ取るぞ」との仰せを聞きて、ただ喜ぶのは得手勝手の心である。さういふ得手勝手の心を省みて「ひよつとしたらのう」と嘆息するおみつの心は全く私を捨てて仏に信順することが出来て居るのである。それ故に「ひよつとしたらのう」と、あやぶむところに、仏の摂取の御恩の高大なることが感ぜられて居るのである。  内証の世界  我々の周囲にはいろいろの物がある。街上には種々の店舗があり、衣食住何かにつけて自分の好むところが調へられる。娯樂には劇場などがあり、公園には澤山の人が出でて右往左往して居る、まことに賑かな世界である。さうして、その物の世界は多くの人々の世界であるが、それに対して心の世界がある。それは自分一人の世界である。  自分といふものは一人で生れ、一人で死ぬる、何事も自分一人の心で、自分一人で行くところの道である。自分一人の心は外の人には皆目わからず、これを言葉にあらはして話しても、真意は他人に通ぜず、全く自分一人の世界である。しかるに、さういふことを忘れて、多くの人々と共に、世の中に住めば物の世界にのみ目がつきて自分一人の世界を忘れて、その日を幕すのであるから、全く酔生夢死の状態でまことに浅間しいことであると言はねばならぬ。  「唯識論」に唯真証者、自内所証、其性本寂、故名涅槃。」とあるが、内証とは自身の心の内に証るところの真実にして実際に真実の独自の我を見出すことである。この独自の我は、これを仏教の用語にて言へば仏性と名づくべきものである。それ故に、自身一人の内に存するところの仏性を知ることが涅槃のさとりを開くと言はれるのである。実際の上から言へば仏に成るといふことと同様である。さうしてそれは内証によりて仏性を知ることによりて出来ることである。  元来、仏性は無限の奥行を有するもので、何処まで行くも限りのないものである。さうして、それは一人の旅のやうなもので、まことに淋しいものであるが、この淋しさを共に語ることが出来るのは仏である。言葉を換へて言へば和合の心である、自分と他人とを別け隔てる心を忘れたる境界である。言ふまでもなく、自分は自分で心の内証はこれを他人に示すことが出来ぬのである。しかるに、動もすれば人が認めて呉れぬなどと言ふは真にその独自の我を見出さぬものである。若しよく独自の我を見出したるときには、独自の自分がよく世界と打ち合ふて一とつになつた心持になるのである。他人をば追ひ払ふて自分一人で樂しむといふのでなく、自分と他人との別け隔ての心を忘れた境地に至るのである。ここに一切の外物に煩はされぬ自分といふものが光つて居る。自分自からの燈火がある。それは唯、自分だけに明瞭で他の人にはわからぬ。この故に、そこに限りなき親しみを感ずることが出来るのである。  凡そ人間はその顔が同じからざると同様に其心も互に相異して居るものである。それ故に、動もすれば人の心の奥底はわからぬと言はれるが、これは一方の事実である。それ故に、普通に言へば多くの人々の考へは冷たくなり、さうしてそれが為に、永劫の父母たる仏を否定するやうになるのである。しかしながら実際に自分が三味に入りて善いと思ふことは他人にもまた善いと感ぜられるのである。本当に有難いものは唯一とつで、それが無言の裡に発表せられるときに、ここに心の奥の觸れ合といふことが言はれるのである。  此の如く、内証によりて心の奥の觸れ合をすることの出来る人々の間には内証の光輝が常にあらはれて、自分一人で居るときと同じ心持を少しも他のために煩はされることなく、うるさいと思ふやうなことが無い。しかるに内証を他に授けることが出来ぬ人は、多勢の人々の中にありて其心が必ず乱れるのである。内証は必ず誰彼の隔てなく、一切の人々に公開すべきものであるが、しかもそれは自分に取りて最極の秘密であり、さうしてそれは仏性によりて仏からその秘密を受け取つたものであるから、仏性によりて、始めて一切に公開せらるるのである。  自分一人の淋しき世界にありて、これを見つめた自分の本当の相はまことに淋しいものである。さうして、この淋しさに自分一人泣くところの内証は他の人にも同じやうに感ぜられるのであるから、その世界はまことに広大なるものであると言はねばならぬ。さうして、実際から言へば、さういふ世界は自分の勝手のはからひを捨てて、自然法爾にそれに触れることの出来る境地である。それ故に、この境地にありては、すべてのものが、その儘、ありのままに受け入れられるものである。宗教の心の貴きことは人々の心にあらはるるところの仏性によりて、すべてが和合するところに存すると言ふべきである。  物種吉兵衛  今日から凡そ六七十年前に死亡した物種吉兵衞は大阪府の濱寺町大字船尾といふ所のもので、壯年の頃より、熱心に法を求め、獲信の知識をたづねて、聴聞の功を積み、遂に浄土往生の安心に住することを得て、自行化他、大和、河内、摂津、和泉の諸国より吉兵衛を慕ひ来りて法味を愛樂せしものは頗ぶる多数であつた。此時吉兵衛が四国の同行に物語つたことが「口伝記」として殘つて居る。その中には法味の濃厚なるものが多く存在して居るが、その中の二三のものを鈔出して次に之を掲げる。  「私やまだ、今に於き、誰れか布一尺持つて生れたといふことを聞いたことないで、皆裸でヌボット出て来たのや。生れたら、じきにどんな親でもチャントこしらへてある著物を著せて貰ふて、さうして子のない人には出やせんのに、子が出来ると、すぐに乳といふものが出る。その乳が出ぬやうになると御飯がたべられるやうになる。この米をイネといふて命の根になつて呉れるのや。私が力強いといふたかて、米に力貰ふて居るのや。日本の大関でも飯たべささなんだらヒョロリヒョロリじやわや。又私の目はよう見えるといふたかて晝は日天様の御陰で、夜は燈火の御蔭で見せて貰ふて居るのや。夜くらがりで小用しに行く姿見て見よ、手ひろげて探り足で大概不細工な姿やで、それに燈の消えたこと怒つて居るけど、我身の不細工なことに気づかんのや」  「この世界へ生を受けて来て居るものはなんにあるか知れんほど澤山ある。其中で人間は腹がへつたら何なりと口にあふた物がたべられるし、何処ぞ悪るけりや医者に見てもらはうと、寒けりや著ようと思の儘に出来るのが人間に生れさして貰ふた徳やで、外のものはさうはいかんで、夏も冬も装束が一緒やし、いかほど腹がへつても何か呉れられぬ時はたべられんし、大概不自由なことやで、自家に飼ふてある鷄は此方から餌をやつて居るのに大方逃げ腰でたべて居る。その中の強い奴は弱い奴をコツイにひとり大きくなつてたべて居る。この人間でも王様の御護りが無かつたら、強いもの勝ちやで、それに四分板一枚の戸をしめてユックリと寝さして貰へるし、老人や子供が道をあるいても誰も指一本さわるものが無いのは王様がお護り下さるお蔭やで」  「著物でもさうや、かうしてチャンと著せて貰ふて居るので格好がついてあるのや。生れたなりの裸であつたら我家でも面倒で居られやせんで、それにチョットよい著物を著たらすぐに肩怒からかすのがな」  「朝起きたとき、口はねばつてあるし顔は引きしばつてあるのに、此水で洗ふ気持のよいこと、こんな結構な水を頂きながら私やその恩知らんのやがな」  「前滅後生といふて、ちよつとの間も同じところに居られんや。一息々々向ふへおくられて居るのや。朝は晝になり、晝は晩になり、夜寝床へ這入つて何も知らずに寝て居るのにチャンと朝まで道中して居るのや。走りがけでドンドン道中して居る。それに私や死にともないと皆言ふて居る。いかほど死にともないといふて、柱持つてふんばつても、柱ぐるめ向ふへいつて居るのや」  「世間の人は死ねること知らんのでよいのや、死ねることが知れたら、して居る仕事が手から落ちると言ふて居る。そんなこと言ふのは本当のことがわからぬからや。本当に死ぬことが知れたら、我れ生涯にタッタ一日よりない、もう一度暮し直しの出来ん大切な日やで、味ふて勇んで日が送れるわや」  「此世は業のさらし場や、今日このやうにして居ても明日はどんな業の幕が開くか知れんわや。それでも我身にもつて居る業ならどうしても脱れることは出来ぬ故、これが受けおさめであると引受けておくれや。たとひどんな中でも、今日の日は我れ生涯に始めの最後の日やで、ええ所においてくれんし、いやな難儀な所にもおいてくれず、ツウツウと始めた道中して居るのや、気持がよからうな。一番我身を責めるのは何かといふと明日の命も知れんのに、向ふのことを案じるか、もう過ぎ去つてしまふて、とりかへしの出来ぬことを思い出して苦しむか、この二つで我身を責めて居るのや。肝腎の我れ生涯にタッタ一日よりない大切な今日の日を味ふて暮す人ないわ」  「私しやもつと迷ひたいのに迷はれぬやうな目に逢ふ、お形もない御方にこんな目に逢ふのは口惜しいわや、向ふの儘にしられるのやがな」  浄閑  常陸国鹿島郡の某村に忠左衛門という人が居つた。その初め禅宗の流を汲むで居つたが、壯年の頃に愛妻におくれ、深く世の無常を感じて後世の志が切になつた。しかるに仏法の中に於て八宗九宗いづれ勝劣わきまへ難し。何れの法にもあれ、神明の御意にかなひたらんものを学ばんとて、氏神へ三七日の間断食して祈りたるに、そのしるしもなきほどに、又鹿島明神へ三箇年の間三里の行程をば、雨の降る夜も、風の吹く日も怠ることなく通ふたのであるが、これも亦その驗が無かつたので、我が有終の宗旨に依らんとて禅宗に入りて法門を学び、坐禅すること凡そ十年ほどであつた。しかるにかつて朦朧として更に悟りが開かず、途に真如の月を見ることが出来なかつた。それで又改宗して真言宗となり、密行を修すること三年であつたがこれも又成就せず、それから末世解脱の法は念仏に如くものはないと聞いて、終に聖道門を捨てて浄土門に入りて、一心一向に念仏し、初めは日課二萬三萬なりしが後には五萬六萬遍を怠らず、前後十二年の間に六十余州を順拝すること兩度にして常に念仏怠らず、往生を願求したのであるが、これも決定の心に住することが出来なかつた。兎角する内に年齢が長けて六十歳になつたので、心がせかるるほどに、又改宗して日蓮宗に帰し、まことに釈尊出世の本懐此法に過ぎたるものはないと考へ、常に法華を誦し、題目を唱へた。時に忠左衛門思ふやう、今より後妻をもうけて世事を悉くこれに任かせ、又後世の同件ともなるべき妻を得むとて氏神へ祈りければ程なく有縁の妻を得たのである。しかるにこの女一遍の題目を唱ふることがないので、忠左衛門大いに望みを失い、却つて神明を恨み、かくして二年の月日を送つたが、あるとき妻が自分の居間の箪笥の前にていと殊勝に拝禮せるを忠左衛門は見とがめ「汝なにを禮するぞ」といへば妻答へて曰ふやうは「是は我が母より賜はりし守り本尊におはしまし候」と言ふ。それで忠左衛門は「我れにも拝させよ」と言へどもこれを許さざりければ、くせごとありと大いに責むるほどに、妻はやむことを得ずしてをがましめしに寂如上人の裏書のある御本尊であつた。忠左衞門は驚きて「この本尊を信仰するには仔細ぞあらん、聞かすべし」と言へば妻もいまはつつむに及ばず、語りていふやうは「我れは浄土真宗の御流を汲むものである。かかる罪悪の身が弥陀の本願にたすけられ參らすことの難有さに忍び忍びに御禮を申すなり」といへば忠左衛門は笑ひて「汝が如き放逸のものが極樂往生などとは片腹痛きことなり」といへば「我が往生の成否はしばらく置て君は決定して成仏したまふや」といふ。忠左衛門の曰く「我れ壮年より仏法に心をかけ、さまざまの苦行を経たれども未だ決定して成仏せんことはよもあらじと覚ゆるなり」といへば、妻ははらはらと涙を流し「これにつきても阿弥陀如来の本願こそいよいよたのもしく候。御身の如き善人すら得たまはざる成仏の道をこの愚痴の女人の身が凝なく領解せんことは偏に仏力の所作なりと、身にあまりて貴く存ずるなり」と語れば忠左衛門は肝をつぶし「さてさて思もよらぬ貴きことを聞くものかな。我も浄土真宗の安心を聞きたく思ふなり。汝が心得たる通ほりを聞かせよ」といへば、妻は「いよいよ真宗に帰けんと思召さばいそぎ弥陀の本願の御いはれを聴聞申し、深く如来に帰命したまへ」とて本尊を取り出し御机に三具足をかざり、「正信偈」「和讃」「御文章」をそなへ「女の身にて取りあげ拝読するは畏れ多きことなれども真宗の教を聞きたく思召す故に読みて聞かせ申さん。是は蓮如上人の直説なれば謹んで聞きたまへ」とて一通を読む。その御文章に曰く「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、乃至、ものなり、穴かしこ穴かしこ」この一通聴聞した忠左衛門は日頃の不審忽ちにして晴れ、「さでもありがたきことなり」とて大いに喜び「かかる貴き御法をなぜ今まで教へざるぞ」と、或は恨み、或は喜び、更に正体が無いほどであつた。妻いふやう「これまでもこのこと勸め申さんと存じたれども、愚なる女のいふことを何ぞ用ひたまはんや、宿善まかせなれば力及ばず、空しく暮したのでありますが、今ぞ宿善開発の時なるべし。とく宗門を改めたまひて弥陀の本願を深く信じたまへ」といひて、五帖一部を与へければ忠左衛門は次第を追ひて拝読しけるが、神明三箇條の御文章に至りてほろほろと泣きければ妻は傍へ立ち寄り「何故に落涙したまふや」と尋ねければ、忠左衛門は「今この神明三箇條を拝読し奉るにつきて神明の御本意を初めて知り、今までは神明には未来の利益なきことと思ひけるに、今この弥陀の本願の御いはれの聞えたは全く神明の御方便のあらはれと思へば難有やら、勿体ないやら」といふて、泣いたり喜むだりしたといふ。忠左衛門はそれよりいよいよ、御法義を厚く喜むで鳥の巣の無量壽寺の門徒となり、後に剃髪して法名を浄閑といふ。寶暦年間のことである。  宗教といふは我々人間の心が、思慮詮索のはたらきを無くして、我執の見が全く否定せられたときに、そこに感ぜられるところのもので、如来の本願と言はれるものが容易に受け取られて、常に歓喜の心をあらはするのである。智能のはたらきの一切が価値なきものとせられて自分といふものが空虚となつたとき、自からにして喜びの心があらはれて来るのである。この忠左衛門の如きは自分の心の改善を希望して宗教を求めたまではよかつたが、それを自分の思慮詮索の力によりて得やうとしたために狼狽して、いろいろの宗派の間を流浪して、しかも自由安樂の境地に至ることを得なかつたのが、妻の態度に動かされて自分を虚しくすることが出来て、ことに宗教の心を得ることが出来たのである。  南無阿弥陀仏  伊賀の妙好人三左衛門はその姪が大阪に住むで居つたのを尋ねてしばらく逗留して居つた。その隣に医者が居つて、宗旨は法華宗で、念仏の声が大嫌であつた。あるとき医者が三左衛門を訪問して三左衛門に対して念仏を誹り「南無阿弥陀仏とは南に阿弥陀仏は無いといふことぢや」といふ。三左衛門は不学の人ゆゑ文字を知らず。その医者に対していふ「お前様の名は何と申しますか」「わしは山川道生といふ」「左様ならば山は木のある山かへ」「さうぢや木のある山ぢや」三左衛門又問ふて「川は水の流るる川かへ」「さうぢや水のある川ぢや」三左衛門の曰く「しからば御名の道生は何と書きますか」医者答へて「道はみち、生は生まるると書く」といふ。三左衛門これを聞いて「それではお前樣は道で御生れなされた御方かへ」と問ふ。医者曰く「この親仁はあまりなことをいう。山川とはわしが苗字、道生とはわしが名ぢや」といふ。三左衛門「さやうならばお前さんは南無阿弥陀仏は南に阿弥陀仏は無しといふことぢやとおつしやるが、南無阿弥陀仏といふは阿弥陀如来の御名でござります」といひたれば、医者はかへす言葉なく「この親仁めが」といふて早々にして帰つた。あとで三左衛門の姪が「伯父さん、最早あの御医者さんに何事も言ふてお呉れな、私しや嫌ぢや。きつう怒つてぢや、恐ろしい」と言つた。その翌日、医者は又来りて「昨日の話についてもつと承はりたく參つた」といひ、段々と話をして居る内に、医者は痛く感じ入りて終に法華宗を離れて浄土真宗に帰したと。  後生  後生といふことは死してから後に生れる世のことであるとするならば、今日生きて居るところの世界から離れて死してから後に生れる世界が後生であると、はつきり別けて考へることが出来る。これが普通の人の考へ方であらう。  さうすると、後生というものは死後の世界で、さういふ世界がどこかにある筈、さうしてそれはどういふ世界であるかを詮索せねばな安心が出来ぬことであらう。親鸞聖人の「教行信証」行巻に  「夢幻非真、壽夭難保、呼吸之間、即是来生」 とありて、来生とは呼吸の間であると説いてある。生死無常の道理がわかれば、後生とは死んだ後に始めてあらはれる世界であると、自分と離れた世界を考ふべきでないと言はねばならぬ。文応元年十一月十三日付親鸞聖人が乗信房に宛てられたる手紙に  「なりよりも、こぞことし、老少男女多くの人々の死にあひて候らんことこそあはれに候へ、ただし、生死無常のことはり、くはしく如来の説きをかせおはしまして候上は驚き思召すべからず候、まづ善信が身には臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は疑いなければ正定聚に住することにて候なり」  とありて、親鸞聖人は平生、阿弥陀仏の本願に信順して正定聚に住して居れば、何時死んでも後生は差閊ないと安心して居られたのである。それ故に、後生と言つても、十年も二十年も先きのことを考へるのではなく、只今の呼吸の間に後生はあると知るべきである。香樹院講師の言葉に  「実にはやき川の流の如く、駿馬の走るが如く、過去・現在・未来と瞬きする間も止まぬが三世無常のありさまなり。しかるに、凡夫のかなしさに、名に惑ふことがありて、今年の正月から来年の正月といへば十二月の隔があれど、極月になりて、来年の正月といへば最早手の届く隣がすぐに正月になる。それが大晦日になると早や明日がすぐに来年になれども来年といふと、何だか向ふ遠いやうに思はれてならぬものなり。今も追つけ死なねばならぬけれどを後生じやの、未来ぢやの後世のと、言はれる言に迷ふて、遠い先きのやうに思はれてならぬ。しかるに、我々が思ふ臨終の隔りを一とつ取つてしまつて、老少不定をながめて見られよ......」  長き月日の先に後生があると思ふは誤り、いつでも後生はその時にある。遠い先きのことを指して言ふやうに考へられるのは我々の心の迷である。  「後生とて別なことではない。寒ければ寒い、暑ければ暑い、と五人よりても十人よりても、同じことを言はずともよいことを、顔見合せて寒いといふは寒さが身にこたへる故ぢや。後生の一大事も真実になればただ同行寄り合ふて、今まで大様にしたことの浅間しやと、思ふがまま、顔にあらはれ、言葉にも出る、ここが真実の後生を願ふところなり」  香樹院講師の説教はいかにも適切の言ひ方である。後生の一大事といふことも其実ただ今の一大事である。唯今を離れて十年二十年も先きのことのやうに思ふてはならぬ。まことに「呼吸之間、即是来生」である、些も油断してはならぬのが人生の常である。  仏の慈悲  三河の勘介といふ同行、京都へ上りて、一蓮院秀師に示談を願ひ早速面會を許されて懇切の化導に遇い、勘介は天に踊り地におどるほどに喜びて宿に帰つたが、ふと思ひついたことは「自分は何時もかうである、お聞かせにあづかつたとき、一言の小言もなく、真にこのなりでよかつたなあと歓喜、ほんに跳ねて見たい位だが、さあ其あとが又もとのぐずぐずになつてしまふ。これこそ聞かせて戴かねばならぬ」と、翌朝未明に參上して御願した。すると一蓮院師は逐一勘介の言ふことを聞かれて、何事も言はれず、ウッソリウッソリとただ笑ふて居られる。勘介は心の中に「私の申し上げやうがわるかつたか」と恐縮して念仏して居つた。しばらくありて、一蓮院師は口を開いて  「お前がこれではこれではと言ふて逃げても、仏様はそれでもそれでもと仰せられるわいの」 と言はれた。勘介の心には仏の慈悲を聞いて喜ぶのが本当であり、ぐづぐづして居るのは仏の慈悲を頂かぬのであると心配に堪へぬのである。仏の本願は賢愚、老幼、男女を差別することなく、一切のものを摂取して捨てたまはぬのであると言はれるのであるから、仏の本願を聞くときはただの慈悲を喜ぶべきのみである。しかるに自分本位の私の心を頼みにして彼此とはからふときは、仏の慈悲を感ずることは全く出来ぬことになる。仏法はただ聴聞に限ると説かれるのはこの辺の意味を明かにせむがためである。  六字のいはれ  江州伊香郡高野村の広部信次郎といふもの、十八歳の時、美濃の妙信尼といふものに遇ふて始めて仏の慈悲を喜ぶ身になつたが、其頃京都に一蓮院秀存師といふ高徳の方があると聞いて、早速上京して一蓮院師を訪問した。一蓮院師は「予に遇ひたいと言ふのは其方か、何用あつて来たか」と言はれたので、信次郎は「南無阿弥陀仏の六字のいはれを聴聞仕りたく參上政しました」と申した。さうすると一蓮院師は「よく參つた。今まで聞いたこともあらう、何と聞いたか」と問はれたので、信次郎は  「必ず助けるぞと、呼びづめにして居て下さる如来様の御呼声の間違ないと頂いて居ります」  と申し上げければ、一蓮院師は滿身を動かして歓ばれ「それが六字のいはれといふものぢや、たのむといふも信ずるといふもまたそのことぢやぞ」と言はれた。それより信次郎は時々一蓮院師の許に參るやうになり、遂に一蓮院師に随從することとなつて称名念仏を喜ぶ身となつたのである。  元来、念仏といふことは仏を憶念することで、これによりて仏の相好を想ひ、その功徳を仰ぐのであるが、法然上人が善導大師流の専修念仏を唱へられたのは、此の如き観念の念仏を排して、南無阿弥陀仏の六字の名號を称ふることとせられたのであつた。南無阿弥陀仏の六字を称ふるのであるから、これを称名念仏といふのであるが、称名念仏とは自分の得手勝手の心のはからひを止めて、一切を仏に任せる心のすがたである。「必ず助けるぞと呼びづめにして居て下さる如来様の御呼声の間違ない」と信ずる心はその場合に感ぜられるもので、それは自分の得手勝手にはからふ心のはたらきが止みたるときに感ずることの出来る仏性の光に照らされた心のすがたである。  同行がこの信次郎に向つて「私は聞くときだけで、後ですぐにぐづぐづになりて何の保ちも無くなつてしまひます」とて、いかにすればよいかと聞いた。さうすると、信次郎がいふやうは  「それだから阿弥陀様ばかりの御助けが難有いではありませぬか」  自分の心は如何やうにもあれ、阿弥陀様はかかるものをお助けになると聞いてただありがたいと喜ぶべきのみである。すると同行は  「私は困るときには困るだけ、阿弥陀様ばつかりも思ひ出すことが出来ず、ただ当惑一杯でござります」  と言つた。信次郎は曰く  「それだからいよいよお前様の思ひやうをまぜて下さらぬ阿弥陀様ばつかりのお助けがありがたいではありませぬか」  同行は尚ほ理屈を言ひつづけて「それがどうも其時になるとさう思へませんで迷惑でありますがな」と言ふ。信次郎曰く  「それぢや、さう思へるときも御助け、思へぬ時も御助けだから、阿弥陀様ばつかりといふのぢやないか」  同行も逐に笑いながら「今はまことに不足はありませぬが、それでも又、さう思へぬ時が出て来ます」と、小言をいふ。信次郎も笑いながら  「どんな心が起つた時でも吃度お助けに間違はない」と言ふ。同行は「それでもあなたにお別れ申すと、又困りて来るに違ひありませぬ」これに関して信次郎が曰ふやう  「其時には屹度お助けに間違ないとの如来様の御約束だと、信次郎の言つたことをよくよく思ひ出しなさい」  まことにその通ほりである。得手勝手にはたらく自分の心を空虚にすることさへ出来れば、仏の慈悲は、何の造作もなくすぐに感ぜられるのである。この場合にありては、仏が必ず助けて下さるといふ言葉を聞くだけですぐにその慈悲を喜ぶ心があらはれるのである。功利的の得手勝手なる「我」といふものを其儘にして「助けて貰ふといふこと」を喜ぶのであるならば、それは自分でさふきめて喜ぶだけのことである。本当に宗教の心が起りて喜ぶのは、さういふ「我」の心が止みて、何の理屈もなく、ただ喜びの心に堪へぬのである。  喜びの心  三州重原のおみつなかなか厚信の婦人であつたので、これに遇ふ人達が  「あなたはよくお喜びになりますな」  と言ふと、おみつは手を振りて  「いやいや私はそのやうなものではない、地獄の釜の蓋の上に居るもので」  といふ。前にも述べた通ほりおみつは神谷彦十といふ画師に自分が火の車に乗つて居るところを画いて貰ふて、それを軸物にして、自分の寝間にかけて置いて、始終それを見て喜むで居つたといふ。前項に述べた信次郎がこのおみつの所に立ち寄りて相談がすみて帰らうとするとき、おみつは奥より這ひ出して「さつぱりあかぬ、さつぱりうそぢやうそぢや」といふた。そこで信次郎は「それは何故に」と聞いた。するとおみつは「仏様は島渡も拝がむだことはない、念仏は大嫌ひ……」と曰ふ、おみつはありがたい同行と評判の高い婦人であつたから、仏を拝がむだことが無いというのも真に心からして仏を拝むことのない自分の心のあさましさを懺悔するのである。念仏に大嫌いといふのも同じく自分の念仏が真実でないと深く自分の心を内観してのことである。  そのとき信次郎は「どんな奴でも如来様の仰せばかりはほんまだぞえ」と言つた。それを聞いたおみつは  「ほんまかえよ。みつ早う来いはほんまぢやと仰せらるる」  と言つて、しきりに喜むだのである。おみつの心は煩悩具足・罪業深重のすがたを内観して自分といふものを頼む心を捨てたのであるから、仏の慈悲の広大なることを示す言葉を聞いただけにて、すぐに踊躍歓喜の心が起つて来るのである。  地獄一定  香樹院講師の教導を受けて常に法味を愛樂して居つたお岸といふものが、老年になりて病にかかり、死に臨みて、地獄が近くなつたとしきりに苦しみ出した。この娘なるものが大いに悲歎して急ぎ京に上り香樹院講師に面謁を乞ふて、右の仔細を述べて教を乞ひしに、香樹院講師は  「自分が勝手に堕ちるといふのなら、仕方がない、殘念ながら地獄へやつてしまへ」  と言はれた。娘はせんかたなく、我身が地獄へ堕ちたやうな気になりて声を上げて泣いた。さうして、暇を乞ふて帰らむとする袖を引きとめて  「凡夫の身ぢやもの、地獄へ堕つることは今更ではない、当り前ぢや、その必定して地獄に障つるものを其儘助けると仰せられるのが阿弥陀様の仰せぢや、それでも勝手に地獄に行くのか」  娘その言を聞いて、本願の不思議を身に頂き、厚く御禮を申して家に帰り、母に向ひて  「香樹院様は、その堕ちるのを助けると仰せられるが、弥陀の命ぢや、それでも地獄へ往くのかと仰せられた」  と言つた。母はこれを聞いて大いに歓喜して  「今こそ始めて如来様の大悲が身に染みました」  と言ひながら快く往生したといふ。自分の心の浅間しく罪業の深重なることに気がつけば地獄一定と知る外はない。その地獄一定のものを助けて必ず報土へ往生せしむるとある仏の本願を聞信すれば地獄一定の心に苦しむ咎はないのであるが、廃悪修善、自から其心を浄ふすることが、仏となりて人間苦の世界を離れる唯一の道と考へるために、地獄一定が苦悩の種となるのである。  千代女  千代女は加賀の松任、金澤から二里ばかり離れた小市街の表具屋福揄ョ六兵衛の娘、十二の年から俳諧を学び後には支考の弟子となつてその名が大いに世にあらはれるやうになつた。十九の時に加賀藩の足軽福田弥八に嫁して間もなく一子弥市が生れたが、それから八年経つて千代女二十七歳の時に夫弥八は死亡した。    「起きてみつ寝て見つ蚊帳の広さかな」  その翌年に一子弥市も死亡した。    「破る兄のなくて障子の寒さかな」  それから離縁の手続きをすませて千代女は松任に帰つた。再縁の話がうるさいので髪を刺つて尼になり、名を素円と改めた。さうして、聖興寺住職柳松院及びその法嗣速成院に就て仏法を聞いた。  かくて、千代女は老院師に就て仏の道を聞く内に、段々と心が開けて、最愛の夫や幼き子供の死亡などのために傷ついて居つた千代女の心にも、一道の光明が認められるやうになり、自分にも何だか心が明るくなつたやうに覚え、遂に仏の慈光のもとに安住するやうになつた。    得道の句    「兎も角も風に任せて枯尾花」  何事にも動かされ易い、自分の心で、彼や此やとはからふことなく、さういふ自分の心での、得手勝手の希望や計画などをさつぱりと止めて、自然法爾の大道にその身を任せることが出来るほどに宗教の平和なる心が発展したのである。  千代女は本より東本願寺の門徒で、親鸞聖人の流を汲むだのであつたが、その安心の境地は    「根は切れて極樂にあり枯尾花」  であつた。夢幻のやうな此世の人間として、あくせくと生活して居る凡夫の生涯が止むときは、仏の本願によりて極樂に生れさせて頂くといふ信心の上にその心を安んじて居つたのである。極樂といふのは心のはたらきの上から言へば涅槃の境地で、それは我々の心が円滿至上に達したものである。それをば一とつの客観の境地として極樂と名づけるのである。今この世にありて風に吹かれ、雨にぬらされ、霜や水におかされて、辛苦に辛苦を重ねて命を続けて居る枯尾花の自分も、その根は巳に切れて極樂にあると考へるのであるから、煩悩即菩提、生死即涅槃の心境に外ならぬのである。千代女の如きは真に善く宗教の心をあらはすことの出来た婦人であると言はねばならぬ。浮世の雑事はスッパリと思ひ断ちて、今は只仏の道を行ひ澄ますことを期した千代女の心はまことに美しいものであつた。  親鸞聖人五百回御忌に東本願寺へ上りたる俳句に次のやうなものがあつた。  「かかる御時に遇ひたてまつりて賤の男、賤の女、ただひとつ御法におさめとり玉ふありがたさの、あまりに恐れ多く、つたなき言葉をささげ奉りて   葉も塵もひとつ臺や雪の花」  阿弥陀仏の本願は、男も女も、老も若も、賢も愚も、すべてを御法の中におさめ取りて捨てたまはぬのである。それ故に、思惑極まりなき自分までが、その本願に救はれるといふことはまことにありがたいことである。何とも御禮の申しやうもないことである。さう感ずる所のものがすなはち宗教の感情であるが、さういふ感情を本として宗教的思考といふものもあらはれて来るのである。   真如平等といふことを    「清水には裏も表もなかりけり」  まことに真如は遍く宇宙に充ち満ちて居るもので、それは平等で、差別のないものである。一切が平等で、彼と此の区別なく、人と我との差別はない。胸中の荊棘をひら去りて人の往来に使することが出来れば、これこそ天下第一の世界であるといふ古人の言葉もある通ほりに、真如平等の観に徹すれば、人の悪しきは我の悪しきで、自是他非の凡夫の浅間しい考へは無くなるのが当然である。  師匠の速成院から「そなたが日頃の信心のよろこびは」と問はれたとき、千代女は    「延ぶるほど土に手のつく柳かな」  と答へた。我身は現に罪悪生死の凡夫、何れの行も及び難きものである以上、仏の本願がさういふものを助けられるのであると聞くときは、ただ仏の御恩を喜ぶべきものであるが、仏の御恩を喜ぶ身となりて見れば、ますます自身が罪悪生死の凡夫であるといふことに就て深刻に懺悔せねばならぬ筈である。「延ぶるほど土に手のつく柳かな」とうたはねばならぬのである。  おみせ同行  三州の御油の蔦屋おみせ同行は、名高い田原村のお園さんに一生つき纏ふてお育てを蒙られたのであつたが、後には第二代目のお園さんともてはやされたのであつた。九十一歳の老人となつたとき、阿知和村から二人の同行が来て「此家の婆様に御法縁が頂きたいために今日阿知和村から尋ねて参りました、どうぞよろしく」と願つた。間もなくおみせさんは若い衆に手を引かれて店へ出て、「今承れば阿知和村からおいで下されたげなが、松林寺様はお変りはございませんか、妾も若い時には度々御世話になつたのであります」と尋ねた。二人の同行は「もう松林寺様は亡くなられた故に外に聞かせて貰ふ御方も無し、只今あなたをお尋ね致した次第であります。何卒御一言お知らせ下さいませ」と頼むだ。おみせ答へて曰く「左樣かな、もう亡くなられましたか、しかしあなた方は後生となると、あの人のやうになつたら、こうでもあるまい、どうぞさうなりたいものぢやと、なりたい思ひが無いかのう」同行「お婆様そればかりでございます、なりたい思いがなければ此処までまゐりませぬ」おみせ「さうさう、我々は二十五有界、ただなりたいただなりたいだけで迷ふて来たのぢや、五分の虫は一寸の虫のやうになりたい、鼠は猫のやうになりたい、猫は犬のやうになりたい。なつたら負けはせまいと、このなりたい心が罪となりて今日まで迷ふて来たのぢや、この度といふ此度は、嬉しいことにはこのなりたい心のあつたが仕合せとなりて、末代の凡夫なりたい心はいかほどあらふとも、必ず救ひたまふべしと、先手かけられて、なりたい心の儘やつて頂けばあんまり嫌気もないでのう、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と言つて喜むだ。  それから又、一人の同行が「私は人の足元はよく見えてならぬが、我身のこととなれば少しもわかりませぬが、これが邪見驕慢といふものであらうかと心配になりますが、御一言御意見を蒙りたい」と言ひしに対して、おみせの答に「それが其儘、邪見驕慢といふものでありますげなが、それでいよいよ御開山様の邪見驕慢の悪衆生、信樂受持すること甚だもつて難しとする御意見が嬉しい。御開山の思召は、聞かぬものには邪見も驕慢もあるのぢやないが、聞くと必ず此処よりころび込むで来るより外に仕方のない奴と、ちやんと先きより見込をつけさせられてあること故、御開山樣のお見込の処まで出たら、御一生の御化導を殘らず聞いたと思いなされ。仮令門に澤山の子供が遊んで居ても悪戯をしたら晩に家中に入れぬぞよと意見をするは我子一人より外にない。御意見を蒙りてこそ、いよいよ私一人の大悲の御親と、親心を知るのぢや」  それから又、おみせの言ふやう「皆が凝を嫌ふやうな聞きやうをするが、それでは親心にかなはぬ。乳呑子が母の乳房を噛むと、乳を呑ませぬと腹を立てるといふことはない。却つて歯のはえたを喜ぶが如く、大悲の御親は、疑へば助けぬぢやない、却つて疑の歯のはえたことを喜ぶまでの御意にあふのぢや。けれども凝ふてさへ居ればよいと聞くのぢやない」  光明の御はからひ  越後国長岡に桝屋忠右衛門といふ厚信のものが居つた。此辺、法務のことが殊の外やかましく、大勢の同行が集まりて「いやたのむぢや」「いやたのむことはない」と互に争ふて議論の止む時が無いほどであつた。その同行の一人が忠右衛門に其事を尋ねたるに、忠右衛門の答に「蓮如様の御勘化に御助け候へとたのむが信心ぢやと仰せられた。さればそのやうに理屈をつけて言ふのは眼で物を見るといふやうなものぢや」と言へば、同行「眼にて物を見ずして何で見る」と反駁したれば忠右衛門は立ちて暦を取り出し来たり、その同行をくらがりへ連れて行き、「これを見て下され」といふ。同行「これがくらやみで見えるものか」といふ。忠右衛門「それならば眼で見えるのではあるまい、日月の光か、燈火の光ならでは見ることはならぬ。それと同じ事ぢや、みんな如来の光明の御はからいより起さしむる他力の大信心ぢや」と言ふたので、皆のものも懺悔したといふことである。  他力  美濃の仏照寺の住職中島覚音師が使いとして三河国へ下り、高座の上より參詣者の顔を見廻しながら「この三州には坊主も澤山居るが、他力を知つて居るものは一人か二人かと言ひたいが、とても一匹も居りやせまい」と言い放つた。其寺の住職がこの一言を聞いて憤慨し、説教の終りを待ちて座敷へ飛び込み「なんぼ御使僧でも今日のやうなことを言はれては他から差し止める。他力を知つたものは一匹も居りやせまいとはあまり非道いぢやないか」と目玉を三角にして怒鳴つた。さうすると、中島師はそれを聞くなり、物をも言はず、直ぐに座を立ちて、院主の下座へさがり、うやうやしく兩手をつに「甚だ失禮を致しました。どうぞお許し下さいませ。私は今日まで他力を知つてござる御方は十方法界を尋ねても、大悲の御親様御一人ぢやと心得て居りましたが、実に誤りました。他力を知つてござる御方は貴僧でござりましたか。この私はまださとりませぬ。貴僧に遇ふたが幸ひ、何卒他力といふことを一言お知らせを願ひます」と言はれた。院主はびつくり仰天し、閉口頓首して中島師の下座へ下り頭を疊にすりつけて「恐れ入りました。私は知らず知らず我こそ他力を知つて居るやうに買ひ被つて居りました。どうぞお許し下さいませ、只今こそ、始めて他力を知らせて頂きました」と、心から懺悔せられたといふ。  自分一人のため  伊勢国くれなみ村の梅澤新七といふもの手次の演暢寺の例月説教に十四年間一回も欠かさず、仰信の聞えが有つた。あるとき職に面して  「私は昨晩からずも阿弥陀様と御開山様とに御目にかかりました。誠にうれしうございました」  と言ふ。住職それを聞きて、それはどういふことかと問ひしに対して新七は曰ふ  「先頃今泉の人に、今日炭を賣る約束を致した。後に考へて見れば今日は例月の御説教日であつたと存じて大いに後悔いたしました。今朝山へ炭を負ひに行けば御説教に參詣がならず、炭をやらねば人に約束をたがへ、念仏申す口にうそをついてはならぬ、私がうそをつけば法義にきずのつくことで、私一人の恥でない、さて困つたものぢやと、いろいろ考へて、身に樂をして兩方都合よくしやうといふのは横著であつたと、心づいたので、昨晩徹夜して炭を取つて来ました。さて昨晩炭を負ふて山を下るに、つらつら思ふやう、私は自身の金儲のためにかうして山坂をあゆむ難儀を思ふに、阿弥陀様は兆載永劫の間、御苦労を下されて更に難儀じやと思召されず。それもこの新七のためであつた。それから御開山は叡山から六角堂まで百夜が間、通ふて下されたのもこの新七一人がためと存じたれば、その御艱難を思ひ、夜道を厭はずして炭を負うことが出来ました」  新七は自分を反省することが深くして、宗教の心がよくあらはれ、不思議なる力によりて自分が生きて行くことが有難く感ぜられるのであつたから、自分が炭を負ふて山を下る際にも、阿弥陀仏や親鸞聖人の恩徳が自分一人に加はつて居ることを痛感したのである。その日常生活が苦悩を離れたものであつたことはこの一事を以て推して知られるのである。  聞法の生活  禅宗の高僧で、駿河の原に居られた白隱禅師が、提唱の半ばに右の手を上げて「この片手に声ありや無きや」と、参詣の人々に尋ねられたが、只の一人も答ふるものがなかつた。皆の人々は「あれが禅宗のさとりと見える、兩手叩けばポンポンと音がするが、片手の声とはわけがわからぬ」と、互に顔を見合せて、不審の眉をひそめて居つた。すると妙心といふ尼が、高座の前に進み出でて    白隱のあげて声ある片手より兩手合せて南無阿弥陀仏とやつた、白隱禅師はこれを聞いて「其方は真宗の門徒であろう、感心なことじや、しかし、片手の声は法然や親鸞の宗旨ではわからぬぞ。これは禅宗の大悟徹底といふものじや」と言はれた。さうすると、妙心尼は更に    片手にも声あればこそ招かれて弥陀の浄土へまゐる妙心 とやつた。大悲の親様は、十劫正覚のむかしより呼びつめて待ちつめてござる。右の御手が、「この弥陀たのめ、左の御手が必ず助ける。その御呼声じや」と妙心尼の心には理解せられたのである。かういふことは其心が宗教のはたらきを十分にあらはすやうになりて、すぐに感知せられることである。普通の考へでは何のことかわからぬのが常套のことであるが、宗教の心があらはれて居れば、片手はおろか、世の中の一切のものが法を説いて居ることが知られるのである。其法を聞くことが出来るやうになれば、この世は安樂に、自由に、何等の苦しみも無しに生活することが出来るのである。  反求其身  孔子の言に「射有似君子、失諸正鵠、反求諸其身」とあるが、その意味は、君子の行は弓を射るに似て居る。弓を射るには向ふの的を目当とし、黒星をつらぬくを本旨とするのである。若し射損じるときでも的は咎むるやうは無い。ただ我が射方のあしきことを、我が身に立ちかへりて、身のそなへを正しくし、射方を正しくするに如くはない。君子の行もその如く、萬事に向ふて、節に中らざれば、我身に立ちかへり、身心共に正しくするが故に、萬事節に中らずといふことなし、小人は只向ふの的へばかり眼をつけ、若し当らざれば的のわざのやうに思ふのはひがごとであるといふことを示されたのである。  何と言ふても、我々は此世に生れ出でて、それから新しき旅を始めてするのである。それ故に、眼に入るものはいろいろ珍しきことばかりであるから、それに心を奪はれて、ただ山や川が美しい、木や草や花が奇麗である、市街には澤山の人が往来してまことに賑かである。それらを眺めて面白いと思ふて居る内に、いつか道を踏み迷ふて居るのである。 兼好法師の「徒然草」に 「蟻の如くに集まりて東西に急ぎ、南北に走る。高きあり、卑しきあり、老たるあり、若きあり。行く所あり帰る家あり。夕にいねて朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貧ぼり利を求めてやむときなし。身を養ひて何事をか待つ。期する所ただ老と死とにあり。その来ること速かにして念々の間もとどまらず。これを待つ間何の樂しみかあらむ。迷へるものはこれを恐れず、名利におぼれ、先途の近きことをかへりみねばなり。愚なる人はまたこれを悲しぶ、常住ならむことを思ひて、変化の理を知らねばなり」  とある。まことに世の中の人の心の相はかやうである。それ故に、人生の旅をする道中に幾度も道をふみあやまり、行きつ戻りつして、目的の所に行きつかぬ前に、あはれ命が無くなるのである。それ故に、かやうな心をよく修めて、正しき道を歩むやうにせねばならぬと教へられるのである。しかしながら、我々の心は、和泉式部の歌に    いかにせむいかにかすべき世の中をそむけばかなしすめばうらめし とあるやうに、凡夫の心は如何ともし難い。この世を厭ふによりて妻子に別れ、隠遁の身となりて修行しても根が凡夫のなさけなさには、妻子の愛情は忘れ難いものである。それで矢張人間の常態に任せて世を渡らうとすれば萬事が思ふやうにならず、うらめしきことが多いのである。行基菩薩の言に  「世に随へば望あるに似たり。俗に背けば狂人の如し。あら憂の世界や。何れの処にや身を寄せむ。浄土にあらずんば思ひに叶ふ所なく、聖衆に交らずんば何ぞ心にかなふことあらむ」  まことに、我が身を顧み、我が心を省れば、煩悩具足・罪悪深重の相である。この迷妄の心を捨てることをつとめてこそ、始めて我々は自由・安樂の生活を喜ぶことが出来るのである。  地獄か極樂か  天草の才津といふ所に勘四郎というありがたい同行が居つた。人が法義のことなどを聞くと、ただかたじけないとばかり言つて悦むだ。あるとき長崎の同行が数人天草に勘四郎を尋ねて行く途中、早崎の瀬戸にて風が起り波が高く船が覆へらんとせしとき、一人の同行は「一寸下は地獄じや」と言い、一人の同行は「一寸下は極樂じや」と言ひ、争論をしたが、段々と波風が静まるにつけて、争ひ募り、「いや極樂じや」「いや地獄じや」といふ内に船は才津に著いた。勘四郎の許に至りたるに、幸にも勘四郎は居合せ、喜び迎へられて、其夜は埴生の小屋に薩摩芋を蒸したもものを食ひつつ、右の船中にての争論の話をせしに、勘四郎は聞いて「ああ、添けない」といふ。そこで同行四五人のものは「どちらが善うござりますか」と聞くに、勘四郎  「どちらも悪るい。海の底が極樂一定といふも嘘、地獄一定といふも嘘、地獄一定と思ふなら喧嘩せずと、厚く御恩を悦びさうなもの、極樂一定と思ふから海へ飛び込みさうなもの。そんな恐ろしい場所で喧嘩するは共に悪るい。我等凡夫は常住不断が地獄の釜の上に居るのじや、それをふびんに思召して、この勘四郎がためにとて、この勘四郎がためにとて」  と、大声を上げて泣いたと。言ふまでもなく、地獄一定とは自分の心のすがたを内観して、全く頼むことの出来ぬことを十分に自覚したるときに言ふところの言葉である。さうして、かういふ場合、自分といふものが空虚となつたときに、そこに入りて来るものが仏の智慧であるから、ただそれを喜ぶ外は無い。香樹院師の「僧分教誠」の中に  「地獄の恐ろしいことも、人の落ちると思ひ我身は落ちるとは思はぬ故に、恐ろしくない。今思へば人の參る浄土はあるとも我が參る浄土はない。人の落ちさうな地獄は無いが、我身の深ちる地獄は釜の湯たしかに立ちて居るなり。よい気になると、また元の悪道に沈む。そこを此度は屹度申し渡すほどに」  とある。地獄か、極樂か、すべてが自分の心の上の問題である。よく内省して自分の愚悪なる相を知れば地獄一定といふの外はない。それ故に、極樂に往生することを念願せざるを得ない。しかし極樂に往生することは仏の本願によるにあらざれば決して出来ることでない。  感心上手  「鳩翁道話」の中に  「丁度私のやうなものが、死んで極樂へ参りました。観音勢至が御出迎なされて、やがて阿弥陀如来の御前へ連れて御いでなされた。如来のおつしやるには、向後其方も極樂の仲間入りをするものなれば、極樂の様子も見覚えておかねばならぬ。今日はまづ見物をしたが善いと、観音さまに案内を仰せ附けられました。観音さまは心得て、かの亡者を導き、そこここと極樂の体相をお見せなさる。七寶莊厳、目を驚かし、天人の舞樂耳に満ち八功徳池には蓮の花ざかり、迦陵頻伽のさへづる声は鶯よりも面白く、あなたこなた見物する内、一とつの堂へ御案内なされた。見れば質屋の蔵の中、見るやうに、四方に棚をつりまわして夥しいきくらげ、数の子が積み上げてある。さては百味の飲食を調進する御臺所かと思ひ、観音さまに申すには「あの仰山なきくらげは仏達の食物になりますか」と問ひましたれば「いやいやあれはきくらげではない」「それなら何でござります」「さればあれは人、娑婆に在りしとき、常に忠孝の話を聞いて、げにもと思ひ、また談義説法を聞いてありがたいと思へども、身につとむる所の所作は、わるいことばかりして居るものが死ぬると、身体は無間地獄へ落ち、耳ばかり極樂まゐりをする。あれは耳の仏になつたのぢや」と仰せられた。そこで又御たづね申すは「耳の干物は聞えましたが、あのかずのこは極樂には不似合なもの、あれはどうしたことでござりまする」観音さま御叱りなされて「滅相な、極樂になまぐさいものがあつてたまるものか。あれはかずのこではない。娑婆にあるとき、口に忠孝を述べて人を教諭し、口に経論を説いて人を済度し、しかも其身は気隨気儘をはたらく。そんな奴が死ぬるとからだは忽ち地獄へ行き、舌ばつかり極樂參りをする。あれは舌の干物じや」と仰せられた。  鳩翁はかやうな造り話を奉げて、その後に自分の考へを書いて居るが、その言に曰く  「感心上手の行ひ下手、口ばかりの龍頭で尾のないにはこまつたものじや。堯舜の御代といへば、遊んで居ても口過ぎの出来るもののやうに思ひ、延喜天暦の聖代といへば、只酒のんで居らるることと思ふは、皆迷でござります。聖人の御代ほど、家業に精出し、正直にせねば世渡りは出来ませぬ。お互に今日、結構な御代に生まれ合せ、山家の隅々、海のはしばしまで、何一とつ不自由のなき、ありがたき御上の御仁恵を蒙むり、せめてもの冥加のためにめいめい分限をかへりみて、大切に御法度を守りて、すこしでも御苦労をかけたてまつらぬやうに致さねば罰があたります。それに自分の不了簡には気もつかず、時節がわるいの、鬼門がたたるのと雪隱を立て直したり、親ゆづりの家蔵を切りくだいたり、時節に科を負はせてみたり、家蔵に科を負はせて、我とがを逃やうとすれども天罰はのがれぬ。何と言つても、家の本は身、身の本は心である。其心がゆがんで居つたら、人相がようても、家相がようても、方位がようても、とてもかなはぬ。内の病は外から膏薬を張つてもなほらぬ。人相が悪るいといふて、ゆがんだ鼻がねぢ直されるものではない。しかれども、心の立て直しさへすれば、こわい顔も平和になり、下品のすがたも上品になる。只大切なは心の持ちやうじや」  いかにもその通ほりで、何と言つても、心の立て直しが我々の生活の上に重要のことであるが、心の立て直しと言つても、それが自からにして出来るやうになるのでなければ駄目である。心の立て直しをせねばならぬといふ教を聞いても、ただ聞くだけで、これを自得せねば何の効果もない。感心上手の行ひ下手では心の立て直しは決して出来るものでないと言ふことを知らねばならぬ。  仏性尊敬  むかし越後の田舍に忠治郎といふものが居つた。生れつき至つて強悪無道にして、若い時より関東に行きて、始は酒造家に奉公せしが、後には博奕にふけり、男立を本として喧嘩口論を好み、方々を流浪せしが、広き関東も狭くなつて行く処なく、三十余歳にして古郷に返り、自分が住むべき家を建てるとて、山に入り、木を伐りしとき、木が倒れて怪我をした。それが逆縁となりて、世の無常を観じ、後生こそ一大事なりと思ひて、法を聞くことに心を傾け、後には無二の信者となり、老母に向ひて、それまでの罪を深くわびて、孝行をなし、常に報恩の念仏を喜ぶやうになつた。  あるとき、女房が猫を叱りければ、忠治郎が言ふやう「ほろほろとなく山鳥の声きけば、父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ、と古歌にある通ほりに、猫とても我家に住むものは皆前生の父母兄弟なるべし、固より彼は畜生、汝は萬物の長たる人間と生れて、因果の道理を聴聞しながら、畜生に向ひて怒りをなすは御法義にうとき故なり」と、諭したので、女房も恥ぢ入りて自分の不調法を謝したといふ。多分猫が何かを盗み取つたのを、女房が叱つたのであらう。猫は固より肴を取つては悪るいといふ教を聞いたことは無い筈である。肴を取りて食ふやうな性分に生まれたのであるから、取るべき機會があれば取るのがあたり前である。それを腹を立てて叱るのは、人間が自分の監視不十分の責任を考へず、ただ猫の行為を責めるからである。かやうに自分の事を棚に上げて置いて他のものを責むるのが、人間の欠点であるといふことを知れば、忠治郎が言ふやうに、萬物の長たる人間に生れて因果の道理を聞きながら、何にも知らぬ畜生に対して怒をなすといふことは、まことに恥づべきことである。  忠治郎の心がよく聞けて居つて、猫のやうな畜生でも自分と全く相離れたものでなく、前生の父母兄弟であつたかと思ふて、あはれみの心が強く起つたのであらう。更に深く宗教の心の上から見れば、畜生といへども同じ仏性を有するものであればそれが自分と離れたものでない。栂尾の明慧上人が途中にて馬や犬などに遇ふて、人間に対すると同じやうに禮をして通ほられたといふことも伝はつて居るが、まことに美しき宗教の心のあらはれであると言はねばならぬ。  讃岐の妙好人庄松が、あるとき或る僧侶と同行せしとき、路傍の犬を見て、拝むで念仏を申した。すると僧侶は  「なぜ犬などに禮をするか、さういふことをするから、お前は馬鹿だと言はれるのじや」  と言つた。庄松は  「犬をおがみはしない」  といふた。僧侶は咎めて  「今おがむだではないか」  といふた。庄松は答へて  「阿弥陀仏の本願は十方衆生の上にあらはれるといふことであるから、あの犬にも仏の本願があらはれて居る。それをおがむだ」  と言つた。宗教の心は、自分がかやうにしやうと、考へてするのではなく、心の奥から自から湧き出て来るものがその行となるのである。しやうと思つてするのではなく、自からにしてすることが、正しく、美しく、貴いのである。  己れを空しくすれば性が現はれるといふ古人の語ある通ほり、自分の身と心とをたのむことなく、自身のはからひを捨てれば、そこに自然法爾にあらはれて来るのが仏の心である。それを仏の心と感ずるところにありがたいと喜ばれるのである。さうして、かういふ喜びの心が日常生活の本となるときは、其人の生活は其人自身に取りて安樂にして、自由のものであり、他人から見ればまことに美しく且つ貴く思はるるものである。  八種懈怠  「長阿含経」に八懈怠が挙げてあるが、この懈怠は道を得るの障となるものである。  人々日用の行事をば(一)空腹のときには疲れたりとて休み、(二)充滿とて休み、(三)何か心に任せずとて休み(四)明日は用があるとて休み、(五)今日は昨日のくたびれとて休み、(六)明日は遊びに行くとて間を?み、(七)病あれば用心するとて勤めず、(八)病重ければ本復の後も用心するとて休む。  かやうな懈怠の心は法を得るの障碍となるものである。それ故に、懈怠の心を戒むることが法に入るの要項の一とつであるとせられるのである。これを要するに、我々が日常の行事を慎むことが仏に成るの道である。宗教といふものは日々の行事がすなはちそれで、生活を離れて別に宗教といふものが存在するのではない。  乞食桃水  桃水名は雲溪、筑後柳川の商家の子である。二十歳の頃、家を出でて関東に至り、吉祥寺に居りしが、後ち黄檗に赴き、乞食桃水といはれて、名利を脱したる洒脱の行者として有名であつた。  寛文三年のことであるが、桃水は肥前の禅林寺を出奔し、行く所を知らず、柳川に親を省し、中国路より舟にて大阪に著し、それより京都に赴いた。弟子三人の内、探洲と知得の兩人は跡を慕ふて上京し、手を分けて諸処を探し廻つて、夏も過ぎ、秋に至りて東山の清水寺の傍にて乞食の群の内に師の桃水を発見した。頭髪ぼうぼう襤褸僅に肩にかかる、背に薦を負い、右手に破椀を持ち、左手に弊糞を携へ、乞児の間にありて談笑して居つた。  探洲はその様子を見て落涙して一言を発せざりしに、桃水は自若として曰く「小僧、用もない所に尋ね来る、何方へぞ去れ、今生には面會致さぬぞ」と言ひ放ちて東山の方へ行く。探洲跡につきて行く行く申すやう「一命只今畢るとも師を離れて何方へ參るべき意こそなけれ、只随伴して師の一生を見届け奉りて、その後は如何やうとも、生涯を定むべし」と、しきりに申せども、桃水は見向きもせず、「御無用、御無用」といひて急歩す。探州も続きて急歩す。「小僧、無用といふに聞き入れぬか、我と汝とは境界が別なれば随伴はならぬ、小僧帰れ」探洲跡より言ひかけて「先に申し上げる通ほり、ここにて一命了るとも別れは致さぬ。」と涙を含みて高声に泣く。時に桃水の曰ふやう「それならば御意次第じやが、十日と隨伴はせられまい、その時に思ひ知り召されよ、さらばその袈裟袋ここへせられよ」と道具皆取りて路傍の乞児の家に投げ込みて、それより大津の方に行き、坂本の林の中の祠のあるに、薦を敷きて、師弟共に一夜を明かした。  その翌日の朝、坂本の町を袖乞し、堅田の方に至るに、路傍に老乞食の死したるあり、桃水これを見て、探洲に告げて「村の入口の小屋に至りて鍬を借りて来れ」といふ。探洲命の如く鍬を借り来る。桃水手づから地面を掘りて死体を埋めた。探洲「あらふびんのことや」といふ。桃水曰く 「汝はこの死人ばかりを、なぜふびんといふぞ、上は天子将軍より下はこの死人に至るまで、生るるとき糸一筋も、米一粒も持ち来らず、故に死したるときも裸にてうゑ死ぬが、もと取り商ひではないか、たとひ百萬石の米を儲けても、時節来れば割の粥が咽を通ほらず、庫に滿つる衣裳を蓄へても、終には経惟子一枚じや、ここに気のつかぬものは天子将軍大名富貴の死ぬるは各別に思ふ、愚や愚や」  とて、その死人の枕許にありし喰殘しの雑炊をうまうまと半分喰ふて、殘りを探洲に与へて「これ喰へ」といひければ、探洲取りて一口二口喰ふて、すすまぬ樣子を見て「いやか、いやか、此方へかへせ」とて、桃水取てすきと喰ひ尽した。しばらくして、探洲は吐逆し、顔色を変じ、自から眩して路傍に臥したるを見て、桃水の曰  「それじやによりて随伴はならぬと、最初より言へども、情が強きによりて此方の指揮を用ひぬ、さあこれから帰られよ、昨日の家に袈裟袋をあづけて置いた、十日許の内には小僧を取りにやると言ふて置いたほどに、直に行きて受取られよ」  桃水の禁欲生活は、我々より見れば極端である。尋常の人の企て及ぶべき所でないと言はねばならぬ。又強ちさういふことを企て及ぶやうにつとめるに及ばぬことである。しかしながら桃水が、普通の人間の情欲を観視し、浄不浄、美醜、善悪、利害など何事をも自分の心にて区別せず、又それに応じて或は喜び或は憂い、苦樂を唯一の問題としてそれに齷齪《あくせく》とすることなく、あたかも、無人の境を独歩するやうな態度を見れば、我々は自分等の心が、いかにも我儘勝手のものであるといふことを感ぜざるを得ぬことである。  鹽屋徳兵衛  但馬豊岡の鹽屋徳兵衞、弥陀の本願を信じて、常に言ふやう「私がやうなるおそろしき悪人をお見捨なく、お助けとはいかなる御慈悲ぞ」と、仰ぎて喜び、うれしさのあまり、夏の頃、格別あつきときは御内仏の戸を開き團扇を以てあをぎ奉り、又冬の寒気厳しき時は御前に火鉢を置き、二時の勤行の外にも折々拝禮して崇敬したといふ。  或時妙好人伝の著者の僧純師と対話のみぎり、徳兵衞は僧純師に向ひて「以前は御仏前へ出ると、ありがたくならうと思ひましたが、只今は其心をやめて、かかるあさましき身を引き出したまへるは幾許の御方便にやと思へば、御慈悲の程が身に知られてありがたく覚えまする」といひて喜びしといふ。  この徳兵衞の如きこそ、自分の心の上にもよく仏の心を見ることが出来るやうになつたといふべきであらう。  増吉  奥州三春在に搴gといふ百姓が居つた。その妻と子供とが疫痢にかかり、僅か二日許の臥病にて死亡した。看護に来た妻の妹も亦伝染して死亡した。増吉は悲歎やる方なく、花を見ても月を眺めても樂しいとは思はず、世の中一切が灰色であつた。この地方には高神參りとて、高山の神に参りて祈ると、死者にあはれるといふ俗信があつたので、増吉は彼此の高山へ巡拝して祈つたがその甲斐はなかつた。或日大乗寺といふ浄土真宗の寺へ行き坊守から「増吉どん、今度は御不幸で、さぞ力落しのことでせう、さぞ逢ひたからうね」と言はれて「逢ひたいのですが、逢へませんので」と、自分の本音が出た。搴gは寝てもさめても妻や子に逢いたいと思ふのみであつた。嘘でもよいからあはせてやると言つて貰ひたかつた。坊守は「それでは妻子にあふことを考へてあげやうが、大事なことであるから改めて明後日おいで」と言つた。搴gは元来禅宗の家であつたが、此時始めて坊守から浄土真宗の法話を聞いた。  「人は生れた始があれば死ぬる終がある。ただ生に遡りて生の始を知らず、生々流転して迷を重ねる凡夫である。さればお互に今生のこの身の迷ひの打ち止めとして、不死の浄土參りを願はねばなりませぬ。それには信心が肝要である。」  と教へられて搴gは大いに感じ、それから段々と浄土真宗の法を聞いて「妻や子の死は私を呼びかけて下さる仏の御使である」と知ることが出来た。和泉式部の歌に    仮の世にあだに果敢なき世を知れと教へてかへる子は知識なり  とあるやうな心持になり、熱心なる念仏の行者となつたと。  顕智房  顕智房は親鸞聖人の門人の中にて有名の人で、高田に居つたが、或時親鸞聖人が「この頃、葦にあたりて難義をした、以後は停止する、汝も必ず無用にせられよ」と話されたので、一生涯葦を断つたといふことである。又或時聖人の仰せに「何方へ行かるるにも舟に乗ることは無用にせられよ」と言はれたので、其意を守りて一生涯舟に乗らなかつたといふことである。葦を食ふことや、舟に乗ることが極樂行きの妨げになることは無いが、聖人を敬慕する心からして、その言を大切に守りて生涯それに背かざりしことは単に道徳のためでなく、親鸞聖人と顕智房との間にあらはれたる宗教の心がいかにも濃厚であつたことが現はれるのである。  弘長二年八月の頃より親鸞聖人は病気にて弟御の尋有といふ人の善法院に移りて療養せられた。そのとき使を遠江の專信房へ遣はし、高田の方へ申し遣はすべき由申されたれば、專信房は驚きて高田へ通報せしに、専信房は大いに驚き、專信房と共に京都へ赴き、聖人の病床を訪ひたるに、聖人は早速対面せられ「各々方は何故上られたか」と言はれた。顕智房は聖人御不例の由、了阿房の通報によりて急に上京致しましたと言ふ。聖人これを聞きて  「了阿は河内へ下るといふて暇乞したが、さては東国へ下ることを我にはかくしたるよ、さりながら頃日は何れもなつかしく思ひしに、うれしくも上られた」  と打ち咬れ、それから「専空はいかに」と尋ねるほどに「専空は当八月より陸奥に下り、源海も共に専ら勘化仕り居る」ことを申せしに、聖人は「それこそ対面よろこばしけれ」と言はれた。この時、聖人御心よき方なりしかば、顕智房は御傍近くへ參り、「かねて御勘当の慈信房善鸞どの何とぞ御存世の中に御勘気御免し下されたし」と願ひしに、聖人は  「いや、かのもの悪くしとて勘富はせん、末の世に至りて、立願祈祷も品によれば大事ないかして、現在聖人の御子に善鸞法師は何の御叱りもなかりしぞなどといいまさば、一大事の安心を妨げ、未来の衆生の報土往生の道をふさぐ、何ほど我子がふびんでも大切の門徒にはかへられぬ」 と、なかなかに許されなかつたと伝へられて居る。  動静兩忘  「菜根譚」の中に「喜寂厭喧者、往々避人、以求静、不知意在無人、便成我相、心著於静、便是動根、如何到得人我一視、動靜雨忘的境界」といふことがある。その意味は、世間はやかましい、人間はうるさいと言ふて、世をのがれ人を避けて、深山幽谷の裡に独居して寂静を求めるものがある。その意とするところは人々が居ないから静かでよいからであるといふにある。しかしながら人間を邪魔にするのは我を立てて居るのである。便ち我相を成じて居るのである。又その心が寂靜に執著して居るのであるから、便ちこれ動乱の根本である。何故なれば我といふものは他の人に対して立てるものであり、影は動に対して起るものであるから、どちらでも一方に執著すれば必ず他の一方が起らねばならぬのである。人間を避けて静寂を求むるものは其理を知らず。どうして人我を一体に視、動静を兩つながら忘れてしまふといふ真実安樂の心の境地に至ることが出来やうぞといふのである。  全体、人と我とを区別するのが、我々人間の本性である。仏教で言ふところの迷妄の心である。本来を言へば人々その形とを別々なれ、心は不等一枚のものであるべき筈と知られるに拘らず、それを人と我と区別して、しかも自是他非の念に使はれて迷妄の心をあらはすのは人間の実際である。「菜根譚」のこの語はその迷妄の相をよく言ひあらはしたものである。  鈴木正三  江戸時代徳川氏に仕へた武士の有名のもので武士を罷めたものに石川丈山と鈴木正三とがある。石川丈山は詩を以て京都に隱れ、寛文九年九十歳にして没した。鈴木正三は関ヶ原の役に戦功があつたが、四十歳の時出家して禅宗に帰し、大愚、雲居、萬安などに師事し、三河に帰りて、石平山恩真寺(俗弟鈴木三郎が建立したもの)に住し、後江戸に出で、了信居士の建てた了心庵に住し、ここに身を終つたのである。  石川丈山が風清き詩仙堂に客を謝して隠棲独り自から樂しみたるに反して、正三は或人の    なかなかに山の奥こそ住みよけれ草木は人の上を言はねば  の歌に対して    なかなかに山の奥こそ住みうけれ草木は人の上を言はねば  和光同塵《わこうどうじん》の活機を寓したる歌をつくりたるほどに真に徹底したる宗教生活をした。  正三は俗名を以て直ちに法名とせると同じやうに、世法を以て直ちに仏法とした。或る武士の問に答へて「仏法といふは、この糞袋を何とも思はず打ち捨つることである。これを仕習ふより外に、別に仏法といふものはない」といひ、仏法を世法の外に求めて世を遁れむとするものを戒めて  「世を遁れたりとて、心を遁れ得るや」  と言つて居るのを見ても、正三の禅生活が徹底したものであつたことが窺はれる。それにつきて正三の言に次のやうなのがある。  「心の鬼、身を責むることをよく知るべし。心の鬼我を引て悪道に入るなり。心は心の怨なり、心の外に我を悩ます敵なく心の外に恐るべきものなし、戒めて戒むべきは心なり、心の師となれ、心を師とすること勿れ」  又言く  「洒落仏法、ぬけがら坐禅は何の用にもなるまじきぞ、眼をすへ歯をかみしめて、果し眼になりて、むらがる敵の中に躍り込み、敵の根共に突立たる覚悟を以て修行せよ」  「忙しき家には、容来れどもすぐ帰るが如く、妄想起ると雖も強く勤めて取り合はねば、やがて滅すべし」と言つて居る。正三の仏法は釈尊の説かれたる法をば一生懸命に守らうと努力したのであつた。諸悪莫作、衆善奉行、自浄其心、是諸仏教をば自から体驗することにつとめたのであつた。その道歌   「さし出づる鋒先折れよ物毎におのがところを金槌にして」  は実によく正三自身の心持を吐露したものと言ふべきである。  「仏道には活機とて活きたる機を用ふることを知らず、殊勝になり、柔和になり、沈に入りて、仏法と思へり、或は悟りたるぞと、さもなきことを鼻にかけて狂ひあるくもの多し、我々は殊勝気なることをも、悟りげなることをも知らず、十二時中浮心を以て萬事に勝つことばかり用ふるなり」  堅固の修業を以て悪業煩悩を滅却すべきことを唱道したる正三の本意は、行儀即ち仏法であるといふことを主としたのである。それ故に正三は  「皆行ずる所に眼をつけて強く行ずべし、先づ念仏を申さん人々念仏に勢を人れ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふべし、かくせば妄想いつ去るとなく、自から休むべし」  と言つて居る。世間普通の禅家とは相異して、真に宗教の心を得た人であると言ふべきである。  聖覚法印  聖覚法印の名は親鸞聖人の逸事に関して度々出て来るのであるが、その伝記ははつきりわからぬのである。「法然上人行状繪図」には  「安居院の法印聖覚は入道少納言通憲の孫子、法印大僧都澄憲の真弟なり、叡山竹林房の法印静巌を師とす、論説二道を兼て智弁人にすぐれたりき。しかるに宿習のいたりにやありけん、深く上人の化導に帰して浄土往生の口訣を受く」  とあるが、しかしながら法然上人の法門の弟子と言はるべき人ではなかつたやうである。聖覚法印と親交の間柄であつた藤原定家の「明月記」には、その文暦二年二月十八日の條下に  「聖覚法印不食病、其次二十一日に濁世富樓那逐為仙化期歟、実是道之滅亡歟、悲而有余、今年六十九」  の記載があるのを見ても聖覚法印が単に叡山の学匠のみでなく、智弁双備の英才として教界の内外に名声を馳せて居られたということが知られる。それが法然上人の教説を聞いて、それに共鳴して、道友関係位のものであつたかと思はれるのである。  真宗の記録では親鸞聖人が法然上人の使者として聖覚法印に対面せられたことやら、信不退、行不退の兩座を別ちたるとき、親鸞聖人は聖覚法印と同座にて信の座につきたとか、親鸞聖人の吉水入室は聖覚法印の誘導によるとか、高田開山親鸞聖人正統伝には聖覚法印と交渉の始まつたのは親鸞聖人二十七歳の春であつたとしてあるが、どうも史実ではないやうに思はれるのである。  親鸞聖人と聖覚法印との道交は「唯信鈔」の書写に始まつたやうであるが、親鸞聖人が八十三歳の時に書かれたる「尊號真像銘文」の中に、阿弥陀仏の本願のことを説きて「この本願のやうは唯信鈔によくよく見えたり」  といひ、又聖覚和尚ののたまはくとて「わが浄土宗は弥陀の本願の実報士の正因として十声称念すれば、無上菩提に至るとおしへたまふ」と挙げてある。又此書の中には善導大師の思想が慧心、法然、聖覚、親鸞へと順次に伝はつたことがよく示されて居るのである。  何れにしても親鸞聖人と聖覚法印との関係は「唯信鈔」によりて著しく認められておるのであるが、「唯信鈔」は承久三年の秋に聖覚法印が著はしたもので、親鸞聖人は寛喜二年の夏に之を写されたのである。それから他の人にも之を読むことを勧められたが、親然聖人自身は法然上人の真実なる浄土宗を信じられたのであるから、この信仰の上には他に同信の友を誘ふことが仏恩に報ずる所以であることを感じて自信教人信をつとめられたやうである。親燃聖人が八十五歳の時に作られたる「唯信鈔文意」はこの点に於て、明かに聖覚法印の信仰を承けられたものであるといふことが認められるのである。  安住の心  「雑行雑修自力の心をふりすてて一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみ申して候」とある。雑行雜修とは、これから仏になるべき仕事をすることをいふのであるが、そればつかりでなく、「ありがたうなつた」「落ちついた」などと、機の上に往生の因を見て居るのもそのまま維行雜修といふものである。聞いたものに、功を持たせたら、持たせただけ地獄のたねである。それ故に、よく聞いて仏の心を受け取らねばならぬ。よくよく聞かぬと聞いたものに功を持たせるので、それでは只の只ではない。  仏の心は「我をたのめ、必ず助くるぞ」と呼ばれるのであると説かれるのである。ただ何となく、これを受け入れてありがたく感ずべきのみである。「それが信ぜられたか」「たのまれたか」「心の曇りが晴れたか」と、凡夫の機の中へ取り下して彼や此やと骨折つて居るのは見当違ひのことである。凡夫はすぐにうんと返事するやうな機でないことは五劫思惟のときに見抜かれたことであるから、無有出離之縁と言はれるのである。  真宗の法は聞いて上の方へと立身出世するやうなことではない。その反対に後へ後へと下がるのである。どうしても仏になる縁のないものと知ることのならぬ凡夫の性そのままを、知らせて貰ふ外に真実の法はないと言はねばならぬ。  後生の仕事は仏の領分に属するものである。我々はどうして助けられるか、助かるのか、全くこれを知らぬのである。それ故に、ただ不思議の願力のためと仰ぐべきのみである。  何とも知れぬ大なる力に助けられて生きて居るといふことがわかれば、現生のことも、後生のことも自から解釈の出来ることである。何の事由もわからず、何の理屈も要らずに、ありがたい思ひが浮ぶのである。古昔の人の説教に  「たのむ一念とは仏の仕事で、凡夫ではどうしてもわからぬことぢや、ただ不思議不思議といふより外はない。故にたのむといふは不思議に行きあたつたことでる。不思議に行きあたつたとは萬劫聞いても聞いた力ではわからぬといふことぢや」  とあるが、実際その通ほりである。本願力と言つても自分の力ではどうすることも出来ないのであると、自分の身と心との相を知つたところに感ずるところの不思議の力であるから、何かわからぬが、自分一人のために働いて居るところの慈悲の力であると感ぜられるのである。丁度子として感ずることの出来る親心である。それは不思議にも我々を助ける力である。さういふ力を感ずるとき、唯ありがたく思ふべきのみである。  伊予の国の或御殿様が真宗の厚信者で、平生床にかけて仏恩を喜ばせて貰ふ助縁にせんとの思召より、画工に対して蓮の葉の上に蛙があがつて遊んで居る姿を画くやうにたのまれた。画工は一生懸命に希望の図を画きて差出したが、殿様の気に入らぬ。更に書き直したが、それでも気に入らぬ、画工も開口して「此上は私の力では書けませぬ。何処が御気にかなはぬか、又いかやうに書けばよろしうございませうか」と、教示を願ふた。さうすると殿様は「始めから開けばよいのに、聞かぬから悪るい。蛙といふものは土や水の中が住居処である。時には蓮の葉の上にのぼりて落ちはせぬかと心配することはなく、ゆつたりと眠つて居る相が書いて欲しいのである。お前が書いたのは蛙が落ちてはならぬの力味が這人つて居る。それが気に入らぬのぢや、何時落ちても落ちた所が我が住所、更に苦しうはないと、ゆつたりとした姿を見て、我身の仕合を喜ばせて貰ふ助縁にしたいのぢや」 と言はれた。まことにさうである。地獄に落ちてはならぬといふ力味は、「引き受けるぞ、必ず落しはせぬぞ」の親心を無きものとして自分の力をたよりにしやうとする自力である。それでは少しも安心の出来ぬものであると言はねばならぬ。  慈悲の中  三州味濱の普元寺の住職西脇善桂師は仰信の聞えの高かつた老師であつた。晩年中風に罹りて病床臥して居られたときに、播州寶田村の浅五郎といふものの母が、西脇師にあふて教を聞きたいと思ひ、西脇師の許へ出入をして居つた三田川源七に紹介を頼むだ。源七はこれ幸ひと西脇師を訪ふた。西脇師は大いに喜ばれ「よく来て呉た呉た待ち兼ねた兼ねた」と言はれたが「障子の外に人影が見ゆるが、誰ぢや」と問はれた。そこで源七は「あれは播州濱田村の浅五郎といふものの母でごさいますが、我が子が江戸に行きて居るため永々子の所に居りましたが、此度老師の御縁にあはせて頂きたいと同道して参りましたのでございます」と言ひしに、「それなら此処へ這入れよ」と言はれたので、老母は言葉に從ひ、御目にかかると、一禮を述べて「私は我が子に引かされ、誠に後れを取りまして、この老人になりながら、まだ御慈悲が貰はれませぬ、どうぞ御一言を」と願つた。すると西脇老師は  「これから聞いて御慈悲を貰ふて助かるやうな、ぬるい法を聞いて居るかや、かあいさうに」  と言ひながら片手を振つて  「もう御慈悲は貰はぬでもよいのぢや、今がはや御慈悲の中に包まれて居るに、仏成就下されたおいはれを聞くのぢや、これからといふことは御当流にはないぞよ」  と言はれた。老母この一言に滿足して引取つたといふことである。  機の計ひ  原口針水勘学は高徳の人であつた。京都本願寺の学寮につとめて居られた頃に、三州岡崎の同行が針水和上に法義の相談を願ふた。針水和上は同行の居る所へ行かれて「此中に百姓衆が居るかや」と問はれた。「はい私共は百姓でござります」「それでは話するが、私の方では稲を刈つた切株が高くなつて、其外は一面に水が溜つて居る、其中へちらちらと雪が降ると、水の中へ落ちた雪は皆消えてしまふが、切株の上にだけ雪が積る、それと同じく、如来の御慈悲は、凡夫の聞いたものや、ありがたい所の善心の上にはお止まりはない、ただ三毒の切株の上にだけお殘り下される、故に此度の往生に就ては仏臭かつたのは往生不定、凡夫臭があつたらいよいよ往生大丈夫と安心せよ」と言はれた。それから又、口を開いて「頼む一念は二番だぞや」と言はれた。岡崎の同行はこれを聞いて、色をなし、「勸学だらうが、誰だらうが御当流の一番大切のたのむ一念を二番だぞといふは以ての外だ、こんな話は聞かぬがよい」と腹を立てて帰つた。翌日は同行一人も集らず、針水和上が帰られてから後に同行が来て、懐中から聖教を出して示し「針水和上がありがたいと言ふても、これより上のものはない」と言つてそれから同行達は京都を引きはらつて岡崎へ帰つてしまつた。  そこで殘つた二名の同行が針水和上の許に禮にいつて「此度の御化導にたのむ一念は二番だぞやと仰せられたはどういふことでござりますか」と尋ねた。さうすると針水和上は勢するどく  「たのむ一念ばかりか、信心も安心も二番だぞ、ただ如来の仰せお助けが一部だぞ」  と言はれた。機の上のはからひを止めて、ただ一心に如来の仰せを信ずることが大切であると強く説かれたのである。  安心坐談  本篇は、昭和十二年八月より同十三年七月まで雑誌「精神文化」に掲載せられたるものである。  安心  ここに安心といふのは、仏教の言葉にてこれをアンジンと読むのである。普通に安心と書くのはアンシンと読み、心を安んずることで、心配のないこと、又は心を落ちつけて居ることである。これに対して仏教にて安心(アンジン)といふのは、心を一点に置き留めてそれに安住することで、六ヶ敷くいへばよく法性を以て其心を安んずることである。そこで仏教にて安心を説くのはその教を奉ずるものの心のすえやう(居様)を示すので、たとへば三界唯一心と知るは華厳宗の安心、萬法唯識と観ずるのは法相宗の安心、一念三千、諸法実相は天台宗の安心、阿字不生を証るは真言宗の安心、直指単伝は禅宗の安心である。  かやうに、諸の宗派に説くところの安心はまちまちであるが、これを要するに我々の心のはたらきの上から言へば、それはいろいろの観念の中にて自からつとめて、ある一定の観念を主なるものとして、その余のものをば其下に從はしめ、これによりて思考を決定し、その思考に件なふ感情によりて意志が確定するに至ることを以て安心とするのである。しかしながら、さういふ心のはたらきにありて自からつとめて、ある一定の観念を主としてそれを動かさぬことは実際容易でない。從つてそれによりて確乎不動の意志をあらはすことは多くの場合に於て困難である。それ故に仏教の宗派の多くにありて、ただ安心の法が知られるに止まりて、しかも安心の実が挙らぬのが常である。  しかるに、親鸞聖人の宗教にありては、かやうに自からつとむる心を頼みとせず、いろいろの観念が雑多にあらはれて取りとめのつかぬ心のはたらきは自分の力では何ともすることの出来ぬ、事実ありの儘のすがたに目がさめて、自分を頼む心が無くなつたときに、それは宇宙に充ち満ちて居るところの大なる心の力に觸れてその大なる力に信順するやうになる。さうしてその大なる力は自然の法則によりてその中にある小なる力を摂取して捨てざるものであるから、我々はそれに信順してありがたいといふ感情をあらはするのである。それを仏教の言葉にて言ひ現はして仏の本願といい、その本願に安んずる心を指して安心といふのである。かやうにして親鸞聖人の宗教にありては、自からつとめて其心を法性に安んじやうとするのでなく、却つて自からつとむる心をやめて、始めて感知することの出来る宇宙の大なる心に導かれて安心の境地に至るのである。自分の心を本としてつとめて為すことであれば、それは決して確乎不動のものではないが、この自分の心を離れて感知するところの宇宙の心が主となるのであるから、その安心は金剛の如くに不動のものである。  この宇宙の大なる心のはたらきが、宗教的に考へられて阿弥陀仏の本願と言はれ、それに信順して生活することが親鸞聖人の宗教の要旨として説かれて居るのである。それ故に、親鸞聖人の宗教にありては、其心のすえどころを三界唯一心とか萬法唯識とか諸法実相とかといふやうなむつかしい理屈の上に求むるのでなく、さういふやうに自からつとむる心を捨てて、直ちに宇宙の心に接するのであるから仏の本願と言はるるのは畢竟するに仏の心である。真実の心である。その仏の真実の心が我々の心にあらはれたのが信心と言はれるのである。かやうに説明したところから推しつめて考へるとき、安心と信心と仏の本願とは全く同一の仏の心で、場合に応じてただその名を変じたものに過ぎないことがよく理解せられるであらう。それ故に、親鸞聖人の宗教の意味から言へば、安心とは自分の心の中に仏の本願を領解することに外ならぬのである。  内心の領解  浄土真宗の学者真実院大満師は安心のことにつきて説明して「安心といふはもとより外儀に渉ることにあらず、内心の領解なり」と言つて居られる。内心の領解とは仏の本願を堅く信じて疑はぬことである。仏の本願とは一切のものを摂取して捨てぬ仏の心のはたらきが、自己の心にあらはれた場合、その人に感知せられるもので、これを簡単なる言葉につづめて南無阿弥陀仏といふのである。阿弥陀仏(略して弥陀)は固より宇宙の大なる心であり、この大なる心がその中に存する我々の小さき心を摂取するがために、はたらきを起して我々の心の中にあらはれたものが南無阿弥陀仏であるから、すなはちこれを六字の名號と名づけるのである。それ故に六字の名號の心をよくよく領解するのが安心である。かやうな内心の領解を指して其心が仏願に安んずるといふのである。蓮如上人は誰人にもわかり易くこれを説明して「安心とは弥陀を一向一心にたのみ申せば、やがて御たすけあるなり、さればこそやすきところなり、まことにやすきなり」と言つて居られるが、しかしながら、ただの人が一向一心に弥陀をたのみ申すといふことを聞けば、すぐに外儀に渉りて、丁度他の人に向つて何事かを依頼するやうなことと思ひ誤りて、真に弥陀をたのむことにはならぬのが常である。親鸞聖人や蓮如上人が阿弥陀仏をたのむと言はれるのは、阿弥陀仏に信頼することであるから、それは我々の小さき拙なき心を捨てて後に始めてあらはるる心である。南無阿弥陀仏の心を領解することが出来ず、ものさしで虚空を計るが如くに、我々人間の小さい景見でいろいろと計ふ心が止みて、直ちに宇宙の大なる心に觸れたときにその不思議を仰ぎ、ありがたさを感じてこれを信ずるのが弥陀をたのむである。これがすなはち安心であるから、蓮如上人は「安心とはただ心の果場なり、兎角はからひなきが有無を離れたるなり」と説いて居られるのである。自分を中心として、何のかのといろいろにはからふ心が無くなり果てたところに仏の大なる心が感ぜられるのが、安心であると言はれるのである。  宗教の心  かやうにして、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が我々に対してはたらきをあらはすところのものの名號であるから、この名號の声がするところに阿蘭陀仏の心が動くのは当然である。これは小児の声に対する親の心と同じやうなものである。オツカサマは小児に取りてその母親の名號である。母親がその小児からオツカサマと呼ばれたときその慈愛の心を動かすのは自然である。それ故に母親をたのむ小児はオッカサマと呼ぶ。すなはちその名號を称するのである。これと同じやうに、阿弥陀仏をたのむちのはその名號を称する。むかしからこれを称名念仏と名づけて居るのであるが、しかしながら、この場合、重要なることはただ口にオツカサマと呼ぶことではなくして、オツカサマと呼ぶ心である。南無阿弥陀仏の名號を称することが大切ではなくして、称名念仏する心が重要であることを知らねばならぬ。称名念仏することはその心からでもなく都合によりて出来ることであるが、称名念仏する心はその心が内観の極に達して、自分の身と心とをたのみて、彼此の計をすることが全く止むときに至りて始めてあらはれるものである。  かやうにしてあらはるるところの称名念仏の心は全く人間の得手勝手の心を離れたので、親鸞聖人の宗教にありて、これを安心といひ、信心といひ、仏の本願といひ、全く人間の心を離れたるものとせらるるのは何人にも領解せられることであらう。さうしてかういふ安心の状態をあらはす心が真に宗教であり、かういふ心をあらはして居る人が既に宗教人であり、又かういふ心の状態の下にその生活をなすことが真に宗教生活と言はるべきである。何事につけても外儀に渉り易き人々の普通の考へでは、宗教といへばただ常に神を崇め、仏を拝み、恭敬禮拝これ事とすることをのみ指すやうであるが、それはそもそも末の事である。真に宗教と言はるべきは、その内心が宇宙の大きなる心のはたらきを領解し、何物をも摂取して捨てざるところの大きなる心に包まれて居るところの我々の小さき心は、必ずその大きなる心に摂取せられねばならぬことを信じ、その大きなる心に信順するところに無上の喜びを感ずることである。  此の如く考へ来れば、安心は仏の本願に乗托して常に大きなる仏の心に摂取せられることを喜ぶ心である。小さき我々の心が大きなる仏の心に摂取せられることは、具体的の仏教の言葉にて言へば仏に成るといふことである。又更に言葉を換へて言へば、愚悪にして虚仮に充ちたる我々人間の心が愚悪と虚仮とから離れて真実円萬の心の境に到達することである。さうして、此の如き円滿の心境に達することを期して阿弥陀仏をたのむことは、巳に前段にも言つたやうに、自分の身と心とをたのむ心を離れての後に始めてあらはれるものであるから、安心はこれでよいと安心するのでなく、一切のものを摂取する仏の心を心として賢愚善悪を擇ぶことなく、普同一等にこれを観て、すべての人は皆生々世々の父母兄弟なりと知りて、善きに誇らず、悪しきを捨てず、役にも立たぬ世間の義理に拘泥して極めて自由を欠ぐやうなことをせず、強きものには導かれ、弱きものをば扶け、相互に自由円滿の仏の境地に至るものであることを覚り、極めて安き心にて生活するのである。これをこそ真に宗教の心であると言うべきである。  かやうに、仏教にいふところの安心の状態をば宗教の心として、その心をあらはして居る人は、すべて内観を深くして自分の愚悪を知り、与へられたる境遇にありて与へられたる生活をなすことを喜ぶのであるから、いかなることに対しても不平や不満を訴へず、常にその分に安んじて足ることを知り、敢て多きを求めず、自らをば諏下して、他をば慈しみあはれみ、自らを責めて人を咎めず、すべてのものを粗末にせず、いかなるものにもその価値を認め、徒らにこれを棄てず、些かも懈怠の心なく、常に精進努力して些かもその勞を厭はず、一切の人々と共に幸福を共にし、独り自分のために榮利を願はず、浮世の榮華に執著せず、又徒らに身命を惜しみ不義の事を敢てするやうなことがないのであるが、それが善悪の価値をやかましく考へる倫理よりも一歩超越して、善悪の価値を判断することから離れたる宗教の心によりて徹底的に実行せられることを顧みれば、我々人間の智慧よりも遙かに強力なる智慧を仰いで尊信せねばならぬことが何人にも認められることであらう。  平忠度  左兵衞佐薩摩守平忠度は忠盛の子で、その力衆にすぐれ、驍名一時に震ふたが、兼ねて和歌をよくし藤原俊成に就て学むだ。一谷の戦に、平家方は一敗地にまみれ、当年四十一歳の偉丈夫たる忠度もまた左右三人と共に海岸づたひに西の方を指して遁れざるを得ざるに至つた。そこへ追ひかけて来たのが武蔵の国の住人岡部六弥太忠澄である。忠度は六弥太と引組み、兩人どつと地上に落ちたとき六弥太の郎党が馳せ寄りて斬り込み、忠度の左の腕を落したので、忠度今は早やかなはじと思ひ、上なる六弥太を持ち起し、それを片手に提げつつ「ここ退け、念仏申して死なん」と叫び、力をきはめて六弥太を二丈ばかりも前方に放げ飛ばした。その隙に忠度は端座して西に向ひ高声に念仏した。此時六弥太は早くも起き上り、太刀を抜き放つてせめよせたので、忠度は声をかけ「今は汝の手にかかつて討たれんこと仔細なし、しばらく待て、最後の念仏申さむ」と坐を正した。この気勢に呑まれて六禰太はかしこまり「そもそも君は何人にてわたらせたまふぞ」といへば、忠度はこれをねめつけ「我が気色を見て察せよ、しかし汝は我に最後の暇を与へ呉れたれば、我も亦その好意に免じて汝に首を与へむ」と言ひ了りて最後の念仏を唱し、早く早くと催促して六弥太の手にかかりてあへなき最後を遂げたのである。  忠度がかやうに西方浄土を念じたことにつきては伝説がある。それは忠度が法然上人の専修念仏の教を聞いたとき、法然上人に対して「念仏申し候ては、気も弱くなりて敵をも打ち難く候」と間ふたのに対して、法然上人は「南無阿弥陀仏と打ち込む剣、敵も味方も西方へぞ行く」と言はれた。忠度はこれを聞いて豁然として悟るところがありて、それから念仏の行者となつて居つたといふのである。一身のため、一家のため、一族のため若しくは一国のために闘はざるべからずして闘ふことは人間の世界に巳むを得ぬことである。しかも打ち込むが南無阿弥陀仏であるとき、敵も味方も共に西方へ行くであらう。  慈母  寛政の頃、大阪天滿川崎一丁目に播摩屋源兵衛といふ町人が居つた。弟二人と妹三人と併せて六人の兄弟姉妹が揃ふて母親に孝行であつたので大評判となつて「孝子兄弟六人伝」といふ書物が出来た。この播摩屋源兵衛は寛政二年に年が三十一歳で、妹むめ二十九蔵、弟大吉二十六歳、妹とめ二十四歳、弟源蔵二十二歳、妹かね二十歳の六人兄弟であつた。父は播州揖西郡二塚村から大阪に出て来た人で、母ははつと言つた。はつ四十四歳の時、父の源兵衛は死亡し、当時十五歳であつた今の源兵術を頭に六人の幼児をかかへて途方にくれた。はつは篤実なる性質にて、小児を育つるにも姑息の愛におぼれず、厳格に、しかもいつくしみ育て、兄の源兵衛をして家督商賣ともに父の跡を相続せしめ、他の小児をして源兵衛を父の如くに敬はしめ、又源兵衛をして父に代りて他の小児をいつくしむべしと教へしが、源兵衛はその教を守りて、日夜業務のために努力し、母及び五人の兄妹を養ひ、父兄弟のものは常に中むつまじく一言半句も争はず営みの助けをなし、家業も漸次に隆盛となり、母はつも安堵の思をなすに至つた。ところが源兵衛年二十一歳の頃、母のはつが故郷の播州へ帰り親類の年忌にあたり追善供養を営み事了りて後、彼地に於て中風の病に罹りたるを附添ひ行きける源兵衛と妹むめは大いに驚き、医師を請じて治を求め、少しく軽快したので、駕籠を求め兄弟附添ひて大阪に連れ帰り、それから六人の兄弟が揃ふて厚く看病した。母が医家へ通ひ、仏神へ參詣し、又折にふれては野など見たきよし望みけるときは、そのために買ひ置きける駕籠に母を載せ源兵衛大吉これを昇き、妹どもは食事の設けなど風呂敷に包み携へ附添ふ。或は母の心に応じ背に負ひ手をひきなどし、少しも母の気にさからはず、ともどもに遊び樂しむだ。一とせ母有馬湯治を望みければ安きことなりとて早速それぞれの調度をしつらひ、駕籠に母を載せ、源兵衛大吉舁き、むめととめとが附き從ひ、有馬へ赴き、大吉とむめとが殘りて看病し、源兵衛と源蔵とは隔日にかはるがはる有馬に赴きて容体を尋ねる。九里にあまる道をいとはず日々に行きかよひて母を問ふ。そのまめやかなること世の人の子の及ぶべきことにあらず、聞くもの皆驚嘆したといふことである。源兵衛いまだ無妻に暮しければ懇意の人々より縁談ありしも、母の病気、その上兄弟とも六人も打ち寄り介抱する中に他人が交りては、内輪に少しのものいひごとなど出来ては母の病気のためよろしからずと思へばしばらく妻を迎へることは致さずと断つた。妹どもも兎角母の看病をなし又商賣も共々力を添へ手伝せねば兄のさしつかへにもならんかと存ずるといひて縁談を断つた。寛政二年源兵衛兄弟姉妹六人は親孝行を賞せられて御上より褒美を賜つたのである。  世に孝子と称せらるるものは少くない。しかし男女六人の兄弟姉妹が互に和合して家業を励み、又相共に一人の母親に対して孝行を尽すといふことは世間にその例の少いことである。又親に仕へて孝行の名を得るものは有れども、六人の小児をば、揃ひも揃ふて孝子の名號を得せしめるやうな慈母はその例甚だ稀である。伝ふるところに拠れば、母はつは東本願寺の門徒にて、かねがね法義をありがたく思ひて尊びけるが、発病の後とても気分快きときは兄弟のものの脊に負はれ、手を引かれて手次の祐泉寺へ参詣した。若し自ら參詣することが出来ぬときは三男大吉を代りに寺へ參らせ、法談を聴聞せしめ、それを伝へ聞きて喜むだといふことである。六人の兄弟の生れつきの素質といひ、又その生後の教養といひ、それが母はつの宗教の心が根本となりて、此の如き孝子の賞讃を得せしむるに至つたものであらう。  知足  泉州堺に弥助といふ貧困の百姓が居つた。毎朝人より早く起き出でて、先づ顔を洗い、口を清めてから、氏神の御社の方に向つて「私のやうなものにこんなに幸福を与へて下され、まことにありがたうございます」と、頭を垂れて心から感謝するのが常であつた。妻のすてというもの、夫の毎朝のこの所作を見るにつけ癪にさわつて我慢が出来ず、夫に向ひて「あなたは毎朝毎朝幸福ですと言つて神様にお禮を申されますが、妾はちつとも幸幅ではありませぬ。屋根には草が繁り、床には駕を布いて毎日粟や稗ばかり食べ、身にはこのやうな襤褸《ぼろ》をつけ、さうしてあなたも妾も、朝早くから夜晩くまで汗しづくになつて田畑を耕し、ただの一日として樂をしたことがないではありませぬか」と恐しい勢でわめき立てた。弥助は黙つて聞いて居たが、しばらくして静かに言つた。「お前も物を辨へない女だ。よく考へて見るがよい。私もお前もかうして病気に罹らず、災難もなくかうして無事に暮さして頂いて居る。それもお互に高貴の家に生れたものが零落したのでもあるならば、昔をしのび今を嘆くといふこともあるが、私等はお互に生れついての賤しいものである。して見れば賤しいものが賤の家に住み、賤の衣を著て、賤の食をなし、賤の業を営むのに何の不思議があらう。かうして身体が達者で暇がなく暮すことが、貧しい百姓の第一の幸幅であると思い、私は毎朝神様に御禮を申すのである」と言つた。これを聞いた妻は始めて日頃の不心得を悟つたといふことである。「仏遺教経」に知足功徳を説いて「汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せむと欲せばまさに知足を観すべし。知足の法は即ちこれ富樂安穩の処なり。知足の人は地上に臥すと雖もなほ安樂なりとす。不知足のものは天堂に処すと雖も、亦意に称《かな》はず。不知足のものは富めりと雖も貧し。知足の人は、貧しと雖も富めり。不知足の者は常に五欲の為に牽かれて知足者の為に憐憫せらる。是を知足と名づく」とある。足ることを知らぬものは眼に美色を見、耳に美声を聞き、鼻に美香を嗅ぎ、口に美味を味ひ、身に美衣を著けたいとのみ思ふて居るから常に外物のために心が牽かれ、外物を追ふて心が馳せ廻るから少しも安穩のことがない。それでは萬物の霊長と言はれる人間でありながら、萬物のために苦しめられて居るのであるから、知足のものから見ればまことに情ないことである。憫然《びんぜん》なものであると言はねばならぬ。  寛仁  慈雲尊者は真言宗の大徳であつた。正法律の開祖として、又「十善法語」の著者として、その名当時に顕はれ、文化元年八十七にして示寂せられたが、石の法爾は普く潤ひ、徳声は広く聞え、知るも知らぬも尊者の示寂を聞いてその考妣を失ふた如くに哀慟したと伝へられて居る。尊者の行実には伝ふべきものが少くない。  夏の頃、或人西瓜を献じたので、弟子がそれを切つたところが少しもとるところがなかつた。弟子「エーこれはいかぬ」といふ。慈雲尊者の曰く「イヤそれでも瓜よりはましぞかし」と。ある時又瓜を献ずるものがあつた、又それを切るに真白にして又いかぬといふ。尊者笑ひて曰く「イヤそれでも茄子よりましぞかし」と。又或弟子の中に小盗みをしたものがあつた。弟子達それを追出したまへと訴へた。尊者憐んで曰く「よもその事はあらじ。あれも猿よりはましぞかし。猿は座中に糞する。あれは小便せぬではないか。宗鏡録にいふ、智あり行あるは国の寶なり。智なく行なきは国の賊なりとあれば、さういふそちに智もあり行もありや。若しなきときは国の賊にして、あれとは五十歩に百歩の差にして共に追出さねばならぬぞ」とあり、弟子達も畏れ入つたといふ。徒らに外の方のみを見て、内を省ることをせざる輩は、概ね人の罪を裁きて、しかも自分の過を度外に措くのである。慈雲尊者はかく言ひて後に、そのものを小蔭へ呼び、ひそかに誡めて曰く「お前は師匠の勘当を受け、身のたたずみのなきままに、自分にたよつて来た身にて、又盗みしことを追出さるればもう行先はあるまい。今二三年ここにて辛抱せば勘当も許され帰參もあるべし、きつと心底改めよ」と、深切に示されたのでそのものも感服し、忽ちにして心を翻したといふことである。思ふに慈雲尊者の寛仁の心の中には悪しきも善きも皆同じやうに包容せられたのである。さうして、かやうな慈雲尊者の寛仁の光に照らされたる若者の心はそれに牽かれて忽ちにしてそれとよく和合するに至つたのである。まことに貴いことの至であるといはねばならぬ。  喜悦  喜悦の情緒は身体的にも、又精神的にも爽快を感じ、快適若しくは陽気などと名づくべき状態をあらはし、内的にも又外的にもその人を調和の良きものとなし、その人をして善良、感謝及び温情に対して敏感ならしめ、又その温愛の情を他のものに向つて放散し、人と人とを結合せしむるものである。元来心理学の上から言へば、喜悦の情緒は自我が困難に対してこれに打ち勝つことの出来たときに起る感情に本づくものであるから、実際は自分の気に入るときでなければ喜悦の情緒が起ることはない。しかるに、宗教の感情が強くあらはれる場合には、普通のときに異なりて、自分の気に入ると入らぬとを問はず、すべての場合に、喜悦の心があらはれて来るのである。それ故に真に宗教の心がよくあらはれて居るものを指して喜び手と俗称するのである。  むかし美濃国不破郡平尾村においやといへる婦人が居つた。極貧であつたが若き時より仏法に志が厚く、近処の寺に法筵があるときは欠くことなく參詣し、法談中にも己を忘れて「さうでござります、さうでござります」返事をするが故に知らざる人は狂人かとあやしむ位にいさみ喜むだ。あるとき江州の同行に招かれて法義の試合に及び、衣類なども与へて親しまれければ、おいやいふやう「如来様のお蔭でこの世から御同行が可愛がつて下さる」と言ひて喜びしといふ。  ある同行の所にて病気に罹りたるとき、おいやいふやう「若し私が死なば川へなりと、山へなりとお捨て下されよ」といへば、主人「山へも川へも捨てはせじ、御同行のことなれば屹度葬式を致し遣はすほどに」といひければ、おいやは「死に跡の事でさへ、葬禮してやるとあれば、うれしいに、況や仏にしてもらふものを」といひに踊躍歓喜したと。  精進  法然上人の「御修行物語」に「われ聖教を見ざる日なし、木曾の冠者、花洛に乱入のとき、ただ一日聖教を見ざりき」とある。木曽の冠者義仲が以仁王の令旨を受けて兵を挙げて源頼朝に応じ信濃上野の勢を以て北陸道五国を平げ、破竹の勢を以て京都に攻め入りしは壽永二年の頃であつた。飛ぶ鳥も落ちるといはれるほどの權勢を有し一族以外のものは人間にあらずとまで豪語した平家も、悪運は長く続く筈もなく、源頼朝、源義仲等のために討伐せられねばならぬ破目に陥り、遂に所謂源平戦争が始まり、これがために京師は修羅の巷となつたのである。専修念仏の開祖たる法然上人は、此の如き騒乱の世にありてその志せるところの道を修められたのであるが、普通の人ならば何事も手につかぬのが例であるのに反して、法然上人はかやうな擾乱の場合にも一日として聖教を見ざる日は無かつた。ただ一日木曾義仲が京都に攻め入つた日だけ聖教を見なかつたと言つて居られる。まことに法を求むる志がかやうに深くしてこそ始めて法は得られるであらう。何事にしても心を一にして精進努力するにあらざればその目的を達することは出来ぬのである。まして後生の一大事たる貴き法を求むるに懈怠の心のみ強くして、棚から落ちて来るぼた餅を待つやうな態度は大いに懈づべきことである。  闘争の心  天龍寺第一世夢窓国師は、後醍醐天皇の第十三回忌法要を厳修した翌日、俄に鼓を打ならし、衆徒を集めて生前告別式をなし、それから一ヶ月除の後、諸僧に親しく告知して示寂せられたことは有名の話である。この夢窓国師がまだ若かつたとき、一人の武士があつたが、至つて闘争心が強く、何かにつけて人と相争ふことのあさましさを恥ぢて如何にもしてこれを止めやうとつとめ、或日その事を国師に申し上げた。さうすると、夢窓国師はその武士に対して、次のやうな意味のことを言はれた。  君は闘争をよくすると自から知つて居るならば喧嘩は起らぬ筈ではないか。これを世間の事にたとへていへば戦をよくするものは先づ敵の大将を狙い、葉武者には心をとめぬものぢや。大将さへ打取れば余の葉武者は自然亡びる。されば今、君の心に背く敵の中で、何れが大将であるかに、しかと目をつけて見るがよい。仮令人に悪口せられても打擲せられても、地獄へ堕つることはあるまいが、かかる悪縁に催されて起る初一念の瞋念は百年の善根をも一瞬にして焼滅し、我を地獄におとすのである。されば恐るべきは我心である。我を滅す大将は他人でなく、我心である。他人の為すことにかつとなり、闘争の心がむくむくともりあがつて来た時は真先に自から省みて他を思ふこと勿れ。自らの憎悪の心と戦へ、自らの瞋恚の心と争へ。しからば争の心は自から消え失せて仕舞ふであらう。  その武士は、この夢窓国師の教によりて修行し、途に円滿なる仏法者となつたといふことである。およそ生きたるものはその生存のために競争することは自然の法則にして、人間にありてもこの自然の法則は行はれて居るのである。自我の保持のために或は進撃的に他我と闘争せねばならぬこともあり、或は退嬰的に他我から逃避せねばならぬことがある。さうしてこれは人間が発達するための必要の過程であるから、闘争といへば一も二もなく、これを良くないものとして排斥すべきものではない。むしろ争ぶべき時には争はねばならぬのである。ただ多くの人々が常に闘争するのはその邪心に本づき、目前の利害に関するものであるから、その闘争は決して真に闘争の価値を有することなく、その結果は却つて自我を殺すものであるから、仏教にては貪欲・瞋恚・愚癡の三毒の煩悩と名づけて、瞋恚の心によりて闘争することが戒められて居るのである。  夢窓国師は常に闘争の心が起るのを恥ぢた武士に対して、闘争の心と戦へと教へられた。闘争の心と戦ふて勝を制することが出来ればまことに結構であるが、我々凡夫の心の実際は、いくら闘争の心と戦ふても、到底その闘争の心に打ち勝つことが出来ぬ状態にある。かやうな?弱の心の相に気がつくとき、自身のはたらきによりてでなく、自身の外にあるところの大なる力によりてこの闘争の心が、他の温和なる力に変更せられて、その効果は闘争と同じく、更に闘争よりも強大なる心のはたらきがあらはれるのである。これがすなはち宗教である。  愚底和尚  愚底和尚は後に智恩院に住し、声譽上人と称したが、前は三河の国に居つて岡崎城主松平親忠の帰依を受けて大樹寺を建立した人である。親忠は徳川氏の祖松平信光の子孫で、名高き武将であつたが、あるとき、愚底和尚に向つて  「上人が常に教諭したまふところは此身の死期に迫れる臨終の用心に過きず。しかるに、余は生を弓馬の家に受け、戦場に於ては殺人修羅の行為をせねばならぬ。武士たるものの此等の罪状はいかにして免ぜらるるかを教示されたい」  と願ふた。親忠は自身の現状を持ち出して、かかる罪業深重のものがいかにして安心を得べきかを尋ねた。これに対して愚底和尚は次のやうに答へた。  「人皆其職に誠心誠意務めねばならぬ。凡そ武を用ふるに本末あり。これを行ふに順序あり。勧善懲悪、罷兵安民を念じ、慈心を起し、功徳を度生に致すならばこれ菩薩の武にして干戈を以て仏事をなすなり。近世騒授に乗じて私欲を充たさんがために故なく兵を起し、城を抜き、暴逆を掟にし、財を掠め、人を害するはこれ刧賊の武なり」  親忠はこの説を聞きて更に反問した。  「士は進むことありて退くことなきを尚ぶ。一旦干戈を取りて戦場を馳騙すれば終に念仏の暇なし。又自刀矢石を胃し、闘争を事とし、忿怒の心熾盛にして殺心巳むことなし。かかる罪業を思ひ居りては怯惰の心起りて勇武の名を汚さん、如何なる方便ありや」  小さい虫けらの類でも、生きたものを殺すことは罪の深いこととせられて居る。鳥や魚などを殺すことを業とするものは兎も角も、同類の人間を殺すことを仕事とするのは、その罪まことに深重であると言はねばならぬ。親忠はその罪業の深重におそれて居つたのである。愚底和尚は曰く  「かかるときには念を為せ。四海静斎にして上下事なく四民安臥し流離飢寒の夢を免れしめん。又念を為せ。順逆ひとしく仏道を成じ、自他同じく浄土に生ぜん。若し身存しては念仏の功を積み、身死しては浄土に生を受けんと、斯く念ずれば仏は一殺多生の善巧にかなひ、乱を救ひ塞を誅する義兵となる。手に剣を提げるときも口に仏號を称すれば諸仏は念々に相現じ、利剣となりて刧賊の徳をあらはし、義士を守りたまふ」  一殺多生とは小の虫を殺して大の虫を生かすといふほどの意味である。鳥や魚や乃至大根や牛蒡などの類なども人間に食せられてこそ功徳を得ることが出来ると言はれるのである。人間が生存するがために大小の生き物を殺さねばならぬのはこれを如何ともすることの出来ぬ事実であるから、或はそれ等の生き物は人間の生存のために世にあらはれたものであると説き、或は正義のために戦ふことは一殺多生の道理にかなふものであるとせらるのである。しかしながら、一層進みてこれを宗教的に考へれば、一殺多生とか、或はこれを殺すことが却つて功徳であるといふやうなことを言はず、我々人間は生きた物の通則として、その生存のために互に闘争せねばならぬ。慈悲の心よりしてこれを見れば、まことに罪悪深重であるといふことを深く内省すべきである。かやうに深く内省してますます罪悪深重の感が深くなれば、その罪悪と感ずるそのものに仏の光明が輝くのである。かやうにして、戦場を馳騙して敵を殺すことを仕事とする武士の心も、大慈大悲の光明に照らされて、その苦悩から離れることが出来るのである。  孝養  山城国葛野郡西岡に儀兵衛といふ孝子が居つた。百姓半右衛門というものの養子であつた。下京商人の子であつたのを、出生のときわらの上から貰ひ受けて養育した。儀兵衛十歳の頃、半右衛門は死去し、母のみ一人殘つた。儀兵衛は人となり、柔和にして禮儀厚く、己をへり下り、人と争はず、人の善悪を陰にても言はず、無欲にして外に望なく、ただ親を安んずることを心とした。儀兵衛は極貧にして少しの田地もなかつたので、人に雇はれて生活して居つた。僅かの賃錢にて母と自分と二人が生活したのであるから、自分は粗食し、又は食せずしてしかもこれを母に知らせず、自分の身をつめ、母には食物衣類等相応に、足らざることなやうにと心を尽した。  儀兵衛は朝早く起き、母の食物、遣い水、それぞれに用意し、冬は手洗いの湯、火燵、火鉢に火をいけ置き、其外用向の一式のこらず調へ置きて、仕事に出でた。母手足痛む故に、髪をゆひ著物を著せるまでも儀兵衛せざるはなかつた。母に食をすすめる度毎に先づ椀をよく拭ひ清め、飯、汁、菜を盛るに一杓子もりてはよく見、又一杓子もりてはよく見改めてすすめ、魚はよく骨をさり進めた。儀兵衛常に食する母に一々戴いて食した。又何方にて魚類菓子類など振舞ふ人あれば大方は持ち帰りて母に進めた。「御振舞に預かるはありがたいことなれども、母にたべさせず、私ばかりたべますればあまり快ふござりませぬ。かやうに存じまするはいかい罪でござります」と或人に語つたと伝へられて居る。  儀兵衛三十余歳の頃、縁類のものの話にて始めて自分が養子であることを知つた。儀兵衛いふ「我今まで実の母と思ひしに、産みもしたまはぬ我をかくまで愛したまふことのありがたく、いよいよ母が大切になつた」と。その志の尋常でなかつたことがこの一言にてもよく窺はれる。  儀兵衛が母、毎朝日に向ひて拝し、次で神仏を拝し、又儀兵衛に向ひて拝するを常とした。儀兵衛勿体ながり。「よしにして下されませ」と断はれども母きかず、巳むを得ずその心に任せて置き、儀兵衛はかげにて母を拝した。母も儀兵衛と共に神仏を崇敬するの念が強かつた。儀兵衛は常に母の気づかふことは何事を聞かせぬやうにし、母の心に憂なく喜び暮さんことを心とした。かく儀兵衛が母に対して孝養の限りを尽すことは世間にも聞え、西岡の孝子と、その名が遠近に伝はつた。或人儀兵衛に向ひて「孝行をせよといふ教を儒者か仏者に聞かれしことありや」と問ひたるに対して儀兵衛は「曾て孝行にせよといふ教を聞きたることなし」と答へた。そこで或人は更に「孝行をすると思はれ候や」と問ふ。儀兵衛答へて曰く「孝行にするとは存ぜず、唯大切にいたし候」と。まことに儀兵衛の孝行は、孝行にせよとの教を守るところの道徳にあらずして、どうしてもさうせねばすまぬ心に動かされてその母を大切にしたのであつた。これこそ真に宗教の心のあらはれであると言はねばならぬ。  仏佐吉  美濃の竹が鼻に作吉といへるものが居つた。親に仕へて孝、人に交ること誠あり。深く仏を信じて居つたので誰言ふとなく仏佐吉と呼ばれるやうになつた。始め名古屋にてある紙屋の僕となつて居つたが、暇あるときは手習、読書をなしたので朋輩のものこれを妬みて「作吉は読書にことよせて悪処に遊ぶ」と讒した。主人も佐吉を疑ひて竹が鼻にかへした。されども佐吉は舊恩を忘れず、道の序に必ず訪ひ来りて安否を問い、年を経て其家大いに衰へたる後も折々物を贈りて前日の恩を謝した。  佐吉名古屋より帰りたる後は、綿の仲買をしたが、何時でも秤を持たず、買ふ時は賣る人に任せ、賣るときは買ふ人に任せた。後には人々、佐吉の正直を知りて賣る人は心して重くし、買ふ人は心して秤り、幾程もなく豊かに暮すやうになつた。佐吉は早く父に別れ、母一人なりしが、母は餅を搗きて賣りたしといふ。佐吉母の心に違はず、餅賣を始めしが、「必ず小さくしたまへ」と母に勸む。母その故を問ふ。佐吉曰く「近きあたりに奮くより餅を賣る人あり、大きくせば彼がさわりとならん」と、母その意を汲みて餅を小さくしたが、なほその餅を買ふ人は多かつたと。  或年の冬、年迫りて近国に金集めに行き、帰途日暮れて道に迷ひ、山賊出でてその金を奪はむとした。佐吉いふやう「我も昔は貧乏であつたが、今はかばかりの金は惜むに足らぬ」と所持の金を投げ出して与へた。山賊は更に「その衣類を脱ぎて置け」と迫る。佐吉「それも易き事なり、いかにも和主達も定めて寒むからう。尚ほ欲しくば我家に来たれ。一同に遣はすべし」と言ひて著たる物を脱ぎて与へ「この代りに街道に出る道を教へよ」といふに、山賊の一人つくづく佐吉を見て「我案内せむほどに、何処へ帰る人ぞ」「竹が鼻のものなり」「そは佐吉ぬしにあらずや」「我は佐吉なり」。これを聞いた山賊は大いに驚き「こは悪しき人の物を奪ひたり。仲間のものに話し、明日必ず返すべし」といふ。佐吉曰く「否、一旦主達へ与へたる上は又取るべきやうなし」と、帰る道順を聞きて別れた。翌日、果して前夜強奪したるものを持ち来りしも、佐吉は種々にいひて取らざりしが、遂に差置きて帰つたといふ。  国主佐吉の至孝にして、慈善の行為少からざるを賞し、多くの米を給ひ、何事にても望あらば申出よとありしに対して    ありがたやかかる浮世に生れ来て何不足なき御代に住むかな と詠みて上つたといふ。流石は仏佐吉とあだ名せられるほどの妙好人、その一学一動はすべて仏の光明の中にてなされることであるから、舊主に対する報恩もおろそかならず、商賣するにも慈悲の心を主とし、盗賊に対してもなほあはれみを垂れ、さうして自ら分を守り、足ることを知りて、たとひその身は富裕ならずとも心は決して貧乏ならず、何不足なき平安の生活をなし得たことは欽仰すべきことである。  婆子焼庵  禅宗に行はれて居る話の中に婆子焼庵といふのがある。老婆の庵室に宿したる若き修行僧に、美しい娘子が突如と抱擁したるとき「枯木寒巌に倚るが如く、山頭には暖気なし」と言つて、平然として居つた。そこで老婆はその若き修行僧を追出して、庵室を焼いて仕舞つたといふ話である。修行僧の態度は人間の情を無視したものである。修行の道にあるものは美色にも動かされず、枯木が寒巌に倚るが如しと平然たるのである。しかしながら仏教の上から言へば、山頭に暖気がないのは無仏性である。無仏性のものは生きたる物でない。老婆が怒つたのはこれがためである。そんな体裁を繕ふやうなことを言はず、真実の一語を呈すればよいと禅宗では説くのである。「菜根譚」に「風月花柳なければ造化を成さず。情欲嗜好なければ心体を成さず。只我を以て物を転じ、物を以て我を役せざれば、則ち嗜欲も天機にあらざるはなし、塵情は即ち是れ理境なり」とある。凡俗の人は兎角物のために自己を使役せられるから、紅塵萬丈の場を離れ、情欲嗜好を抑制するの必要がある。若し我よく物を転じて物のために役せられることが無ければ情欲嗜好も天然の真機でないものはなく、塵情も理想の妙境でないことはない。人が酒を気に入るだけ飲むのはよい。酒のために人が飲まれるからよくない。情欲もさうである。その心が若し宗教的になり得たものならば、世間の喜怒哀樂の情がそのままに宇宙の真理たり得る訳である。  ビシャカ  釈尊在世の時、バッデアといふ町にメンデカといふ長者が居つた。この長者の娘にビシャカといふものが居つて、釈尊に就て法を聞いて篤信の聞えがあつた。或処の祭にビシャカは多くの腰元などと一処に見物に行つた。ところが生憎俄かに雨が降り出したので、人々は急いで小屋の中にかけ込むだ。しかるにビシャカは悠々として狼狽せず、女子の生命ともいうべき著物のぬれるのも気にかけなかつた。それを舎衛城の長者ミガーラの身内のものが見てその態度の美しきに感じ、ミガーラ長者の嫁に懇望したといふ。雨のために著物がぬれることを恐れてうろたへることはその心が著物のために使はれるからである。著物がぬれることは固よりよくない。しかしながら著物よりは大切であるべき身体が著物のために使はれて狼狽し、見苦しき態度をあらはすことは決して賞すべきでない。  治郎右衞門  能登国鹿島郡豊田村に治郎右衛門といへる信者が居つた。この人は殊に仁愛の心が深く、外にては遣り手のたき悪者にても此家に奉公すれば程なく如実のものになつたというほどであつた。この治郎右衛門は常に他より食物を貰ふと下部が田畠より帰るを待ちて、先づ下部に施していふやう「其方達があればこそ我等が樂しく暮すことが出来る」と喜び、それより自分も食ふ。その深切に恥ぢ入りて下部も忠義をなすに至る。近辺の寺に法座あるときは五錢三錢と賽錢を与へていふやう「心を留めて感動してそのおいはれを咄して聞かせよ」と、懇に言ひ含める故に若者共も心を留めて聴聞し帰りて咄せば、よく聞かせて呉れたと大いに喜ぶ。又妻子や下部のものに自分の領解を聞いて呉れよと謙遜して述ぶるが故に、背々随喜して同行となつたといふ。思ふに治郎右衛門の此の如き態度はただ人に信を取らしめやうとするのでなく、人が信を取ることを見て、信をありがたく感じたのであらう。人が法を聞くことを見て、すなはち自身が法を聞いたのであらう。まことに麗はしき妙好の心であると言はねばならぬ。  俳諧の殿樣  むかし信州の俳人一茶が江戸に出て、ある有名なる宗匠を訪ふた。ところがその服装が粗末であつたので玄関拂を食はされた。一茶は巳むことを得ず、手土産に持つていつた蕎麥粉に    信濃には蕎麥と仏に月夜かな  の一句を添へて差出し、すごすごと帰つた。あとでそれが有名な一茶であつたことがわかつて、追ひかけたが及ばなかつた。宗匠は大いに痛み入り、後に信州の柏原に赴きて一茶を其家に訪ふた。そのとき一茶は    俳諧の殿様これへおなりかな  の一句を殘し庵室を閉ぢて外出して仕舞つたといふ。  一茶はその宗匠がいかにも殿様然と威張り散らし、服裝を見て人の待遇を上下することを冷笑してかやうに皮肉の態度を取つたのであらう。しかしながら、物に使はれて生活して居る多くの人々にありては、衣服や住家やその他の持ち物の美醜を標準としてその人の品定をするのが常である。我々も固よりその中の一人であるから平生この点には深く心せねばならぬことであると思ふ。自身に附属するものは、財産にしても、門閥にしても、乃至は学問にしても、自身から離れて全く無くなることである。たとひそれ等のものが全く無くなりてもなほ、自身の心のみは跡に殘るのである。それ故に人間に大切なるものは財産や門閥や学問など外から附けたものでなくして、内に存するところの心である。しかるに、ただその人の外部に附著して居るもののみを見てその品定をすることなどは、決して正当のことでないと言はねばならぬ。  袈裟に供養  禅林の奇僧一休和尚が、あるとき破衣を著けて托鉢をして、ある富豪の家に赴かれた。ところがただの一錢も呉れなかつた。その後、一休和向が紫衣を著け、金襴の袈裟をかけて其家に赴かれたときには鄭重に供養し、莫大の布施をした。そこで一休和尚は袈裟や紫衣をぬぎてこれを床の上にあげ、馳走や布施の金などをその前に供へられた。主人はそれを不審に思ひ、何故かと尋ねた。一休和尚は 「今日は拙僧が供養になるのでなく、袈裟や衣が供養にあづかつたのであるから」と言はれた。主人は大いに慚ぢて、叩頭して以前の失禮を謝したと伝へられて居る。  金持尊崇  外部の附き物の中でも衣服や住居やなどより多くの人々から尊崇せられるものは金持である。何れの所にてお金持は崇められ、これに反して貧乏人が侮られるのが常である。これもその金を取り除けばすべての人々と同じく裸一貫であるが、固よりその裸一貫のところにつきてではなく、ただ金を持つて居るといふことのみで尊崇せられるのである。支那の「笑林広記」とて、笑話を集めた書物の中に次のやうな話が載せてある。  一人の金持が居つた。皆の者のがそれを崇めるのに、ただ一人少しも崇めぬものが居つた。金持は不快に思ひて「お前はおれが金持であることを知らぬか」と詰問した。その男は一向平気で「お前が金持であることは知つて居る。しかしいくら金持であつてもおれに一文も呉れぬから崇めることはない」と言つた。そこで金持は「さうか、それならばおれの財産の半分を貴様にやつたらどうか」「半分貰へばお前とおれと同等ぢやないか、何も崇めるには及ばぬ」「それではおれの財席の全部をやつたらどうか」「皆貰へばおれの方が金持だからお前の方から崇めねばならぬ」  これは固より一條の笑話であるが、ただ金持としての人間を崇拝するといふことの無意味であることがよく言ひあらはされて居ると思ふ。勿論金持を排斥すべしといふのではない。しかしこの話の中には金を持つて居るといふことはただ外部のことで、その外部をのみ見てそれに心を動かさず、真裸になつた人格に重きを置きてそれを崇むべきであるといふことがよく示されて居るのである。  陳善院僧僕師  陳善院僧僕師は西本願寺派の顕徳として有名の僧侶であつた。字は抱質、昨夢慮と称し、休々子と號せられた。越中の人、十八歳にして京都に出て、日溪講主に就て学ぶ。業成りて後、或は講筵に或は教化に、諸方を遍歴し、諸僧の誤謬を呵責し、同行の違意を糾明し、一宗の教道を宣暢することをつとめられた。師は短視にて咫尺の外を辨へず、容貌もいと魯鈍に見え、加ふるにその始め赤貧にして鉢孟しばしば空しといふべきほどで長爪垢面すこしも姿容を整へず、ただ寸陰を惜しみ、米もこれを炊ぐに暇あらず、生のままに噛み水に和して呑むといふほどであつた。時の人称して米噛僧僕とあだ名して居つたといふ。  僧模師年二十七歳のとき、門人の慧雲に謂はれ広島に赴き、仏護寺に客として居られたが、実延二年に可部の品窮寺に住持せらるることとなつた。或時招請に応じて防州の某寺に赴かれた。師がまさに出勤せられむとするとき、その寺の住職は綾羅衣服と紋沙袈裟衣とを差出して師にこれを著て高座に上られむことを謂ふた。師は諾して、著て居られた綿服を脱ぎ捨てて麗衣を著て、錦衣袈裟を掛けて高座に登り、參集の同行に対して次のやうな意味のことを曰はれた。  「看よ看よ。まことに結構なる美衣にあらずや。予今住持の望に任してこれを著けたのは、衆人をしてこれを見せしめむがためである。あなかしこあなかしこ」  かやうに言ひ挙りて高座を下りて内に入られた。参集の同行は大いに驚きて「これは果して何事か」と住職を詰問した。住職もまた驚き騒ぎて「まことに予が悪るかつた。これは予のあやまちである」と慚愧して、同行数人を率ゐて僧模師の前に出で頓首拝謝して法を演べられむことを哀願した。そこで僧模師は唯々として又高座に登り、勸談利化、懇に親鸞聖人の教の真意を説明し、僧俗一同をして深く感歎せしめられたといふ。思ふに住職は僧模師の粗模なる態度に弊衣を著けての説教は參集者の注目をひくことが少ないことを憂慮して、外面の体裁を飾ることを願ふたのであらう。しかしながら此の如きは荀くも釈尊の精神を奉じ、仏法の弘通のために一生懸命に努力すべきものの為すべきことではない。僧模師が厳然としてその非を糺明せられたことは、僧僕師なればこそと言はざるを得ぬことである。  袖口同行  江戸の妙好人庄之助が、或時會合の席にて「御法義歓ぶ人は高ぶる心甚だあしし、されば古歌にも真実の信得し人は藤の花さがるにつけてとうとかりけりとあれば、兎角頭をたれて喜ぶに如くはなし」といひしに、座中の面々これを聞きて「されどその下ぐべき頭をあぐる故とまり候」といへば、庄之助の曰く「随分我身はあさましきいたづらものと見限るが当流の教なれども兎角、袖口同行が多きものなり」と言つた。傍の同行問ひて曰く「その袖口同行とはいかなるわけにて候や」庄之助はそれを説明して次のやうな話をした。  我等近処に有徳人と貧者と隣合つて住むで居つたが、兩方の家に娘一人づつ居つた。同じ師匠の許へ書き初めに行くときこの貧者の親思ふやう、隣の娘はさぞ結構なる衣装を著かへて參ることであらう。せめて我娘にも表ばかりなりと、新しくせむと心を尽し、切々を集めて裏をば夜の日も寝ずにつぎあつめてこしらへ、先づ上の著物は出来た。しかし下に著るべき襦袢なき故、古きぼろの襦袢に袖口ばかり新しく著せければ、娘は大いに喜び隣へさそいに行つた。隣の内儀の曰く、さてもさても結構に髮が出来ました。美しい著物も、おや襦袢も出来ましたといへば、娘は大いに喜び、上のをまくりて見せたれば奥のぼろが出た。その親の身になつて見れば大抵恥しいことではあるまい。今同行名左の如く、今日は天気がわるいによく御參詣なされたと賞められては嬉しかつて、私は昨日も参りましたとぼろを出し、よく御手伝をなさるる御奇特といへば、いや私等は御講中つめきりでござるとぼろの袖を出す。我心から參るやうに心得、懇志をはこぶやうに思へども、阿弥陀如来五劫思惟の御苦労、聖人御一生の御難儀、代々の善知識況からざる御勧化のおかげにてなさしめ玉ふことを、我なすやうに思ひなば聖人善知識の親さまはさぞ恥かしくかなしく思召すことであらう。  いかにも世に袖口同行が多いことは庄之助が言つた通ほりである。自身の心のぼろを知らぬのではないが、しかもそのぼろを仏の光明の中へ打ち出して、それに照されることをせず、却つて表面的に美しい著物をかぶせて仏の光明の照すことを遮ることにつとむるのである。  仏性  「華厳経」に「心仏衆生、是三無差別」とある。心も仏も衆生も、この三つのものは差別がなく、同じものであると説かれるのである。心といふは自身のことである。衆生といふは一切の生物をいふのである。その何れを観ずるも同じことであるから、自身の心を観ずるときは衆生を観じ、仏を観ずると同じであると言はれるのである。  さうして、衆生界は広く、仏は不可見のものであるから、自身を観ずることが我々に取りて最も都合のよいことであり、又最も手近かであると知らねばならぬ。  そこで自身を観ずると、自身はひとりぼつちであることに気がつく。多くの人々が住める世界に居つて、ただ外面のみを見て暮せば賑かである。しかしながら、退きて深く考へて見れば、広い世界に唯一人の自身が居るのである。独りで生れ、独り死ぬる。まことに淋しいものであるが、しかしながら、それが真の自身でなければならぬ。  この独りぼつちの自身が、その心の奥に存するものを自身にさとることが出来る。それは固より言葉にて他の人に伝ふることは出来ぬが、しかも他の人の心の奥にも同じやうに自身にさとることの出来るものがあると言はねばならぬ。仏教にて仏性といはれるものは、この心の奧に認められるものである。  仏性とは仏になるべき可能のものである。仏になることの出来る本性である。さうして、この仏性は無限のひろがりを持ち、どこまで行つても行き詰りのないものである。人間を始めすべての生物には勿論、山川草木国土にまでも仏性は存するものである。これを要するに、仏性は宇宙に遍滿して居るところの大なるものであり、それが山川草木国土から人間にまで分れてそれぞれ仏性としてあらはれて居るのであるから、一つのものの仏性と他のものの仏性とは互に和合すべきものである。  かやうにして、人間にありて言へば、自身の仏性と他の人の仏性とは互に和合すべきもので、それが和合するところに仏の心があらはれるのである。仏の心とは、この世の中にありとあらゆるものが渾然として和合するはたらきを指しているのである。それ故に、仏の心は一切のものが和合するところにあらはれるので、肉眼にては見ることの出来ぬ仏をも一切のものが和合するところに於て、実際に仏に遭遇することが出来るのである。  真仏  「菜根譚」に次のやうな言が載せてある。  「家庭有個真仏、日用有種真道、人能誠心和気、愉色婉言、使父母弟兄間、形骸兩釈、意気交流、勝於調息観心、萬倍矣」  これは家庭の中に、自から一個の真の仏があらはれて居り、日用の間に、一種の真の道が行はれて居れば、坐禅をして息を調へ、心を観じ、種々の工夫をするよりは萬倍もまさつて居るといふ意味である。  真の仏があらはれて居るといふは、家内中の心が誠で、気が和いで、常ににこやかなる顔をして居り、やさしい言をなし、父母兄弟互に思ひやりをなし、其間に少しの分け隔てなく、人々の身体が融け合ひ、気合が打ち揃ふて年中樂しく暮して行くことである。かういふ場合をば、家庭に真の仏があらはれて居り真の道が行はれて居るといふのである。それは言ふまでもなくすべての人々が互に和合しやうとする心をあらはして居るのである。さうしてかやうにしてあらはれたる和合の心はすなはち仏である。それを反対に言へば一切のものが和合して仏を造り出すのである。それ故に、家内が和合して、父母兄弟が互に思ひやりをなし、すこしの分け隔てもなく、身体も気合も互に融け合ふて居る相を、真の仏があらはれて居ると言はるるのである。  安樂の善道  或とき、四人の道人が花の下に坐して「世の中で最も愛すべきものは何であらうか。又人の心を快くするものは何物であらうか」といふことにつきて語り合ふて居つた。  一人の曰く「春の酣《たけなわ》なる頃野も山も花に飾られたとき、打ち集て遊び暮すことが最も樂しいことであらう」  一人の曰く「自分は家族と共に酒くみかはして歌舞音曲に耽ることが最も樂しいことであると思ふ」  一人の曰く「自分は多くの財産を積みて、為したきことを為すことが最も樂しいことであると思ふ」  一人の曰く「自分は美しき妻や妾を蓄へ、奇麗な服を著せ、香粉を匂はせて心のままに情欲を樂しみたいと思ふ」  仏はこの四人の道人を救ひたいと思召して、樹の下に現はれたまひ、四人のものに向ひて  「汝達は何を語つて居るか。聞けば汝達が樂しみなりと思ふは悉く憂と畏と亡びの道である。決して安樂の善道ではない。見よ、自然のすべては春は美しく榮えるが、秋から冬になれば悉く花が落ちて、あはれに枯れて行くではないか。家族と樂しむといへど皆別れ別れに行かねばならぬのである。車馬の誇も、妻妾の美も皆、愛と憎との主人である。愚なる人は世に生活して怨と禍とを起して身を危くし、家族を滅ぼし、限りなき愛の淵に沈むであらう。さうして、自から真の樂の生活を得ぬことを悲しむであらう。真の樂しみは仏の法に従ふことである。人の世に生きることは詮じつめれば欲望の滿足を図る以外にはない。その欲望に、善きものもあるが、悪しきものがある。自から生れ、老い、病み、かくて死に行く体を有しながら、自から愁へ、悲しみ、汚れに染み行く心でありながら、愛欲の心に牽かれ、財産に執著することは悪しき欲望である。人は自から滅び行くものであることを知らず、矢張同じく滅び行くことに執著する。  この痛しき人の世の様を見て、老いず、病まず、愁へず、汚なき法を求むるのが最善の欲望である。これこそこよなき安樂の善道である」と説かれたのである。  仙腰a尚  博多の師僧仙腰a尚は、脱俗的にしてしかも気骨稜々、その挙動常に人の意表に出づるを以てその名世に高かつた。その帰依者の一人に太田某といふ風変りの隠居が居つたが、或日使して「麥飯のお粥を供養したいからおいでを願ひたい」と言はせた。そこで和尚隱居の家へ往きて、さて御馳走といふ段になると、大なる碗に麥飯が盛つてあるのみでお菜はない。和尚これを見て「はあ、この隠居め、いつも衲にやりこめられるので、今日は麥飯といつたから、麥飯のみを出したのだな」と看破し、何も言はず、箸を取りてご馳走をつめこみ、「どれ帰るとしやう」と立ち上つて、さつさと玄関へ出た。隠居たまりかねて「たとへ麥飯で存分に召し上つたら、ご馳走さま位は一言おつしやつてもよいでせう」と言へば和尚「これは少し話が違ふな、使の口上は麥飯を食ひに来いとあつた。禮を言ひに来いとはなかつたぞ」  其後、俄の大雨に困つて、仙腰a尚、隠居の所へ立ちよりて下駄と傘とを借りた、すぐ返却したが、少しも禮を言はぬ。隠居は「和尚さんは随分剛情ですな。禮を言ふことがそんなにいやですか」と冷かした。仙腰a尚はそれに対して「そつちが剛情ぢやないか。そんなに人に禮を言はしたいか。わしは禮は言ひませぬ。禮を言ふと折角受けた恩が消える、帳消になるから、禮を言はずに、いつまで御恩を覚えて居るぞ」とやつた。  固より仙腰a尚の真意は人の厚意に対して禮を言ふこと勿れといふのではないと思ふ。ただ御禮を予期して善事をなしてもそれは無功徳であるといふことを示さんがためか。少しばかりの恩を施したるときでも相手に禮を言つて貰いたい人間の心の浅ましさを反省せしむるためであつたか。  思ふに悪事を為して、人のこれを知らんことを畏れるのは悪中なほ善根ありといふべきである。善事を為して人のこれを知らんことを急ぐのは善処すなはちこれ悪根であると言はねばならぬ。隠居が些細の善事の御禮を言つて貰ひたいのに対して、仙腰a尚が禮を言へば折角受けた恩が消えると言はれたことは、まことに浅ましい心の持主である我々に取りては頂門の一針である。  人間に生る  恵心僧都の「横川法語」の中に曰く  「先づ三悪道を離れて人間に生るることは大いなる喜びなり。身はいやしくとも畜生に劣らんや。家は貧しくとも餓鬼にまさるべし。心に思ふことかなはずとも地獄の苦しみにくらぶべからず。世のすみうきはいとふたよりなり。このゆへに人間に生れたることを喜ぶべし」  地獄・餓鬼・畜生の三悪道にては法を聞くことは出来ぬ。しかるにこの三悪道を離れて人間に生れたるお蔭にて始めて法を聞くことが出来たのである。これは大いなる喜びであると言はれる。  しかしかやうに人間界に生れて来たのは榮耀栄華に来たのではない。不足や愚痴をならべるために生れたのではない。無始以来、願つてしかも遂げざりし後生の大事を調へるために人間に生れたのである。しかるに、折角人間に生れ来て、ただ愚痴や不足をならべて法を聞かぬといふことは心得違いである。  釈尊が施鹿園に居られたとき、六十人の不具者が泣き崩れて不具を歎いて居つた。釈尊はこれを見たまひて  「何を歎くぞ。よく聞け、汝等の不具として生れたのは一朝一夕の業因ではない。しかし後には悪業尽く滅びて浄土へ生れるであらう」  と言はれた。六十人の不具者は今さらのやうに、過去の罪の怖しさを感じ、これより仏法修行の人を敬ふと誓ひて大いに歓むだと、「寶積経」に記してある。若し人間に生れなかつたならば闇から闇へと迷ひつづける筈であるのに、人間に生れることが出来たればこそ、罪悪も知られ、又、業報も知られ、さうして又、それを消滅すべき手段をも教へられるのである。この故に人間に生るることは大いなる喜びであると知らねばならぬ。  広い心  むかし京都七條米市の松屋茂兵衛といひし人の用を聞く藤吉といふのが居つた。主家にて金子二分借用して、程なく返済した。その後、右の松屋より「いつぞやの金子、僅かばかりのことなれば返済なくともよけれども、借りた借りたと思ふて居ては心にかかるべければ返すに及ばぬ」と言はれたのを聞きて藤吉は「それは忝なくとも申し難し。その金子は借用した時より程なく御返し申した」と言へば、松屋にては「受取りたる覚えなし、誰に渡したりや」と尋ねたれば「それは内室様に渡した」と答へるに、松屋の妻は断乎として「受取りたる覚えなし」といふ。  それより藤吉は心配して「さてさて悪しきことを口より出したることかな。返すに及ばぬとありしとき、忝なしと一体言ふて居ることを、かへしましたと言ふたばかりに内室様に快からぬことと思はれ、主人は内室様を疑ひて受取りたるをかくすやと思はれんもはかり難し。何にもせよ、我が返答の悪しかりし」と思ふ心のやるかたなく、それより北野天神へ日參して願ひ祈り「返したといふ私のおぼえちがひになるやうにならしめて、内室のきずにならざるやうにならしめたまへ。返したものをいつはりてまだかへさぬといふやうな虚言は言ひ難し」となほ北野天神へ日參し祈願をつづけて居つた。何といふ広い心であらう。返したものを受取らぬといふ人の乱暴に腹を立て、相手を罵るのは多くの人の常であるのに、藤吉はさういふ場合に、自分の言ひ方の善くなかつたことを心配し、他の人に迷惑をかけることを考へて、どうか自分の記憶が間違であつたといふことになるやうに北野天神に祈願して居るのである。しかるに、其後主家の内室が、天神の御火焼きに參るとて、小娘の著物を火煙にかけて置きしに、俄に娘は風気にて火焼き參りは止めけるに、火燵にかけたる著物より煙の立つに驚きて、内室はあわてて取り出せば、裏も表も火のつきでありけるほどに内庭へ投げ、水にてもみ消すときどきその著物の綿の中より南鎌銀が二分ほどこぼれ出た。此金不思議と見る内に内室は其事を思ひ出し、これはこの夏、著物に綿を入れて居りたるとき藤吉の持ち来りて返済せし金である。綿の上に載せ置きて、頓と忘れて、まだ受取らぬといひたるのであると、急ぎ藤吉を呼びて詫び入りたれば、藤吉は恐れ入り、私北野へ日參して三十七日の滿願になる本日、その銀が出たのは神の御利生の忝なさと、ありがたく、北野の方を伏しおがむだといふ。これが心の狭い尋常の人であつたならば、どうであらう。無実の罪をのがれやうとはせず、自分の言ひ方が悪るかつたと後悔し、しかも返したものを返さぬと虚言をいふことは出来ぬから、返したといふ自分の記憶が間違つて居つたやうに取り計つて貰ひたいと神に祈る心は、まことに美しい心であると称さねばならぬ。  悪業を憐む  空也上人、あるとき山路にさしかかられた折に、数人の盗賊が白刃をひらめかして所持金を出せと迫つた。上人はその盗賊をながめ、はらはらと涙を流し、いかにも悲しみに堪へぬ風に泣き始められた。盗賊は面喰つた。「出家の身ぢやに、何とて金品にさほどの執著心があるのか」と言つた。上人は悲しげなる面を上げて「汝等がかほどの悪業を為すを見て、来世に如何なる苦を受けねばならぬか。それを思ふと、汝等の身がいとしくてたまらぬ。わしが涙もそのためぢや」と言はれたので流石の盗賊恐縮してその罪を詫びたといふ。人の悪業を見て、その悪業を責めるところにこれを排斥する心があらはれて居る。それに対して人の悪業を見てその果報を憂ふるところにこれを摂取しやうとする心が起つて居る。さうして摂取の心は大きいものであるから、いかなる悪心もこの心の中に包容せられるのである。  かよ女  近江蒲生郡蒲生といふところにかよ女とて深く仏恩を喜ぶ婦人が居つた。このかよ女は生涯こまるとか悪るいとかといふことは言はなかつた。或日藁屋根のふきかへをしたとき、折悪しく雨が降つた。家人が「今日は困つたことになつた」と言ふと、かよ女は「かういふ日が無ければ御天気のありがたさがわからぬ」と言つた。萬事此の如くであつた。かよ女の夫は養子で、邪見者であつた。いろいろのことをたくらんでかよ女の仏法崇敬の邪魔をした。その一例。或るとき、二十八日といふ祖師親鸞聖人の命日に自身川魚を捕へ来りて煮てかよ女にすすめた。かよ女はその時少しも顔色をかへず、わたしまでも御相伴させて下さるか、ありがたい」と言つてその魚をたべてしまつた。これを見た夫は一方ならず驚き、それから不思議にもその心が改まりて別人のやうに柔軟になりて遂に法義に入つたといふことである。無法義の夫の計画は、聖人を尊信ずることの厚きかよ女は聖人の命日に精進するといふ立前から魚を喰ふことはせぬであらう、それに魚を喰へと強ひて困らしてやらうとしたのであらう。しかるにかよ女の内観の深かつたことは、聖人の命日にあたりて精進すべきに、夫の命によりて精進の戒を破らねばならぬやうな悪業の身を知りて、かやうなものが助けられるといふ仏の御恩がしみじみと感ぜられたのであらう。ここにあらはれたる宗教の心はまことに温和であり、それを見て感じたる邪見の夫の心まで柔軟になつたことは、宗教の心のはたらきが、道徳の上の訓戒よりもはるかにその力が強いことを証明するものである。自分は親鸞聖人の教を奉じて居るから、その命日には必ず精進するといふ心、腎善精進の心、自分はゑらいといふ驕慢の心、これこそ恐るべきものであらう。かういふ驕慢の心は決して仏に成るべき心ではない。  不思議  近江の湖東下田村に辨治といふ篤信の行者が居つた。その妻は至つて不法義ものであつた。あるとき辨治は妻に向つて「一寸も參らぬお前も地獄行き、日日参るわしも地獄行き」と言つた。妻の曰く「參らぬ妾も地獄行なら何故その様に毎日參らんすぞや」これを聞いた辨治「それでも御恩を思へば參らずには居られぬ」といふ。内省が十分であれば仏の恩がありがたく感ぜられる。まことに不思議である。さうしてその不思議に動かされてお寺に参りたくなる。摂取不捨の力の成大なることは何となく辨治の心を動かして毎日參らせたのであらう。  信心歓喜  美濃の牧野村の金四郎、七三郎へ尋ねて曰く「其元には甚だありがたいことをお悦びなさるとあるが、私はねつからありがたうござりませぬ。ちと御引立下されませ」と言へば七三郎は曰く「お前さんはお前さんのありがたいで參る御心かへ。この七三郎は如来様のありがたいで參らせて貰ひます。凡夫のありがたいはあてにならぬ。如来様のありがたいはさめるといふことはござらぬ」金四郎これを聞きてためいきをついたとある。  法然上人の言葉が「和語燈録」に載せてあるのを見ると「心のそみぞみと身の毛もよだち、涙の落ちるをのみ信のおこると申すは仮事にてあるなり。それは数喜・随喜・悲喜とぞ申すべき。信といふは疑に対する心にて、疑を除くを信とは申すべきなり。見ることについても、開くことについても、其事一定なぞと思ひとりつることは人いかに申すとも不定の思になることはなきぞかし。これをこそ物を信ずるとは申せ。その信の上に数喜・随喜なんどもおこらんは勝れたるにてあるべけれ」とある。七三郎は固より無学の百姓であつたが、当時有名の篤信者として人々から尊敬せられて居つた。その言ふことが自から法然上人などのやうな大徳の所説と一致するのは、それが貴き自家の体驗から出たためであらう。  すがる心  近江八幡順応寺の大量師曰く「盲人が道を失ふときはただ連れて行つて呉れる人を求むるより外はない。何ぞ目を開くことを求めん。しかるに、父の迎を得てとの手にすがれと聞きたるとき喜びてすがるなり。そのすがる心は目を開くにあらず。目はやはり暗きなり。暗きながらに我家に連れられて行くことが明かになるばかりなり。」まことに我々のやうな、生来心の盲目であるものが、どうしてその盲目を治することが出来やうぞ。若し我々にして法を聞きて明かにならんとすれば、それは盲人が明かなる目を求むると同じである。それ故に我々は光明があるといふことを聞きてただこれを信ずるのみである。ただたのみ先を求むべきこそ他力の法の聞きやうである。  貞心尼  貞心尼は越後長岡の藩士奥村某の女、関といふ医師の妻となり、二十三四歳の頃に夫を失ひて実家に帰り、柏崎に赴き、出家して貞心と號した。後に福島といふ所に行き、その近処に良寛和尚が居られたが、和尚は淡々として物に執せず、禅の境地をば不言実行して居られた。貞心尼は良寛和尚に五年ほど親炙《しんしや》した。三十五歳の時に良寛和尚は歿した。それから柏崎の泰禅和尚に就て得度し、釈迦堂の庵主となつた。時に年四十四歳であつた。釈迦堂が火災に遭ふた後、人々の厚意によりて不求庵が立てられて貞心尼はそこに住し、常に世に求むることなく心を虚しくして仏道を修め、心ある村人の安息所となつた。  貞心尼は七十五歳に歿したが、死亡の前に    あとは人先は仏にまかせおくおのが心の内は極樂  あるとき、不求庵へ二人の盗賊が入りて品物を盗むだ。無一物の生活で取らるるのもなく、又取られて惜しきものもなかつた。盗賊が去りたる後、貞心尼は歌を作つて門人に示した。その内    盗人のはいりて物みなとりければ   前の世になししむくひか白波のかかるうきめを我に見すとは  盗まれしことを自業自得とする。妙好人の多くのものに通じたる心である。貞心尼は更に自分を反省して居ることがこの歌に見える。  盗まれたる品は袈裟、衣、からかさ、合羽、提灯であつたが、その盗まれたる品々をよめる歌の中に    提灯を何のためとや盗みけむ闇をたよりのわざをしながら  洒落なる心にて、盗賊を見て居る内に、かかる悪業をすることを憐れむ心があらはれて居る。 我身の災難には心をかけず、却つて盗みをするものの罪が思ひやられた。    我がためにあだなすものもにくからで後の世でをあはれとぞ思ふ  人の身の上を思ひて、それがために自身の心の曇ることのみが心配であつた。多くの人々は悪しき人の悪行を見てこれを責むるのみにて、退きて自分の心の相を見ざるが故に、自分をば悪しからざるものとして、偏に他のものを非難するに止まる。それ故に自身としては何の得るところもなく、ただその心が混乱するのみである。  弥陀を頼む  一蓮院秀行師曰く「はからひの手のはなれたところが弥陀をたのむ一念なり。小児の親に負はれて、しつかりと母にとりつかぬに、手をはなして菓子たべたり、手放して居るのは母が決して落しはせぬと背後より手を添へて居るがためなり。小児の手をはなして居るが、却つて母をたのみにして居るなり。今も萬事はからひの手をはなして如来に任した所が後生たすけたまへとの意なり」まことによく宗教の心のあらはれが説明してある。我が身をたのみ、我が心をたのみて、彼や此やと計らふところに、人々はいかなる場合にも自分の都合をのみ考へて迷に迷を重ね、闇より闇に入るのである。  香月院深勵師曰く「弥陀をたのむはこころをたのむなり、人にものをたのむは心に思ふたばかりではならぬ。あの人より金借度と思ふても口へ出していはねば埒があかぬ。弥陀をたのむは心にかぎる。「御文」に弥陀一仏の悲願にすがりて、助けましませと思ふこころと仰せられて善知識の御教化が開きひらかれて、たのむばかりで御助けと、御慈悲にすがる一念に御助けなり。たのみつのりは人をたのむやうに思ふから口上にあらはるるなり。弥陀をたのむは助けるとある仰せが開き開かれ、左様ならばとたのむのみぢやによりてたのむがすなはち弥陀へ返事になる。人にものをたのむは、たのむが返事ではない。向ひて聞くのが返事なり。弥陀をたのむはたのめとある仰せにしたがつてたのむのぢやによりて、たのむが弥陀への返事になるなり。弥陀をたのむあなたの御慈悲に追つめられて、左様ならばと振返り仰せにしたがふところがたのむのぢや。」  以心伝心  宇宙の真理、天地の大道は言語文字にて十分にこれを人に伝ふることは出来ぬ。宇宙の萬物は悉く宇宙の真理から現はれて居るのであるから、萬物その儘が真心の発露である。それ故に鳥の声も虫の音も、深く注意して聴けば決して無意義のものでなく、花の英も草の色も悉く宇宙の大道を現はしたる文章であるから、細かにこれを観察すればその大理法を悟ることが出来るのである。  弘法大師の言に「萬花梢にほころび、仏性の妙体眼に遮る。百鳥林に囀り、神仏の説経耳に滿つ」とある。よくこの意を示すものであると言はねばならぬ。「菜根譚」にも「鳥語虫声、総是伝心之訣、花英草色、無非見道之文、学者要天機清徹、胸次玲瓏、触物皆有會心処」とある。まことに鳥語虫声は語らずして意を伝ふるものの要訣である。これを聞いたばかりで豁然大悟することが出来る。  それ故に、道を学ぶものは自然の心機、清く澄みわたりて胸の中が玲瓏透徹、玉の如く、見ること、觸るるもの毎に自己の心にぴつたりと會得するやうにつとめねばならぬと説かれるのである。  一日一善  むかし支那に一日一善を為すことを勤めた人があつた。一日に一善をなせば十日には十善、百日には百善、千日には千善をなす筈である。かういふやうにして進むときは愚悪のものも遂には賢善の域に達することであらう。しかしながら善を理想としてそれに対して自己を反照するときは、我々はますます善に遠ざかるものであるといふことを知らねばならぬ。いささかにても人のために尽したと思ふとき、それを善とするのは自分勝手のものである。今日一日は何等人に迷惑をかけずして暮したと考へてそれを善とするのは驕慢の甚しきものである。我々は少しにても善いことをしたと自から信ずるときはそれによりて心の内に愉快を覚え、又それを外界に向つて語らうとするのが常である。かやうな心を以て為したることはその外面は善のやうに見えても、実際それは我々をしてますます不善の域に陥らしめるものである。  此の如く自己を反照して見るときは我々の心を以て為すところのものは一日一善が結局一日一悪となるのである。勿論善事を為すことの出来ぬ懈怠の心に鞭ちて、廃悪修善に精進すべきことは我々の務とすべきことであるが、しかしながら向ふに在るところの理想のみを目標として進み、自分の足元をかへりみざるときは道を踏みはづして自身を傷つけるばかりでなく、目的の境地に達することが出来ぬのである。  我々の現在は道徳の世界である。一日一善の規範を立てて精進努力することは我々がまさに勉むべきことであり、又これによりて社會に貢献すべきであると説かれて居る。まことに貴き教である。しかしながら、我々自身の内面を深く省みれば、それは我々の実際生活から離れたるものであるといふことを注意せねばならぬ。さういふ理想に対して我々の現実の心の相を見るときは、心想?劣《るいれつ》にして一日一善すらこれを為すに堪へぬものであるといはねばならぬ。さういふ実際生活を無視して、しかもその実際生活と全く離れたる理想に向つて猪進することが果して世の道であらうか。理想に反照せられて自己の虚仮不実の和をありありと見せしめられたるものが、善に向つて進むことが出来ぬことを信ずるのは、退嬰の心であるとしてこれを非難する人があるかも知れぬ。しかしながらそれは決して退嬰逃避の心ではなくして、現実の生活の真実の意義を見出すのであるから、それによりて常に我々は真実の道を進むことが出来るのである。  仏性  仏性のことにつきては巳に述べたことがあるが、更に少しく敷衍して叙述しやうと思ふ。仏教の所説によれば、人も法も共に我々の分別心によりて造り出だされたる虚妄の世界であるが、若しこの分別を離れるときは、そこに虚妄ならざる世界があらはれる。さうして、この虚妄の世界を妄境と名づけ、それに対して虚妄ならざる世界を真如と名づけるのである。さうしてこの真如は我々の分別心を離れたる境地であるから、生じたり、滅したりするものでなく、常住不変のものである。色もなく、形もなく、心に思ふこと出来ず、言葉に出すことも出来ず、すなはち我々の言説を離れたものであると考へねばならぬものである。しかるに、我々はこの真如を真如そのままに知ることが出来ぬために虚妄の境界を造るのである。  しかし、我々の虚妄の分別心の奥には、必ずこの真如が存する。それは、我々の虚妄の分別心は真如をそのままに知ることが出来ぬためであると信ずるときに、当然の帰結として、真如が我々の虚妄の奥に存すると考へねばならぬことである。さうして我々が仏教の所説に本づきて、その究竟の目的として仏となることを求むるときに、この真如は仏性と名づけられるのである。それ故に我々は本より仏性を存するものであると言はねばならぬ。「涅槃経」に「一切衆生、悉有仏性」とあるは、正にこの意味に外ならぬものであらう。平易の言葉にて言へば我々の心はまことに虚妄であるけれども、その虚妄の心の奥には真如が存する故に、虚妄の心を除けば必ず真如に到達するといふ意味に解することが出来るのである。  これによりて観るに、仏性が本より一切の衆生に具はりて居ることは疑を容れぬところであるが、しかしながら、それは空観の理論の上にて言ふことで、修道の実際から見れば、此の如き仏性が、果して我々の分別心の奥に固より存するか否かといふことが問題とせられるのである。浄土真宗の教義を説明したる書として「真宗法要」に収められた「顕名鈔」に  「一切衆生悉有仏性といひ、心仏及衆生、是三無差別といへる、ともに経文なり、たれかこれを信ぜざらん。されども聖道は、われと心性の源底を観達して、即身にこの理をあきらめんとし、浄土門には但以垢障覆深浄体無由顕然といひて、無明煩悩にひさしくおほはれたる衆生は、ここにしてかの仏性をあらはしがたきがゆへに、その機のためにまうけたまへる弥陀の教なれば、かの仏智に乗じて、極樂に往生し、かしこにしてその仏性をあらはすべしと談ずるなり」  と説明してあるが、これは我々の如き分別心の強きものでは、この世にありて真如の妙理をさとり、仏性をあらはすことが出来ぬから、弥陀の教に從ふて極樂に往生して後にその仏性をあらはすことを期待せむとするのである。これと略ぼ同一の説明は、同じく「真宗法要」に収められたる「決智鈔」の中にも見えて居る。  これを要するに、仏性の所談は種々であるとしても、その本体が真如の妙理である以上、一切の衆生は悉く仏性を有するといふことは議論のないことである。しかるに、修道の実際の方面から見ると、どうしても仏性といふものを我々の煩悩の心の中に見出すことは不可能と言つてもよいほどである。そこでそのことにつきてそれぞれの説明を要するのである。「顕名鈔」や「決智鈔」に説かれたるところも亦、一切衆生悉有仏性の所説を、他力本願にて往生するといふ見地から見ての説明で、巳に一切衆生悉有仏性といへる経文を信ずる以上は、この仏性の始末につきて考へねばならぬが、我々凡夫は現在には煩悩に覆はれてそれを顕はすことが出来ぬ、浄土に往生してその仏性をあらはすべしと談ずるのである。たとひ仏性があつたとしてもこの現実の世にては、それを顕すことが出来ぬとすれば、実際に於ては、なきと同然である。しかもこれを無きものとすることは出来ぬので、極樂に至りてその仏性をあらはすとする。  又「決智鈔」に  「華厳経には心仏及び衆生是三無差別ととき、涅槃経には一切衆生悉有仏性といへり、されば我心すなはち仏なり、心のほかに仏をもとむべからずといへども、一念の迷妄によりて煩悩におほはれしよりこのかた、仏性のまなこひさしくしゐて、生死のやみにまよヘり」  と説いて、我々は真覚を得ぬから仏性を見ることが出来ぬ。しかし一切衆生悉有仏性である以上、我心すなはち仏である。心の外に仏を求むべからずといふ理論を排斥することは出来ぬ。そこで煩悩に覆はれてこれを見ることが出来ぬといひ、仏智に帰して極樂に往生してこれをあらはすといふのである。この問題につきて、親鸞聖人は「唯信鈔文意」の中に先づ  「涅槃をば滅度といふ、無為といふ、安樂といふ、常樂といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ仏性すなはち如来なり、この如来、微塵世界にみちみちてまします、すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり、草木国士ことごとくみな成仏すととけり」  と言つて、一切衆生悉有仏性の所説を挙げて、これを肯定して居られる。さうして次に  「この一切有情の心に、方便法身の誓願を信樂するがゆへに、この信心すなはち仏性なり、この仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり」  と説明して、如来の心が誓願となりて、我々の心に達するとき、それがすなはち仏性であると主張して居られる。我々は本より一切群生海の一部であるから、仏性を有して居ることは無論であるが、それが我々には、さとられぬとか、或はさとられるとかといふやうな議論をやめて、親鸞聖人は端的に、しかも正確に、如来より賜はるところの信心を指して仏性と言つて居られる。これは言ふまでもなく、机上の理論を離れて、実際に我々の心の相を見られたる親鸞聖人なればこそ、かく考へ及ばれたることであると思ふ。それ故に、親鸞聖人の所説に拠れば、我々煩悩具足の凡夫は、自から覚りて仏性を開願することは出来ぬとしても、その煩悩具足の凡夫に、如来から賜はるところの実信心は、すなはち仏性であるとせられるのである。固より自性唯心に沈むといふことは、親鸞聖人が排斥せられたことであるから、「我心すなはち仏なり、心の外に仏を求むべからず」といふやうな説が是認せられたのではない。しかしながら、現在の心の上に仏の真実信心があらはれたことを知るとき、それがすなはち仏性であるとせられるのである。かやうにして、理論的に真如の妙理であると考へられたる仏性が直接に我々の心に感ぜられて  一心三界  心学を伝ふる書物に「いさめ草」といふのがある。いろいろ教訓のことが書いてある中に  「家は小さくしても心をば広く持つべし。坪の内に天地をおさめ、一心の内に三界あり。苦樂も心のおさめにあるべし。樂の庵も心のおさめにて金殿玉楼の如くなり。よく歡樂するを賢者とし、うれうるを以て愚者とす。粗食にてもその分限にてうまし。珍味にてもあきぬれば粗飯にをとるなり。貧福所帯にあらずといふはこの道理なり」  と説いてある。我々の住める世界は我々自身の心にて造りたる世界である。宇宙の萬物はすべて自分の心にて見て居るのであるから、その萬物は皆自分独自のものである。萬人が同じ時に同じやうに見て居るところの萬物も萬人の心にうつる姿は萬人それぞれ相異である。それ故に、人々が外界の事物を見て、善いとか、悪るいとかというのも、畢竟するに、自分の心の姿をその儘に外方に出したまでのことである。それ故に、その心を広くもつことが大切である。心をおさめて行けば苦樂になやむことなく、よろづの場合に歡樂の情があらはれると説くのである。まことに尤もの教である。謙敬の心ににてこの教を聞くときは誰人といへども自分の心が常にこの教に背いて居ることを痛感することであらう。ここに於て恵心僧都の「極重悪人無他方便」の言葉が思ひ出されて、自己の生活がありがたく感ぜられるのである。  邪心  曹洞禅の祖として、又道心堅問の高僧として有名であつた道元禅師が越前の永平寺に居られたとき、朝臣等は道元禅師に鎌倉に下りて北條泰時を教化せられむことを願ふた。禅師の曰く「泰時若し仏法に志あるものならば遠隔の地に居るとも来り訪ふべきである。わざわざ往きて説くも詮なし。わが言ふところ理ありとも邪心滿つれば理は入らず。畢竟無益なり」と言つて応ぜられなかつた。その後、北條時頼の乞によりて鎌倉に赴き、半年ほど滞在して法を説かれた。その時、時頼は鎌倉に一寺を創立して禅師の止住を願ふたが、權勢富貴に近づくべからずとて、固辞して永平寺に帰られたと。  頑空  我執を離れ物欲を断ちて空寂に帰せよと勧められる、声聞濠oの徒は「この身は地水火風の四大が結合して出来て居る。心は身があるから、それに伴ふてあるやうでも、実体は空である。さすれば此身も心も皆空である。」かやうに無我観を修して空寂の悟りを開いて、そこにその心を住めて居る。これを頑空といふ。  「般若心経」に「色即是空、空即是色」とある。これは我々の身体は地水火風の四大が和合して出来たものである。その四大が分散すれば忽ち我々の身体は亡失する。故に色即是空といふのである。しかしながら空といふも現在目前に身体が存してそれが分明に見られるから、空即是色といふのである。この「色即是空、空即是色」の理をさとりて空と有とが無碍に応用せられねばならぬのに、兎角、無とか有とかといふことに偏して、一方を執するのはよくない。これを我々の生活の実際に即して言へば世間にありてしかも世間を超越すべきである。人欲に從ふは固より苦悩であるが、人欲を断つことも亦苦悩である。    有と無との間を流るる阿弥陀川しがらみ超えてかかる瀬もなし  空に偏する声聞縁覚の徒は、我執我欲はないが、その代り、自から悪事をなさぬといふだけで人を救ひ世を益するといふことがない。まことに生きながら死んで居ると同然である。いかに無我無欲がよいと言つても、その身心を枯木死灰の如くにせよと言ふのではない。  理想の世界  我々が物事に苦しむとき、我々は自分の心がも少し開けて居つたならば苦しみは少ないであらう。自分の心が今少し広ければ心配せずしてすむことであらう。自分の智慧がもつと深いならば狼狽せぬことであらうと思ふことがある。しかしながら、我々が実際にかやうにいろいろの希望を有し、その希望が達するやうにとつとむるときにその希望を達することの困難なことが知られる。  しかもその希望が現在に満足することが出来ずして理想を立て、これを実現せむとするにあるとき、その理想に背くところの現在の業報が知られて、悲痛を増加する。しかしながら、此の如き現実を悲痛することに於て、我々は理想の世界を感情の上にあらはすことが出来る。ここに大いなる喜びがある。それは現在の悲痛が未来によりて照されるからである。さうしてそれは単なる功利的の欲望からでなく、内観の極致にあらはるるところの理想である。從つてその理想は現在に感覚せらるる世界としてあらはるるものでなく、現実の業報を感ずる心の内に感情として知らるるものである。仏といひ、又浄土といはるるものは全くこの感情の世界である。  かういふ次第であるから、仏に成るといふことも又浄土に往生するといふことも、決して人生を無視若しくは軽視し、人生を捨てて出来る筈のものでなく、却つてこの人生に執著し、人生を尊重しながらその人生に意味をつけて行くことによりて始めて成就するものである。実際現実の生活に対して自分の業報を感じ、その醜悪なる有様に泣き、すべてのことが誠実でない現実の相を欺くものは、どうしても、念仏の法によりて浄土に生れることを願はねばならぬ。さうしてこの意味に於て浄土に往生することを願ふものは、自己を内省して人生に随順して行くべきである。「歎異鈔」に煩悩具足・火宅無常の世界はよろづのこと、みなもてたわごとそらごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞ、ことにておはします」とあるのは、正しくこの意味を示されたものであらう。  月愛三昧  まことに、この世は善悪・利害・美醜・貴賤・貧富すべて対立の世の中である。差別の現実の世界である。悪を廃して善を修めねばならぬ。そこで善人と悪人との争がある。害を離れて利に就かねばならぬ。そこで利害の争が起る。美は愛すべく醜は悪むべきが故に、美極の争が起る。貧は嫌ふべく富は望むべきが故に、貧を賤しみ富を貴むことが行はれる。その他すべてこの類である。  此の如き差別の世界にありて平等を考ふることは理想である。それ故に平等の理想を説くことは現実の差別との争である。現実を離れて、それに対して理想を説くことは首肯せられたことである。  仏教に月愛三昧と説かれて居ることがある。それは月夜の感は淡々として水の如く、心静かに冥想することが出来、それによりて一切のものが一如の光に浴することが感ぜられることをいふのであるが、此の如き平和なる月光によりて差別の現実が包容せられて居ると考ふるとき、実に善悪は一如である。差別の世界に於ける善悪は、平等に淡々たる月光に照らされて一如である。善悪の差別が、そのまま、慈悲の光明に照らされて和らげられるのである。  まゐらせ心  高尚院超然師の「俚耳談」に「古き武士の若き子を奉公に出だせしに、主君の気に入らむとすべからず、ただ気に違はぬやうにせよと教へしとぞ。この言萬事に亘りて味ふべし。気に入らむとするは将た順に似たれども、己を賢しとして主の意を取るべしといふ侫媚の気あり。されば思ふ如く主の気に入れば我が振舞よければこそ主の気にかなふべしといふ、傲慢の処に至るべし。気に違はぬやうにするは主を重んじ、命に從ふの意にして謙恭の気あり。されば主の寵眷を受くるほど尚ほ己を謹しみ心たのしく暮すことが出来る」と記してある。  曇大師は衆生の仏に対する態度をば「如忠臣帰君后、老子帰父母」とたとへて説いて居られる。しかるにその心得、ただ仏の御意にかなはむとばかり思はんは所謂まゐらせ心にて、主の気に入らむとするに同じ思の儘に心得られたる風情なれば宜しからず。「蓮如上人仰せられ候。仏法にはまゐらせ心わろし、是をして御心に叶はむと思ふ心なり。仏法の上は何事も報謝と存ずべきなりと云云」無普造悪の凡夫と我が機を見かきり果てて仏神を信じ、他力にすがるばかり、我が方から是を仏へ參らせて助からうと思ふべきではないと説かれるのである。  禅門浄念  芸州狩留家の禅門浄念、初の名を源蔵といふ、油しめの業をして居つた。後に頭を剃り浄念と称した。その性質温順、かりにも人の悪口をいふことなし。若し人ありて他のあしきさまを言ふときには返答せずして称名する。更に悪口雑言の相手にならなかつた。後に百姓となり、使ひたる牛が煩いて死亡したるに、その病中、源蔵思ふやう「因縁あればこそ、永々すぎはひの助けをして呉れたれば、せめて一夜なりとも介抱してやりたい」と牛屋へ行きて介抱しつつ、つくづく思ふやう「如来の本願は十方衆生と誓ひたまへば御縁あらば御法義の聞ゆることもあるべし」と牛の頭を撫でて夜もすがら法義の話をしたといふことである。  ある日、内庭に蛤が一とつ落ちて居つた。浄念は蛤賣が取り落したものと思い、それを拾ひ上げて「其方とても如来の本願には漏れざることなれば、よくよく合点して浄土へ参り呉れよ!」と懇に言つて仏壇の前に上げて置いた。その時外より帰りたる倅がこれを見れば、自分が痛処ありて買ひ求めたる膏薬入の蛤貝であつた。吹き出すほどに可笑しきことであるが、浄念が法義の上より生類をあはれむ心の深かつたことが感ぜられるのである。  あるとき浄念三里に灸をすゑるに、顔をしかめて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏といふ「浄念坊あついか」といへば、「あつうござります。この灸でさへこれほどあついのに地獄へ落ちましたらば此やうなことではござりますまいと思へば、ヤレあつといふかはりに称名をとなへます」といひしと。  浄念平生いふやうは「御経の始の御声にはづれたれば三年不作をした思へと、古き御学者の御教化なり。しかしお経は私の耳にてわかることにてはなけれども、この浄念をただ參らせて下さる御謂が説いてあると思へばありがたきことなり」といふ。浄念老年に及び病に侵され、一年ばかりいざりとなり、広島の西応寺にながなが世話になりしことなれば、看病等も心に叶はぬことも多かるべきに一言半句も不足らしきことをいひしことなく仮初にも余事をいはず、只仏恩の広大なる事を喜ぶの外なかりしといふ。それに此人の喜び振は目立つことなく異風なる喜びにあらず。正直にしていつもかはらず、強信なること言ふばかりもなき難有人であつた。世には喜ぶといへる同行の中にも兎角に異風を好み、仏法の根本を心得顔にて僧侶のよしあしを語り、或は同行同志法義の研究をして人我をつのるなどさまざまの悪弊あるものであるが、浄念は更にかやうなることをなさず、柔和なる人にて、見聞の人々までこれに感化せられて念仏をとなふる心になつたと伝へられて居る。  殺生  ある商店の隠居、原の白薩禅師に向ひて「和尚様、殺生とはどんなことでございませう」と問ふた。禅師は、「殺生にはいろいろあるよ」と言はれた「殺生とは生きたものを殺すより外にありますか」「イヤ、それは耳学問といふものぢや。何も生きたものを殺すばかりが殺生ではない。時を無駄にするのも殺生なれば、金を無駄にするのも殺生、其位にあるものが其位に相当したことをしなければそれも殺生だ」。  新右衛門  江戸芝三島町に菓子を商ひし新右衛門といふ人が居つた。正直にして寡欲、日毎に買ふ品に値を争ふことなく賣るものの言ふに任せて求めければ、家内のものいぶかりて  「商人は値の高下を争ふが習なるに、いかなればかく言ふが儘にしたまふぞ」 といへば新右衛門の曰く  「彼等は日毎に重きを荷ひて朝は疾く出で、夕は遅く帰る。殊に炎暑の折柄には其苦しみ言ふべからず。我等は年中店に居て、風雨の憂なく、家業を営むことありがたけれ。たとひ人に物を施すことは為し難くとも、せめて其値を争はずして求めなば彼等の助ともならむ」 といひける。後には新右衛門の情深きことが人に知られて、賣るものも価を低くして持ち来たりけるとぞ。  祈願  人間の利己的の心を以て神を動かし、その意志をば自分の意志のやうにせんとし、神の恩恵に媚び求め又はその怒を和らげむとするが如き功利的の念は真実の宗教に有るべきものでない。キリストが「我が父よ、若し叶はばこの杯を我よりはなちたまへ。されど我が心の儘をなさむとするにあらず、御心に任せたまへ」と祈願したやうに、親鸞聖人は一切を如来に任せられた。我々人間の一切のはからひをやめて、すべてを如来に任せる心、すなはちこれ南無阿弥陀仏である。それ故に、南無阿弥陀仏は、真理に暗くして迷へる我々の心の中に、慈悲の力をあらはさむと祈願する如来其物である。  鄙者自隘  「菜根譚」に次のやうな語が挙げてある。  「歳月本長、而忙者自促、天地本寛、而鄙者自隘、風花雪月本閨A而勞攘者自冗」  歳月は本来長久である、しかるに多忙なるものは朝から晩まで奔走して、いつのまにか歳月が立ちて長き年月を自から促るやうにする。さうして人の一生は夢の如くに短いものであると言ふ。天地は本と寛濶である、人間が闊歩するには差支ない。しかるに鄙しきものはこの寛潤なる天地にありて自から闊歩が出来ないやうにして世間は隘しと愚痴をこぼす。春の百花、夏の涼風、秋の明月、冬の白雪、本より悠閑にして何人も勝手にこれをながめることが出来るのである。しかるに、日夜あくせくと馳せ廻りて居る勞攘のものはこれをながめることが出来ず、自から冗《いそ》がはしく世を過して居る。  まことに歳月は悠久のものである。これまでも何萬年と続いたのであるが、これからも何萬年と続くことであらう。しかるに、人間はこの悠久の歳月の間にありて悠々として暮すことが出来ず、忙しくその日を送らねばならぬのは何故か。それは生れてから死ぬるまで僅に五十年百年の間を自分の生命として考へて居るがために、生きて居る間に、彼もしやう、此もしなければならぬとあせるからである。  仏教にては過去・現在・未来の三世に別けて歳月の永久であることを説くのであるが、我々はその永久の歳月の間にありて、生れて死し死して生れることを幾百千遍も繰返すのである。多生といふのはこの意味である。袖振り合ふも多生の縁であるといふ。今現に親しくして居る人々は、或は前生に於て父母兄弟であつたかも知れず、或は親友か知人であつたかも知れず。しかしながら多生の間にして死して生れ、生れて死するといふことは一とつの変化に過ぎぬものである。死するといふことは日が暮れるやうなもので、日が暮れるといふことは悲しいが幾時間の後夜が明けるといふ信仰があるからそれが樂しく待たれる。今生の縁がきて死亡するも再び生れることが期待せられて、たとへば、七生報国のやうな樂しい希望の中に、樂しく死することが出来るのである。  かやうに三世を貫き、永久の歳月を通じて人生を見れば、永遠の生命に目をつけて、現在の生活を更に善くして後に伝ふべく努力することを肝要とする。決してそれを夢のやうに短かい生命としてあくせくと忙はしく暮すには及ばぬ。  世界は時間的に無限であると同時に空間的にも無限である。まことに天地は尊い。しかるに人間はその中の一部に住して、やれ階級だ、やれ常識だとか、互に相争ふて居るがためにその世界はまことに狭いのである。  念仏麹屋  むかし越前国高村に麹屋の弥平といふ人が居つた。幼時は馬鹿正直といはれたほどの男であつたが、親の代から麹屋を業とした。中年の頃、友達が非業の死を遂げたので無常を感じ、聞法して仰信の人となつた。それより念仏の絶え間なきほどありがたくなり、念仏麹屋と称せられた。人々は弥平の正直を知つて居るので、麹を買ふ人の留守宅へ這入つて麹を器に入れて置くことが常であつた。あるときその調子で注文を受けて留守宅に這入り麹をはかりながら「見てござるぞ、見てござるぞ」と独言をいふ。二階に晝寝をして居つた隠居がその声を聞きつけて、下りて来て「何事ぞ」と聞いた。弥平は「おはづかしや。麹をはかるのに煩悩が出でます故に、如来様が見てござるぞと心を誡めたのでございます」と返辞をしたといふことである。まことにこの弥平のやうに自分の仏を持つて居るものは幸であると思ふ。世の中には人間より上のものは何にもない。人間の眼に見えぬものは存在しないと考へて、人さへ見なければどんなことをしてもかまはぬと随分勝手の振舞をするものが多いのである。「中庸」の中に「隠れたるより顕はるるはなし、微なるより彰なるはなし、故に君子はその独を慎しむ」といふ語がありますが、さういふ誠の言葉によりて独を慎しむことの出来るやうな我々ではありませね。人間に定められた規則をば勝手に破壊しやうと企てる我々でありますから、人の眼に見えぬ仏の冥加によらなければ正しく生きて行くことのむつかしい我々であります。この弥平のやうに、自分の仏を持ち、その仏の指導の下に生きて行くことは誠に美しいことである。  人間の喜び  「寶積経」の中に、次のやうなことが記してある。  釈尊が施鹿園に居られたときに、六十人の不具者が泣きくづれて自分等の不具を歎いて居つた。釈尊はこれを見て「何を歎くぞ。よく聞け、汝等の不具として生れたのは一朝一夕の業因ではない。しかし後には悪業尽く滅びて浄土へ生れるであらう」とさとされた。六十人の不具者は今更のやうに過去の罪の怖しさを感じ、それより仏法修行の人を敬ふことを誓ひて大いに喜むだといふ。  元来、仏法の上から言へば、我々が人間界に生れたのは榮躍榮華をするためにこの世に来たのではない。不足や愚痴をならべるがために生れ出たのではない。無始以来念願して、しかもその目的を達することの出来なかつた後生の悪事を調べるがために人間に生れたのである。若し人間に生れなかつたならば闇から闇へと迷ひつづけたのであるが、幸にして人間に生れたればこそ、自分の罪悪も知られ、業報も感じられ、又それを滅ぼすべき手段を教へられるのである。若し他の生に生れて来たならば仏法は聞くことが出来ぬ。この故に、我々は人間に生れたことを喜ぶべきである。しかるに、折角人間に生れて来ながら愚痴や不足を訴へて暮すといふことは心得違である。  懈怠の心  「顔氏家訓」に「天下事、以難而廃者、十之一、以惰而廃者、十之九」とある。正に我々のやうなもののために頂門の一針である。実際我々が事を為すには難きを避けて易きに就くことをつとむるのである。困難であるからと言つて中途で止めるのはまだしも、始めから手をつけぬ懈怠の心はまことにあさましいことである。禅僧弘海かつて香樹院師に就て法を開く。師に対して問曰く「私浄土真宗の教に帰し、御講師に随ひ聴聞致せどもいまだ心に聞え申さず、如何致すべく候や」と、香樹院師曰く「汝まづ聖教を熟覚せよ」と。弘海すなはち命の如く聖教を覚たれども、文義がわかるのみで、出離にかけて思へば往生一定ならず。再び「如何致せばよろしきや」と問ふ。師曰く「よく聞くべし」と、弘海問ひて曰く「よく聞くとは如何聞くべきや」師曰く「骨折りて聞くべし」弘海曰く「骨折るとは遠路を厭はず聞きあるくことに候や。衣食も思はず聞くことに候や」師曰く「然り」弘海曰く「然らば、それほどに苦行せねば聞えぬならば、今までの禅家の求法と何の別ありや」香樹院師呵して曰く「汝法を求むる志なし。いかに易行の法なりとも、よく思へ、今度仏果を得る一大事なり。しかるに切に求法の志なきなのはこれを聞き得ることを得んや。ああうつけものかな」弘海曰く「然らば、身命をも顧みぬ志にて聞くことなりや」師曰く「最も然り。切に求むるの志なくして何ぞ大事を聞くことを得んや」師又曰く「常に間断なく聞くべし」と。弘海問ふやう「それはその志にて聴聞いたせども法縁の常になきを如何いたすべき」香樹院師そのとき「何ぞ愚鈍なることをいふぞ。法話なきときは聞きたることを常に思ふべし。聞く間ばかり聞くといはぬぞ」又曰く「汝眼あり、常に聖教を拝見すべし。これまた法を聞くなり。若しまた世事にかかり合ひ聞見常に縁なきときは口に常に名號を称ふべし。これまた法を聞くなり。汝信を得ざるは業障の故なり。さればいよいよ志を励まし、斯の如く常に心を砕き、よく聞けよ。信を得る御縁は聞思にかぎるなり」と。驕慢の心にて法を信ずることの出来ぬことは言ふまでもないが、解念の心も、また、法を信ずることを困難ならしめるものである。  智覚禪師  「昔、智覚陣師と云ひし人の発心出家のこと。此師は初は官人なり。才幹に富み、正直の賢人なり。国司たりしとき、官錢を盗みて施行す。傍人これを帝に奏す。帝聞きて大いに驚怪す。諸臣も皆あやしむ。罪過巳に軽からず、死罪におこなはるべしと定まりて、ここに帝、議して曰く、此臣は才人なり、学者なり、今ことさらに此罪を犯す、若し深き心あるか。頸を截らんとき悲しみ然へたる気色あれば速に截るべし。若しその気色なくんば定めて深き心あらん、截るべからず。勅使引去りて截らんとするとき少しも愁ふる気色なし。還りて喜ぶ気色なり。自から云く、今生の命は一切衆生に施すと。勅使驚き怪みて帝に奏聞す。帝云く、然り。定めて深き心あらん。此事あるべしと兼てこれを知ると。依て其志を問ふ。師云く、官を辞し命を捨て施を行じて衆生に縁を結び生を仏家に受けて一向に仏道を行ぜんと思ふと、帝是を感じて許して出家せしむ。故に延壽と名を賜ふ。殺すべきをとどむる故なり」道元禅師はこの智覚禅師の事を例に引いて「今の納子も、是らほどの心を一度発すべきなり。命を軽じ衆生を憐れむ心深くして、身を仏制に任ぜんと思ふ心を発すべし。若し先きより此の一念あらば失はじと保つべし。これほどの心一度おこさずして仏法を悟ることはあるべからざるなり」と言つて居られるのである。「正法眼蔵随聞記に出づ」俗人にしても道のためには身命を捨て、忠を尽し節を守るのである。まして仏道を修むるものは身心を?に放下して禅法の大海に廻向し、仏法の教に委せて私曲を存すること勿れと、道元禅師は教へられたのである。  宇右衛門  播州の太田村に宇右衛門といふ仰信のものがあつた。あまりに阿弥陀仏の本願を喜びて念仏する姿の神妙なるによりて太田村の阿弥陀どのと呼ばれたほどであつた。あるとき隣村の某が仏壇を新調したとて宇右衛門に来て見られよといふ。宇右衛門すなはち其家を訪ひ仏壇を見て帰つたが、後に見ればその仏壇の引出に入れて置いた筈の金子が無くなつたので、家人は疑を宇右衛門にかけ、主人は直ちに宇右衛門の家に至りて「宇右衛門さん、実はかやうかやう」と金子が無くなつたことを語りあなたを疑ふといふのではないが、間違ででもその金を持ち帰られて居はせぬや」と言いければ、宇右衛門は無実の暴言に怒れる様子もなく「それは私が取りました。どうぞ許してたまはれ」と罪を詫びて言はるるままに金子を差出した。其後、遠方に居つた息子が帰宅したので家内打寄りて雑話の序に主人は「宇右衛門は至つて正直なる念仏者であるが、凡夫のかなしさには金子を見て盗み心を起したのであらう」と仏壇の引出に入れて置いた金子を宇右衛門が盗むだことの話をした。さうすると、息子が驚いて、その金子は自分が別の処に入れて置いたといふ。それには主人も大いに驚き、早速宇右衛門の処に行きて粗相の罪を詫びてその金子を返した。そのとき宇右衛門は却つて気の毒なる様子をして「それでは前生にて借りて居りませんでしたか」と言つたといふ。謙下にして且つ純模なる宇右衛門の心にては、金子を取つたかの疑をかけられたとき、それは自分が前生にて借りたる金子の催促を受けたのであると感じたのであらう。それ故に、すこしも腹を立てず、素直にその金子を返したのである。しかるに、それは先方の粗相であるとて金子を戻されたとき却つて当惑して「それでは前生にて借りて居りませんでしたか」といふ奇問を発したのである。何といふおだやかな心持であらう。かういふ穏かなる心持は戻されたる金子を平気で受け取ることが出来たのである。  孝信喜代次  むかし筑後国上妻郡串毛村の農夫に喜代次といふ人が居つた。天性温順にして人に逆ふことなく、多くの人々から愛せられた。親に孝行のことが世間に聞えたので柳河藩主から役人に実際の取調をさしたときに、喜代次は「私は決して孝行をしたことはございませぬ。ただ時々説教を聞いて、親の御恩の広大なることを知り、その萬一を報いやうと思ひますが、出来ませぬ」と言つた。藩主はこれを嘉賞して米を賜つた。何といふ謙虚の心であらう。謙虚の心はすなはち小なる自我が、大我の中にあることを感ずる心である。小我の邪執を捨てて、大我の光明の中に自己を発見する心である。親鸞聖人が念仏と言はるる心の状態は正にかやうな謙虚の心の上にあらはるる仏の心である。喜代次は実際さういふ念仏の心をもつて日常生活をなして居つたのであらう。  喜代次の村は茶と柿とを産出した。喜代次の家では乾柿をつくりてこれを賣つたのであるが、喜代次は妻に命じて柿の小さいものを選り除けさした。妻は「小さいものでも価はあるのに」といふと、喜代次は曰く「価があるからまぜてはいかぬ。これをまぜるのは人様をあざむいて価を貪ぼることになる」といひ、その乾柿を束ねるときにも善いものを中に入れ、悪るいものを外にするといふ風であつた。まことに喜代次がありがたい心の持主であつたことはこの一話にても知られることである。  不思議の信受  香月院師語録に曰く  「吾祖の御教化に不思議と信ずるとあればとて、行者の方に言亡慮絶せよとある御教化ではない。今不思議を信ぜよと仰せらるるは、法の不思議を信ぜよとあることで、法の他力は心も言もたえはて、不可思議なり。実に愚縛の凡夫、屠活の下類が、刹那に超越して思ひ絶する成仏の道なりと仰せられて、悪人凡夫が手の裏を返さぬ間に往生の大益を得たてまつる。これが不思議といふものなり。その助かるは如何なる義やら、測り知ることはならねども、これは補処の菩薩さへ、測り知らざることとあれば、凡夫身にて測り知るべきやうはなし。その助かるべき道理もなきものが助かるが誓願の不思議にして、凡夫の情には思ひ測られぬことなり。しかればこの不思議を実に不思議ぢやと信受するが弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生を遂ぐるなり。不思議を信ずるとあるは、いよいよたすけられまゐらせて往生を遂ぐるなりと信ずることなり。どうしてもかうしても助かるまじき凡夫が、願力によりて往生を成就するなり」  助けられるのは仏の不思議にして、我とはからふべきことでない。衆生としてはただ仏の慈悲をありがたく信受するのみである。  伊賀に三左衛門といふ仰信のものが居つた。あるとき三河の七三郎といふ妙好人がこの三左衛門を尋ね来たりて、まだ座敷に上らず、草鞋の紐細を解きながら「三左さん、三河の爺がわざわざ尋ねて来ました。どうか一念の場をたつた一言聴かして下され」といふ。さうすると三左衛門は「南無阿弥陀仏、ありがたうござります。それさへ知らぬものでござります」といふ。七三郎は喜びて「さういふお慈悲でございますかいのう、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」といふ。滞在中、このことばかり互に言い合ふて喜び暮し、いよいよ帰国するとて出立の時、草鞋の紐を結びながら「三左さん、三河の爺が折角尋ねて来たことなれば、どうか土産に、一念の場をたつた一言聴かして下さい」と乞へば、三左衛門は相かはらず「ありがたうござります。それさへ知らぬのでござりますが、この儘でお助け下されるさうでござります。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と喜べば、七三郎は「ああさういふお慈悲でございますかいのう。ありがたうござります。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とお禮を言ひつつ立ち去つたと。仏の不思議を信受するといふのは正に此の如き心境を指すものでありませう。七三郎は常に人に対して「私がやうなる地獄行きをあはれみたまひてその機のなりにて助くるぞ、我をたのめよの仰せが御真実ぞとたのしみ喜ぶばかりなり」と言ひ、又「三界流転の宿なしが息のとまるは極樂が宿とお定め下されたれば、身を粉にし、骨を砕きても報じ尽されぬ御恩ぞ」と喜びながら生活したといふことである。さういふ謙虚の心であればこそ不思議の本願が信受せられて、日常のことはただ喜ばれるのみであつたのであらう。  心光  「むかしもろこし隋の代に大興禅寺の本尊をりをり光りを放ちたまふといふことが都町中の取沙汰であつた。時の天子文帝はこれを不審に思召し、曇遷法師といふ名僧を御前に召され、仏の光明とはいかなる訳ぞと御尋ねありしに、師早速の返答には陛下の御徳一天に輝き四海八荒戸ささぬ御代とおざりしを、下にては帝の御光ぢやと、もてはやしまするが、仏の御光もその如くにて候と申し上げられたれば文帝大いに喜びたまひたといふことを「続高僧伝」に書き載せられた。勿論これは色光のことにたとへられたれども、なぞらへて見れば、世間の上にも萬事につきて何かに埒の明かぬものが、親の譲りを受け嗣ぎて、我身をはじめ、妻子眷族に至るまで、寒ふもなく、飢潟もせず、相応にこの世を渡るをば他人が評判してあれが真の親の光りぢやといふ。されば御座の我と他とは性質が愚療の凡夫、善悪邪正の訳をも知らず、後生を何とも思はぬ身が、今は昔にひきかはり、法義にはげむ身となり得て、未来の資糧に、事を欠かず、後生の大事に不足なく、死なば一定極樂まゐり、あら嬉しやと、落ちついて居るのは取りもなほさず、心光の御利益」と粟津義主師の「現世利益辨巻上」に述べてある。曇鸞大師の釈に「光明者智恵之相也」とあるが如く、仏教にて光明といふは智慧の相を指すのであるが、それに心光と色光とありて、大智慧光明遍照、法界の真理より放ちたまふ光は、一切衆生、森羅萬象を普ねく照したまふ方からは色光と言はれ、念仏の衆生をば御心に持念なさるる方からは心光と言はれるのである。  信心  虚室意庵の「猿法語」に「今時の信心を見るに、仏神の前に詣で、俄に肝譫を砕き、胸をきばり、顔をしかめておがむを信心とし、其場を立去ればよこしまの事のみ行ひ、或は俄に難儀の出来たるときに神仏をたのみ、身のくるしさに、信心におがむこと、我と我心をたぶらかす。おかしきことどもなり。信心といふは信はまことと読む。このまことは六根のはたらきの上、日夜常住、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の交りに至るまで其道にたがはざるやうにつとむるを信心といふなり」とある。ことに信心は凡夫の愚悪の心が無くなりて、その言ふことや、行ふところが真実の道にかなふ心の状態である。それ故に信心とは我々の煩悩の心をはたらかすことではなく、むしろそれを捨てたところに感ずるところの仏の心といふのである。  長右衛門  信濃の下水内郡市原の長右衛門、信心厚き人、平生人に対して極めて謙遜であつた。或時二十四輩參拝の男の同行が尋ね来りて止宿を乞ふた。長右衛門は大いに喜び家内中打寄りて御法義を喜むだ。翌朝勤行の間に彼男は何処にか行つた。長右衛門は力を落し、我家の食物が悪しければこそ四輩殿も朝飯を食はずに立たれたりとて大いに後悔した。其時女房屏風にかけて置きたる羽織の失せたるに気づき、所々尋ぬるに見えず。「如何せしぞ」と主人に問ふに、長右衞門はさらに驚く気色もなく「多分四輩殿が持ち行かれたのであらう」といふ。女房「早く行きて取戻されよ。さなくば和主がお参りに行かれませぬ」といへば、長右衛門は「其方はそのやうなことを言はるるか。よく思ふて見よ。人の物を盗むやうな心にて何とて御舊跡參りが出来るものぞ。又盗む心のある人ならば、何とて己がやうなる貧乏人の家に宿るべきぞ。全く己が前生に四輩殿に借りたる物を今戻すべき時が来たので持つて行かれたのに相違なし」と言ひつつ、炉の辺に来るに、彼男煙草入を忘れ置きたり。長右衛門は四輩殿これを忘れ置きたり。さぞ不自由ならむ。届けて来む」とて、跡を追かけた。其男今はのがれぬところと、羽織を差出し、大地に俯してその罪を詫びけるを、長右衛門は耳にもかけず「四輩段、煙草袋を忘れられたり、私も煙草は大好物なるが故にこれを忘れたときは別してのみたきものなり。いざのまれよ」と、自から火をつけて差出し、又錢二百文を差出して「是は前生に羽織を借用したる利息なり。私の方より疾くにかへさねばならぬものを知らぬこととて今まで棄て置きたるが、時節到来して、其許よりわざわざ取りに来て下されて、まことに忝なし」と渡した。其男はいよいよ慚入り、涙にむせびひたすら詫び入り、羽織もも返しけるを長右衛門は一向聞き入れず、その儘に果て置きて我家に帰つた。それより家族と共に農業に行き夕方帰り来りしに、隣家より羽織と錢とを持ち来りて「先刻二十四輩が来り、この二品は主人から借りたる品なるが、届けて玉はれ」とて頂け置きたりといひしに、長右衛門は声を放ちて泣き「己はよくよく信業の深ければこそ一度戻したるものを再び返さるることよ」と。直ちにこれを賣拂ひ、前の二百文を添へてこれを本山へ上納したといふ。何といふ謙下の心であらう。盗み取られたのを前生の借物を取りに来られたのであるとし、折角戻したのを再び返さるるといふことは全く自分の宿業であると感じて、その品と金とを自分のものとせず本山へ献上したのである。  行持を尊む  曹洞宗の祖の道元禅師、支那に渡りて天童山にありし時、用和尚が庭前に苔を哂して居られたのを見られた。時に炎熱灼くが如くであつた。そこで道元禅師は用和尚に向ひ「お年はいくつですか」と聞かれた。「六十八になりますわい」と和尚は答へた。「そんなことは自分でなさらぬとも若い方におたのみになりては如何」「はあ、他人のしたことは自分のしたことにはなりませぬわい」「なるほど、しかしこの暑さではたまりませぬ。すこし御休息ありては如何」「はて一たび去りて再び来らぬこの時を過ごしてまた何れの時を待たうと言はしやるか」道元禅師はこれを聞きてますます行持の大切なることを感ぜられたといふことである。後に道元禅師は百丈禅師の言葉に「一日不作一日不食」とあるを引きて「一日重かるべきなり。いたづらに百歳生けんとうらむべき日月なり。かなしむべき形骸なり」と言ひて行持を尊ばれたことは名高いことである。中江藤樹の道歌に「世の中はただ一念の外はなかりけり、前念は過ぎ、後念は来らず」とある。ただ今ばかりといふことに気がつけば、その今を大切にせねばならぬのである。  懈怠を戒む  或日のこと、昨夜から降り出した雨は止むとも見えない。托鉢に出るのは太儀であるからとて雲水達は一休みと托鉢の支度をしなかつた。白隠禅師は何時ものやうに支度して玄関に出て来られたが、誰も居らぬ。「今日はどうした」と言はれた。雲水達が「今日は雨が降るので托鉢は中止」と答へたのを聞いて自隱禅師は百雷の落ちるが如き大声にて「東海道は人が通ほらぬか」と怒鳴られた。その頃白隠禅師は駿河の原の寺に居られたので、「東海道は人が通ほらぬか」と叱られたのである。元来托鉢とは比丘の乞食といふもので、仏教の精神から見ればそれは受くるものと与ふるものとをして共に貪欲の煩悩から離れしめるのが目的である。この意味に於て托鉢は仏法に於て一とつの重要なる行事である。しかるに雨が降りてうるさいからとて、懈怠の心をあらはすことは以ての外である。しかしながら懈怠の心は到底これを捨てることの出来ぬものであるといふ自分の心の実相を内観するとき、我々はただその宿業の深重を痛黙するのみである。  今生大事  中江膝樹先生が中川氏老母に答へられたる手紙が伝はつて居る。それは次の通ほりである。  「後生のこと一大事に思召す旨、御尤に存候。後生一大事なれば今生なかなか一大事にて御座候。いかんとなれば今生の心まどひぬれば後生悪趣に赴く理あるが故にて候。仏の後生一大事と教へたまふも今生の心を明かにさせん為にて候。朝夕をはかり難き浮世にて御座候へば、心の内の如来を拝したまはんにと何よりも以て大切なる御事に候」  後生が一大事であれば今生が一大事であるといふ。その意味は道徳は今生に於ける生活をば規律的にしやうとするのである。しかるにその効果はこれを今生に認むることが出来ぬ。道徳的の規範を立ててそれに向つて進むのであるから、今生の間にその理想の境地に達することの出来ぬのは当然である。宗教は後生の一大事を説くのであるが、後生の一大事を決するの心は今生に於て日常の生活を導く上に最も強い力をあらはすものである。後生の一大事といふことを最も平易に言へば、死んで行く自身の落ちつくところを分別することであるが、親鸞聖人の宗教にありては、それは信心決定してめでたく往生を逐ぐると思ふ心として、その人をして平然として死に処することを得せしむるのである。死んで行く先が真暗であるときには不安に堪へぬものがあるのに反して、さういやうに如来の本願を信ずる宗教の心があらはれるときは、死しての後は浄土の往生疑なく、喜びの情に満ちて生活をつづけることが出来るのである。  他力の意味  大和の吉野のとちのもとといふ所に治郎衛門といふ仰信の同行が居つた。その治郎衛門の処へ、大和の同行が泉州の妙好人の吉兵衛を駕籠に乗せて連れて行つた。途中狩野法眼の筆捨岩を過ぎた。その岩の前に駕籠を下して  「狩野法眼の筆捨岩と申して筆を捨てたところでござります」  と説明した。さうすると吉兵衛の曰く  「いやさ、狩野法眼が筆を捨てたのではない。何遍書いてもこの通ほりに行かぬ故に、岩に筆を捨てさせられたのや」  その後で  「此処へ廻つて見なされ、妙な岩や」  と言ふと、吉兵衛は  「いやさ、私の見やうで見えるのぢやない。岩が岩となつて見せて呉れるのや」  と言つた。他力ということの意味をよく言ひあらはして居ると言はねばならぬ。  江州權四郎  江州の權四郎、若きときは不法義ものにて、只今生に立身せんとのみ努力し、朝は露をふみわけ、暮には星を戴いて働きしが、かせぐに追いつくはや貧乏とて富むことが出来ず、一家親類からは死病神のやうに嫌はれた。ところが女房の寺參する志の厚きに引立られ、四十歳の頃よりお寺に參るやうになり、今生は何事も思ふやうにならぬ、後生こそ一大事と思ひて法義に入つた。それよりして漸次にその心が開け遂に無二の信者となつた。法談を聞きてもただ大悲の親様の御引立なりと、それを批評せず、ありがたく感謝するのみであつた。  あるとき寺の鶴亀の蝋燭立を見て 「鶴は千年、亀は萬年と聞きしが、其方は不仕合のものだ。我等は無常の風の来り次第、浄土へ參らせて貰ふはありがたきことなり」  とて落涙して悦むだ。此人法義に入りてより、手向もよくなり、人にも用ひられるやうになつた。これ偏に仏祖の御恩なりと言ひて常に喜むで居つたといふ事である。  壬生の五助  安芸国山県郡壬生に五助といふ仰信の人が居つた。あるとき報恩講をつとめるとて、手次の寺の住職に、何月何日の夜と案内して置いたのに、住職酒に酔いてその夜行かざりしかば、五助は仏壇の前に通夜して御恩を喜むだ。翌朝住職心づき「昨夜は申わけなし、今晩は必ず參るほどに」と申し遣はしたので五助はありがたしと謝して待ちたれどもその夜も酒に酔いて来らず。その翌日に至りて「今夜こそは必ず參る」と申し遣はしたるに、五助は何の不足も言はず、ありがたしと感謝するのみであつた。その夜住職は早く行きて重くことはりを言ひて詫びけるに五助のいやう「私は仕合ものでござる。三晩まで続けて御恩を喜ばせて貰いました」と、すこしも苦情がましきことを言はぬ。住職は大いに恥ぢ入りて、その後は大酒を止めたといふ。普通ならば約束を違へるところに腹を立てるのが当然であるのに、却つてそれを縁として仏恩を喜ぶ五助の心は内を観て自身の幸福を喜ぶことが出来たのである。その真摯なる心に動かされて、流石の住職もその大好物たる酒を止めるやうになつたのである。  越前小兵衛  越前の大屋に中村小兵衛という有名の信者が居つた。ある娘に善光寺如来の開帳があると聞いて、参詣に出かける途中、出遇ふた人が  「小兵衛さむお開帳參りですか」  と聞いた。小兵衛は「はい」と答へた。其人は  「今度の御開帳の如来様は贋物ださうですよ、参詣なさらぬ方がよいでせう」  と言つた。小兵衛聞いて  「ああ左様ですか。ありがたいことでござる。本当の如来様で足らぬので、贋物までこしらへて拝ませて下さるとは、ありがたいことで……」  振り向きもせずして參詣を急いだ。その人もそれに感じて後を追つて參詣したといふ。宗教の心の強くあらはれた人はいかなる場合にも内面的に自分の相を見る、それ故に何事も仏の恩と感ぜざるを得ぬのである。既に仏の恩を感ずれば何事にもありがたい心が起るのである。ありがたいと思うのでなく、ありがたいと感ぜられるのである。  南溪勸学  円成院南溪師は准水と號す、豊後の玖珠郡戸畑の滿福寺に住持せられた。真宗の碩学にして安政二年勘学職に任ぜられた。あるとき本山より布教師が南渓師の寺に派遣せられた。そのとき南渓師は法話の席に欠かさず、威儀を正し、余間に端坐してその法話を聴聞せられた。布教使としてはそれが心苦しく、どうも話がしにくいので南溪師に向つて  「先生が聞いて居られますと、何だか気が引けて困りますから、どうかお控へ下さいますやうに」 と歎願した。南溪師は  「私が居て説教がしにくいとは何故です。如来様の前でさへなさるる御法話なれば誰にも憚かることはありますまい。私が居てしにくい法話を如来様の前になさつて、しにくいことはありませぬか」 と淳々と論された。布教使は今までは如来の慈悲を布教しながら、すぐ自分の後に立つて居られる如来様を兎角忘れ勝であつたことを懺悔して、師の前に詫びた。南溪師は  「私にあやまることはありませぬ。我々は如来様の子として生かして頂くのです。仏は我々の生きて行く姿をいつも見て居られる、聞いて居られるのです」 と申された。  伊賀六兵衛  伊賀の上野に萬福寺といふ真言宗の寺院があつた。その寺院の比丘は「梵網経」の講筵を開き、信心のある人に戒を授けた。人々は大いにこれを尊むで居つた。その処に又、六兵衛といふ浄土真宗の篤信者が居つた。或人六兵衛に勧めて  「仏法の中にても戒を保つことは誠に殊勝である。其許も彼の比丘より戒を授かるがよい」 と言つた。六兵衛はこれに対して  「ありがたう。ようこそ勧めて下された」 と答へた。さうしてその儘に打過ぎて居つたので、其人は再び六兵衛に向ひて  「御身は仏法に志の厚き人なればこそ急いで授戒するがよい。一戒でも保てば後生安樂ならむことは比丘が証人となりたまふであらう。かく申す私も請け合ふ」  六兵衛巳むを得ずして心の底を打ちあけて  「お勧めはありがたいが、私は如来の本願を信じて往生決定の身の上であるから、もとより持戒をたのむ心もござらぬ。念仏を申すものは必ず浄土に生るるといふことは十方の諸仏が証誠せらるるところである。諸仏の証誠さへ今まで疑ふて從はなかつた徒らものの私、凡僧の五人や十人証拠にお立ち下されても信ずる心はありませぬ。重ねてお勤め下さるな」  と辞退した。この六兵衛は浄土真宗の教を奉じて如来の本願を信ずることが深かつた。如来の本願は愚なる自分の小さい計ひを捨てよといふのである。六兵衛は堅くこれを奉じて、自分の考へにより彼此と計ふことは絶対に止めたのであつた。  冥加を畏る  豊前中津郡矢部村に新蔵といふ稀有の信者が居つた。されど極貧にして常に人の上に立つことがなかつたのであるが、しかも貧賤は一期の夢と悟つたとでも言はうか、更に富貴を羨む心を起さず、今や有漏の磯身を捨てて無上涅槃の悟りを得むことこそ樂しけれと、造次に報恩の營みの外はなかつた。  飴屋の彦右衛門といへる有徳の人、新蔵の信徳を慕ひ来りて、その貧困を見るに忍びず、衣類など与へけるに労せずして頂戴することは冥加がおそろしいと言ひて、そのままこれをかへした。又夏の頃、新蔵が蚊帳を持たないのを気の毒に思い、彦右衛門はわざわざ蚊帳を持ち行きて与へければ深切黙止しがたく、これを頂り置き、僅に兩三日ばかり用ひてこれを返却した。彦右衛門申すやうは「何故に秋まで用ひたまはぬぞ」と問へば、新蔵言ひけるは  「この袋の中へ這入り休みければ夜中一寝入して御恩を忘れてくらせし故に、この大様装はお返し申します」  夏の夜に群蚊の来襲をふせぎて安眠が出来るやうにと、人々が尊重して用ふるところの蚊帳が、仏の御恩を喜ぶ外なき新蔵には却つて邪魔となつたのである。仏と成ることを期してかやうな苦行をするのではなく、仏の光明に照されてその日暮すことの出来る御恩を報ずることの懈怠に陥ることを恐れての所作である。まことにうるはしい宗教の心の発現であると言はねばならぬ。  謹厳  むかし出雲侯の臣に子松源八といふものが居つたが、まことに方正淳朴の人であつた。源八が宅の隣に茄子を植ゑてあつたので、源八はその茄子を買ひたしと農夫にを乞ふた。農夫の曰く  「ただ一人召したまはむほどは、日々にても幾何のことあらむ。ただにて差上ませう」とて価を受けず。源八はそこで茄子を取るとき、その価の金を茄子の枝に結びつけて置くのを常とした、農夫それを集めて源八にかへす。源八「然らば市に往きて買はむ」とてその畑の茄子を取らず。或時市に行きて盃を買ふ。源八「これには?はないか」店主「?はありませぬ」家に帰りて見れば裏に?があつた。源八これを懐にして彼の店に行き、盃をかへして曰ふやう  「何が故に、かく我を欺くぞ」  店主大いに恐縮して過を謝し、価を返さむとする。源八の曰く  「我は価を吝むにあらず。ただ欺を受くることを欲せざるのである。それ故に盃をかへす。汝は価を欲するによりて我を欺くのであらう。我は欺を受けざればそれで足れり。汝も価を受くれば足れりとするであらう。されば兩方共に望が達したわけである。何ぞ価を返すのを受けむや」  何といふ広い心であらう。人の欺くことを怒るものは器を返してその価を辨償せしむるのが常である。賣主としては欺きて金を得たるに金を返せばとて欺きたる罪が消滅するものでない。しかもその罪を咎むることなく、ただ人の欺を受けざれば足れりとするといひて、晏然として居られる。その心の広きことは、むしろ驚歎すべきである。  自分を知らず  兼好法師の「徒然草」に「高倉院の法華堂の三味僧、なにがしの律師とかやいふもの、ある時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我が形の見にくく、浅ましきことを、あまりに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、そののち、ながく鏡を恐れて、手にだにとらず、さらに、人に交ることなし、御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたくおぼえしか。かしこげなる人も、ひとのうへをのみはかりて、おのれをば知らざる也、我を知らずして、外を知るといふことわりあるべからず、されば己を知るを物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚なるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病のおかすをも知らず、死の近きをも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非を知らねば、まして、外のそしりを知らず、但し、形は鏡に見ゆ、年はかぞへて知る、我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞいはまし、形を改め、よはひを若くせよとにはあらず、つたなきを知らばなんぞやがて退かざる、老いぬと知らば、何ぞ靜かに身を安くせざる、行おろかなりと知らば何ぞこれを思ふことこれにあらざる。  すべて人に愛樂せられずして衆に交るは恥なり、形みにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪の芸を持ちて、堪能の坐につらなり、雪の頭を戴きて、さかりなる人に並び、況や及ばざる事を望み、かなはぬことを憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて自から身を恥しむるなり、貧ることのやまざるは命を終ふる大事、今ここに来れりと、たしかに知らざれば也」自分を知ることが大切であることは言うまでもない。しかも自分が知り難いことは実に兼好法師の言ふが如である。  念仏を授かる  磯壁のおひろと外に男二人、香樹院師に法話を願けた。そのとき香樹院師に対して「私は死むで行けませぬ」と言つた。すると香樹院師は「そのやうなことは仏法でも何でもないわい」と言はれたきり、言葉が無いので、おひろはたまりかねて  「お国元へお帰りになりましたら、もうお目にかかることは出来ませぬ。何卒一言お聞かせ下されませ」と願ふた。香樹院師は 「さう、ざわざわしたことではないわいの、あちらに行つて念仏申して居られい」  と言はれた。さうして襖をしめて内へ入られた。おひろは香樹院様からお念仏を授けて戴いたと喜むだ。聞かう聞かうの機を拂ふために、香樹院師が例によりて寸鍼殺人的の譬語を発せられたのであつた。  慈悲の花  小畠幸助、せめて今日一日なりとも愚痴や癇癪を起すまいと心がけしに、若い嫁がそこのけと言つて、つきたるによりて背面に倒れた。「そのやうに、つかぬでもよいではないか」と小言を言つた。忍辱の心がけもつい駄目になつたと言つて涙を流した。安永与平がそれを聞いて    「心得て居ながらすべる雪の道」  癇癪を起してはならぬと承知して居ながら、つい癇癪を起す凡夫のかなしさ、如何ともすることが出来ぬと嘆いた。  側に居つた福非吉平が曰く    「吉野山ふみ迷ふても花の中」  どちらでもお慈悲の花、ああありがたい。  まことに自分の心の彼此のはからひをやめて見れば、我々は仏の慈悲の心の中に生きて居るのである。丁度吉野山に入りてふみ迷ふても、どちらも皆花の中であるやうに、仏の慈悲の心に包まれて居るのであるから、踏み迷ふても心配はない。まことにありがたいことである。  石泉師  石泉師は広島法專坊深諦院慈雲師の高足の弟子にして、真宗本願寺派に於ける学僧の最もすぐれたるものの一人であつた。その主張するところが伝統的の説明に異なれるの故を以て称名正因の嫌疑を受け、本山の召喚によりて京師に滞在の時、何にしても高僧であるから一夕、大学林の学者達の招請を受け宴席に列つたが、酒間興乗じて、起つて歌ひて曰く「高い山から学林見れば今は愚僧の花盛り」当時侍者であつた慧海大年などは、このことが学林の怨を引かむことを恐れて、翌朝伺候して「和上今回の上京は尋常のことにあらず。しかるに昨夜酒間の挙動は傍若無人の状であつた。深慮を欠いだといはねばならぬ」と諫めた。石泉師はこれを聞いて始めて気がついたやうに「余は偶然与に乗じてかくしたのみ、公等若し拠るところあらば、余はこれより学林に候してその罪を謝すべし」と、直ちに起つて其服を換へむとした。その率直概ね此の如くであつたと伝へられて居る。  頼むべからず  兼好法師の「徒然草」に曰く 「よろづのことはたのむべからず。愚なる人は深く物をたのむ故に、怨み怒ることあり。勢ありとてたのむべからず。こはきものは先づ滅ぶ。寶多しとてたのむべからず。時の間に失ひ易し。才ありとてたのむべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとてたのむべからず。顔回も不幸なりき。君の寵をたのむべからず。誅を受ること速なり。奴從へりとてたのむべからず。背き去ることあり。人の志をもたのむべからず。必ず変ず。約をもたのむべからず。信あること少し。身をも人をもたのまざれば、是なるときは喜び非なるときは恨みず。左右広ければ障らず。前後遠ければ塞がらず。狭きときはひしげ碎く」  頼むでは怨み、頼むでは怒る。さういふことを度々経驗した後に始めてよろづのこと頼むべからずと言ひ切ることが出来たのである。それも決してあきらめの言葉でなく、是なるときは喜び、非なるときは恨みずといふ安住の境地を示すものである。更にこの章の終末に  「人は天地の靈なり。天地は限るところなし。人の性何ぞ異ならむ。寛大にして極らざるときは喜怒これに障らずしてもののために煩はず」  と言つてある。鬼や角と自分の心を煩はして彼此とはからふ心を止むれば、天地の心を心とするものである。身をも人をも頼まざるときは是なるときは喜び、非なるときも恨みず、安然として生活することが出来るのである。  江州采女  江州に采女といふ老婆が居つた。早く夫に別れて独身であつたが、念仏を喜むで生活して居つた。或夜一人の盗賊が忍び込みて、寝て居た老婆をおこし「金を出せ」といふ。老婆は「いくらの金が御入用であるか」と問ふ。「あり金殘らず出せ」といふ。そこで老婆は立ちて財布を出して、二十兩ばかりの金を差出し、「よくよくの御難儀があればこそ、こんな夜分にかうして越されたであらうに、悲しいことには見らるる通ほりの有様で、定めて不足であらうが、これを持つていつて下されよ」といひてこれを盗賊にやり、そのとき老婆はふと思ふやう、「ああ、さうだ、捨てて行くべき此世の為にさへ、このやうに寝ずに働く人さへあるに、未来永劫の一大事を助けて頂く私が、何で眠つて居られませう。勿体ないことぢや」と考へて、早速御内仏に燈明をあげて夜の明くるまで、一心不乱に念仏した。やがて夜が明けたので、御仏飯をたくために、仏前を退きて見れば、夜前の盗賊にやつた金子はその儘其座に置いて、しかも盗賊は出て行つたのである。老婆はいよいよ気の毒に思ひ「折角やつた金を持たせずに返したのも私の誠意が足らなかつたためであらう。でもお蔭で私はお念仏を喜ばして頂いた。昨夜のお方は善知識であつた。このお金は御禮として御本山へ納めませう」とてそれを直ちに本願寺へ納めたといふ。  盗賊は人の財物を奪ひ取ることを業とするものである。その挙動が道徳に背くことは言ふまでもない。殊に自分を高くして他の人の態度を道徳的に批判することをつとむるものよりして見れば、盗賊は人間にあるまじき悪行をつとむるものである。その悪行を懲戒するのが当然である。しかしながら、この老婆のやうに人間の愚悪の相を内観したる心から見れば「よくよくの御難儀があればこそ、こんな夜分にかうして越されたのであらう」と考へねばならぬ。かやうな心の中には善と悪との差別はなく、ただ相手の人の難儀をあはれむ慈悲の心があらはれるのみである。それ故に有り合せの金銭を殘らず差出して惜むことがない。ただそれのみでなく、老婆の心には「捨てて行くべき此世の生活のためにさへ、寝ずに働く人さへあるのに、未来永劫の一大事を助けて頂く私が安閑と眠つて居るのは勿体ない」という心が起り、早速に仏前に燈明をあげて一心不乱に念仏を申すといふやうな殊勝の志が起つたのである。さうしてこの殊勝の心からあらはれたる采女の態度は、言はず語らずして自から盗賊の心を動かし、老婆から与へられたる金子を取らずしてそこそこにして退却したのである。しかるに、それを見た女は却つて自分の態度を顧み、自分の誠意が足らなかつたのであると後悔し、又盗賊が自分をして仏の御恩を喜ぶの心を盛にせしめたことを喜び、これを善知識と崇め、盗賊に禮をいひ、一日盗賊に与へたる金を私せず、これを本山へ寄附した。かやうに女の心の世界は普通の人々の世界とは相違したものであつた。盗賊が自分の前にあらはれて、さうして自分がその盗賊のために自分の物を取られる時に際して、自分の大切のものが奪はれることにつきて、進むで盗賊の無状を懲戒しやうとするか、或は退きて畏縮してこれを災難としてあきらめやうとするのが普通の人の心の世界である。采女の内観の世界は全くこれに異りて、盗賊が自分の家屋に侵入して金を強奪すること、それ自体が自分を喜ばせるものであつた。かやうな場合に方りて些かも自分の心を悩ますことなく、安然として仏の恩を喜ぶといふことは宗教の心の世界にて始めて出来ることである。  水戸義公  水戸の義公は、水戸家の中でも殊に忠孝の志の厚かつた人であるといはれるが、楠公父子の誠忠をしのびて、湊川の辺に「鳴呼忠臣楠氏之墓」の標石を建てた方であることは、あまりに有名である。この外にも、義公につきてはいろいろ伝ふべきことも多いのであるが、その平生の態度の中に、いろいろ常人に異つたものがあつた。  御自身の誕生日に義公は梅干と粥という至つて粗末の料理にて食事をすまされた。近侍のものはそれを不審に思ふて居つたが、義公はその理由を言はれなかつた。徳川将軍の御三家と崇められ、一国一城の主である義公が、御自身の誕生日に珍味を尽して祝はるべき筈であるのに、かやうに粗末の料理と聞いては誰人も不審に思はざるを得なかつたことである。近臣のものが折にふれて、お問ひ申しても何とも申されなかつたが、強ひての問に対して義公は次のやうに申された。  「なるほど誕生日は自分が此世に生れた日であるから祝ふべき日であるかも知れぬ。しかしながら此日は自分が亡き母上を最も苦しめた日である。それを思ふと自分はせめてこの日なりともお粗末な料理で母上の御恩を感謝して見たい」  自分一身の考へよりすれば、誕生日は記念すべき日である。自分がこの世の生活を樂しむ上はその誕生を祝ふことは当然のことである。まして世上の聖賢といはれる人の誕生を祝うことは当然である。現に釈尊や親鸞聖人などの誕生が無かつたならば、我々は仏の恩を知る教を受くることが出来なかつたであらう。我々が釈尊や親鸞聖人の誕生日を祝賀することは当然である。名もない人間でも巳に人間としてこの世に生れ、此世のために何事かをするものはその誕生を祝することは当然であらう。しかしながら、内観の世界に於ては、水戸義公の如くに自分の誕生日は即ち母上の難渋の日であることを想ひ、せめて此日だけなりとも感謝の意を表したいとて、故らに粗食することは常人の世界に異なりて美しい世界であると言はねばならぬ。自分の幸幅を祝うべき場合にそれが母上の難澁せられた日であるといふことを想ふ熱情は、自分として祝賀すべき日に母上のことを想いて感謝の心を新にするのである。自分の誕生を祝ふにあたりて更に内観を深くして母上の恩恵を感謝するの意を新にするのである。  貞信尼  越後の貞信尼は一蓮院師や香樹院師に師事して厚信を以て有名であつた。この貞信尼と眠近の間柄で、殊に念仏を信ずる上に於て貞信尼の導きを受けて居つたものに渡辺某の老母が居つた。  ところが、貞信尼が自から念仏三味に住し、又他に向つて念仏せよと勧めるので、世間では貞信尼の行業を指して称名正因であると誹謗するものもあつた。渡辺老母はこれを聞くたびに胸を痛めるのであつた。或時路上にてひよつと貞信尼に行き合つたので「どちらへおいでなされましたか」と聞いた。貞信尼は「私は国上のお寺へお參りして七日ばかりお念仏をつとめさして頂きました」と答へた。そこで渡辺老母は貞信尼に向い「ああ情けない。あなたがそんなことをなさるものだから世間では称名正因などといひますもの。どうか止めて下され」  と口説きました。貞信尼はそれを聞いて  「なんとまあ、私のやうな懈怠のあさましい日幕をするものを称名正因といつて呉れる人がありますか、勿体ないこと、さういはれては尚更称名をはげまずには居られませぬ」と貞信尼は嬉しさに面を輝かせて答へたといふ。  称名正因といはるるのは称名することが浄土に往生する原因であると信じて一生懸命に念仏するものを排斥して言うのである。親鸞聖人の教にては念仏するものが往生することが仏の本願であるということを信ずるのである。念仏するものをして往生せしめねば自分も往生せぬと誓はれたのが仏の本願であるから、その本願を信じて疑はず、常にその御恩を喜ぶべきであると教へられたのである。この意味から言へば、念仏申さうとする心が大切で、かやうに心からして念仏申すことは仏の御恩を喜ぶのである。念仏申すことによりて往生が出来るとすべきでないことは勿論である。  つまるところ信心が大切である。念仏が大切であるとはせられぬ。信心があれば必ず念仏を伴ふものであるが、念仏には信心が常に伴ふものでない。貞信尼が念仏につとめたのは信心のあらはれで、仏の本願を信じて始終念仏をつとめて居つたのである。さうして、その念仏は仏の本願を信じて往生することが出来るのを喜びてありがたい心の表現としてであつた。助けられることの嬉しさが口に出たのである。しかるにその念仏が一生懸命であつたがために称名正因と排斥せられたのであつた。しかも貞信尼はそれに対して腹を立てることもなく、又これを弁護して自分の行為が間違つて居らぬことを証明することもせず、ただ自分の懈怠を責めて一層報恩の念仏を盛にしやうと努力する。誹謗も悪口も反対も、すべてが一樣に念仏を催進する刺戟として受取られるのである。まことに美しい心の有様であると言はねばならぬ。  伊左衛門  大和国加守に伊左衛門といふ浄土宗の信者が居つた。三十一歳の時、五重の戒を受けた。家に帰るなり、家内のお梶に向ひて  「私は今日五重の戒を受けて来た。何とも思はず、うかうかと五重の戒を受けて十方の仏様にわるいことは致しませぬと誓ふて来たが、取かへしのつかぬことをして来たわい。明日から誓言の通ほりに人間の掟が守られるか知らん。守られぬとなれば仏様に虚言を言ふたことになる。自分を破戒の罪人となる。どうしたものであらう」  と思案にあまつて溜息をついた。お梶は浄土真宗の信者であつたから  「ほんにさうでござりますなあ。凡夫として何一とつ守れるものはない。どうです、明日から真宗の御法を聞かせて頂くことになさつては」  と言つた。そこで伊左衛門も真宗の法義を聞く気になり、それから夫婦諸共に真宗の寺院に參詣して遂にその法義を喜ぶやうになつた。  この人が後に和泉船尾の妙好人物種吉兵衛に遇ひて自身の領解を話した。吉兵衛はこれを聞いて  「若いのに、よく聴聞せられました。私の領解を聞いて下され」  と言つて、聴聞せぬ前と何も変らぬことを述べた。伊左衛門は自慢の鼻柱が折れて閉口した。そこで吉兵衛に向つて、どうか私の家に来て話をして下されと頼むだ。さうすると吉兵衛は  「こんな老爺に何を聞くことがあるかや」  と言つた。そこで伊左衛門は  「実は家内が産後で出られませぬから家内に聞かせてやつて頂きたい」  と頼むだ。それなら行きませうと言つて吉兵衛は伊左衛門の宅に行つて、仏壇の前にすわり「ありがたいことや」と独語して拝むだ。すると家内のお梶は  「私はありがたいことも、嬉しいことも何ともありませんが」  と言つた。すると吉兵衛はくるりと振り向いて、横手を拍つて  「これはしたり、同行一人儲けた」  と言つて大いに喜むだ。真に徹底した宗教の心を示したものである。自分の心の相を其儘に見てすこしもいつはらぬ所に、仏の光明に照らされることが喜ばれるのである。彼此と自分勝手のはからひをせず、じつと自分のあさましさをその儘にながめて居るところに大なる智慧があらはれる。これこそ正に仏の智慧である。ありがたいと言ふのも虚言であると内省するところにありがたくないといふことを率直に言ふことが出来る。これ正しく自分の愚悪を感知するもので真に賢善の法を求むる心があるものである。これこそ真の同行であらう。吉兵衛が自分がありがたいと言ひながら、しかも他のありがたいといふものを相手にせず、ありがたくないといふものを嬉しがるところに、宗教の心が徹底して居ると言はねばならぬ。  小島屋權七  但馬豊岡に小島屋權七といふ仰信者が居つた。ある時報恩講を営みしときに雨が降つたので、隣家の人が来て「御同行の処の報恩講には雨がよう降りまする。私の処は去年も今年もよい天気であつた」と自慢らしく言つた。權七はそれを聞いて「私が不冥加者ゆへ、雨が降りまして御開山さまに御苦労をかけ奉ります」と言ひて、涙を落したので、隣家の人も深く慚愧したと。又あるとき、茄子苗の生え出た頃、犬が二三疋その畑の中へ飛び込みて噛み合つたので隣家の人々は気の毒に思い、竿を持つて犬をたたいた。權七の曰く「犬の悪るいのではござらぬ、私が垣をせずに置きましたためでござる」と詫びたので、人々皆感じ入つたと。かやうな無我の心の上に、仏の心があらはれるのはまことに当然である。「我」といふ得手勝手の心を強くはたらかして、周囲のものを一切「我」の気に入るやうにしやうとするのが普通の人の心のありさまである。しかしさういふ「我」の強くあらはれて居る場合には到底、仏の心を受け入れることは出来ぬのである。この権七のやうに、「我」を無くして仏の恩を喜ぶ心になつて居れば、すべての場合に、仏の慈悲の力を感ずることが出来るのである。  報恩の志  美濃の安右衛門といふ同行、深く仏祖の御恩を喜び、雪水の中を厭はず、はだしにて参詣し「つめたきことは身に覚え知れども御恩のほどは身に知れぬ」と言ひてかなしむのが常であつた。あるとき、雪の中に臥して祖師の苦労をしのびしをば、弟の某が見て「身体を厭ひたまへ、若し病気になれば迷惑あらむ。易行の御宗旨にて苦行を好むに似たことを以後は止めたまふべし」と忠告した。安右衛門は弟の某に対して「さうぢやけれども」と言つて落涙したといふ。「我」を捨てて深く仏組の御恩を喜ぶ身であれば自身の痛苦は物の数ともせられぬことであらう。外より見ればただの苦行と見られ、若しそれがために身体を傷つけるやうなことでありてはと心配せられることであるが、仏祖の御恩を感ずる本人に取りては、それは何の苦痛ないことであらう。安右衛門が「さうぢやけれども」と言つて、しかも涙を流すところにその真実の心がよくあらはれて居るのである。まことにありがたい心の持主であると言はればならぬ。  不立文字  ある両者が一体に参問した。「禅とはそも何をか謂ふ」と。「禅とは貴公の頭の上にある」と一休が応酬した。禅が頭の上にある? 儒者には一休の言葉の意味を捕捉することが出来なかつたが、そこは矢張儒者だけに、自己の思案をつけた「いやわかりました、頭の上と申されたな、つまり屋根のことでござらうな、屋根は家を蓋ふもの、つまり仁を以て天下を蓋ふ、これを禅と申されるのか」儒者は儒者らしく理屈張つた考へ方をした。すると一休は頭を振つて「いや、さうでない、屋根よりももう少し上の方にあるのだ」  「屋根でないといはれると屋根にとまつて居る鳥のことかな、なるほど鳥には反哺の孝ありといふ金言がある、禅もまた孝の大道に外れは致すまい」「いや、いや鳥ではない、もう少し上だ」  「では空中を飛ぶ鳶のことかな、腐鼠を食ふときに鳳凰あり空中を?翔す、鳶その腐鼠を奪はんことを恐れて嚇として鳴く、と荘子の言葉にある、由来鳳凰は竹突きでなければ如何なる物も食はぬと言はれて居る、何んで腐鼠などに心を労さう、君子と小人との区別も亦丁度この鳶と鳳凰との如くであらう。鳶の腐鼠を食ふが如き卑?な欲望を棄てて、鳳凰の悠々と空中を?翔するが如き貴高満虚な気象を養うことが即ち禅の真本領ぢやと言はれるのか」  「もう少し上ぢや」と一休は澄して居る。「すると、天以外にはない、なるほどな、天を知り命を知るは聖人の教と申すから、禅も亦此処に極まると言はれるのか」「天より上だ。上でわからねば下でもよろしい。貴様の足下にある」  「それでやつとかかりました、踏まれれば踏まれるほどによき青疊、一踏み毎に青海原のやうな色を現す。人間も亦此の如しで、屈辱に堪へ恥を忍ぶところに人格が鍛錬されて行く。この鍛錬の過程が禅の要諦だと、かう言はれるのか」  一休はもつと下だといふ。儒者は又理屈をつけて縁の下なら東西南北開け放しだから八面玲瓏《はちめんれいろう》、洒に落ちた境涯が禅かと尋ねる。終に一休は「禅とは此処に在る」と一喝して儒者の頭に一拳を見舞つて不立文字・教外別伝で、不問不現の裡に心を以て心に見得する所に禅の真実が存すると言ひ捨てて去つてしまふ。  この話は「一休禅師論語」から鈔出したのであるが、その真意は思慮分別を主とするときは妄念妄想を脱することが出来ぬから、悟道の妙味は得られぬといふことが示されたのである。禅宗にて悟道といふのは、仏道の真理を証悟することをいふのであるが、それは真如の法に従ふことに外ならぬのである。元来我々が心と言つて居るのもこの思慮分別を指していふので、それは全く我々の心のはたらきによりてあらはるるところの現象に外ならぬもので、それは全く夢幻の相である。その本体としては真加を考へねばならぬのであるが、真如は我々の言葉も絶え、心も及ばぬものであるから、真如に全く我々の言説を離れたものである。しかも悟道の場合にはこの真如の法に從はねばならぬのであるから、その目的を達するがためには必ず我々の思慮分別を離れねばならぬのである。親鸞聖人が行者のあしからむとも、善からむとも思はぬを自然とぞ申すと言はれるのは即ちこの事を指すので、道を悟るにはどうしても思慮分別を離れねばならぬのである。極樂に往生すべしといふことも、それを体驗して自分のものとするにはどうしても思慮詮索を離れねばならぬのである。  讃岐の庄松  讃岐に生松といふ妙好人が居つた。あるとき金澤の山本良助といふものがはるばると圧松の家を訪問したとき、庄松は蒲團《ふとん》を被つて休んで居つたが、一寸目をあけて見て、又寝込んで、何とも返事をせぬので、良助は詮方なく帰るとて  「この遠方まで尋ねて来たが、一言のお知らせもない。この儘帰つて聞かぬ仕舞で死んだら何としませう」と独言をいひしに、庄松始めて口を開き「阿弥陀様にまかせてしまへ」と言ふ。そこで良助は更に「死んでから任すのか」と問ひたるに庄松むつくりと起きて出て来た。良助はそこで  「たのむ一念を一口お聞かせ下さい」 と言ふ。圧松の曰く「それは仏の言ふことぢや、おれは知らぬ」  庄松の心にては、タノムということも、一念帰命といふことも、弥陀に任せるといふこともすべて皆、仏の仕事であるから自分は何も知らぬといふ。さういふやうに我のはからひが全く無くなつたところにあらはれるのが愉悦の感情である。それ故に何も知らぬというところにありがたいという心が強くあらはれるのである。  了智坊  了智坊といふは親鸞聖人の弟子の一人である。俗姓を佐々木四郎高綱と言つた人で、源氏方の武将として有名の人であつた。  初め源頼朝が伊豆国蛭が子島に流されて居つたとき、平氏征討の院宣を得て義兵を挙げたのであるが、平家の軍と石橋山に戦ふたときに頼朝は散々に敗北し、辛うじて主從七騎にて土肥の杉山まで逃げ落ちた。此時平家の臣の大庭二郎が大軍を以て追つて来て、頼朝の命も巳に危く見えしところに高綱一人取つてかへし、頼朝は其間に危急を免れたのである。頼朝は深くこれを徳とし、高綱に対し「我若し天運にかなひて平家を亡ぼし以て天下を保つの時あらば日本の半分を割きて汝に興ふべし」と言つた。  その後高綱は源氏の軍の一方の大将として西上し、宇治川の先陣に功名を立てたことは有名の話であるが、平家は遂に滅亡し、頼朝は天下を一統し征夷大将軍となるに至つた。さうして国々に追捕使を置き自分は天下総追捕使となりて政治も刑事もすべて頼朝の手中におさめられるに至つた。しかるに高綱は前の口約に反して僅に中国七州の司となることが出来た。事実は全く予期に反したのである。高綱は頗る不平であつた。窮厄の時に約束せしところに背きて僅に七州を得たのみであるから大いに憤慨して遂に謀反を企てやうとした。ところが大夫房覚明といふものが書簡を高綱に送つてその反省を促した。その書中に「歿水小魚貪食不知時渇、糞中穢虫争居不知外清」とあつた。高綱はこの手紙を見て、愕然として悟るところがあつた。まことに世は転変の習である。今日考へたことも明日は変ずる。我として我が事を定むるだにも変り易きは人間の常である。まして他人の詞をや、かくならばかくすべしと、当にならぬことを当にして、それが思ふ所に反するときに驚きさわぐ、実際我々が日常の生活にありて鵜の目鷹の目に争ふ範囲はまことに小さいものである。この小さい範囲で人間はこせこせと争ふて居る。これは全く自分が見て居る世界の狭いことを知らず、その中に動きまはつてその外に広い世界があることを知らぬからである。僅かばかりの殘水の中に入れられて、今にもその水が渇けば命が無くなるといふことを知らず食を貪ぼつて居る。糞の中に生活して居る穢虫は糞の外に清らかなる所があるのを知らず、汚穢の中にありて互に居を争ふて居る。まことに浅間しいことの限である。  高綱は大夫房覚明の手紙によりて此の如き迷の心に目が醒めた。我今幸にして歡樂の境にあるも後には地獄に堕つることであらう。ああ浮世は夢である。たとひ天下を一統するもただこれ夢の中の夢にあらずや、約束の違変も決して人を恨むべきにあらず。いで人欲の物を貪りて無明の酒に酔ふて臥ねんよりは、速かに菩提の道に入りて仏果を得むには如かずと、高綱はここに迷の夢から醒めて決然家を棄てて高野山に登つた。しかも難行の道は遠くして行くことがかなはず、遂に親鸞聖人をば越後の国府に尋ねて他力本願の教を聞き、その弟子となりて仏に事ふる人となつた。了智房がすはち其人であつた。  信救  源道弘とて勤学院文章博士たりしものが僧侶となり東大寺に入りて名を信救と称した。当時平氏の専横を悪みて反抗したものが多かつた中に高倉宮が平氏を打ちて利あらず、三井寺に籠らせられたとき、三井寺から南都に味方をたのみ、清盛に反対したる南都の法師はこれに応じたるに、其時興福寺の返牒の中に「清盛入道者平氏之糟糠武家之介也」といふ句があつた。それは信救の筆に成つたものであつたので、信救は平家から憎まれ、南都にうかうかして居られぬので漆を体に塗りて似せ癩病となりて南都を逃れ出でて、源行家の軍に投じ、それから信濃に赴きて木曾義仲に頼り、その右筆となりて名を太夫房覚明と改めた。木曾義仲の京都討入りと共に太夫房覚明も再び京都の人となつた。しかるに間もなく、義仲は粟津の露と消え、又覚明は比叡の法師を罵倒して居つたために京都に住することは出来なかつた。無住法師の「沙石集」に  「そのかみ東大寺法師にて信救得業とて才覚の仁ありけり、朗詠の註などしたるものなり、法師の事を一巻の真言につくりて陀羅尼を説いて曰く    唯山法師、腹黒黒、欲深深、アラニクヤ、ソハカ  と造れり、信救ぞしつらんとて、山法師いきどほり深かりければ本寺を離れて田舎に住みけりといへり、是を思ふに?の下をとりかへて、奈良法師、京法師、円台法師も俗士も女人も老少貴賤とりかへとりかへかき入れぬべき世の中也」  とある。まことに信教の如き内観の強かつた人は、常時?敗の極にあつた比叡の法師などには容れられなかつたであらう。信救が太夫房覚明となりて木曾義仲に投じ、義仲滅亡の後には箱根の山中に居つたことが「吾妻鏡」にも出て居る。この人が後に親鸞聖人の弟子となりて西仏房と称したのであるが、彼の佐々木四郎高綱に書を送りて仏門に入ることを勧めたのは、多分親鸞聖人の弟子になつてから後の事であつたことかと思う。  我賢の心  柴田武修聞書の「続鳩翁道話」に次のやうな訓話が載せてある。誰人にも我れ賢しといふ驕慢の心があるから、それによりて一生をうろたへ仕舞にするのであるから、よく自身を顧みよとの教示である。  「ある人の道歌に    あざみ草その身の針を知らずして花と思ひしけふの今まで  お互に立ち反りて腹の中を吟味せぬと、おれがかしこいで、一生をうろたへ仕舞にしまひまする。かるが故に明徳を明にするにありと申して、兎角本心をくらまさぬ用心をせねば私心私欲身びいき身勝手がこげついて、此世から火宅のくるしみ、婿をいじり嫁をにくみ、又夫をうらみ姑をそしるやうな大間違が出来て、後には相手になる人もないやうになり行く。  よう考へてごらうじませ、長い物は長う見える、短かいものは短かう見える、お互に長短を見ちがへは致しません、夫故人の我をあしくいふのは必ず見ちがへのないことぢやと心得て、我身を顧みるのが近道ぢや。これで思ひ出した話がござります、或山家より京の町へ談義僧を招待に參りました、折ふしその日は雨ふりで道もあしく駕籠をもつて迎に来た。和尚もやがて用意して、駕籠に打ち乗り京をはなれて三四里ばかりと思ふ所でどうしたことか、駕籠の底がぬけました、いたはしや、和尚は袈裟も衣も泥まぶれになられた、迎の人足も気の毒がり、そこらかけまはつて縄切れ多くひろひ来りてやうやうと駕籠をからげ、さて和尚に再びお乗りなされといふ、和尚も気味わるけれど、雨は強し、袈裟衣はよごれる。晝中あるくも外聞悪るく、ふせうぶせうに、駕籠に乗るとき、これ駕籠の衆、もう底はぬけはすまいか、イエイエ気遣いはござりませぬといふ故、乗移るとかき上げるとの拍子で、又底がめきめきといふ、和尚大きに肝をつぶし、これでは中々安心がならぬ、御苦勞ながら合羽の上から今一度丈夫に縄からみにして下されと言はるる。人足も尤に思ひ、また縄切を拾ひ集めて合羽の上で堅横十文字にからげてこれであやまちはござるまいと、道を急いである村を通ほりかかつた、折節此村に法談があつたと見え、參詣の老若、道場の帰りありしに、この駕籠を見つけて、片衣かけたる親仁が、かたはらのうばかかに言ふには、なんと皆の衆、今日の御勘化はありがたいことではござらぬか、いかさま無常迅速の世の中、生者必減會者定離のことはり、何時如来様のお迎があらうやら知れぬが人の身の上、あれあの駕籠を見さつしやれ、どうでも京へ奉公にいつた人が死んだと見えて死骸を在処へつれていぬると見える。さてもはかないものぢやござらぬかと、いふ声を駕籠に乗りたる和尚がききつけ、さては我を死人と心得たか、いまいましいと、わざと駕籠の中にてせきばらひをすると、彼の老人はこのせきばらひに驚き、急にかたはらへ飛びのき、小声になりて死人ぢやと思ふたら科人ぢやさうな、めつたに側へよるまいぞといふ、和尚いよいよ腹を立て、今はたまりかねて駕籠の中で地團太ふみ、大声あげて科人ではないといふ、其声に又びつくりしてさては科人ではなくしてどうでも気違ぢやさうなと言はれた。これが面白い話ぢや、何分駕籠を外から縄からげをした者の故、誰に見せても死人ぢや、然るに中から物いへば科人といふもことはり、又気違ひといふのも外からこぢつけて言ふのではない、皆此の方にその模様があるによりてぢや」  何れにしても外から見て人の言ふことであれば、火のないところに煙が無い道理、外の人からいろいろのことを言ふのも皆此の方にその模様があるためである。しかるに己れが本心のくもりは夢にも知らず、ただ人が悪るい、これがすまぬと我身を顧みず、むやみに大声あげてさわぎ廻ることはまことに見苦しいことである。  真の知見  解脱上人の「愚迷発心集」の中に曰く  「無益の話をかまびすしふすと雖も、出世の事を談ずることなく、他人の短をば語ると雖も身上の過を顧みず、自から人目をつつしむと雖も全くの照覧を忘る、稀に一善を勤むと雖も多くは名聞の思に穢がさる、無常眼に遮れども実有の執はいよいよ深く、不浄身にたたへたれども厭離の思はすべて無し、或は時節の遷流を歌ふと雖も随ひて命のせまることを顧みず、或は日別の所作を始めにと思へども兼て退屈して企つることなし、この故に身の堪へるところ、尚ほこれを勤めず、心の及ぶところ多くはこれを怠ることあり、夜は則ち睡眠のために侵され、晝は又塵事のためにけがさる、秋の夜は長し、夜長くして徒らに明かす、春の日は短し、日近くして空しく幕す、自行敢て勤めず、況や他人を益するに及ばんや、我が心猶ほたのみ難し、況や真の知見に於ておや」  まことに我々は愚迷にして、日常の行は恥づべきことのみで、すこしも自慢すべきものはない。解脱上人はかやうに自心を内省して、ひとへに仏の慈悲を仰ぎて仏心のあらはれるやうと念願せられたのであつた。しかしながら我々のやうな愚悪至極のものが、少しにても自分の心を内観するときはただこれを慚愧するの外はなく、かやうなるのをばよろしく頼むといふやうなことを誰に向つてもいふことは出来ぬのである。頼む力もなく、又頼むことも出来ぬほどに自分の愚悪を知るときは我々は如何ともすることが出来ぬのである。親鷲聖人が何れの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかしと告白せられたやうに、我々は到底極樂に往生することは出来ぬものと覚悟せねばならぬのである。我々にして若し真に此の如き覚悟をなすに至れば、そこに始めて真実の知見があらはれる。それを我々は仏の慈悲と感知することが出来るのである。  俗人の仏法  享保二十年田中元陳といふ人が著したる「いへば草」の中に  「仏法に出家の仏法と、俗人の仏法あり。出家の仏法といふは有為の名聞官録に心を悩まさず、無上菩提とて不生不滅の所を願ひ世間の財寶を塵芥の如く見下し、本来本有具足仏法の虚をよく修行するをいふ。云云。俗人の仏法といふは、夫々の産業に心をゆだね、勤むべき筋を一筋に迷はさる所を見届けるがよりどころなるべし、其上にて仏神のをうごを願はば自然とよく手つがい出来ることあるべし。己れ未熟にして仏神をのみ頼み天道人を殺さず、果報は寝て待てとて渇命餓死に及んで、やれ天道が今、人を殺すはといふて死したるとの滑稽咄の如くなるべし。然れば仏法とてもその所録を離れては成就せず、さりながら乱れの端は欲のいやしき所より起ること多き故、仏法の教を立て、此世は只夢の中、いなびかりの草の露にやどるばかりなる浮世、未来の長き苦しみを説き示し、何になりたればとて間もなく死する身を思いあきらめする教ぞかし。誠に死んでの先の事、有無のさかひ実正明白の手形は書きても謂人になる人はあるまじけれども近く教を施すをこそ作業成仏といふとかや。僧俗に道をかへての仏道あることなるを一ぺんに心得、出家の法を仏法とのみ立て俗に教へ導くは道の中にても細道のぬかり道なるべし」  まことに当時の人々が仏教の学問をば仏法であると誤り信じて、仏法が人々の日常生活の指導者であるべきものといふことを知らざりしを戒めて、故らに俗人の仏法といふことを説いたのであらう。仏法に関する態度として尤の次第といはねばならぬ。  團扇の運命  実成院仰誓師は西本願寺派真宗の碩学で徳堂も高き大徳であるが、殊に「妙好人伝」一編を著して、在俗の弥陀教信者にして念仏の生活によりて自他を利益したる人々の佚事を示されたので有名であるが、この実成院仰誓師が團扇の書に賞せられたる文が伝はつて居る。  「直き竹に清らかなる紙を張り、一本の団扇となりて、形月のごとく錢に似たり、毒虫を拂ひ、涼風を生じ、貴人高貴の手にも觸れ、又賤しき山がつまで用ひられずといふことなく、時の用には鼻をそぐとの話の如く、月代の毛うけともなり、塵取りの名代をもつとめ、一生骨を折り、物をも食はずはたらけども、秋風吹いて青女来たれば箪笥長櫃の間に押しこめられて、誰もおとづるのもなく、鼠のために噛みやぶられて、終に師走の媒拂には据風呂のたき草とし、灰となりて灰汁桶に入れられ、犢鼻褌の洗ひ汁となるぞかなしき。   つらつら案ずるに、たとひ富貴榮華の身と生れ、才智世に勝れたりとも後生願はぬ人は、又この團扇に異ならず慎之哉、慎之哉 実成院欽願題」  まことに無常の世界にありて、壽命は蜉蝣の如く、朝に生れて夕に死するならひ、身体は芭蕉の如く、無常の風に遭ふてやぶれ易いことは誰でも知つて居る。それにも拘らず、その果敢ない一生をあくせくと一心不乱に馬車馬の如くに働いて、榮端榮華の外面のみにあこがれて、真実ならぬものを追ひて行く。かやうな世渡りを外にして別に人間の世界はないと言べきであらう。しかしながら、心すべきことである。いかにも人間が努力して黄金珠玉をたくはへ、綾羅錦繍に身をかざり、美味甘食に命をつなぐとも、かやうな世渡りのいろどりにのみ目がくれて、人間の面目、世界の真実に觸れない限り、一生の努力は全く意味のない無駄になること、夏の日に重く用ひられたる團扇が秋の日になりて全く捨てて顧みられないやうになると同然である。  人間の面目、世界の真実に觸れるといふことは、すなはち、我々が自己を中心としてあらはすところの心のはたらきを離れて、始めて感知することを得るところの信心によりて、この浮世に光を投げ、それによりて銘々が進むべき道を照らさるるによりてその目的を達することが出来るのである。  外面をのみ見れば、それは只暑さを凌ぐの用をなすところの團扇である。しかも深くその内面に入りて見、殊にそれを我身にくらべて考へるときは、一個の團扇といへども我々をして生命の無常であることを知らしめ、更に無常の世にして、夢のやうな生活をなして、虚偽の世界に晏然たることを誡むるの資となるのである。  心の花  京都のある豪商が、母堂の二十五回忌を営まむとて三日間の法事をつとめたが、富裕のこと故に費用には容赦なく、頗る盛大に法事をつとめた。その混雑の最中に、新参の下女のおさよといふが誤つてその家の祖先傅来の秘蔵の皿を落して破つた。これを聞いた主人は大いに怒りてはげしく下女を叱つた。さうすると側に居つた十六になる子守のおみつが進み出でて「いや御主人様、その麁相は私が致したのでございます。それをおさよさんが気の毒に思ふて罪をかぶつて呉れるのでございます、どうぞこの私を思ふやうにして下さいませ」と泣かんばかりに訴へた。正直者の下女おさまにして見ればこれは又意外の話で、この私がたつた今、皿を落してこはしたのであるに、どうしておみつさんが私の罪をかばつて下さるのであらうかと、不審でたまらない。ここに少女二人の間に罪のなすり合ひでなく、互に責を負ふために互に言ひ立ててやみさうになかつた。当の主人も何れを叱つてよいかわからず、躊躇して居ると、下女のおさよは自分が皿を落してわつた次第を述べたので、主人にははつきりと下女おさよの麁相であることが知られたが、それにしても普通には罪のなすりあひをするのが常であるのに、おみつは何を思ふて、人の罪までを負はんとしたのであらうか。不審でならぬので、主人はその仔細をただすと、おみつがいふやう「御主人様私がわるうございました。実を申しますと、今日といふ日は私のお母さんの一週忌にあたるのでございます。私は生前お母さんに何の尽すことも出来ませんでしたが、お母さんは私を心ゆくまでいたはつて呉れました。今日といふ今日、私はお母さんを思ふて涙にくれました。お金さへあればこんな立派な御法事をつとめて上げることが出来るのに、この私にはどうすることも出来ません。さぞお母さんも冥土とやらでお苦しみであらうと思ひます。何か功徳を施したいものだと考へて居りましたところ、丁度おさよさんがふとしたことでこの麁相をしたのを見て居りました。私は夢中でおさよさんの罪をかぶつて上げやう。さうしたらその功徳とやらでお母さんも浮ばれることもあらうかと思ふたのでございます。どうかお許し下さい」と兩手をついてあやまるのであつた。話を聞いて居つた主人の頭も自から下がり、忿怒の顔もやはらいで「ああ、さうであつたか。この私は亡き母上の御法事をつとめて居ながら、こんな盛大の供養をして居ながら、心は鬼であつた。何でかやうに腹を立てたのであらう。私の心はこの子守のおみつには到底及ばぬ、おおさうであつたか」と深く感じつつ、自分の今の態度をかへりみて言ひ知れぬ淋しさがこみ上げて来るのであつた。かくて主人は二人の美しい心に頭が下げ、感謝した、さうして二人の前に詫びたのである。  冥土にある日のために功徳を積みてその冥福を祈るといふことは親鸞聖人以前の仏教には広く行はれたことであるが、それは真に宗教の心のはたらきを知つて見れば何の意味もないことである。今さういふやうなことは論外として、この子守女のおみつがその時に対する感謝の心の厚いことはまことに美しい心の花である。さうしてかやうに美しい心の花は猛き人の心を動かすに十分なる力を有するものである。  一座一芥も仏物  むかし、或僧が仏道の師を求めて居たが、叡山の某寺に学徳共にすぐれた大徳が居られるといふことを聞いて早速その大徳の所に仏道をはげみたいと思ひ立ち、かねての願がいよいよかなへられる時が来たと喜むで、白川の方から比叡山へと登ることになつた。幾多の高僧知識もこの道を登つて仏道にいそしまれたことを思ふと、心は喜びに満ち、自然足にも力が入るのであつたが、やがて一の谷川に沿ひて登つて行つた。麓でこの谷川の奥に尋ねる大徳の居られる寺があると聞いて居たので、谷川の水さへ他の水と異りて澄んで居るやうに思はれて、足は元気に進むだ。しばらく谷川にふた道を登る中に、ふと川上の方から一章の芥葉が流れて来るのがこの僧の目にとまつた。この僧は今まで真剣に道を求めて来た人であるだけに、それを見るなりピリッと頭に来たものがあつた。  「一座一芥と雖もすべて皆仏物である。殊にかうした芥といふものは幾多の人が風に吹かれ雨にたたかれ、血と汗とで作り上げた尊い努力の結晶ではないか。きつと誰かが御寺へ供養したものに違いない。その芥をみだりに流すやうな人などはどんなに高僧だといはれて居やうが、一生を託して仏道を学ぶに足る人ではない」  かつは憤慨し、かつは落擔《らくたん》して直ちに引き返さうとした。ところが川上の方から一人の僧がこの道をかけ下りて来た。何事か起つたらしいので「何事ですか」と尋ねると、その僧は真剣な顔で「今芥を洗つて居たところ、ひよつと手ぬかりして、一芥流してしまつたので、それを拾ひに行くのでござる」といひ捨てて、先刻の芥を追ひ走つて行つた。その後姿を見送つたこの僧は「ああ申訳のないことを考へて居た。まさしく高僧知識でなければ出来ないことだ」と感歎した。そこへ件の僧が芥を拾つて戻つて来たので「貴僧は何と申される御方ですか」と尋ねると「私はこの奥に居られる大徳に仕へる弟子です」と言つた。弟子でさへこの通ほりであるものを、その師匠といはれる方はさぞ立派な方であるに違ひない、長らく求めて居つた人が見つかつたと喜びて、山に入り、その大徳について身命を顧みずして仏道の修行をしたと。  荻生徂徠  荻生徂徠といへば江戸時代中期の大儒であつたことは誰人でも承知のことであらう。初め程朱の学を奉じて居つたが後に復古学に変じて逐に一家の説を立てた人である。  徂徠は「聖賢の道を窮めんと欲せば古書に通ぜざるべからず、古書に通ぜんと欲せば古文辞を能くせざるべからず」と言ひて古文を学ぶべきことを唱道したのであるが、さういふ学問の専門的の研究にわたることはさて置き、徂徠が実際に主張せるところは、それより以前に伊藤仁斎などの大儒が聖人を以て理想の人格として直ちにこれを我身に実現せむことを期したるに対して、聖人は到底我が身にこれを実現すべからざるものであると断念すべしといふにあつた。さうして我々が道とすべきものは聖人が制定したまひたる禮樂刑政の外に無いと断じて、子思や孟子の説を採らず、道は先王の作為にして治民の方法なりと言つた。その豪邁卓識は一世を風靡し、その門下から服部南郭、太宰本臺、山県周南、平野金華、安藤東野などの大儒を輩出したのである。  徂徠は此の如くに儒教を奉じ一家の説を立つるに至つたので、議論の上に於ては仏教を排斥した。しかしながら徂徠が、当時の儒者が悉く学ぶべきことをつとめたのに対して聖人は到底これを我身に実現すべからずと、自身の羸劣を内観せることは、親鸞聖人が何れの行も及び難ければ地獄は一定すみかぞかしと告白せられたと同じく、深く自身を内観して、我が身の頼むに足らざることを知るまでに達したのであるから、そこに自からにあらはるべきは、謙虚と、一切を包容する広い心とである。さうして、それがすなはち宗教の心に外ならぬものと言はねばならぬ。  加持祈祷が盛に行はれて居つた頃のことで、檀那寺から正、五、九の月に、徂徠の所へ祈祷の札が届けられた。さうすると、徂徠は其儘押し置いて自分の居間に貼りつけるのであつた。門人等がこれを見て「こんな汚はしいものを何とて居間に貼りたまふか」といへば徂徠は「これもお寺の役目で、精を入れたのであるから、どうして粗末にしてよいものか」と答へたといふ。又徂徠がしきりに刑律のことを調査するのを見て、高弟の太宰春臺がこれを不可として書を送つたのに対して、徂徠の返事に「尤に存ずる、足下ならではと存じ候」とあつた。いかにも徂徠の心には謙虚と包容との宗教の心がよくあらはれて居つたのである。思ふに徂徠の人格はこの宗教の心を基礎として成立したものであらう。  学問沙汰  尾張一番の妙好人と自称する同行基、年巳に六十を過ぎて居つたが、あるとき、美濃第一の篤信家として知られたる弥助同行と、京都の本山の御茶所で相會ふて、法義のことを談じて居つた。その声が高かつた。  爺「さつきから聞いて居ると、お前なかなかよく知つて居るやうぢやが、お国は何処ぢやな」  弥助「おれは美濃ぢや。大垣の弥助といふて一かど知られた同行ぢや」  互に譲らなかつた。かくて其夜は弥助の宿で安心の腕くらべの約束をした。夕刻に至りて尾張の同行は、頃はよしと弥助の宿をさして鼻高々と夜道を急いだ。  爺「おれも大分諸所をあるき廻つたが、さりとてこれはといふほどのものに出遇つたことがない。幸に今日お前に會ふたのは如来の加護だ、今夜は夜もすがら論談しやう」  ときり出して、先づ「たすけたまへ」といふことから議論をはじめた。二人は互に口角沫を飛ばして自分の意見を主張して時間のたつをも知らなかつた。夜も漸く更けて次第にあたりが物静かになりてからは一層兩人の声のみが高々と聞えたのである。その間隣室でその法談を聞いて居られた老僧があつた。子の刻も過ぎ丑滿つ時にもならんとして、兩人もやや疲労の色が見えて来たときに、その老僧は隔ての襖を静かに開いて兩人の前にあらはれた。兩人はその老僧に向つて  「あなたは誰方ですが」  と尋ねると、  「私は香樹院ぢや」  と言はれたので二人は二度びつくり、よくよく伺へば当時大徳の聞えの高かつた香樹院師に違ひない。  「先刻以来のお二人の長文の談義に漏れなく聞かせて頂いたが、在家の身でありながらよくあれほどに覚えられたものぢや。出家の私が恥しい位ぢや。けれどもお二人、お二人には一とつだけ大切なものが忘れられて居るが、知るまいな」  二人ははたとこまつて、しばし考へたが一向にわからぬ。そこでおそるおそる御教示を謂ふた。すると香樹院師の言はるるやう  「それは大事な大事な阿弥陀如来さまだ。お二人にはそれを忘れてござる。宗意には通じて居られるやうぢやが阿弥陀様を忘れて居るやうではお浄土參りは出来ませぬぞ。八萬の法蔵を知るとも後世を知らざる人を愚者とす。いくら学問がよく出来たからとて、仏様をないがしろにして居るやうでは必ず地獄に落ちますぞ」  やさしい叱咤に二人の同行も今は迷の夢が醒めて手に手を取つて落涙して喜むだといふことである。実際宗教の心があらはれて喜びの心が湧き出づるのは何れの場合でも、思慮分別のはたらきがやみて始めてさういふ感情が感ぜられるのである。人々が思慮分別の心のはたらきをほしいままにして彼や此やと考へ、ああでもない、かうでもないと思ふて居る間は、決して安心して喜びの心をあらはすことは無い。宗教が智慧の世界でなく、我々の智慧を全く離れて後に、そこに真実の智慧があらはれるものであると説くのはこの意味にて言ふのである。  生活と宗教 本篇は、「生活と宗教」と題して、昭和十三年十月より昭和十四年十一月まで大阪太陽會に於て講話せられたるものの速記録を、編纂者が整理してここに上梓するものである。文中の小題も編纂者が私に選んでこれを附したのである。  宗教の徳  宗教の本質については度々繰り返してお話致して居るのでありますが、宗教と申す心のはたらきは、一種特別の感情にもとづくものでありまして、自我意識を離れてあらはれてくる心のはたらきであります。それが智慧の方に移りまして、所謂考へとなりまして、その考へがめいめいの行為の上に出、それが言葉になつて表現されるのであります。その表現の仕方は人々によつて異るものでありますから、よく考へて見ませんと、宗教の本質を捉へることがよほどむづかしいのであります。宗教と申しますると、形式を説く人が多いのでありまして、或は仏を拝む、或は神を拝む、或はお寺とか教會とかに行くことといふやうな宗教の形式のことを考へる人が多いのであります。又、仏教といへば、仏に成る、或は極樂に往生する、或は自分の苦しみを遁れるために、それを始末する方法を説くとか、総てさういふやうに宗教というのが説かれて居りますので、さういふ形式の上に出た宗教の話を聞きますると、聞く人の心持によりまして、宗教といふものは要らないものだ、人間の心の外にあるもので要らないものだ、都合によつてめいめいの心に取り込むものだといふやうに考へる人も多いのであります。又自分には宗教といふものはあつてもなくてもよい、必要な場合に研究すればよいと考へる人もありませう。もつと極端になりますと、宗教といふのは阿片のやうなもので、道徳の心を麻痺させるのだといふ。かういふのは宗教の本質を辨へないからであります。単に形式にあらはれたことだけを見て、さういふ間違つた考へを起すのであります。宗教という心のはたらきは、人間が生きてゆく働きの一とつでありますから、どうしても人間の心に出て来なければならぬものであります。宗教の心が現れることによりまして、その人の人間としての値打があらはれるのであります。  宗教の心持が人間に出て来ると、その人間の精神がどういふやうになるかといふ実際のことを話しまして、宗教の本質の説明を致さうと思うのであります。繰返して申しまするが、宗教の心のはたらきは人間の思考を離れて、人間の思考の値打を否定したときにあらはれて来る感情にもとづくものであります。自己意識と申しまするが、人間は自分を意識することが出来る、これは、人間が生活しまするためには極めて必要のことでありますが、この自と他とを区別する心持は、宗教の心とは反対のものであります。自他を区別する心持は人間の智慧のはたらきであります。智慧のはたらきにもとづいて起る感情は、必ずしも心持がよいといふことはない、自分に都合のよいときは快でありますが、都合のわるい時は不愉快であります。ところが宗教はいかなる場合にも心持がよいといふ感情が起るのであります。その場合には自他意識は否定されて居るのであります。仏教ではそれを無我と申すのであります。無我とは、我を無くするといふのではなくして、我が低いのであります。さういふ心に本づきまして、我々の精神に一種特別な心のはたらきがあらはれるのであります。  宗教の心の現れとして第一に目につくのは謙虚であります。支那の人の言葉に「己れを空しうして性あらはる」といふ言葉がありますが、己れを空しうすると、自他意識が否定せられて、本性があらはれるといふので、謙虚とはへりくだることでありますが、全くこの自他意識を否定することであります。自分には何等力がない、何等自分といふものは?みにならない、かう感ずるとき何となく有難い心持が起きて来るでありませう。俳聖として有名な芭蕉翁が伊勢の大廟に五度参拝して、だんだん光に照されることが深くなるやうな心持がして、自分で書いたものに、  「かけまくもかしこき御光も思ひまされる心地にて彼の西行の涙のあとを慕ひ、増賀の誠を悲しみて、内外の御前に額づきながら袂をしぼるばかりなん侍る    なんの木の花とは知らずにほひかな」  と申すのがあります。宗教の心持はこれでありませう。なんの花かわからなければにほひがせぬのは宗教ではないのであります。宗教は、なんの木かわからなくても差支ないのであります。「西行の涙のあとを慕い」といふのは「何事のおはしますかは知らねども恭けなさに涙こぼるる」という西行の気持を慕ふといふ意味であります。「増賀の誠を悲しむ」といふのは、増賀上人といふ天台宗の偉いお方が、非常に名利を嫌つて、少しでも自分の名利に拘ることであれば、それを捨てることを考へた、その増賀上人が伊勢の大廟に参拝して自分の名利を捨てやうと思ふが如何いたしませうと神に願をかけた。すると神の託宣に、すべてのものを捨てよとある。そこで真裸になつて大廟に參拝し、それから大和の笠置の山に来て修行せられた有名の人であります。「増賀の誠をかなしむ」といふのは、自分はさういふ誠が出来ないといふ自分の相を内観されたのでありませう。芭蕉翁は「はだかには未だきさらぎの寒さかな」と言はれたのであります。かやうに宗教の心持が起ればおのづから謙虚になるのであります。  越前の大屋といふところに、中村小平といふ有名な浄土真宗の信者がありました。或る所に善光寺をお祭したお開帳があるといふので參詣しやうと思つて出かける途中、或る人が「小平さん、あなたはお開帳へ詣られるのか」と聞いた、小平は「さうです」といふと、その人は「今度の開帳のある如来様は偽ださうだから參詣なさらぬ方がよい」と教へた、小平は「ああ左様か、有難いことでござります。ほんとの如来様の手が足らぬために偽物までこしらへて拝ませて下さる、有難いことじや」と言つたさうであります。まことに謙虚な心持が出て居るのであります。どんなことに対してもよろこびの心持が起るのは、宗教の特性だと申しても差支ないのであります。  第二に宗教の心の特性は知足であります。足ることを知るといふことであります。「童子教」の中に「富めりと雖も、心に欲多きをこれを名づけて貧人となす、貧しと雖も心に足る事を知る、これを名付けて富人となす」欲の少い人は利を求めることがない、從つて悩みも少い、欲の多い人は利を求めることが多いから苦しみも多くなるのである。  昔、泉州の堺に弥助といふ貧しい百姓がありました。毎朝独り早く起きて顔を洗ひ口を清めてそれから氏神のお社の前に「私のやうなものにこんな幸福をお与へ下さることは誠に有難い」と言つて拝む、すると、妻のすてさんが「私共はちつとも幸福ではありませぬ、屋根には草が生え、床には菰を敷いて毎日粟や稗ばかり食べ、身にはこのやうなぼろを著て、あなたも私も朝早くから夜おそくまで汗になつて田畑を耕し、ただの一日だつて樂をしたことはないではありませんか」と言つた。弥助はそれを聞いて「お前はものの辨へといふことを知らぬ女だ、よくよく考へてみるがいい、私もお前も患ひもせず、かうして無事に暮させていただいてゐるではないか、それもお互に高貴の家に生れたものが零落したとでもいふなら、昔を偲び、今を歎くといふことあらうが、私等はお互に賤な生れつきではないか、してみれば、賤の男賤の女が賤の家に住み、賤の衣を著て、賤の食事をし、賤の業を営むことに何の不思議があるか、貧しく生れても、かうして達者で働かして貰うことは、百姓第一の幸福と思はねばならぬ、それで毎朝神様にお禮を申上げておるのだ」と話しました。妻女も初めて日頃の不心得を悟つたといふのであります。分を知る、足ることを知るという心持が、宗教の心の一とつの特徴としてあらはれて来るのであります。  第三は慎独であります。人が見なければ何をしやうと構はぬという心持は独りを慎まない心持であります。この世の中は人間の世界であるから、人間さへ見てゐなければどんなことをしてもよいといふ心持は慎独ではありませぬ。「中庸」に「隠れたるは現はるるよりなし、分なるよりは明かなるはなし、故に君子はその独を恨む」といふ言葉があります。人が居なくても悪るいことはしない、世の中は人間だけではない、仏様が居られる。さうするとそれによつて独りを慎むのであります。越前の高村に糀屋の弥平といふものがありまして、小さい時から馬鹿正直と言はれたものであります。親の代から糀屋をして居りましたが、あまり正直でありましたので、留守の家にでも勝手に上つて糀を量つて置いてくるといふ風に信用を得て居りました。或る人が道で弥平に逢つたので、自分の家の台所の戸棚に容物があるから、十錢だけ糀を量つて入れておいてくれと注文したので、弥平はその人の家に入つて糀をはかりながら「見てござるぞ見てござるぞ」といつた。するとその家の二階に隠居が晝寝をしておると階下で誰やら「見てござるぞ見てござるぞ」と頻りにいふので不思議に思つて降りてみると弥平が糀をはかつて居る。どういふわけかと聞きますと弥平がいふのに、「お恥しいことでございますが、糀をはかるうちに煩悩が出ます故、如来様が見てござるぞと私心を戒めておるのでございます」と申しました。  昔支那の有名な人が、自分の下僚が賄賂を持つて来たので、そんなものは取らぬと申しますとその人は、あなたと私と二人しか居ないのですから、外には誰も見てゐないのですから、取つて下さいといひました。すると「天知る、地知る、人知る、我知る、誰か知らずといふや、四知の誠があるから二人しか知らぬと思つたら間違だ」といつたことがあります。弥平のやうに人は見てゐなくても、仏が見てござるぞといふ、その言葉によつて独りを慎むことが出来るのであります。  次に卑下であります。これは一般には謙下といつて自分を低く見ることを申すのであります。我々は人に対して優つて居ると自慢するのが常であります。自分のみが偉いといふ考へでは決して聖者になることは出来ないのであります。山城国西岡といふ処に儀平といつて、人に雇はれて生活して居る大変貧しい百姓がありました。義理の母親に対して人並優れて孝行でありまして、母親にめしを食べさせるのに、杓子に一つついではその度に拝んで茶碗に入れて母親に侑める、其他総てがこれに準じて実に孝行でありました。母親も大変それに感じて儀平を拝む、すると儀平は拝んで貰つては困る、やめて呉れといつても母親は聞かずに拝む、儀平も亦母親を拝む、かういふ風でありますから、お上に聞えて褒美を貰つたのでありますが、或る人が下に向つて「お前は孝行せよと教へられてして居るのか」と聞いた。すると儀平は「曾てそんな教を聞いたことはありませぬ」と答へた。「それならあなたは孝行するつもりでしてゐるのか」と聞いた。儀平は「孝行するとは思ひません、ただ大切にして居るだけです」といつたということであります。全く卑下の心持であります。他家から菓子を貰つたとき儀平は「おふるまひに預ることは誠に有難いことでありますけれども、母親に食べさせずに私ばかり食べましてはあまり心持がようごさいません、かやうに存じまするはいかい罪でございます」と申しました。全く卑下の心持であります。母親に食べさせずに自分独り食べては心持がようないといふのは普通孝行な人の心持としては当然でありますけれども、かやうに存じまするは甚だ罪だというのは、普通の人に起る心持ではありませぬ。普通の人は心の内では孝行することを威張つてゐる、一生懸命仕事をしてやつたといふ心持になるのが人の常であります。  米国のエマソン氏が、凡そ人間のやることは総てより高いものによりかかつて居るのだ、例へば、我々が手細工をするにしても自分の力で成功するのではない、自然の助けをかりることによりて成功するのである、大工が材木を仕上げて居る時、斧を下すのは大工の筋肉の力ではない、その重力であるといつて居るのであります。エマソン氏の考へ方は自然科学的でありますが宗教的であります。自分の力で何でも出来ると思つてはならぬのであります。  その次は憐愍といふ心持であります。悪るい人を憎み排斥するのは当然でありますが、宗教の心があらはれますると、さういふ心持が憐むといふ心持となつて起きて来るのであります。  江州に妥女といふ有難い婦人がありました。夜泥棒が入つて金を出せといふので二十兩だけ出した。その時妥女は「よくよくの御難儀があればこそ、こんな夜分にかうしてお越しになつたのであらうに、悲しいかな、見らるる通りの有様故、定めし御不足であらうが、これだけ持つて帰つていただきたい」、普通の人のいうことではないのであります。その金をやつたあとで妥女は「捨てて行くべきこの世のことでさへこのやうに渡すに働く人さへあるに、後生の大事を助けていただく私がなんで眠つて居られやうぞ」とお内仏に燈明をあげて夜のあけるまで念仏を申したといふことであります。泥棒を憎む代りに憐むといふ心が起きてゐるのであります。実に敬虔な宗教の心持が出て居るのであります。夜が明けてみると前夜泥棒にやつた金は其処に置いてありました。泥棒も妥女の態度に感心したのでありませうが、妥女は大変気の毒に思つて「折角やつた金を持たずに帰るというのは私の誠意が足らなかつたのでせう」と言つた。普通の人の考へることではないのであります。さうして「私がかうしてお念仏を喜ばせていただいた昨夜のお方は善知識であつたのであらう、この金はお禮として本山にさし上げやうと言つて、本願寺に上げてしまつたのであります。泥棒は無論道徳に背く行為でありますから、懲戒するのが普通の考へでありませう。妥女のやうに「よくよくの御難儀があればこそ、かうして夜分にお越し下さつた」といふ心持は普通では起きるべきものでないでありませう。  そのつぎは敬虔であります。石州の大福温泉場に善太郎といふ同行がありました。ある人が大福寺の入口で「この村に善太郎といふ人が居るさうですが」と聞くと、「それは私でございます」といふので、「家は何処ですか」と聞くと、善太郎は「私は家を持ちませぬ」といふ。その人は不思議に思つて「誰かの家を借りて住つて居られるのか」と聞くと善太郎は「私は如来様の家において貰つて居ります」と申しました。実に敬虔な心持であります。自分の金で建てたのだから、自分の家だと思ふのが普通であります。しかしながらそれは敬虔ではありませぬ、自分の力で建てたのではなくて、多くの人の力、多くの人の親切厚意によつて初めて出来た家でありますから、如来様の家といふのは当然であります。釈尊の教では世の中の一切のものは、仏のものであると申すのであります。  蓮如上人は、廊下に落ちて居る紙屑を拾ふて仏法領のものを粗末にするなと人を戒められたさうであります。蓮如上人の息子に兼縁といふ人がありました。あるとき袈裟を買はれた、すると蓮如上人は、それはうちにある、お前は無用なものを買つたと言はれた。兼縁はそれは私の金で買つたのだと申しますと、蓮如上人は、自分の金といふことがあるか、皆仏法領のものではないかと言はれたさうであります。まことに敬虔な心持であります。  つぎは、知恩であります。石州の小宮村に九平といふ人がありました。或る時犬が二、三匹喧嘩をして居るのを見て「やれやれ有難いことぢや」と言つた。或る人が「犬の喧嘩を見てなんで有難いか」と聞くと九平は「犬には殿様がないから強いものが弱いものをとがめる、お互人間は強いものも恐れることはない、無理は無理といへるのはお上が治めて居られるからだ」我々人間の世界は政府といふものによつて統治されて居るから、強いものが弱いものをとがめるといふことはない、強いものが無理をいつても無理といへるのは実に有難いといふのであります。  神崎に油屋正兵衛といふ有難い百姓がありました。外へ乾しておいた稲を我家へ入れる時お上の御恩を初めて知つたといふのであります。稲が田にあるときは心配しなかつた、つまり領主が番をして下さつて居るからで、実にありがたいことだといふ知恩の心持であります。  加賀の与一といふ人は牢屋の前を通る度毎に此処の御戒めは私一人に対する御意見だといつて牢屋を拝んだといふことであります。宗教の心持が起きて初めてさういふ心が起きるのであります。  つぎに衆生、この世に生活して居るといふことを樂しむことは、宗教の心持の起きて居る人にはいつでも出て来る心持であります。宗教の心持の起きて居ない人は、自分に都合のよいときは生を樂しむが、苦しいことがあれば世を恨む心持が起きてくるのであります、考へてみれば人の一生は長くても百年、月日は早く過ぎるものでありますから、うつかり暮して居れば直ぐになくなつてしまふのでありますから、生は樂しまねばならぬのであります。それには生死甲斐がなければならぬのであります。人間と生れたことの値打を拡大してゆくことでなければならぬのであります。仏教では穢土を厭ひ離れて、浄土を欣ひ求めると申しますが、さういふとすぐ、生を樂しまない、生を否定する宗教のやうにいふ人が世界にも日本にもあるやうでありますけれど、それは大きな間違ひであると思ふのであります。宗教はすべて生を樂しむのであります。仏教では我々人間がこの世に生れたのは因縁が和合して生れて来たのでありまして、因縁がよかつたから人間と生れたといふのであります。さうすれば、生を尊重し、生を樂しんで生活すべきものでありませう。決してこの世を否定したり、又は死むだ後のことだけを考へるものではありません。「三才因縁便記」と申す古い書物に、道徳は現在を説いて未来を教へ、仏教は未来を説いて現在を教へると書いてありますが、道徳では、悪るいことをしてはいかぬ、善いことをしなくてはならぬと申しますが、現在には役に立ちませぬ。仏教では未来を説くのでありますが、実際は現在を教へて居るのであります。死むでから後に極樂に行かうと思へば、現在極樂に行けるやうなことをして居なければなりませぬから、未来を説くけれども現在を教へて居るのであります。  越後の浦原郡におしもといふ貧乏な有難いお婆さんがありました。或る人が、この世は仮りの世であるが未来は立派な極樂に行けるのだらうから、この世で貧乏してゐるよりは、早くあの世へ行つた方がよからうと申しますると、おしも婆さんは、仰せには候へど早く死に度いとは思ひませぬ、一日も長くこの世に居た方がよろしいと言つた。そこで或る人がそれはおかしいことである、それでは仮りの浮世に執著することになるではないかと申しますると、おしもは、この世は固より四苦八苦の娑婆なれば、苦しみがないとは申されませぬ、まして苦に迫る私のやうなものではありますが、この世で一日善根すれば、浄土で百年修行するにも優つてゐると聞いて居りますから、一日も長く裟婆に居て念仏申して死なうと思ふと申したさうであります。矢張りこの世で苦しみが多くても、生を樂しむといふ気持が強いのであります。  宗教の心持が起きて、このやうな八つのことが人々の態度に出て来ますると、実にこの世の中は安樂になり、泰平な世界になると思ふのであります。道徳の教も勿論かういふことを期待して居るのでありますが、道徳は現在を説いて未来を教へるのでありますから、現在に出て来ることはないのであります。宗教の心によりましてはじめてかういふことが現在にあらはれるのであります。宗教と申すのは、人々の心がかういふ状態になることを申すのであります。かうなりましてこそはじめて人間らしく生活することが出来るのであります。学問をするにしましても、実業に携るに致しましても、その他すべてのことを致しますのに、かういふ心持が出ましてこそ、はじめてその人の生活は勿論のこと、その人を中心としてつくられた團体も、その恵みを受けることが広大でありませう。 (昭和十三年十月十五日)  感情の統一(一)  宗教と申しますると何か一とつの学問であるかのやうに考へて、特別な知識を外から自分の心の中に取入れるやうに思ふのでありますが、宗教の本質はさういふものではなくて、自分の心の中からおのづからに湧いて出るものであります。死ということは宗教でよく問題にするのでありますが、宗教の心が起れば死ぬことが平気だといふことはありませぬ。ただ死に処して晏然たることを得るかどうかといふことが宗教の問題であります。病気といふものは一とつの防衛反応であります。一例をあげますと、腸チブスといふ病気は近頃の研究によりますとチブス菌という一種の細かい黴菌が入つて起きて来る病気であると申すのであります。この黴菌はもし高い熱に逢へば死ぬるのであります。そこでこの黴菌が体の中に入つて生活を初めやうとすると一週間目に熱が出まして四十度位になる、それも防衛反態であります。そのころにはこの黴菌といふものは血液の中に入つて体の中を通ほる、さうして腸の処まで行つてそこで害をするのであります。腸までやらないやうに途中で止めればよいのでありまして、止める機械が人間の体の中にいくつも出来て居ります。その中で一番大きいのは脾臓であります。腸チブス菌は脾臓で止めますから非常にそれが大きくなるのであります。それから血液に入つた黴菌は、血液には赤血球が澤山ありますが、白血球を僅かばかりありますが、白血球がその黴菌を喰い殺すのであります。それ故に腸チブスになりますと白血球の数が非常に多くなるのであります。又、腸チプス菌が腸へ入ると粘膜が腫れて下す、害をするものを体の外へ出さうとするのであります。かういふやうにどの働きも防衛反応を持つて居るのであります。人間の病気といふものを哲学的に考へまするとさうであります。さうしてその防衛の働きの強い弱いによりまして腸チブスは大変に症状が違ふわけであります。防衛のはたらきとして熱を出しているのでありますから熱の出るのを邪魔する必要はない、見て居ればよいのであります。要するに、外から来た黴菌が体の中に入つて生活しやうと思ふ。それに対して黴菌が生活出来ないやうに努力して居るのが病気でありますから、その努力によつて黴菌が死んでしまへばそれで止むのでありまして、狼狽しないでぢつとして居ればよいわけであります。仏教ではさういふ心の状態を忍從と申すのであります。おのづから治るのを静かに待つて居るのであります。しかしながら実際我々人間はさういふやうにいかぬ、少し痛いと医者をよぶ、それでも治らぬと神や仏に頼るとか何とかやるのであります。忍從といふ心持が出て居らぬのであります。  宗教と申すものもそれとおなじやうな心持であります。宗教と申す心のはたらきがおきますると、他のすべての感情を統一する、感情の統一は智能のはたらきでは出来ませぬ。感情のはたらきによつてのみそれを統一することが出来るのであります。たとへば暑いといふ感情が起る、暑くないといつても暑さが減るわけはない、もつと我慢するやうにといはれてもおなじことであります。それより暑からう暑からうと同情された方が樂であります。ある人が非常に苦しんで居る、それはあなたの考へ方が悪るいといつたところが苦しみは決して減るものではありませぬ。如何に苦しからうと同情してもらへば非常に苦しみが減るのであります。すべてかういふことは感情によつて統一出来る事実を示して居るのであります。宗教は知識で語学問でもありませぬ、一種特別の感情であります。人間が生活する上に於て如何なる場合にも出て来る心のはたらきであります。  かう申しますると、何故宗教を勉強するか、何故宗教の話をするかといふことになりませう。宗教といふことは仏教で申せば法であります。法は説くことの出来ぬものであると昔から言はれて居るのでありますが、最もそれを明瞭に申すのは禅宗でありまして、禅宗は不立文字と言ひます。釈尊も法を説かれなかつた、死ぬるまで法を説かれなかつた。ただ説かれたのは、法を求めるために迷つて居ることを説かれたのであります。それ故に宗教で説くのは、宗教の心持を起す妨げとなるいろいろの考へを止めるために説くのであります。さういふ感情の訓練が出来て居りますと、どんな場合にでも宗教の心持が起きまして、他の感情をまとめてゆくことが出来るでありませう。それ故に私はどうすれば人間が仏に成るかといふことをお話するのではなくて、人間は仏に成れないといふことは事実でありますが、仏に成らなければならぬとすれば、その妨げをするものを除かねばならぬが、それにはどうすればよいか。そこで昔の人々の生活の上にあらはれて居る宗教の状態をお話して、宗教といふ心のはたらきがどういふやうに出て来るかをお考へ願うために、いろいろの方面からお話致して居るのであります。  今日は昔の士の人々の間にあらはれたことを申上げて、お考へを願ひ度いと思ふのであります。  北條早雲は室町時代末期の豪傑でありまして、伊勢新九郎長氏といふのがこの人であります。生れは山城とか大和とかといはれて居りますが、よくわかりませぬ。その頃関東の武士はすべてその処の武士でありましたが、北條早雲はこの五畿内の人でありまして、伊豆に参りまして善い政治をしてその辺の人民を悦服させた人であります。北條氏の娘を妻君と致しましたので、それから北條氏を名乗つたのであります。後には息子に仕事を譲りまして、自分は剃髪して早雲といつて禅宗の僧侶の生活をしたのであります。天承十六年に八十八歳の高齢で死んだのでありますが、その北條早雲が、自分の家来に向つて教へた二十一ヶ條の教へ書といふものがありますが、その第一條に神仏を信じ申すべきこととありまして、ただ心を直に軟かに持ち、正直勤勉にして上たるものを敬ひ、下たるものを憐み、有るをば有るとなし、無きをば無しとなし、ありのままの心持で神仏の心持に叶ふやうにと申して居ります。それによりて、早雲が、仏教の精神を解して居つたことが認められるのであります。その当時は戦国の武士でありますから、随分力を以て人を抑へつけたのでありますが、一面に非常に軟かな心を持つて居つたのであります。ある時、北條早雲が琵琶法師を呼んで平家琵琶をかたらせたのであります。その語りものは那須与一が扇の的を射る物語であります。熱心に聞いて居つた早雲は、さて与一が狙ひを定めてといふところまで琵琶がくると突然やめろといつたのであります。そこで聞いて居た武士や女中達は、これから面白くなるのにどうしてやめるのかと聞きした処が、早雲が涙を浮べて申しますには、お前達は琵琶の音色、歌の調子につられて面白いばかりに聞いて居るから駄目だ、与一の身になつて聞くがよい、与一は扇の的が外れたら源氏の恥辱は勿論、武士の面目を傷けるから、切腹して相果てる覚悟であつたであらう、その気持は自分によくわかる、武士が命をかけて矢をつがへて引きしぼつた、矢は将に弓を離れんとして居る、その時こちらがぢつと据つて聞いて居られやうかと申したさうであります。かういふところに宗教の心持が出て居るのであります。宗教の言葉で申しますると、与一の心にある仏性と、早雲の心にある仏性とが相ふれたのでありませう。自分だけが仏性を持つて居て、他の人は持つていないと考へるのが人々の心持でありませうが、この世のものは皆仏性を持つておるのであります。自分の心のよいわるいはありませうけれども、さういふものの内に存在しておる仏性は同じでありますから、すべてのものが仏に成らねばならぬでありませう。さういふ心持がその時北條早雲に起きて居つた、それ故に、那須与一が矢を射ることを聞いて自分の心持が同じ状態になつてしまつて、聞くに忍びなくなつたのでありませう。  太田道灌といふ人もその頃の武士では教養の高かつた人であります。この頃鎌倉は上杉氏でありまして、上杉氏は扇ヶ谷と山之内と二つありましたが、太田道灌は扇ヶ谷上杉に仕へた人であります。この兩上杉が喧嘩を致しまして、道灌は扇ヶ谷上杉のために尽しまして、その頃野原であつた武蔵野に大きな城をこしらへて淵を称ることに努力しました。それが後に徳川の居城となつたのであります。道灌は少年時代乱暴な人でありましたので、父親が戒めて、人間といふものは何をするにも素直でなければならない、人はまつ直ぐであれば立つが曲れば倒れると申しますると、道灌は座敷の隅にある屏風を持つて来て父の前に立てて、お説ごもつともでありますが、屏風は直なれば倒れる、曲れば立つが如何でございませうと言つたといふことであります。道灌の父は子供の教育に熱心な人でありましたので、「奢るものは久しからず」と書いて道灌の部屋へ額のやうにしておいておきました。すると道灌はその後へ「奢らざるものも亦久しからず」と書いたといふことでありまして、ずいぶんいたづらであつたのであります。しかしながら年を取るに從ひまして乱暴の風がやみまして歌も上手でありましたが禅宗を熱心にやつたのであります。城の脇に寺――青松寺――を建てまして俊徳禅師を住職に致しました。さうして師からいろいろの教を受けて居りましたが、その話の中に、昔支那の瑞厳といふ寺の澄源禅師が毎日「主人公々々々」と言ひ、そのあとで「はいはい」と自分で答へて居る。その次には「起きて居たか、居眠つてはなりませんぞ」といひ、はいはい」と言つて人と話をするやうに言ふ。又「近頃は物騒ぢやから、うかうか眠つて居ると人にごまかされますぞ」「はいはい」と独言をいつて居たということがありました。道灌には何のことかわからぬ、俊徳禅師も証明をしないのであります。ところが或る時道灌は川越へ遊びに行くと、観音巡禮をして居る老人に會ひました。「御老人の御国はどちらですか」と聞くと「私は京都でございます」といふ、道灌が「京都のやうな景色のよい処から此処へお出でになれば、さぞ殺風景でありませう」と言つたところが、その老人はその時丁度近傍の寺の鐘が鳴つたのを聞いて、「あの寺の鐘を聞いて居りますと、何処に居りましても京都に居る心持が致します」と言つて有難い有難いと喜んだのであります。道灌はそれを聞いて心の在りかといふものを見つけまして、「はいはい」といふ語の意味が判つたのであります。それからは禅宗でいふところの大悟徹底をしたのであります。さうして上杉家のために骨を折つてだんだん主家がよくなつたのでありますが、反対の上杉家がそれを大変憎みまして、当時山内上杉は顕定、扇ヶ谷上杉は定正でありましたが、山内の方から道灌が謀反すると中傷したのであります。定正は凡庸でありますから、それを信じて、御馳走をすると称して道灌を糟屋の別荘に招じ、風呂に入つて居るところを槍で暗殺したのであります。その時道雄は「きのふまで莫妄執を入れおきしへなむしぶくろいまやぶれけむ」と笑を含むで死んだといふことであります。それより以前藤澤で戦争がありましたとき、味方の若い士の中村重行が敵の若い武人の骨を持つて帰つて道灌に示しましたところが、道灌は「かかる時にこそ命の惜しからんかねてなき身と思い知らねば」といふ歌を詠んだといふことであります。道灌は武人として働いた人でありますが、宗教の心持は更に強く出てた人であります。  甲州の武田信玄は武人として有名でありますが、禅をやつた人でありまして、快川禅師の弟子であります。快川禅師は信玄の造つたお寺の住職をして居りましたが、信玄の息子が凡庸でありましたために、織田信長に攻められて亡されたのであります。その時快川禅師は山門の上に弟子を連れて隠れて居ますると、下から火をつけて山門を焼いた、快川禅師は弟子と共にお経を読んでこの世の暇乞をして死んでしまつたのであります。武田信玄はその快川禅師の弟子でありまして、宗教の心持のあらはれて居ります例が随分多いのであります。或る時信玄が家来の軍将を集めて参謀會議を開いて居りますときに庭に鳩が来てとまつたのを見て軍将速にこれは瑞兆だ、この戦には必ず勝つと申しますると、信玄は家来に命じてその鳩を殺してしまへと申しました。これは殘忍なやうでありますけれども、鳩によつて人の心に迷いがおこつてはならぬ、大切なのは人間の心である。迷ふ心の起るのは宗教の心が十分に起つていないからでありまして、宗教の心の起きたものに迷信のあるわけはないのであります。迷信は人間の智慧のはたらきであります。宗教の心持が十分に出て居ないから迷ふのでありませう。武田信玄は武人でありながら宗教の心持の強かつた人であります。  楠正成は我国第一の忠臣でありますが、若い時から宗教の心によりまして自分の心を治めてゆくことにつとめられた人であります。或るとき大和を旅行しまして片岡を過ぎて南へ行かれると一人の禅師に會つたので、いろいろ禅の話を聞いて大変によろこびまして、「なほこの上に何か聞くべき大切なことがありますか」と正成が申しますると、禅師は「あなたの名前は何といふか」と聞いた、正成は「楠左門兵衛正成」と答へた、禅師は「正成」と大きな声でいふと正成も大きな声で「おお」と返答をした。正成はそれによつて大いに悟りを得まして、それから段々とその禅師につきまして仏教の話を聞いて居たのであります。或る時、正成が「道を以ていくさに勝つは如何」といふ問題を出した。すると禅師は「至善を以て兵とせよ」と答へた。その一言で正成は心を開き、それから兵を用ゆることが極めて自由になつたと言はれて居ります。この禅師の名前はよくはわかりませぬが、種々の点からしらべて見ますると、後醍醐天皇のお抱でありました慧玄禅師であらうといふことであります。正成は職の旗印に「非理法權天」を用ひました。これは理は法に勝てない、法は権に勝てない、権は天に勝てない、それ故に人を相手とせず天を相手としてやらねばといふ全く至善を兵とした戦でありました。建武二年五月十六日補正成は陸下の命を奉じて京都を出発し、湊川に行き、広厳寺前に陣取つたのであります。この寺は支那から来た楚俊禅師が後醍醐天皇の勅願によつて建てられた寺であります。正成はその寺に參りまして、楚俊禅師に會ひましていろいろのことを聞きしたが、「人間が生きて居ることと死ぬることが交又せんとする時如何に覚悟したらよいか」と申しましたら師は「兩頭を切断すれば一剣天によつて塞し」と答へられた。正成は「兩頭を切断すれば」といふところまではわかりましたが「一剣天によつて寒し」といふ意味がわからぬ、そこで正成は「落ちつく処はどこでございますか」と聞いた。禅師は一喝したきりで答へなかつたのであります。兩頭を切断すればそれで事はすむのでありますから、後の結果はいふ必要がないといふのが禅宗の説き方でありませう。宗教は現在が決ればそれでよいのであります。仏の本願を信じて居れば極樂に往くことは決つておる、その先を詮索することは要らぬことでありますが、極樂に往くことを期待して、それを現在の生活の前に置き、その理想によつて現在の生活を規定してゆかうといふのが普通であります。この話は事実であると見えまして、楚俊禅師の行状記に見えて居ります。それから足利尊氏の軍と十六回戦つて敗けまして、広厳寺の中に入つて弟正季をはじめ一族十三人、手下六十人が二列にならんで一同切腹して相果てたことが「太平記」に書いてあります。正成はその時弟の正季に向つて、最後の期に臨んで何か願があるかと聞きますると、正季はからからと打笑つて「七生までも同じ人間に生れて朝敵を亡すことが念願である」と答へた。正成も非常に喜んで「罪業深き悪念なれども我もさう思ふ、同じく生をへてこの本懐を遂げやう」と申して自殺したと「太平記」に出ているのであります。「罪業深き悪念なれども」というところに、正成が宗教の心が強く出て居た人であることがよくわかるのであります。さういふ心がありましたからこそ、歴史に名高い人となつたのでありませう。武人に限らず、総ての人が世に褒められている点をよく考へてみますると、自分の得手勝手の心持をやめてそこに現れて来る宗教の心持に導かれて居る人が多いのであります。 (昭和十三年十一月十七日)  感情の統一(二)  宗教は感情のはたらきでありますから、人間の智慧のはたらきには少しも関係しないのでありまして、従つて。偉い人でも偉くない人で同じことであります。今晩は、百姓や町人や悪夫愚婦に宗教の心持の出てる一、二の例を申上げ度いと思ふのであります。  筑前に庄助といふ百姓がありました。浄土真宗の信者でありまして、よくお説教を聞きに參つて居たのでありますが、帰り途にお寺から四、五町行つた処に曲り角がありますが、そこまでは後向きになつておきまして決してお寺の方へお尻を向けない、これはお寺にある仏様に無禮をしてはいかぬといふ仏を敬ふ心持であります。熊谷直実は愚鈍な人でありましたが、法然上人の教を聞いて仏の本願を信ずるやうになりまして、京都を立つて郷里鎌倉に帰ります途中、極樂が西方にあることを聞きましてその方面にお尻を向けてはいかぬといふので、後向きに馬に乗つて帰つたといふことであります。これも仏を敬ふ心持であります。  仏教では我々の肉眼で見ることの出来る世界と、心で見ることの出来る世界との二つを説くのであります。肉眼で見る世界は何も彼も自分といふものを中心に見てゆくのでありますから、自分の欲を満足させるやうに取扱つて行くのでありますが、その結果は常に人々を不幸に導くのであります。心で見る世界は内を観てゆく、内観の世界でありまして、この世界は極めて自由な穩かな世界であります。それを無碍の一道と申して居るのであります。少し礙りのない、極めて広い世界でありまして、それを仏教では仏の光明に照らされてゆくと申すのであります。光明とは仏の智慧をいふのでありまして、光明に照らされるといふのは仏の智慧を得ることを申すのであります。親鸞聖人はこれを仏智不思議と申して居られるのであります。人間は常に高振つた心持で生活して居りますから、この仏智不思議の世界に出ることが容易でないのであります。内へ入つて考へて見ますると、何事も不思議であります。第一生きて居ることが不思議であります。どうして生きて居るか、どうして生れたか、なぜ死ぬるか、死ぬることが決つて居れば生れなくてもよささうなものだ、何のために死に、なんのために生れるか、内へ入つて考へてみますると共に不可思議であります。  哲学は人生のいろいろなことを説いて居るが、結局わかりませぬ。どんな偉い哲学者でも人生が判るわけはありませぬ。自分で考へて生れる人はない、生れやうと思つて生れた人はないのであります。自分で自分がわかつたときには巳に生れて居つたのであります。何のために生れたかは判らない、何のために生かされておるかわからぬ、実に不思議であります。自分の心の中に入つてよく見ますると、不思議な力のはたらきによつて生かされて居ることがわかるのであります。さういふ心持になつたときに仏を拝むという心持が出て来るのであります。それは自分の主観であります。自分の心が仏の心と一とつになつて、物に囚れない自由な心の境地がひらけて来るのであります。その境地を不思議と感ずるところに仏を拝む心持が出てくるのであります。  庄助がある時筑前の赤間関へ行くとき、父は雨上りで道が悪るいから高下駄を履いてゆけといふ、母親は道は乾いてゐるから草履をはいてゆけといふ。庄助は兩親何れの命に背くわけにゆかぬから、一方の足には下駄を履き、片一方の足には草履を履いて出かけたといふことであります。これは外から見ると馬鹿げたことでありますが、庄助の心持からいへば兩親の命に背かぬといふこの態度は、仏を敬ふといふ心持から出て居るのであります。他の人から嗤はれやうがどうしやうが、兩親の命には絶対服從してゆくといふ心持は、仏といふ大きなものに服從してゆくといふ心持から出て居るのであります。  庄助は村内に縁づいて居る妹の家へ父親を背負つて行きました。妹は庄助が心配さうな顔をしておるのでどういふわけかと聞きますると、庄助は、父親が老衰してだんだん軽くなつた、これでは命も長くないと思はれるので、それを悲しんで居ると申しました。庄助のことは筑前の良民伝に詳しく書いてありますが、或る時領主が江戸に出られる時、庄助は道の端へ出て、私に御苦労をかけるといつて地に伏して国恩の貴さを思つて礼拝したといふことであります。国恩を謝するといふことは今申したやうな心持の起きておる人には必ず出る心持であります。庄助は、毎朝牛小屋へ行つて、今日はどういう仕事をするからよろしく頼むといひ、晩には牛小屋に行つてその日の苦労を謝すること、丁度人間に対するやうであつたといふことであります。田の仕事を終へて家へつれて帰るときには、牛の重荷を取つてやらうといふので、鞍を自分で背負つて帰つたといふことであります。これは宗教の心持の起きて居る人には必ず起きて来る心持でありまして、それは要するに不可思議を感じてそれを敬ふ心持から出て居るのであります。  一体人間といふものは自分を強く出しますから、自分の思ふやうにならねば不平をいふ、不幸を悲しむ、無暗に欲望を出して心を悩ますものであります。さういふ心持を持つて生活してある我々でありますから、与へられた体、与へられた心を持つて、与へられた世界に住んで居るといふことがわかりませぬ。目の前にあらはれたことを見て不幸と感じ禍と感ずるのでありますが、その実与へられた体を持ち、与へられた心を持つて与へられた世界に住んで居ることを考へますれば、周囲のすべての事柄は凡て我々に与へられた恵みであることは明らかであります。自分で水を作つて飲むのではない、自分で火を作つて物を煮るのではない、皆与へられたものであります。我々はこの幸福に感謝して然るべきものでありませう。この根本の考へが足りませぬから自分の思ふ通ほりにならなければすぐ腹を立てる、それは自分に与へられた恩恵に背く心持であります。病気は確かに不幸でありますが、それも与へられたものであります。与へられたものであれば、病気も又その人には恵みであります。不養生すれば病気をするぞといふ教訓を含むでゐる、慎ませてやらうといふ自然の恩恵でありませう。それに対して彼れ此れと思うのは自然の恩恵に背く心持であります。ものの値打を明かに知らない心持であります。我々は苦しみの中にある、しかしながらその苦しみを離れやうとするから益々苦しむのでありまして、苦しみの中に入つてそれに忍從してゆくところに人間の生活があるのであります。人間も自然の一部でありますから、自然に随順してゆくのが人間のほんとうの道でありませう。与へられた体と心とを持つて与へられた世界に生きて居る以上、その世界に随順してゆくのが当り前でありませう。  芸州の狩留家というところに、六十歳になつて頭を剃つて浄念と名をかへた源蔵といふ貧しい百姓がありました。油を絞つて僅かな金で兩親を養つて居りましたが、両親も浄土真宗の信者で宗教の心持の強く出た人でありました。源蔵も若い時から浄土真宗を信じ、人から尊敬されて居りましたが、或る金持が、その貧乏を憐んで著物を拵へてやつたところが、二、三日して源蔵はその著物を賣つて金に代へ、お寺へ差出したということであります。又或る同行が源蔵の生活を見て如何にも気の毒だと思ひ、牛を一匹買つてやりました。源域はそれによつて生活も樂になり收入も増しましたが、その牛が病気になつて死にました。源蔵は牛の病気中、因縁あればこそ長々と自分のはたらきを助けてくれた、せめて一夜なりとも介抱してやらうと牛小舎へ入つて介抱しました。さうして、如来様の本願は十方衆生をということであるから、この牛も十方衆生に漏れないのであるから、御縁があれは御法義を聴くことができるであらうと、牛の頭を撫でて夜もすがら御法義の話をしたといふことであります。宗教の心持が強く出て居る一例であります。又、源蔵が庭を掃除して居りますと蛤が落ちていた、そこで元の海へ放つてやり度いと思つたが、海へは四里もあるので行くことが出来ない。そこで、その方も如来の本願に漏れ給はぬ生物であるから、よく合点して浄土に參つて呉れと言つて仏壇に供へたのであります。ところが、それを見た倅が、それは膏薬を入れた貝だといつた笑話があります。しかしながら宗教の感情からすれば実に貴いことであります。  源蔵は六十歳で剃髪致しまして禅門に帰依し、名を浄念と改めたのでありますが、その後浄念の言つた言葉を見ましても仏を敬ふといふ心持が強く出て居るのであります。生れつき柔和な人でありましたから、かりそめにも人の悪口を言つたことはない。若し人が悪口をいつて居るのを聞けば、少しも取り合はないでただ念仏を申して居るといふ風であります。頼まれまして広島の或る寺の世話をしておりましたが、当時有名な恵海師が浄念に向つて、世の中には茶飲み坊主といつて、お寺の世話をするやうな人に茶を呑み歩くものが多いが、お前はどうだとひやかしたのであります。普通の人であれば腹を立てるのでありますが、浄念は「仰せの通り私は茶飲み同行でござります。何も判らぬ、どうすることも出来ぬ自分のやうなものを憐んで阿弥陀様がお助け下さるといふことを聞いてただ喜んで居るだけでございます」と申しました。実に穩やかな心持であります。  大阪の郊外の神崎に、油屋庄兵衛といふ仏法を深く信じて居る人がありました。財産家でありますから、商賣をしなくてもよい人でありますが、大きな荷物を負つて神崎から大阪へ商ひに出ますので、人々は有財餓鬼だと言つて居りました。下男も大勢使つて居るのに、主人が重い荷物を負つてそんなことまでしなくてもよいではないかと申しますると、庄兵衛は、私は先祖のお陰で田や畑も持つて居り、別にこんなことをしなくてもよいことでせうが、我身をつめつて人の痛さを知れといふ諺もある通り、かやうな生活をすることによつて貸乏な人の生活がわかつたやうな気がします。これによつて少しは情け心も起きて来たやうな心持が致します。又先祖の恩も知ることが出来、又仏祖親鸞聖人が法を弘めるために御苦労下さつたことも判るやうな気持がします、と申して人々の悪口に対しては少しも不平を言はなかつたさうであります。支那人の古い言葉に「我争へば人も亦争ふ、極力争ふと雖も未だ必ずしも得ず、我讓れば人も亦譲る、極力譲ると雖も未だ必ずしも失はず」これは支那人の修身の教でありますが、実際さうでありませう。お寺の住職が庄兵衛の家へ行くと、自ら住職の草履を直すので、住職が、そんなことは奉公人のすることだから、主人のあなた自らしないやうにして呉れといふと、庄兵衛は、私が心易だてに帰依を失ふやうなことがあつては仏祖にすまぬ。私に無禮なことがあると、家内眷属のものが皆禮儀を失つてしまふ、仏祖が身を粉にし骨を砕いたその御苦労を思ふとどうしてもせずには居られませぬと言つて、応じなかつたさうであります。  かういふ心持は、前から申しますとほり自分といふものを全く空しくして、そこに起きてくる感情がもとになつて居るのでありますから、さうしなければ気がすまぬ、なんのためにさうしなければならぬかわからぬがさうせずに居れた、つまり不思議の力に動かされて居るのであります。これらの人々は英雄豪傑でもなければ、学者でもありませぬが、宗教の感情は皆おなじことであります。即ち或る大きなものに從ふて行くといふ心持は、自分といふものの値打をなくしなければ決して起るものではありませぬ。その感情に導かれてゆくところに人間の生活が正しくなるのであります。宗教は学問で教へられるものではありませぬ、又かうしなければならぬと説くものでもありませぬ、その心持を起すのには我をなくせよと説かれて居るのであります。釈尊以来この自我意識の値打を否定する方法をいろいろに説かれてあるのであります。 (昭和十三年十二月十七日)  他力を感ず  徳川時代江戸の聖堂といふ漢学の大学の昌平坂の総長に佐藤一齋といふ先生がありました。松平能登守の家来でありまして、一齋先生の父及び祖父も家老職でありまして、一齋先生も後にはそれを嗣いで家老職となつた人であります。若い時に岩村家の殿様の三男と一緒に林大学頭の所で学問をしたのであります。当時の官学は朱子学と申しまして、支那の先嘉の学問を政府で公認して教へて居りました。ところが一齋先生は王陽明の学問をやつたのであります。朱子学は人生哲学でありましたが、陽明学は心の学問であります。これを公にやりまするとお咎めがありますので、一齋先生の教へ方を、表は朱子学、裏は王陽明学と人々は申して居つたと言はれて居ります。安政年間に八十八歳で亡くなられたのであります。一齋先生が自分の考へを書かれたのが「言志録」となつて殘つて居ります。四部ありますので言志四録と言はれて居ります。「言志録」は実によい文章でありまして字句も練つてありますし、深く考へた思想が盛られております。西郷隆盛も陽明学をやつた人でありまして、一齋先生の言志録を抄いて「言志録抄」といふものを作つて居られるのであります。その内に、「人を相手とせず、天を相手にせよ、天を相手にして己を尽し、人を咎めず我が誠の足らざるを憂へよ」とありますが、これは人間は仕事をするにも天を相手にして人間を相手にせずといふ「言志録」の中の言葉を取つたのでありませう。「言志録」を読んでみますると、かういふ世を渡りますのに役に立つ言葉が沢山に書いてあるのであります。その中には仏教のことをあまりよく言つて居らぬのでありますが、それは当時の人が仏教を排斥したからでありまして、必ずしも咎むべきではありませんでせう。  「人或はいふ、外物禍をなすと、愚は即ちいふ外物必ずしも禍をだすにあらず、蓋し我自ら禍をなすたり」これは全く宗教の考へであります。普通の考へでありますと、外のものが禍をするのでありますが、自分に禍をなすものは全く自分であります。金が無ければ金が欲しいといふ風に外のものが自分の心を煩すやうでありますけれども、実際は自分を煩すのは自分であります。「人生れて貴賤あり、貧富あり、又各々その苦樂あり、蓋し苦所よりみれば何か苦しからざるものなからん」苦しい心をもつて世の中を眺めれば何もかも苦しいといふ意味であります。「樂所より之を見れば何れのものか樂しからざるものなからん、しかれど此苦樂も尚かつ外にあるものなり」よく考へてみますると、さういふ苦樂は結局外のことを言つてあるのであります。貧乏だからといつて必ずしも苦しいものではない、金があるからといつて必ず樂ではない。昔の偉い人は樂は心の本体なりと言つて居りますが、人間は樂しいのが本来のものであります。それを彼れ此れと自分で計ひをするから苦しいのでありまして、その計らひを除けば総てのものが樂しいのであります。苦しいとか樂しいとかと申しましても、結局自の心が樂しければなんでも樂しい、自分の心が不愉快であれば何でも不愉快である、全く自分の心にあるのであります。「中庸」に「処其位」とありますが、それは自分に応じた生活をそのままにして行くことを申すのであります。近頃のやうに学問が進んで来まして、仕事をするのにも如何にすれば力を経濟的に使ふことが出来るかといふので、心理学の上などからいろいろ研究してやるのでありますが、かういふことは末であります。先づ与へられた仕事に安んじて外に望を起さないといふ心が起きて居なければ、如何に方法をよくし、労働力を経濟的に用ゐましても駄目であります。面白くない気持でやつた仕事はすぐ疲れるものであります。心が仕事に興味を感じてそれを樂しむといふ風に、与へられた仕事を喜んでするといふことが大切であります。「言志録」には「例へば書を読みて夜中に至る、人之を苦といふ、しかれども我は即ち之を樂しむ、世俗の好む処の淫猥花柳の如きは我即ち之を厭ふ」とありますが、まことにその通ほりでありませう。  明恵上人は鎌倉時代の人でありますが、自分の一生を釈尊のやうにしやうと考へまして、食ふことも、寝ることも、起きることも、すべて戒律を保つてやられた人であります。妻帯もされなかつたし、酒も飲まれなかつたのでありますが、ある時リューマチスのやうな病気に罹られたので、酒を薬にして飲まれては如何かと勘める人がありましたが、明恵上人は、自分が薬のつもりで山に酒を入れれば、外の人も薬に名を借りて山へ酒を入れるやうになるから飲むことは出来ないと申されたことがあります。禅宗では「不許軍酒入山門」と石の柱に書いてありますが、明恵上人の居られました栂尾のお寺の石の柱には「不許飲酒」と書いてあるのであります。これは仮令山の中でも外でも絶対に飲んではならぬといふのでありまして、実に苦しいことでありませう。  曹洞宗の道元禅師は越前の永平寺に居られた人でありますが、金錢のことなどは毛虫のやうに嫌つた人であります。鎌倉将軍が永平寺に金を寄附されたのを弟子が取次いだところがひどく怒つてその弟子を破門され、その弟子の坐つたところを四尺程掘つて土を捨てたといふ話があります。道元禅師の生活の規則が今でも永平寺に殘つて居るのでありますが、道元禅師は朝起きて顔を洗ひ、大便小便に行く、それにも厳格な規則がある、顔を洗ふにも法がある。禅師はそれを一々やられたのであります。これは、他の人にはとても出来ない苦しいことでありませう。  播州の盤珪禅師は、あるとき弟子が帰依のためにやはらかい御飯を炊いてさしあげたところが、禅師は怒つて飯を喰はぬといい出した。師匠と弟子とを飯で区別する、その心は法の薬だといふので飯を三、四日も喰はなかつたさうであります。又或時汁をさしあげたが大変美味しかつたので、禅師がそのわけを聞くと小僧が禅師のお汁は別に作つたことが判つた。それを聞いて禅師は又喰はぬといひ出したのであります。別に作るとは自分を殺すもおなじことであるから喰はぬと言ひ出したのであります。  又昔は足袋を紐で結んだのでありますが、それが解けない、そこで小僧が解いて差上げやうとしたら、自分は生れてから人に足袋の紐を解いてもらつたことはないといつて、小僧を突き飛ばしたといふ。実に厳格な生活をせられたのであります。その生活によつて自分の心の紊《みだれ》を直さうとされたのであります。  「怠惰の冬の日はなんぞその長き、勉強の夏の日はなんぞその短き、長短は我にあつて日にあらず、待つことあるの一年は何ぞその久しき、待たざるの一年は何ぞ速かなる、遅速は心にありて時にあらず、この種類の言葉は「言志録」の中にたくさんにあるのであります。一齋先生は儒者でありますが、その心持は全く宗教的になつて居られたのであります。「人は正に自から我心を禮拝し、自から安否を問ふべし、我心は即ち天の心、我身は即ち親の身なるを以てなり、之を天に事へるといふ、之を修身の法といふ、一燈を提げて暗夜を行く、暗夜を恐るることなかれ、ただ一燈によれ」煩悩を心配するに及ばぬ、ただ仏の光を頼み、それに安んぜよといふ意味であります。自分の小さい力は頼みにならない、一切を挙げて大きな力に信頼して行くといふ意味であります。親鸞聖人の宗教は全くそれであります。我々は暗夜を歩いて居る、その歩いてゐる時に南無阿弥陀仏といふ燈を持つて行けば暗夜である煩悩を心配する必要はない、ただ南無阿弥陀仏の力によれといふのであります。自分のはからひをやめたときに感ずるところの大きな力を親鸞聖人は仏の本願と申して居られるのであります。  一齋先生は「人事は期せざる所に趣く」と申して居られまして、人間はいろいろのことをして居るが、大抵は自分の期待せぬ所にゆくのが事実であります。「人家の貧富は必ず天にかかり、我一人に掛るあり」とありまして人は金持であつても、又貧乏であつても、それは天に掛ることもあり、又自分に掛ることもある、しかしながら自分に掛るものは遂に天に掛るのであつて、世に返してゆくには此理を知つておれば苦悩の一半は除かれると書いてありますが、私は一半でなく全部除かれると思ふのであります。我々が、自分ですることを自分の力のみで出来ると思ふのは間違いでありませう。エマリンの言つた通ほり、大工が斧をもつて木を切る時、それが自分の力のみで切れると思つたら大きな間違いであります。斧には目方がある、その斧の目方のことを考へないで、自分の力だけで切れると思ふのは大きな間違いであります。人間のすることは遂に人力にあらずであります。いろいろの原因が集りましてその結果としてものが出来てくるのでありますから、その内には自分の力もあるでありませうが、それだけではありませぬ、他の力も加つて出来るのであります。佐藤一斎先生は学者でありますが、宗教の出て来る心持は愚夫愚婦とおなじことであります。  宗教の説明にはよく死ねることを問題にして居りますが、宗教の本質はそのやうなものではありませぬ。昌平坂の総長であつた林大学頭は維新の前まで居られた人でありますが、ある時京都に上られて用事が済んで江戸に帰られる途中、江州の水口で香樹院講師に會はれた、その時林大学頭は、私は信者であるから儒学を以て生活してゐるのでありますが、勧善懲悪を説くところの仏教は私には要らぬけれども、世の中には愚夫愚婦が澤山居りますから、さういふもののために役に立ちませうと言はれた。その時香樹院講師は、さういふことをいふ人が地獄に墮ちるのだといはれたということであります。この話は実に徹底した話であります。自分は儒学をやつて居るからそれで大丈夫だといふのは道徳の心持が徹底して居ない証拠であります。考へれば考へる程道徳に反いた心持であります。自分の心を道徳の目を以て考へれば必ず罪悪といはねばならぬのであります。一齋先生の「言志録」を読みますると、先生は儒学を説かれたのでありますが、その心持は宗教であります。自分のはからひを捨てて自から感ずるところの大きな力が存在して居ることを認識して居られるのであります。 (昭和十四年一月十七日)  生を樂しむ  私は、生活が即ち宗教でなければならぬといふ意味を徹底させたいのであります。生活する上に宗教の精神によつて生活を営んでゆくといふことは極めて緊要のことであります。  一体人間の生活に必要なものは衣食住であることはいふまでもありませぬ。その内でも食物は生活を維持するのに直接必要なものであります。昔は周囲にあるものを取つて食べましたから、何等人間の考へを用いないですんだのでありますが、それも永く続くわけはありませぬから、何時までも食物に不自由をしないやうに農業をやり出したのであります。さうして何時でも食物が採れるやうにしました。その食物に料理が用いられるやうになりまして、食物に関する詳しい学問迄出来てきました。さうして榮養をやかましくいふやうになりまして、蛋白質、脂肪、含水炭素を主たる食物として、食物の値打をそれによつて決めるやうになりました。それからビタミンを見付けました、食物の性質を究めて栄養学をやるやうになりました。それらは物としての食物についてであります。畢竟科学的な思想であります。単に科学的にみれば、人間は生きた機械であるといつて差支ありませぬ。仏蘭西の医者で哲学をやりましたラ・メトリー氏は、人間は生きた機械であると申して居るのでありますが、このラ・メトリー氏の説が独逸へ来て、種々の方面で応用され、経濟の方面にもその説が移つて来まして、日本にもこの思想が入つて来ました。それを唯物論と申しまするが、本当の唯物論ではありません。さういふ意味の唯物的の考へは科学の方にはないのであります。生きた機械を運転するには油が要るのであります。機械がはたらけば、力となつて出て来る、それは熱であります。食物は石炭とも言へるのでありまして、燃えて熱を出せば力に変るのであります。さうしてこの食物によつて何程の熱が出ると勘定出来ますから、それをもととして人間は一日幾らのカロリーを採ればよいといふことになるのであります。昔はその熱量が少くて済んでゐたところが、その後カロリーが足らぬから食物を改良しなければならぬといふ説が一時盛んになりましたが、又方々の学者がしらべました結果、今日は多過ぎるといふことになつてゐるのであります。かういふ具合に我々の生活は科学的に考へやうとして営んでゐることは明かでありますが、食物に就てだけ考へて見ましても、単なる科学的の考へだけでは十分でありませぬ。物質だけを見て精神をみないといふ欠点があるのであります。食物には蛋白質がこれだけ脂肪がこれだけ、含水炭素がこれだけと決めてありましても、それは体内に入つて消化吸収しての話であります。それには好む食物とか好まぬ食物とかによつて非常に差があるのであります。好きな食物ならば科学的に成分が少々劣つて居りましても差支ない、反対に厭な食物は科学的に成分は十分でも、思つた程の効果はありません。それ故に、どうしても精神の方面を見なければならぬのでありまして、私のお話致す要点はそこにあるのであります。  今日の我々の生活は、申すまでもなく科学の考へによらざるを得ぬのであります。電車でも汽車でも電気でもすべて然うであります。しかしながらそれはただ物質の方面だけを見たのでありますから、そこに精神的方面も見なければ人間の生活が十分であるとは申せぬのであります。人間がこの世に出て来る、これは自然の法則であります。出て来べき法則の下に出て来るのでありまして、これは生物界の一とつの事実であります。しかしながら生れて来てその生を樂しむといふことは人間の精神によつて出来ることであります。それは自然の法則ではありません。この生を樂しむ心を仏教では仏に成る道に這入る第一歩であると申すのであります。  恵心僧都の「横川法語」と申す書物に、生を樂しむといふ精神がはつきりと説明せられて居るのであります。それは地獄・餓鬼・畜生の三つの悪るい方の道を離て、人間に生れたことは真に大きな喜びである、身は卑しくとも畜生には劣らない、貧しくとも餓鬼には勝つて居る、心に思ふことは浅ましくとも、地獄には比べものにならない、それ故に人間に生れたことを喜ぶ、といふ意味が書いてあります。今の人々はさういふ風に自分といふものを省ることが少いのであります。道元禅師は「人身受け難く、仏法に遭ふことは稀である、今生きて居る時に自分を得度したければ、いづれの時にか度することが出来やうぞ」と、人間は内省の生活をしなければ駄目だといふ意味のことを申して居られるのであります。人間が生れるといふことは自然界の現象であります。自分から期して生れるといふ人はありませむ。しかしなから恵心僧都のやうな心持になつてみますると、実に大なる幸でありませう。  昔、山崎闇斎《やまざきあんさい》といふ有名な儒者がありました。その頃或る偉い殿様が自分の所へ出入する者に向ひまして、学者を招聘したいと思ふが誰がよいかとたづねた、すると、それは山崎闇斎先生がよろしいと申しました。殿様は早速来るやうにとの使ひを出したのであります。ところが闇斎先生は「乞ふ、道を問はんとすれば即ち先づ来りみよ」と申しました。それを聞いた殿様は、世の中に信者と称する者は多い、普通の儒者は東奔西走してその学を賣らんことを望んでおる、しかしながら、それは道に合はない、昔の書物に、学問は行つて学ぶべきものであるとしてある、山崎こそ本当の儒者であるといつて大変に感心をされて、それから山崎闇斎を訪ねて学問をされたのでありますが、この殿様も道を重んずる人であつたのであります。  山崎闇斎先生は後に會津の保科正之侯に仕へて賽師の禮を以つて遇せられ、世に名を出した人でありますが、ある時會津侯が闇齋先生に向つて「先生には何か樂しみがあるか」と聞かれたのであります。すると闇齋先生は「私には三つの樂しみがあります。その一とつは、凡そ天地の間に生を享けてゐるものは澤山にありますけれど、その内で萬物の靈長である人間に生れたことが一とつの樂しみであります。又もう一とつの樂しみは、世の中は治まると思へば乱れる、然るに今慢文の世に生れて、書を読み、道を学び、昔の聖賢と膝を交へて話をすることの出来るのが一とつの樂しみであります。もう一とつの樂しみは申上げ難い」と申しました。會津侯は、自分は先生に道を聞いているのであるから遠慮なく教へて貰ひ度いと言はれました。そこで闇斎先生は、さう仰せられるならば申上げます「もう一とつの樂しみといふのは私の最大の樂しみであります。それは私が卑賤の家に生れて、大名の家に生れなかつたことであります」と申しました。會津侯が重ねてそのわけを聞かれましたので、闇齋先生は詳しく説明をされたのであります。大名といふものは權勢の家に生れ、婦人の手に育つて、学問を勉強せず、ただ遊戯に耽つて、たとへ悪るいことをしても周りのものが主人の意を迎へるために褒める、さうしてすべきことをせぬ、これでは人間と生れた本性が全くないことになる、私は幸ひ卑賤の家に生れまして、小さい時から辛苦を嘗め、長じて、学問を習ふ時には、教へて呉れる人もあり、又教を乞ふ人もあつた、さうして益々智慧を研いて立派な智慧を得ることが出来ました。これは卑賤でなければ出来ないことであります。それ故に卑賤に生れたことが私の大きな樂しみであると申しました。會津侯はそれを聞いて、まことに真実な言葉であると大変感歎されたさうであります。闇斎先生は卑賤に生れたといふことに値打を認めて居られたのでありませう。孔子の言葉が「論語」に出て居りますが、その内に弟子の子貢が「貧にして、而して諛《へつら》ふことなく、当にして而して奢ることなきは如何」と孔子に向つて尋ねますると、孔子の曰く「可なり、しかりと雖も未だ貧にして樂しみ、富んで禮を好むものに若かざるなり」と答へました。大抵のものは貧富に溺れ、自分を守る所以を知らないで必ず諛《へつら》ふか歎息をするのであります。貧乏人は利欲を得る為めに諛《へつら》ふ、金を持つて居れば必ず奢る、さうして自分を守ることを知らない、貧にして諛《へつら》ふことなく、富んで奢ることのないのはまことに結構だけれども、貧にして樂しみ富んで禮を知る方がもつとよいと孔子は言はれたのであります。樂しむといふのは、心を広く禮を裕にして、貧しさを忘れるのであります。禮を好むといふのは善に処することであります。諛《へつら》ふことと奢ることとは、自分を守る所以ではないのであります。  藤原俊成の歌に「あるときはあるに任せて過ぎてゆく処無きときはなきに任せて」といふのがありますが、金のある時はあるに任せてそれ相応に世を渡り、ない時は無きに任せて世を渡つて行けといふ意味であります。俊成は定家の父であります。定家は有名な歌詠みでありましたが、この父の歌を変へて「あるときはあるに任せてすぎてゆく、又なきときはえこそ任せね」と詠みました。金があつて何事も自由であれば心に任せて世を渡つて行くことが出来ますが、貧乏であるときには貧乏に任せることは容易でありませぬ。東西に奔りまはつて身を苦しめるでありませう。さういふ人に向つて、貧富苦樂は浮雲の如きであるといつても、納得するものではありますまい。  エマリンは米国の宣教師の家に生れまして、宣教師になるためボストン大学を卒業したのでありますが、卒業してからキリスト教の教が自分の気に入らない、丁度仏教のやうな考へになりました。世の中は神が造つたのではない、神は見ることが出来ない、神の力は感ずることが出来る、それが慈悲だといふ考へでありました。その為にキリスト教會から追ひ出されまして、宣教師をすることも出来ず、ボストン大学の文学の講義をして居りました。さらいふ精神でありますから、文学の講義は殘らず宗教であります。その文章が実によい文章でありまして、日本にも早く參りまして、中学などで教科書に使つて居るところもありますが、それは「自然論」と申す書物であります。そのエマソンの言葉に「貧乏といふことは金の無いことを苦しむことである」といふのがあります。さういふ思想は我国にも昔からあるのでありまして、徳川時代に出来ました「広子教」や「実語教」にも書いてあるのであります。心に不足を訴へるのが貧乏であります。金があつても足らぬと思へば貧乏であります。貧乏は物が貧しいといふことを感ずる人の心を申すのであります。問題は心一とつであります。同じ状態にありましても、それを貧しいと感ずる人もあれば感じない人もある、貧しいと感ずることはその人の責任でありませう。貧しいにしても貧しくないにしても、それは自分に与へられたものであると考れば、与へられたものの値打がありませう。宗教の心によつてものの値打をみることが出来るのであります。  先程申しました食物にしてもさうでありませう。ただ食物の物としての意味を考へてゐると間違ふのであります。水戸黄門光圀公は、百姓が辛苦をして米を作つてくれたその百姓に禮を言はねばならぬといふので、蓑を著た百姓の人形を造つて、それを御膳の側に置いて食事毎に先づ人形に米粒を捧げ拝んで御飯を食べたということであります。今日でも水戸に参りますとそれに模した人形を賣つて居ります。昔から浄土真宗の信者には食事の時に拝む人がありますが、食物に非常な恩恵を感じて禮をいふといふことは決して悪るいことではありませぬ。自分といふものを中心に考へることが巳まれば、自分の周囲の一切のものが自分を助けるものであるといふ感じが起きて来るのでありますから、食物に対して拝むといふ態度が出て来るのでありませう。 (昭和十四年二月十七日)  自然法爾  自然法爾と申すのは宗教の言葉でありますが、自はおのづからといふことで行者のはからひでないこと、然はしからしむる、又、法の徳の故に然らしめるといふ意味でありまして、我々の持つてゐる得手勝手の考へをやめたときに感ずるところの心に導かれて生活してゆくことであります。妙好人というのはさういふ心の十分にあらはれた人のことを申すのであります。  善太郎という人も、さういふ心持がはつきりとあらはれてうるはしい生活をした人であります。或る時三、四人の同行と或るお寺に參詣致しました途中、同行の一人が、自分達も善太郎さんのやうに有難い身になり度いものだと申しました。善太郎はそれに答へて、俺の真似をしたらそれこそ大変だ、この善太郎は地獄行きぢや、それよりは如来様に助けて貰ひなさいと言つたのであります。これは極めて簡単な話でありますが、善太郎の宗教の心持がよく出て居るのであります。自分の得手勝手の心持を止めて、自分を驕らずに、自分ではうるはしい生活をして居らぬといふことを知つて居りますから、人が褒めれば褒めるほど益々恐縮したのであります。かういふ風な態度で生活をしてゆくことが宗教生活でありませう。我々の生活は申すまでもなく智慧のはたらきをもととして居るのであります。学校とか家庭とかでいろいろのことを学びまして、それに本づきまして生活を続けて居るのであります。しかしながらただ寝て起きて飯を食つて居るといふやうな生活ならば、犬や猫と余り変らぬでありませう。人間としては、第一に自分のためにもつともつと考へなければなりませぬ、第二に自分以外の人のためにも考へなければなりませぬ、第三には社會の為めにも考へなければなりませぬ、又国家のためにも考へなければなりませぬ。すべて自分の仕事は与へられた仕事であります。自分の心だけをおもくみて居りますと、好む仕事とか好まない仕事とかといふことがありませうが、与へられたからだ、与へられた仕事と思ひますると、おのづから力を尽すでありませう。善太郎の心持はさういふ自分のはからひをやめた無我の心持でありますから、何事にも有難い心持が起きるのであります。  或時善太郎が京都の本山に參詣し石州への帰途、芸州で日が暮れたので平常から懇意にして居つた家に泊めてもらつて、翌朝禮を言つて出発したのであります。その後で家の人が気が付いてみると、袷衣が一枚そこにあつたのが無くなつて居る、どうしたのだらうかと騒ぎました結果、下女が申すには、善太郎が持つて行つたといふ、家族のものも皆それを信じたのであります。翌年その家の主人が石州の東の方の有温泉に療治のために行きまして、善太郎の家を訪問して散々に悪口を申したのであります。善太郎としては何故かわからなかつたのでありますが、段々話をして居りますうちに、袷衣が無くなつたことがわかつたのであります。そこで善太郎は、まことに悪るいことを致して相済みませぬと申して仏壇の引出にありました金を出して、それを袷衣の代りに償つたのであります。その人は善太郎が抗議を申込まないで直ぐに金を辨償したのを見まして、いよいよ善太郎が盗んだものと信じたのであります。さうして善太郎といふ人は有難い人でものを盗むやうな人でないと思つて居つたが、人間は見かけによらぬものだと心に思ひながら、滿足な挨拶をせずに家を出やうとしたのであります。すると善太郎は土産にといつて團子をその人に与へたのでありますが、それにも少しの禮も申さずに善太郎のもとを去つたのであります。さうして家へ帰つてからその團子を出して家族の者を集め、これは善太郎のくれた團子であるが、善太郎には罪はあるが、此の團子には罪がないと言つて、家族一同で頒け合つて食べたのであります。ところがそこに居ました女中がそれを食べませぬので、どうして食べないかと主人が問うたのであります。すると女中は、まことに濟まぬことをしました、袷衣は私が盗みました。この團子を戴くことは出来ませぬと一部始終を告白したのであります。主人は非常に恐縮したのであります。この時の女中の心は、善太郎の態度をみて自分の心の中に自からにして起るところの宗教の心持といふものに自分を照してすべてを白状したのでありませう。その主人は早速石州の方を向いて、善太郎さんどうか赦して呉れと非常に謝つたのであります。それから間もなく又石州へ行きまして善太郎を訪問して謝つたのであります。斯様なことを聞きまして我々が感じますることは、善太郎が己に罪のないのにも拘りませず、人から盗んだといはれてまことに悪るいことをしたといつて金を返すといふ心持は、自分の得手勝手な考へを離れたときに自から起る心持であります。所謂自然法爾という心持であります。かういふ心持であればこそ女中にすぐに自分がわるかつたといふ心持が起きて来るのは当然でありませう。所謂負けて勝つといふ心持、盗んだというのだから金を拂つておけばそれで濟むといふのとはまるでちがふのであります。  大和国の田舍に浄土宗の信者がありました。浄土宗は法然上人の説かれた教でありまして、罪の深い我々は自分の力によつては如何ともすることが出来ぬから、仏の本願に乗じて念仏を申して極樂往生するといふ教であります。三十一歳の時にその浄土宗の教に依りまして十戒を授けられて、十方の諸仏に悪るいことは致しませぬと誓をしたのであります。家へ帰つてよくよく考へてみますると、取り返しのつかぬことをした、明日からその誓の通ほりに守らなければならぬが、とても自分は人間の掟が守れさうにない、それが守れなくては諸仏に嘘をいふことになる、戒律を破る罪人になるといつて非常に困つたのであります。この人の妻女は浄土真宗の教を奉じて居りましたので、夫の困つて居ります有樣を見て申しますには、凡夫として何一とつ守れるものはない、あなたの心配されるのは無理はない、明日から浄土真宗の教を聞いたらどうかと勧めたのであります。そこでその主人も困つて居るときでありますから、早速淨土真宗の教を聞いたのであります。如何なる罪の深いものでも仏の慈悲は広大であるからお助けになるといふ、それを聞いて大変に有難くなり、又心も安らかになりまして、それから浄土真宗の教を聞くやうになつたのであります。さうして次第に自分で解つた心持になつたのであります。この高慢な心は人間が仏に成れない最もよくないことであります。泉州の船尾の有名な物種吉兵衛といふ人がありましたが、ある時その吉兵衛に逢ひまして自分が浄土真宗の教のよくわかつたことを自慢したのであります。それを聞いて吉兵衛の親爺が、お若いのによく聴聞されたと褒めたのであります。これは皮肉を言つたのであります。多くの人が宗教の話を聞けば心が清くなる、立派になるといふやうに思ふものでありますが、大きな間違ひであります。人間の心といふものは、どんなよいことを聞きましても直ぐその通ほりになるものではありませぬ。たとへば学校で楠正成の話を聞く、さうして楠正成のやうにならうと思ひましても成れるものではありませぬ。ただそれをよく聞いて、益々自分が偉くないといふことを悟ればそれでよいのであります。偉い人になり度いといふことは無益であります。偉い人になりたいならば、日々偉い人のやうな仕事をすると偉くなるのであります。即ち仏に成るやうな生活をしていると必ず仏に成ることが出来るでありませう。仏教は元来自分の心をよくするためのものではありませぬ。それは道徳の教でありまして、宗教は自分の心が如何にも罪の多いことを知る、さうすると自分の心を頼む心が無くなる、それが無くなつたとき、斯樣に罪の深いものを、お助けになるといふ教を聞けばよろこびの心が起るのであります。それが宗教の心であります。吉兵衛の聴聞をした後も前も変らないというのが宗教の本当の心持でありませう。吉兵衛の言葉を聞きまして、自分が浄土真宗の心持をよく悟つたと自慢した人も、自分の高慢の心持が分りまして、吉兵衛にどうか私の家へ来て仏教の話をして呉れと頼んだのでありました。吉兵衞は謙遜して聞き入れませんでしたが、その主人が家内が産後で出ることが出来ぬから家内に聞かせてやり度いと思ふとのことに、とうとう吉兵衛も承知したのであります。さうしてその家へ行くなり仏壇の前に坐つて「有難いことだ有難いことだ」と独言を申して他には何の話もしない。主人は元来法話をして貰うつもりで頼んだのでありますから、不思議に思つて居りましたが、妻女は吉兵衛の座つて居る後の方へ行つて、私は有難いとも何とも思ひませぬと申しました。すると吉兵衛は後を向いて、これはしたりこれはしたりと言ひました。斯様に少しも飾らぬのがほんとうでありませう。  三河にお園といふ妙好人がありました。ある寺の住職がお園にあはれて、お前の方は仏法は繁昌するかと聞かれた、するとお園は繁昌致しますと申した。住職は自分は一度お前の方に行つたことがあるが、仏法が盛んとは思はなかつたといつた。するとお園が、自分のところは盛んであるといふ、どういふ風に盛んであるかとたづねますると、朝から晩まで足るの足らぬの、よいの悪るいのといふやうな心が何時も起つて居る、斯様なものをお助けになることは実に仏法が盛んであると申しました。普通に仏法が繁昌するといふのはお寺の盛んなことを申すのでありますが、お寺と仏法とは異るのであります。お園のやうに学問のないお婆さんが実に徹底した心持を出すといふことは、宗教の心のはたらきが智慧を離れ、人間の考へを離れたものであるからでありませう。 (昭和十四年四月十七日)  物と心  今日の我々の生活は科学の研究によつて得たところの知識をもととしての生活であることは言ふまでもありません。我々は眼、耳、鼻、舌、身の五感によつて認識する。しかしその認識以外には何もないと考へてゐる人が多いのでありますが、考へるといふことは大切なことであります。自分が眼で見たから確かだと申します、顕微鏡で見たから確かだと申しますが、それは物を千倍にして仮の像を見てゐるのであります。毎朝太陽が東から出て西に入つて居るやうに見て居りますが、実際は太陽はじつとしてゐて地球がまはつてゐるのであります。正当に考へることの方が眼で見るよりはたしかであります。かういふことが日常生活の上に凡ゆる誤解を起すのであります。眼が健康であれば誰も同じやうに光線が入つて見えますから、同じやうにものを見てゐるといふ考へがありませうけれども、それは違つてゐるのであります。見る位置が違つて居りますれば皆違つて見える。私が見ておる光と他の人の見てゐる光とは違つておるのであります。眼の中に入る光線の角度が皆違いますから、確かだといつても事実は違ふのであります。かういふ間違つた思想が一般にひろがつて居ります。何でも実驗しなければならぬ、実驗すれば確かだと思つて居りますが、実驗しましても思索しなければ確かではありませぬ。  それは結局物の世界だけを見て心の世界を見ないからであります。物の世界では時間に於て限りがあり、空間に於て限りがある。今すぐロンドンに行けるわけはない、船に乗らなければ行けませぬが、心の世界では今すぐ行けるのであります。物の世界は時間空間に限りがありますが、心の世界は時間空間を超越して居るのであります。我々は常に物の世界の生活をして居りますから、どうしても行き詰る、時間と空間に制限されるのであります。心の世界によつてさういふことを解決することが、人間が生きてゆく上に極めて必要であるといふことを宗教が教へるのであります。  仏教では「三界唯一心」と申すのでありますが、唯一心といふのは自分の心でありまして、世の中は皆自分の心であると申すのであります。科学的に見てゆけばこの世の中は皆物の世界でありますが、宗教的に見てゆけば世の中は皆、心の世界であります。物の世界は心を外へ出すのでありますが、心の世界の世界は内へ入るのであります。心を外へ向けまするとすぐ障害に出會すのでありますが、自分の心の内に入りますれば障害するものは一とつもありませぬ。宗教の心のはたらきは自由で平和でありますから、物の世界の苦しみが除かれるのであります。科学的な考へだけを持つてゐる人は、実際そこにあるものを見て、それを取扱つてゆけばよいといふのでありますが、物だけを驗べてほんとうの値打がわかるものではありませぬ。たとへば人間を科学的に研究して値打のわかる筈はありませぬ。  人間は何のためにこの世の中に出て来たか、さうして行先はどうなるべきものか、科学的にいくら研究してもわかるものではありませぬ。物の値打を決めるのは心の問題であります。主観の問題であります。又人間は智慧のはたらきによりまして生活の向きだけはわかりませう、しかしながらそれを実行するのは宗教のはたらきによるのであります。普通の場合には自分の気に入ればするが、気に入らねばしない、宗教の心のはたらきがおきますると、如何なることをもよろこんで為すのであります。宗教の心のはたらきが起きねば人間の生活が自由に安樂に進められることはないでありませう。  今日我々が食ふものがない、腹が減つてたふれなければならぬといふことは、左程多くあることではありますまい。しかしながら、富を有しながら、学問はありながら、心が貧しくて餓えて居る人は澤山あります。騙りをしなければ生活欲を充たされない感じのする人も少くないのであります。仕事をしても駄目だ、縁の下の力持をするには及ばぬといふ人もあります。目に見えぬことに力を尽す気持になる人は極めて少いのであります。もつと憂慮に堪えぬことは、天地の間に滿ちて居る教を感受することの出来ぬ人がかなり多いことであります。さういふ人々が今日の社會の中等以上の地位を占めて居るのであります。生活難といふことは何処にあるのでありますが、それは結局食品だけの問題ではありませぬ。富の分配がよくなりましても、政治組織がよくなりましても、社會制度がよくなりましても、人間といふものが今日のままでありますならば、世の中に樂しむといふことは出来ないでありませう。英国では貧民問題には随分古くから手をつけまして、救貧法を作つて、所得額の或程度以下の人を救助するといふことを実行しました。すると、わざと収入を少くする人が出て来たのであります。千回以下の人を救助するといふと、千円の収入のある人は八百円にしました。そこで流石の英国も弱つて、貧民に金を遺るよりも教育することが必要だといふことを感じました、今日の英国の救貧法は教育法であります。  人間の社會でありますから、制度を変へましても、内を変へねば駄目であります。三界は唯心であるから、外の制度を変へても、心を変へねば駄目だと、かう申すのであります。人間の生活は苦しみが常であると申されて居りますが、実にその通ほりであります。それは要するに自分が苦しみをつくるのであります。金が無くても苦しみ、有つても又苦しむのであります。金を澤山持つて居る人が銭の格子のはまつた邸に住まひ、巡査に番をさせて居る、まるで監獄をつくつて入つて居るのとおなじことであります。さういふ生活が自由であるとは申せませぬでせう。人間が社會をつくつて居ります間には、種々の組織が出来まして、地位の高い人、低い人が出来ますけれども、高い地位に居るものの權力に対して表面上、人が尊敬することがありましても、心からさうすことはありませぬ。徳の高い人が尊敬を受けるのは、その人の人格が人にわかるからでありませう。人間の値は学問に依るのでもありませぬ。地位の高低にもよりませぬ。ただ心の善い悪るいの問題であります。それは智慧のはたらきではなくて感情のはたらきの方で申すのであります。  支那の宋の時代に出来ました「菜根譚」といふ書物の中に、自分の身が尊くなつて世の人がこれを崇め奉るのは、自分の身について居る立派な冠か、立派な著物を崇めるのである。我身が卑しくて世の中の人がこれを侮るのは、自分の身につけて居る著物や履物が粗末であるから侮るのであるから全く自分とは関係がない、さういふことを考へてみると、自分が尊ばれても喜ぶわけはない、又侮られても、それは著物や履物を侮るのでありますから、腹を立てるには及ばぬといふ意味のことがあります。ところが多くの人はさういふ物にとらはれる心持を持つて居りますから、家や著物や冠を立派にしやうとするのであります。  昔、信州の俳諧師一茶は、服装が非常に粗末でありまして、外に出るにも貧弱な風をして居りました。そのために所々で玄関拂を喰はされたのであります。或るとき、江戸の有名な俳諧の専門家を訪問しました。著物が粗末でありますから乞食が来たと思つて玄関拂を喰はせました。一茶は信州からわざわざ国の名産である蕎麥粉を持つて来て居りましたので、それを出して、それに「信濃には蕎麥と仏に月夜かな」と書いて置いたのであります。後でその家の主人が見ると一茶とわかりまして、これは大変だといふので追つかけてみたがもう帰つてしまつたのであります。その俳諧師は大変恐縮して一茶の居つた信州の柏原にことはりをいふつもりで行きました。ところが一茶は戸を閉して出て来ない、さうして「俳諧の殿様これへ御成りかな」という俳句を出した。その人はますます恐縮して、人の服装を見て、その人の値打をみなかつたといふことを非常に後悔したが及ばなかつたのであります。  禅宗の一休和尚が、破れた衣を著て托鉢をして或る富豪の家に行きましたが、何も呉れなかつた。その後一休和尚は紫の衣を著て金襦の袈裟を掛けてその家に行きました。さうすると鄭重に待遇して澤山な金を差上げて御馳走をしました。一休和尚は早速自分の著て居た衣と袈裟とを脱いで、それを床の上に置いて自分のために作つてくれた御馳走やお布施の金を供へて御免を蒙ると言つて帰つてしまつたのであります。主人としましては、一休和尚がおいでになつたのだから極めて鄭重に待遇をしたのであるけれども、一休和尚の心持としては主人の待遇は袈裟にしたのである、拙僧が供養になるのではないといつて帰つたのであります。大抵の人は皆さうでありませう。人が褒めたからといつて自分が偉くなつたわけではありませぬ。悪口を言はれたとても、自分が悪るいわけでもありませぬ、褒められても喜ぶ必要はない、悪口をいはれても腹を立てる必要もないのでありますけれども、それは容易に出来ることではありませぬ。人間の生活は複雑なものでありまして、思ひがけないことが後から後から出て来る、計画してその通ほりゆかぬのが人生の常であります。すべてのことにその値打をよく考へて見まするならば、それに対して悲しんだり心配するといふことは人間の勝手な心持であります。  兼好法師の「徒然草」の中に  「蟻の如く集り、東西南北に走り、若きもあり、老たるものあり、高きもあり、卑きあり、行くところあり、帰るところあり、朝に動き、夕に越ふ、求めるところ何事ぞや、生を貪り、利を求めてやむことなし、その帰一するところ速にして年々止らず伝々」  とありますが、人間は何のために生きて居るのか、何のために働くのか、考へないで生活して居る、その心持は当に兼好法師の言つた通ほりであります。  釈尊が晩年にお弟子に向つていろいろのことを説いて居られます中に、自分の若いときのことを話された。それは、自分が悟を得て間もない時、尼蓮禅河の岸で考へた、自分の心に敬ひのない生活は悩みである、自分は如何なる人を敬へばよいかといふ考へが起きた。それから次に思ふに、若し自分に戒とか定とか解脱とかといふ心持がまだ十分に見出されないものであれば、それを見出すために敬ふ人をつくらなければならぬ、しかし此世界に戒、定、解脱に於て自分より優れたものがないと思ふから、自分は法を敬ふてこれを尊敬してゆかうと申されて居るのであります。これが釈尊の宗教生活であります。我々の生活は法を敬ふことによつて自由であり、安樂であります。  摂津の大石村の木屋に竹内妙了といふ金持のお婆さんで仏恩を喜んだ人がありました。自分の子供達に向つてお婆さんが常に言つたことは、親に孝行する心があれば著物はよいものは要らぬ、ただ暑さ寒さを凌ぐだけでよい、又食物も餓じくさへなければこと足りる、ただ御法義を一生懸命喜べと申したといふことであります。法義を喜べといふのは、自分の生活を正しくすることであります。親に孝行をするといふことは親の意に反かぬことのやうに昔から申して居りますが、孔子の説明によりますと、孝行は親の意に反かぬことではありませぬ、孝行は親をして親たらしめるやうに子がすることであると申して居られるのでありますが、さうでありませう。親のいふ通はり反かぬということが孝行であるならば、親が泥棒をするときはどうするか、罪を犯さうとするとき、子たるものがどうするかといふことは問題でありませう。仏教では、本当の孝行は親を仏にすることであります。木屋の妙了といふお婆さんのいふ通ほり、親に孝行をするといふことは一生懸命に仏を敬ふことであります。生活を正しくして生きてゆくにはどうしても仏に成るより仕方がないのであります。人間としての行いを正しくする、仁義禮智信といふことは昔から盛んに説かれて居りますが、多くは行はれぬのであります。宗教の心のはたらきによりましてはじめて行はれるのであります。「中庸」に「学を好むは智に近し、行ふことは仁に近し、恥を知るは勇に近し」といふ意味の言葉がありますが、その内に恥を知るといふことは人間の生活に極めて必要なことであります。  昔京都の嵯峨に、意安先生といふ有名な医者がありました。その治療を託された病人が死ぬると、それが自分の治療が誤つたためであると知つたときには、その年は医業を休んで一人も患者を診ないで、専ら読書したのであります。当に恥を知る者と言うべきであります。意安先生は自分の責任をほんとうに感じて居られるのであります。責任の観念を強く持つて居ればこそ、初めて人間の生活といふものが正しくなることは明かであります。宗教の心が起きますると、この責任の観念が一番つよく出るのであります。 (昭和十四年五月十七日)  法を聴く  聖徳太子の十七條憲法の中に、以和為貴といふ言葉がありますが、和といふのはやはらぐといふことであります。心がやはらいで人と人との交りがうまくゆく、別け隔てなく一とつのやうになつて暮してゆくといふ意味であります。かういふ考へは宗教的な心持から起きて来るのであります。人間がやはらげば世の中がうまくゆくからといふのではありませぬ。それは道徳でありませう。道徳ではやはらがねばならぬのでありますから、その心持は苦しいものでありますが、宗教の心は実に安樂で喜びに堪へないものであります。静かに考へますと、我々人間の生活といふのは険阻な山道を行くやうなものでありまして、歩くのに骨が折れるのであります。苦しみを免れることが出来ないのが人生でありませう。かやうな人間の世界に於きまして、ただ自分の外の方ばかりを見て心の内側を見ませぬのは、丁度跳足で歩かうとして足を怪我するのと同じことであります。  道を平らかにして歩きよくしやうといふ方の道は道徳でありませう。宗教は道を平らかにすることを説くのではありませぬ。さういふ外側を見る目を報じて内に向けますると、外側にあります一切のものの値打が認められて来るのであります。仏教で聞法と申すのは、さういふやうに内側を見ることを申すのであります。聞法によつて外側にばかり向けられて居た目が内側を見るやうになり、それによつて自分を知る、即ち自分といふものは大きなる力に包まれて生きてゐるといふことがよくわかるのであります。自分の周囲の一切のものは自分を生かすために相当のはたらきをして居る、我々の小さい心は大きい心の中に生かされて居るといふことが自覚せられるのであります。さうして自分の本能のはたらきに使はれることがやみまして、仏性に觸れることが出来るのであります。さういふ心持になれば目から和合するやうになるでありませう。ところが多くの人々は、自分の心を以て外の人々に向つて居りますから、和合することはありませぬ。自分をよく見て他の人を悪るく見る心、ものがほしい心、難儀なことは嫌ひな心、さういふやうな心は皆持つて居るのでありますから、その心で人に向いますと、どうしても和合することは出来ないのであります。しかしながら、宗教の心持は人に対して深切にしなければならぬとか、親に孝行をしなければならぬとかといふやうな道徳の教とは異つて、おのづからあらはれて来るものでありますから、ただ法を聞くといふことが大切であります。蓮如上人は仏法は聴聞にありとさへ申して居られるのであります。  禅宗の僧侶に弘海といふ人がありました。ある時、香樹院講師に法を問ふたのであります。「私がこれまでやつて居りましたのは禅宗であります。その禅宗をやめて淨土真宗に帰依してあなたに従つて法を聴きましたがどうも聞えません、どうしたわけでございませうか」と尋ねたのであります。香樹院講師は「よく御経をよめ」と申された。すると「経はよく読みまして文章の意味はよく解りまするが、心が安心といふわけに行きませぬ」かう申した。香樹院師は「よく聞け」と申された。よく聞けといふのはどうするのかと又尋ねた。それに対して香樹院師は「骨を折つて聞くのだ」と答へられた。そこで弘海が「それ程難儀をしなければならぬのならば、これ迄やつて居つた禅宗の教と少しも違ひがありませぬ」と言つた。さうすると香樹院師は「お前は法を求めるといふ心がないからである」と言はれたのであります。一身を省みず一生懸命に聞かねば解る筈はないと申されたのであります。さうすると弘海がいふのに、さういふ心で聴聞しやうと思つて居りましても、実際さういふ聴聞をする機會がありませぬ」即ち聞くに足る説教がないと言つた。香樹院郎は「何故そのやうな愚かなことをいふのか、説教がないときは前に聞いたことを常に思へばよい、思ひ出せば即ち聞いたことになる、聞く時ばかり聞くのではない」と申された。又「お前は目を持つて居るから御経を読め、それは法を聞くことになる、さういふことがない時には口に念仏を唱へよ、それが法を聞くことになるのである」と言はれたのであります。すると弘海が「念仏するのを聴聞といふのはをかしいではありませんか、自分の口から出る念仏を聞くとはどういふわけでせうか」と言つた。さうすると今度は大きな声で「お前は何処迄も心がない、念仏といふのは南無阿弥陀仏といふ仏の名前を唱へることであつて、その名前を唱へることが即ち聴聞である、南無阿弥陀仏の声を聞くことによつて自分は助けられるといふ喜びを感ずるのではないか」と言はれたのであります。親鸞聖人の教に於きましては、南無阿弥陀仏といふ言葉を口に出すといふことは、自分が考へて口に出すのではなくして、どうしてもさう唱へなければならぬ力がおのづから湧いて唱へるのであるから、さういふことが何故起きるかといふことをよく考へると、それが即ち法を聴くといふことになるのであります。さういふ心持を仏を敬ふ心持と申してよいわけであります。又仏性を発見したといつてもよいのであります。仏性を発見した人が大勢居りますれば必ず和合するのであります。  昔或る一人の青年が病気に罹りまして大変苦しみました結果、或禅宗の和尚のところへ行つて熱心に教を乞ふたのであります。ところがこの青年は理屈屋でありまして理屈ばかりいふ、そこで和尚が、そんなに理窟をいはないで宇宙の声を聞いて来いと言はれた。しかしながら、青年はなかなか理窟をやめない、結局非常に腹を立てましてそのお寺を出て家に帰つたのでありますが、腹が立つて夜眠れない、幾度となく寝返りをする、その度毎に夜具が脇の方へ行つてしまふ、さうすると母親が心配して蒲團を掛けてくれる。その時に青年ははじめて母親の慈愛の心といふものをしみじみと感じたのであります。今迄にさういふことは幾度もあつたのでありますけれども知ることが出来なかつたのであります。青年はそれから禅宗の和尚のところに行きまして、慈悲といふことがわかつたことを懺悔したのであります。かういふ風に自分で働く心持が強い間は、その奥にあるところの仏性を見付けることが出来ませぬ。はじめからあつたに違いない親の慈悲が、自分といふものを省みない間は何とも思はなかつたのであります。ところがこの青年は和尚に叱られて腹が立つたために夜も寝られないところまで来た、その時母親が蒲團を掛けて呉れたので、はじめて慈悲を知つたのであります。即ち法を聴くといふことは我を空しくしなければ起るものではありませぬ。宇宙の声を聴けと言はれたのは、一切のものが法を説いて居るのであるからそれを聞けといふことでありませう。  福井太平といふ人は、柿の実が熟して木から落ちるところを見て、深さうと思つて幾ら叩いても落ちなかつた柿が、毎日々々日輪樣の御照らしによつて何時の間にか赤くなつて自然に地に落ちたことによつて法を聞くことが出来たのであります。さういふことを考へて見ますると、自分が仏を見出す心も同じことでありませう。自分といふものをえらく見ている間は、自分の周囲にある一切の法を聞くことが出来ないのであります。法といふものはすべてのものの中に含まれて居る仏性が動くのでありますから、何にでも法は説かれて居るのであります。たとへば病気をする、誰しも病気には罹り度くない、憧れば苦しむのであります。ところが病策をして、体を粗末にしないで長く生きることを考へたならば、病気に罹つたことに値打があります。さういふことを知つたときが法を聞いた時であります。即ち仏性を見付けた時であります。さういふやうに法を聞くといふことが宗教であります。  法を聞くには謙虚な態度でなければなりませぬ。謙虚であればすぐに仏を発見することが出来るのであります。但馬の豊岡に越山といふ有難い人がありました。親鸞聖人の報恩講を営んだ日に雨が降つたのであります。隣の人が来て、あなたのところの報恩講はよく雨が降るが、私の方は雨が降らないと申しました。普通の人ならばすぐ腹を立てるでありませうが、越山は「私が冥加を心得て居りませぬから雨が降りました、親鸞聖人に対してまことにすまぬ」と言つたのであります。謙虚な態度であります。謙虚な態度であつてはじめて法を聞くことが出来るのであります。 (昭和十四年九月十八日)  無我  「自我意識を離れて起るところの一種特別の心の状態を宗教というのであります。学問とは全く異つたものであります。普通には他の学問とおなじやうに、知ること、考へること想像すること、判断することなどとおなじ心のはたらきのやうに思つて居るのでありますが、それとは全く異るものであります。  エマソンの「自然論」の中に「我々が互ひに相見る人々は、真の人間でもなく、又似たものでもない。我々の見る人々は苦しめられて衰へて心配して日を送つてゐる、恰かも何かに憑かれて居るやうなものである。それだから人間の生活には静穩といふものは認められない。我々は人間が荘重なはたらきをして居るのを見たことがない。しかも我々は長き一生の間、現在よりもよりよい生活を希望して居る。自然が手段と力とを費して人間を向上せしめやうとして居ることは考へられるけれども、人間そのものは知覚でない。人間といふものはまるで空想の暴風雨だ」と書いてあります。仏教で申せばもつと悲惨な言ひ方ありますが、この説も本当でありませう。「それだから人間は何時ひつくり返つて傷つくかわからない、しかしながらそれを免れしむる過程がある、それは与へられた現在に対して敬意を持つことである。現在に対して敬意を持つている人間の生活ならば転覆はしない。」又「我々は畢竟政治に反抗することもこれを否認することも出来ぬ、又我々の友とする人がどんな人であらうとも、如何に賤しく、且つよくない人であつても、それを甘受してゆかなければならぬ」と言つて居るのであります。  仏教には身体尊重の考へがありますが、そのことをよく説くのは曹洞宗であります。道元禅師は、自分の体といふものは賜はつたものであるから大切にしなければならぬと言つて居られるのであります。それ故に、飯を食ふことも、眠ることも、起きることも、一挙手一投足が仏教だといつて居られるのであります。淨上真宗でもこの体は仏から賜つたものであると申すことは勿論でありますが、子供が生れますると、それは仏から賜はつた同行だと尊重致すのであります。自分の体だと思へば我儘なことも出来ませうが、与へられたものだといふことがはつきり致しますれば大切に致すべきでありませう。まことにエマソンの申す通ほり、与へられた境遇を甘受して、与へられた仕事に從ふといふことが、人生の法則でありまして、それに隨順することが宗教の心のはたらきによつてなされるのであります。  我国で有名な俳諧師芭蕉は、西行の歌を作ることも、雪舟が絵を描くことも、利休が茶をたてることも、それに一貫したものは一とつなりと言つて居られるのでありますが、これは自我意識を通ほさずにあらはれて来る感情でありませう。「仏法は無我にて候、我と思う心は聊かもあるまじく候」でありませう。我という心持は結局自是他非の考へになるのでありますが、実際我々はこの自我の心をとることは容易でありませぬ。釈尊もよく言はれたのでありますが、仏教で無我と申すのは我をなくするのではなくて、我がないのであります。  昔、楢林宗建といふ有名な医者がありました。この人はその当時世間の医者が玄関を立派にして立派な家に住んで居るのを余り感心しなかつたのであります。さうして自分は戸を閉ぢて、戸を叩いて来なければ門を開けない、それ故に病人も来ずに貧乏でありました。宗建は妻君を亡ひ、男の子と女の子の二人の子供がありましたが、その子供を独身で養育したのであります。自分の住んで居る部屋の一部に父親の石碑を作つて三度三度の御飯の時にそこに膳を供へて食ふ、さうして御飯のことについていろいろ相談をする、知らぬ人がその話を聞きますと丁度父親が生きて居られるやうでありました。斯様な心持は、親から出た自分の体を尊重するあまりに、その心持が強くあらはれたのであります。その心持は道徳以上のものであります。  福井藩に勝澤一純といふ人がありました。この人は偉い人で詩や歌をよく詠んだ人でありますが、この人の書いたのにつぎのやうなことがあります。自分の召使つて居た下男に文吉といふ者が居つた。自分が言つたことは少しも逆らふこともなく、へいへいといつて居た、ある時話の序でに、お前は自分の言つたことを皆よいと思つて居るのかと聞いた、すると文吉がいふのに、貴方の話される中には随分悪るいことも澤山ありますが、主人でありますから此方から折れて聞いて居りますと言つた。そこで一純は驚いたのであります。自分が問ふたから文吉が言つたが、若し問はなかつたならば、自分のいふことに間違がないと思つて一生過したかも分らぬといつたさうであります。実に謙虚な態度であります。  大阪に戸田旭山といふ医者が居りました。もとは岡山の人で武士でありましたが、どういふわけか岡山を出まして京都に於て医業をやるつもりでありましたが、金がなくて小さい裏長屋を借りて医者をして居つたがうまくゆかぬ、それで大阪へ来て家を借りまして按摩をやつて居りましたが、その内に段々と、医者をするやうになつたのであります。後には大家になりまして、病人は澤山来るし、学問を教へる迄になつたのであります。或る時町を歩いて居ると一人の内儀さんが自分の顔を見て涙を流して泣いて居る、わけを聞いてみますと、その内儀さんが申すには、あなたの顔を見て思はず涙が流れました、といふのは実は子供が病気で名高い先生のところへ行つて診てもらつたが治らぬので、あなたのところへ行つたところが、一日二十人以上は診察をしないといふやうなことで、診察を受けることが出来ずに連れて帰つたが、とうとう死んでしまつたと言つたのであります。旭山はそれを聞いて非常に気の毒に思ひ一日二十名に限つて居つてもさういふ火急の場合には一名増して二十一名にしても差支ないと言つたさうであります。旭山は常業をやつて居りますうちに、怒張つてはいかぬ、欲の心が起きれば医術といふものは駄目だといふことに気付き、断然その場で二十名を越したら診察をせぬことを誓つたのであります。かういふ心持は宗教の心持であります。その頃京都に香川修庵といふ日本的に名高い人がありました。この頃まで我国では温泉といふものに入浴はしましたがその学問はされて居なかつたが、修庵は有馬や城崎の温泉へ行つて研究をしたのであります。又その頃按摩は素人がやつて居たのでありますが、修庵はそれを医者の方へ持つて来た、もう一とつは灸であります。これはもと支那から渡つて来ましたが、それを修庵がやつた。それで一般の医者から排斥されたのであります。勿論戸田旭山との間も感情的に面白くなかつたのであります。ところが旭山は自分の子供をば修庵のところへ弟子にやつた、さうして修庵の尊ぶべきことは尊ぶべきであると言つたのであります。このやうなことは普通の心持ではやれることでありませぬ。宗教の心があらはれますると自分の思ふことが露骨に出るのであります。おのづから感ずることの出来る大きな力に動かされてやるのでありますから、露骨になることは当然であります。 (昭和十四年十月十八日)  心の相  仏教で真俗二諦といふことを申しますが、これは真諦俗諦といふ言葉がありまして、真諦とは世間を離れた世界のこと、俗諦といふのは人間の世界のことであります。この言葉は親鸞聖人は使はれなかつたのでありまして、蓮如上人がよく申されたのであります。  この意味は宗教のことを考へます上には大した問題ではないのでありますが、世間の人々は真諦といふのは仏に成る道であり、俗諦といふのは世の中のことを守つてゆくことであるといふ風に考へるのであります。この兩方がうまくゆかなければならないといふのでありますが、宗教といふものはさういふものではないのであります。人間が生活をして居る中に、生活に都合がわるいことが起ると宗教で始末しやうとすることは間違つた考へでありまして、宗教といふものはさういふことを申すのではありませぬ。人間の生活全体が宗教の心持にならなければ駄目であります。我々の心といふものは自分本位のものでありまして、それ故に苦しみを増すばかりであります。さういふ自分勝手な心持をやめて宗教の心持にならねばならぬと申すのでありますが、それにはどうすればよいか。それは平生我々が考へて居るところの値打といふものを変へることであります。即ち理想価値を変へるのであります。たとへば親のいふことを守るといふことは世間では孝行だと申して居りますが、それならば釈尊が親子供を捨てて山の中へ入られたことは善ではない筈であります。外から見ればかういふやうに二つの区別がありますが、心の中に入つて見ますると、ただ生活の値打を変へただけであります。成程親に孝行することはよいことでありますが、それよりももつと広く多くの人のために尽すといふことが出来れば、値打といふものは変つて来るのでありす。  印度のヤジュニヤといふ人が自分の妻君を捨てて山の中へ入らうとしまして、その妻君に向つて、今迄いろいろ厄介になつたが、これからお前と別れて山へ入る、ここに金を澤山置いて行くからこの金を持つて安らかに余生を送つてもらひ度いと申しました。さうしますと妻は、少し待つて戴き度い、あなたは勉強して学問のある人だから伺ふのですが、金さへあれば人間といふのは幸福なものでありますかと尋ねたのであります。そこでヤジユニヤが言ふのに、金だけで幸になることは出来ないが、金があれば人に馬鹿にされずに暮すことが出来ると申しました。すると妻君の言ふのに、幸にならないものを置いて行つてあなたがこの生活を逃げるといふことは、自分には甚だたよりないことであります、本当の幸になる方法が世の中にはないのか。それを伺ひ度いと申したのであります。そこで又妻君に向つて、自分は世間並の出家をしやうとして居るのであるが、そこ迄お前が突込んでくるとまことに愉快である、長い間連れ添つて来たのであるから、何か本当の幸になるものを掴ませてやらう、幸といふものは本当の自分といふものを見出すことだ、本当の自分といふものは一人一人が別々に持つて居るものではなくて、虚空の如く世界に行渡つて居るものである。それを見出さなければならぬ、早く言へば小さい我が大きなる我の中に入るべきものである。一塊の鹽を大海の中に入れたやうに大いなる理想と自分の小さい心とが一とつになれば、人間といものは幸になることが出来ると申したのであります。妻君は慎しんで聞いて居つたが、さういふことを聞いてもやはり淋しいと言つたのでありますが、ヤジュニャはさういふ心配は要らぬ、さういふ世界に入れば自分といふものは無いのであるから、淋しいといふことは無いと言つて、山の中へ入つたのであります。  釈尊は、各々が自分と思つて居るものは本当の自分ではなくて、本当の自分は虚空のやうに宇宙全体に広がつて居るのだと言はれて居るのでありますが、それとおなじことでありませう。親鸞聖人が「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生を遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起る時、摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」と言つて居られるのは、平たく申せば自らを頼む心がなくなればおのづからにして弥陀の誓願不思議にたすけられると申されるのであります。  我々の心といふのは悪るい心であるからどうにかしてそれをよくしやうといふのは宗教ではない、宗教は考へたり希望したりする心ではなくて、現在の心の状態であります。何ものを求めない、求める心のはたらきを一切止めた状態であります。どうすればよいかと申しますと、それは昔から法を聞くより外ないと申すのであります。聞くと申しましても、説教を聞くのではなくて、世の中のことをよく注意して一切のものの中に動いて居る法をよく聞くのであります。人間が生活して居りまする間には、いろいろなことを考へる、さうして正しいことに向つて自分を動かしてゆかうと致すのでありますが、自分がよいと思つてを必ずしもよいとは限りませぬ。又悪るいと思つてしたこともよいことがあるのであります。人を助けやうと思つていろいろなことを致しましても、その結果が全く反対になる場合もあるのであります。よいとか悪るいとかと考へましても、それは結局自分の考へでありまして、ほんとうのことは我々に分ることはないのであります。人を殺すのは悪るいことであるといひますが、殺すのもよいこともありませう。戦争で人を殺せば勲章を貰へるのであります。殺された側から言へば悪るいが、殺した方はよい。人間の決めたよしあしといふものは自分の都合から出て来たものでありますから、さういふ心でいろんなことを行へば間違ひの起るのは当然でありませう。宗教は自分の悪るい心を直さうとするのではなくて、自らの悪るい心の相そのままを見てゆくことであります。  昔、越前の福非侯の家来に、荒川宗右衛門といふ人がありました。この人は浄土真宗の信者でありましたが、心が安らかになることが出来なかつたのであります。ある時ある僧に向つて、蓮如上人の御文章の中に「露程も疑ふ心がなければ必ず助けたまふ」といふことがあるが、露程も疑ふ心はないが心が安らかにならぬが、どうしたらよいかといふことを尋ねたのであります。さうするとその僧がいふには、念仏の心を以て疑ひを拂はふとしてもそれは疑を増すのみである。我々の生といふものは心の善し悪しで決るものではなくして、仏の本願不思議に助けられるのである。我々のやうな浅間しいものを助けるといふ本願であるから、ただ自分の浅間しいといふことが分ればよいと言はれたのであります。そこではじめて、心が安らかになることが出来たとのことであります。  奥田頼杖の「心学道の話」につぎのやうなことがあります。心学の話を聞いた人が極樂に行つた。仏樣がいふのに、お前は極樂に住むやうになつたのであるから極築の様子をよく知つて置かねばならぬから、案内をしてやらうといふので観音様に案内して貰つて居りますと、博物館のところで木耳が澤山並んで居る、不思議に思つて極樂にこんなものが澤山あるのは仏様が食べるのかと尋ねたのであります。さうすると観音様がいふのに、馬鹿なことをいふてはいかぬ、それは人間が娑婆に居つた時、お寺で説教を澤山聞いたけれども、自分のものとしないから体だけは地獄へ障つて、聞いた耳だけが仏に成つて極樂に来たのだと言はれたさうであります。次行きますと今度は妻の子が澤山に並べてあります。それで又その人が不思議がりまして、仏様が数の子を食べるのかと尋ねますると、観音様がいふのに、馬鹿なことを言つてはいかぬ、それは人間が娑婆で説教をして多くの人に聞かせたが、自分は宗教に入らなかつたので、舌だけが極樂に来たのだと言はれたのであります。  宗教の心持といふものは、別にむづかしいものを自分にとり入れるのではありませぬ。法を開くことによつて自分の心の相といふものを見てゆくだけのことであります。 (昭和十四年十一月十七日)  小我と大我  昔から宗教と申しますと、すぐ欲を棄て欲を棄てるやうに申すのでありますが、家を捨てるといふのは日常の生活を離れることをいふのでありませう。又世を捨てるといふのも、世間の交際を捨てて静かに生活してゆくといふ意味でありませう。しかしながら捨家樂欲といふやうな考へ方は宗教の本当の意味ではありませぬ。宗教と申す心のはたらきは、人間が生活してゆく上に於て自分といふものがいろんな欲望にとらはれて自ら苦しむことなく、実に自由な生活をしてゆくことを申すのであります。又別の方面から迷を転じて悟りを開くことが宗教であると申すのでありますが、宗教はそれを目的とするものでありませぬ。  人間の心でありますから、いろいろと迷の方へ傾くのは当然でありませう。人間には自分といふこと及び、自分の周囲の事柄といふものがはつきり見えませぬ。自分の体でも分らぬのでありますから、まして周囲の事柄ははつきり分らぬのであります。それがはつきり分ることが悟りを開くのでありますが、さういふ心のはたらきを宗教と申すのでもありませぬ。自分の心の相を見て、如何に転迷開悟が出来ないといふことを知つたとき起きて来る心持が宗教であります。迷を転じて悟を開く方へ進んでゆくのは普通の道徳であります。道徳と宗教とは全く心のはたらきの異つたものであります。道徳といふものは、悪るいことを癈めて善いことを修めるのが目的であります。宗教はこれとは全く違つて、自分には悪るいことをやめて善いことが出来ないといふことを自覚した時に感ずる心持であります。  世間では宗教ということを本当に理解する人が少ないのでありまして、ただ神に頼み仏を拝んで自分に幸ひが来るやうなことを教と思つて居るのでありますが、さういふことは宗教ではありませぬ。宗教と申すのは、自分の心の相を省みて如何にも浅間しい、如何にもよいことが出来なくて悪るいことのみしか出来ないといふことを痛感して、自分ではどうすることも出来ないといふときに感ずる心持でありまして、その心持は普通の言葉で申せば喜びの心持であります。かういふ心持は、我々の日常生活には必要であります。若しかういふ心のはたらが起きないならば、自分の心だけをはたらかして、いろいろなことを考へ、いろいろなことを希望し、いろいろなことに努力して、その希望が達せられず、その努力が無益に終つた場合には、どうしても悲しむ、又苦しまねばならぬ。その苦しみが度重ると煩悶する、或は不平の心を起す。さういふ不平の心を以て生活を続けるといふことは、社會のためには勿論不都合でありますが、本人の生活も亦惨めなものであります。  又、宗教の心は生活を正しく導く心のはたらきであります。それは普通の我々の心のはたらきによつて正しくするのではなくして、人間のはからひを離れたところに出て来るのでありますから、おのづから正しいのであります。つまり宗教と申す心のはたらきは、人間の智慧のはたらきを離れたところに出て来る心持であります。暑いときには暑いと感ずる、寒ければ寒いと感ずる、腹が減つたら減つたと感ずる、理屈ではありませぬ。宗教の心は惑ずるのであります。それ故にこれを言葉で申せば不思議であります。不思議と申すのは智慧のはたらきを止めることであります。智慧のはたらきをやめれば如何なるか。ものの道理も智慧のはたらきによつてわかる。ものの善悪も智慧のはたらきによつて分る。ところがその智慧のはたらきをやめますると、善いことも悪るいことも、正しいことも、正しくないことも総て人間によつて値打をつけて居るところのものは全くなくなるのであります。さうしてそこには如何なる場合に不平を言はない、満足する心持が出るやうになるのであります。それ故に結果に於ては、廢悪修善といふことにもなり、転迷開悟といふことになるのであります。勿論これは結果でありまして、目的ではありません。  昔、三河国の野田村といふところに和兵衛といふ人がありました。浄土宗の家に生れて大変に宗教の志の深い人でありました。この和兵衛が禅宗の家に生れた人と結婚をすることになりました。子の結婚の式がすみまして三日程後に和兵衛が細君に向つて、お前とは因縁があつて夫婦となつたのであるから、この世だけのことで一生を終つたならば犬や猫と同じととである、寧ろ犬や猫にも劣つた暮しといはなけばならぬ。未来も一緒に仕合せの身とならねばならぬと思ふ。しかしながらお前は禅宗の生れである、自分は真宗の生れであつて、宗旨は違ふが彼是は言はない。お互にお詣りの邪魔をせぬやうに固く約束して置かうと言つた。さうして細君は禅宗、和兵衛は真宗と、それぞれ自分の宗旨の寺へ詣つて説教を聞いて居つたのであります。  ところがこの地方にお園といふ有名な妙好人がありました。お園が和兵衛の家に来まして澤山の同行と一緒に朝から晩まで宗教の相談をして居つた。或日晝御飯の時に、お園さんがお茶を汲みに台所に出て来た。その時に和兵衛の細君がお園さんにいふのに、あなたがおいで下さると、内の旦那や在所の衆が朝から晩までさも嬉しさうに相談して居られますが、私は如何なる邪伴者でありませう。ただこの世のことだけが面白うて、後生のことなどは嫌いでございますと口から出任せに話しをした。さうするとお園がいふのに、お前様もさうか、私もその通ほり、毎日法の話をして居るが仏法がすきではありませぬ。実は後生のことは大嫌ひ、この世のことが好きで御座りますが、嬉しいことに後生の嫌ひな、この世の好きなものを仏様は好いて下されますげなと言つたのであります。  これは本当の宗教の心持を持つて居るお園が、自分の思ふ儘に言つたのでありませう。和兵衛の細君はそのことを聞いてひどく感じまして、自分も真宗のお話が聞き度いといひ出したのであります。さうして、三日後に夫の和兵衛に向いて、あなたもあんまりな人ぢや、こんな有難い法をあなたばかり聞いて私を三ヶ年間も禅宗の寺へやつて居られるといふことはどうしたことか、もし今日迄に死んで居つたらどうしますと苦情を言つた。そこで和兵衛のいふには、俺も言ひたうてならなんだが、とかく俺の言ふ場ぢやない、お前ばかりにおかかりになつてるお方があるからと思ふて辛抱して来たと言ひました。これは本当の宗教の心持が起きて居るからであります。和兵衛は涙を流して申しましたので、その細君も非常に感心しまして、それから夫婦一緒に浄土真宗の教を聞くやうになつたのであります。  宗教の心持といふものは教へて起るものではありませぬ、又自分で研究して起るものでもありません。この細君は、自分の家へお園といふ妙好人が来ていろいろの話をする、それを聞いて居ると何となく自分で気にかかつて注意を惹くやうになる、それを聞いて段々と浄土真宗の方へ入るやうになつたのであります。もともと禅宗の説教を聞いて居たのでありませうから、ふとしたことから気がついたのであります。  禅宗の偉い高僧に白隠禅師といふ人がありました。ある時、説教の最中に右手をあげて、この片手に声ありや否やといふ問題を出した。聴衆一人として答へるものがない。丁度その時に禅宗の信者で妙心といふ人が居たのであります。妙心が高座の前へ出てつぎのやうな歌を詠んだのであります。「白隠の挙げて声ある隻手より兩手合せて南無阿弥陀仏」さうすると白隠禅師がそれを聞かれてお前は浄土真宗の者であらう、うまいことをいふ、しかし片手の声といふものは、法然上人や親鸞聖人の教ではわかることがないと言はれた。さうすると妙心は「隻手にも声あればこそ招かれて弥陀の浄土へ参る妙心」と言つた。これは如何にもよく宗教の心持をあらはして居るのであります。  宗教の心持といふものは人間が生活を続けてゆく上に於いて、その生活を如何にすれば正しく進むでゆくことが出来るかといふ問題を解決するたつた一とつの道であります。人間の考へを捨てる、人間の考へに値打のないことを悟つたときに、我といふ考へがすつかり働きをやめたときおのづから感ずる心持であります。何と申しまして人間が生きていくといふことは自分が自覚してゆかなければならぬのであります。それを仏教では小我といふのであります。その我があつて生活が出来る、我といふものを中心として世の中を見て、その世の中のことが自分のために利益になればそれをとり、利益にならぬことは排斥して進んで来て居る、それを小我といふのであります。さういふ心が世の中にたつた一とつあるわけはない、どうしても世の中にあるものの一部でなければならぬ、小さいに我がついてみると、その小さい我は大我の一部であることがわかる、自分が一人の人間として社會に住んで居るといふことがわかれば、社會の一部であることが分る、その自分といふ小我を除いてみると、大我の中に自分が住むでゐることがわかる、その自分の相をみればみるほど大我というものに対するよろこびが起つて来るのであります。  仏教ではこの大我といふものを真如と言ふのであります。小我のことを自我といふ、さうしてこの真如と自我との関係が始終考へられるのであります。自分といふものは真如から出て来てこの世で生活して居るので、又真如に帰るのだとも考へられるのであります。さうして仏といふのは真如から出て来てこの世の中に滿ち滿ちておる。自我といふのはやはり真如から出て来てこの世の中に滿ちて居る。それ故に仏と自我とは一とつであるべきである。すなはち自我というものが得手勝手なことをして居るからこの二つが分れて居るが、元来はおなじものであるといふ考へであります。理屈で申しますと真如から出た自我でありますから、深く考へれば真如とおなじことになるのであります。真如は一切のものをとり込むはたらきを持つてゐるのでありまして、自分がそれにとり込んで貰ふことを感謝すればよいのであります。この真如が一切のものをとり込むはたらきを本願と申すのであります。その本願の中に私共は摂取されつつあるのであります。その自分の相はよろこびであります。宗教と申すものは、自分が自分の心を磨いて仏に成るといふやうなことをいふのでもありませんし、又仏にお願ひしてたすけてもらふといふものでありませぬ。自分の心の相を見て、自分といふものが愚かであり、如何にも弱いものであり、又如何にも悪るいもので、どうしても自分では仏に成ることは出来ぬ、さういふ自分がこの世の中に生活して居るといふことは、よろこびでありませう。その心持を宗教と申すのであります。世を捨てるとか家を捨てるとかといふことは、昔仏教の一とつの規則としてさういふことを言はれたのでありますが、それは宗教の心持ではありませぬ。欲を棄てるといつてもそれは出来ることではない、金は欲しい、人を追除けてお金を取らうとする心持は大なり小なりある。普通の智慧を以て普通の人間として世の中に生活してゆきますためには、どうしても相当の地位が必要であり、又名譽もほしい物を得やうとする。さういふことは人間の生活を妨げるものでありますけれども、人間の生活には必要であります。その欲のない人で社會が出来ますならば、それは虫けらが集つたと同様であります。人間はいろいろの悪るいことを致しますが、それが人間の状態であります。宗教に心を傾けましたからとて、さういふ悪るい心が直るといふことは考へられないことであります。  ただ宗教の心持が起きますると、自分といふものが如何にも欲の深い、名誉心の強い、如何にも本人に負けることの嫌ひな、如何にも人を陥れても自分の利益を得やうといふ心持に満ちてわることがはつきり分る、分ると慚愧の心持が起きる、即ち煩悩具足罪悪深重といふ心持になる。さうするとそこに起きて来る心持はつまり恥ぢる心持であります。天に恥ぢる、地に恥ぢる、人に恥ぢる、一切のものに恥ぢる、さういふ心持が起きて来ますとそこに感ずるのは宗教の心持であります。その時に自分の値打といふものが減る、即ち自分を非常に大切なものと考へて居つた自分の意識が薄らいで来る。もともと大我の中にあるのでありますから、小我が無くなりますと、大我が感じられる、その大我が我々の方に来る力を慈悲と名をつけるのであります。それが仏教で申す仏であり、その仏の心に摂取されてゐる自分であります。それが感知出来ますると、自分は仏の心の中に生れ、仏の心の中に生活し、仏の心の中で死ぬ、死んだ後は仏の心の世界におることは明かでありますから、死ぬことに苦痛を感じないのであります。  さういふ心持が十分にあらはれて居りますと、病気に罹りましても、災難に遭いましても、要らざる心配をしないで濟むのであります。宗教の心持が人間の心をよくして、嘆きを起さぬやうになるのではありませんが、宗教の心が開けて居りますると、災難に出會ひましても自分を中心にする考へが起らなくて済むでありませう。  私が殘念に思ひますことは、世間の多くの人々が宗教の心の意味をはつきり考へないで、仏を拝むとか、極樂に往くといふことだけを聞いて、心の相ということを深く考へないことであります。宗教の心持は、如何なる人でもどうしても起きねばならぬ心持でありまして、実際又原始的な社會から今日の文化の社會になります間、何れの国の人も、皆相当の宗教の心持を以つて、その生活を形成してゐるのであります。 (昭和十五年一月十七日)  真実の智慧  伝教大師は日本仏教史上有名な人であります。支那に渡つて仏教の学問を致しまして、日本へ帰りましてから、天台宗を起されたのであります。元来この天台宗といふものは支那で起つた仏教でありますが、伝教大師の天台宗は日本式の天台宗であります。伝教大師が叡山に草庵を作りまして修行を始められたのは、十九歳か二十歳の頃でありますが、そのとき願文をつくつて居られるのであります。その中に、生きて居る中に善を為さすんば死んで地獄に行く、得難くして移りやすきは人心なり、発し難くして之移りやすきは善心なり、因なくして果を得ることなしといふ言葉がありますが、この意味は、無常であるといふ仏教の考へを前提として天地の間に存在してゐる一切のものは悉く流転する者のである、この流転の世の中に人間として生れたことは誠に得難いことである。世界といふものは流転の中にあるから、人間もその流転の一とつの相として、生れては死に、生れては死にするといふのでありまして、仏教はさういふことを本として出発しておるのであります。これにはいろいろな学問がありまして、到底説明することが出来るものではないのであります。  人間は生れては死に、生れては又死にするものであるが、死ねるのならば生れない方がよいのであつて、何のために生まれたかといふことは説明することが出来ないのであります。伝教大師の申されるやうに、原因といふものがなければ結果のある筈はないのでありますから、この世の中に出て来た結果があれば原因がなければならぬのであります。ところが誰が考へても生れて来たわけは分らないのであります。それならばそれは偶然であるかといふと決して偶然ではない。兩親があつて何かの原因があつて生れて来たものであると考へなければならぬのであります。そんな馬鹿らしいことは考へないでよいといふ人もありませうが、私は馬鹿らしいことではないと思ふのであります。自分といふものを先づ問題として生活を進めてゆかなければならぬのに、その自分がわからないで、始末のつく筈はないのであります。  人間の心のはたらきを知情意の三つに分けてゐるのであります。感情といふのは内へはたらき、智情といふものは外へはたらく、学問は外のことはわかりますが、内のことは分らないのであります。仏教ではこの智情意の外に末那識と阿頼耶識といふものを認めるのであります。末那識といふのは五感のはたらきでいろいろなことを自分といふことに纏めるはたらき、即ち我執といふものであります。阿頼耶識といふのはその本になる心のはたらきであります。そのために人間の心といふものは迷ふのであります。自分の気に入ればよいとなし、気に入らなければ悪るいとする、それが我々人間の心であります。  それ故に我々人間の心といふものは、親鸞聖人の言葉で申しますと、そらごと、たはごと、まことあることなしであります。世の中の善とか悪とかといふことは本来ある筈はないといふのであります。これは、自分といふものを中心に考へて、自分が正しいと思ふから自分だけがよいといふことになる、さういふ心を持つて人間が世の中に出て来たのでありますから、人間の世の中は非常に複雑なものであります。釈尊はさういふ心を除つてしまへ、真実の智慧を以て世の中を渡らなければならぬと申して居られるのでありまして、仏教の目標としてゐるのはこれであります。真実の智慧を得るといふことは涅槃を得ることでありまして、これを得たものが即ち仏であります。  ところがさういふ真実の智慧を得るのには、我々人間の心を改めなければならぬ、それには道徳を堅固にやらなければならぬ、仏教で戒律を持つといふことは道徳を堅固にやつてゆくことであります。道徳を堅固にやつてゆくところに初めて真実の智慧が得られるのであります。釈尊は戒定慧の三学を修めることによつて初めて仏に成ることが出来ると言はれたのであります。人間が持つて生れたままの心で生活をしてゆけば、必ず衝突が起きるのでありまして、小さく申せば、一個人が苦しまなければならぬのであります。  仏教では、人間は前の世に於て為すべきことをなさずにゐたので再び人間に生れて来て、その殘りの仕事を遣ると申すのでありますが、為すべきことといふのは仏に成る仕事であります。仏に成る仕事をするために生れさせられたのであるから、人間の命といふものは大切であります。  宗教は、人間の心をなくして、そこに出て来る感情に導かれてゆくことであるといふのでありますが、それは仏に成る心持であります。何事にもこだはらない心であります。悪るい心をよくするといふのではありせぬ。  人間の心のはたらきの形が変ることであります。幾ら人間の心を研きまして、智慧が増すのでは増せば増すほど我執といふものは盛んになるのであります。  現在学校で行はれて居ります教育といふものは、智恵の教育であります。感情の教育は殆んどしないと申しても差支ないのであります。僅かに先生の態度を見たりしてゐる中に感情が教育されて居る位のもので、極めて不完全なものでありますが、人間の道を進んでゆくのには智慧のはたらきの外に宗教の心が極めて必要のものであります。  聖徳太子は十七條憲法の最初に和を以て貴しとなすと言はれてゐるのでありますが、我々は相寄り相助けて生活してゆくべきでありませう。ところが和を以て貴しとするといふことは教へて出来ることではありませぬ、ただ宗教の心をよくあらはすことによつて和合してゆくのであります。  盤珪禅師は年をとられてからは大変摂生に注意して毎日の食物は分量をはかつて居られたのであります。そこで或る人が、禅師は禅宗の大家であるのに食物を量つて食べたりするのは、そんなに命が惜しいのでありますかと聞いた、すると盤珪禅師が言はれるのに、おおさうである、生死透脱三界の導師であるから体を大切にするのであると答へられたさうであります。我が身は我が身であつて我が身でない。世の中のために生き長らへるのであるという意味であります。  越後におしもといふ婦人がありました。親鸞聖人の教に帰した人であります。そのおしもに向いて或人が、この世は似の世で苦しみの世であるから早く浄土へ參り度いと思はれないかと言つたのであります。さうするとおしもがいふには、仰せの如くにては候へども、早く死に度いとは夢にも思ひませぬ、ただ一日も娑婆に長らへてこの命をつづけ度いと思ひます。これを聞いた人々が、それはまことに不思議なことだ、この仮の浮世に執著して居つて何の樂しみがあるかといふと、おしもは、この世は固より四苦八苦の世の中でありますから、金を持つて居る人でも苦しみがないとは思はれません。まして貧苦に迫る私のやうなものが何の樂しみがありませう、しかしながら、この世で一日一夜善根を修しますれば、浄土に於て百年の間修するよりも勝つて居るときいて居りますから、一日も長くこの世にあつて念仏して仏の御恩に報じやうと思ひますから、先を急ぐ気持はありませぬと申したのであります。仏に成ることを目的としてこの世に生れさせて貰つたのであるから一生懸命念仏をするといふ心持でありませう。かういふ心持で生活をするならば、その生活といふものは必ず不安なのであります。即ち互に和合することが出来るのであります。  禅宗の永平寺の道元禅師は、生活そのものを正しくするといふことを頻りに言はれたのであります。さうしてやかましい行をした人であります。弟子がある時、永平寺へ金を寄附しやうといふ人からそれを貰つて取次いだのであります。さうすると道元禅師は大変気を悪るくしてその門人を破門してしまつた、さうしてその弟子の坐つて居つた疊を上げてその下の土を三尺掘つて捨ててしまつたといふのであります。これほどにしてはじめて禅定といふことが出来るのであります。  親鸞聖人は道元禅師のやうなむづかしいことは言つて居られませぬので、親鸞聖人の教を間違つてとりますと、人間の心は悪るいのであるからどんなことをしてもよい、別に改めるには及ばない、自分といふものの全体を挙げて仏に随ればよいといふうに考へる人があるかもしれませぬが、親鸞聖人がそんなことを申されたことはありませぬ。阿弥陀仏の薬があるからといつて好んで毒を飲んではならぬと言つて居られるのであります。仏教で因果の法則といふことは非常に深い意味のことでありまして、親鸞聖人は、いづれの行も及び難き身なれば地獄は一定住処ぞかしと言つて居られるのであります。さういふ時に感ずる心持が宗教であります。 (昭和十五年二月十七日)  宗教の心  我々人間の心は、仏教の言葉で申します愛欲と名利との二つがもとになりまして、いろいろな心のはたらきがあらはれて来るのでありまして、愛欲の心といふのは自分を中心にものをみて自分の気に入るものを取つて、得たものは放さない、又それ以上にとり込まうといふ心持であります。  名利の心といふのは、自分といふものが中心になるやうに、又人に賞められやうとかといふ心持であります。斯様な考へがもとになりましてすべてのことを自分に都合のよいやうに考へてゆくのであります。たとへばよく人のいうことでありますが、どうもあの人はよくないといふやうなことをいふ、これは向ふがわるいのでありますから、言ふ方には何も責任はないやうでありますが、その人が悪るいといへば全くいふ自分の責任であります。それは我々は愛欲と名利の心を本としていふのでありますから、たとへばあの人は欲張つて居るというのは自分が欲しいからいふのである。ところがその自分の方は棚に上げて置いて、向かのことだけをいいますから世の中はうまくゆかぬのであります。  人のことを悪るくいふのは、第一に自分を苦しめ、人を困らし、何等の利益はないものであります。一碗の飯に対しても頭を下げていただく人もありますが、山海の珍味で不足をいふ人があるといふのは、結局我々の生活の上に問題になるのは心であります。この心が銘々異つて居るのでありまして、仏教はさういふ心持をやかましくいふのであります。即ち三界唯一心といふのであります。我々人間の心は普通は外の物に転ぜられて居りますけれども、本当は物を転ずるのが人間であつて、意馬心猿であつてはならぬのであります。  釈尊はある時お弟子に向つて「心程転じやすいものはない、心は元清らかなものであるが、外から来るところの法のために穢される、それ故外から来る腐れから逃れるやうにしなければならぬ、及逃れることの出来るものであるから逃れるやうにせよ」と言はれて居ります。自分の心を治めるといふことが大切であつて、腹を立てることも、悲しむことも、不中をいふことも、結局自分の心で作るのであるから、心を立派にしなければ人間の生活は正しくゆくものでないといふ意味であります。  仏教では、人間の心は元来清浄なものであつて、この清浄な心、即ち仏性が外からの悪るい心のために煩悩を作るのであるから、煩悩の中の仏性を出せば人間の心は仏に成るといふのであります。それを煩悩即菩提、生死即涅槃といふのであります。かういふ理窟を本にした仏教でありますから、煩悩をとつて菩提の境に入るといふことは決して申しませぬ。又生死をとつてしまへとも申しませぬ。  「正信偈」の中にも「不断煩悩得涅槃」といふことがありますが、全くその通ほりでありまして、煩悩を除いてしまつて涅槃を得るというのではその宗教は生活と離れてしまうのであります。行儀即仏法でなければならぬのであります。  我々人間はこの社會の義理や人情にからまれて、道徳だの教育だのといふやうな棚の中に押込められて生活をして居りますために人間の面目を立てて居りますけれども、若しその束縛がなかつたならば、我々の心持は犬猫同然の状態でありませう。それ故にどうしても心の奥からさういふ悪るい心の始末をする宗教の心のはたらきが必要であります。ところがこの宗教といふものを間違つて考へて、生活をうまくゆかせるために宗教を道具にしてゆかうとする、さうして、今は年が若くて必要がないから年とつてから、死ぬる前に聴聞すればよいといふやうに考へる。これでは生活と宗教とは全く別個のものになつてしまうのであります。宗教は決してそんなものではありませぬ。我々は常に自分を中心にものを考へるからそのために社會を乱すのであつて、まづ生活の根本として道徳とか法律とかといふものがありますが、更に進んで宗教の心――宗教の心は自分を中心としない心でありますから――が必要であります。  宗教の心は繰返していふ通ほり我といふ心のはたらきがなくなつた時に感ずる心持でありまして、如何なることに対してもよろこびを感ずる、愉快な心持であります。さういふ心持になりましてはじめて世の中のことが平和になるのであります。外から来て我々の心を穢して居る不浄の心が除かれますると人間の生活といふものが安樂になるわけであります。  我々は世の中のすべてのお蔭で生きて居るのでありますけれども、しかしながら我々としては自分で生きてゐるやうに考へてゐる。さうして世の中が気にくはぬといふ。世の中は自分の生れる前からあつたものであります。丁度大工が家を建てるときに、障子が合はないからといつて鴨居や敷居を変へるわけにはゆかぬのであります。世の中が気に入らぬといつても、それは自己を中心に考へるからであります。宗教の心はさういふ自己のはからひをやめてともに感ずる愉快な心持でありまして、それによつて不平不滿不足を去り、円滿な涅槃の境に生活することが出来るのであります。仏教ではさういふ心のはたらきを自内証と申して居るのであります。この自内証は人に示すことも出来ず、又説くことの出来ませぬが、この自内証が段々と明らかになつて来て、宗教の心持が立派に出てくるのであります。  人間の生活といふものはまことに嶮岨な山道のやうなものでありまして、いろいろな障碍物があるから歩くのに困難であります。さういふ嶮しい道を素足で歩けば怪我をするから、道を直してゆかうといふのは宗教の心ではありませぬ。宗教の心持はさういふ嶮岨な道を直してゆかうとするのではなくて、相当な履物を用意して怪我をしないやうにするといふのであります。道を平らかにしやうといふのではなくして、心を平らかにして歩いてゆかうといふのが宗教の心であります。  長崎の万福寺といふ禅宗のお寺の和尚が、ある時隣の家の地面との境界線のことに就きまして、今でいふ裁判所に訴へて評論を決しなければならぬやうになりました。その時和尚は相手の人に向つて「あなたが境界線を論ずるといふことはまことに心得ぬことだ。自分の寺の境内が狭くなれば隣の地面は広くなる、決して地面は無くなるのではないから、私の地面が熱くなつても隣の地面が広くなればそれでよろしいから議論をするには及ばぬ」と言はれた。それで隣の地主も非常に感心しまして、議論は取止めになつたのであります。和尚の言葉の中に仏性があつたからであります。その仏性に動かされたわけであります。  昔、大和国前栽村に雲井寺という真言宗のお寺があつたが、そのお寺と百姓との間に諍があつて門前の道を狭くせんといひ一方は広くせんといひて三ヶ年の間諍ひつづけて代官も裁許することが出来ずに居りました。その時九種孫之丞といふ人が任官してその地に參りました。この人は浄土真宗の信者でありましたが、やがてその寺の住職をひそかに招きまして、いふには、前後三年も諍ひつづけて居るが、今までに是非を定めがたいといふのであれば、まして不肖の私がその虚実を糺すことが出来やうか、そのことを日夜思ひわづらふこの頃腰折をよんだのであるが、何卒添削をしてほしいとつぎの歌を出したのであります。    広かれと願ふは法の道なれや世の通路はよし狭くとも  住職はそれをよんで大変に恥り入りまして帰りましてから村中へあやまりを述べられ、出家の身として三年の間各々と諍つたのはまことに恥しい次第である。早速に道をひろげやうと申したので、百姓等もそれをきいて恥入りまして、それから村中申合せて終に道をひろげて寺へ寄附をしたのであります。かういふことを考へてみましても、煩悩の滿ち滿ちておる人間の心持の中にも仏性があるのでありまして、煩悩をよくみつめますると仏性にぶつかるのであります。  禅宗の白隠禅師の侍者が、或る朝便所の洗水をかへるときにざぶりと庭へ流してしまつた。その様子を禅師が見てその侍者に向つて「お前は情けない奴ぢや、こんなことをいふのは好まぬことではあるが、お前のためになるからいふが、物といふものは大は大、小は小、それぞれ生かして使はなければならぬ、水をかへる時も元の水かけてやる、それで木よろこび水もよろこぶといふものぢや。そこに陰徳といふものがあるのぢや」と言はれました。これは道徳の言葉を使つて生きて居るものを無闇に捨てるものではないと悟されたのでありますが、さういふものの中にある仏性を敬慕するのが仏教であります。どんな悪るいといふ評判の人間でも、幾ら煩悩の多い人でも仏性があることは確かであります。どんな人でも捨てるべきではない。又ものを粗末にするといふのは仏性を粗末にすることであります。栂尾の明恵上人は道を歩かれるときに犬や猫を拝まれたといふことでありますが、これは犬や猫の中の仏性を拝まれたのであります。  昔から我邦ではこのものの中の仏性を大切にすることを勿体ないといふ言葉であらはしてあるのであります。前の歐洲大戦の時に、独逸の捕虜が千葉場に居つたことがありますが、その捕虜が終夜燈を九時になると必ず消すので、或晩その捕虜達を監督してゐる士官が、終夜燈で終夜の電燈料が拂つてあるから、消さなくてもよいというと、独逸の捕虜が、自然のものを無駄にすることはよくないと言つたのであります。その心持は電塔の中に含んでおる仏性を尊敬して居るのであります。電燈料さへ拂つたら要らなくとも点じていてもよいといふのは敬虔な心持ではありませぬ。人間以外のどんなものにも仏性はあるのでありまして、それを粗末にするといふことは、自分を粗末にするのと同じであります。人間の考へといふものは、自分と自分でないものを区別して、それを外側から眺めておるのでありますから、さういふ心持では宗教の心持は容易にあらはれませぬ。それで浄土真宗では自分の内側を知ることをしなければならぬと申すのであります。即ち内観であります。道徳でも内観をしなくてはなりませぬが、宗教といふものは内観が詳しくならなければなりませぬ。内観をして自分といふものの値打のないことがわかつたときに起きる心持が宗教であります。  昔、江戸に有名な儒者がありました。一人の下女を雇ひましたが、その下女は浄土真宗の信者でありまして、時々お暇をもらつてはお寺に詣つて説教を聞いて、仏のお慈悲を明暮れよろこんで居たのであります。ところがあるじの儒者は仏教に反対でありますから、どうもそのことが気に入らぬ、ある時下女に向つて「お前は阿房だ、何か有難くてお寺に詣るのか。お前が信仰する蓮如上人は大の愚僧である。蓮如上人の書いたものを見たら一の字に仮名がついてある」と言はれた。下女はそれを聞いて「それを御存知ない蓮如様ではございませぬが、この一の字を知らぬ私を浄土參りさせるために、恥や外聞をおかまひないといふのは、まことに勿体ない」と言つたのであります。それで儒者も非常に感心して、それから浄土真宗の信者になつたといふことであります。かういふ心持といふものは、我と思ふ心が出なければ誰にでも起きる心持であります。学問ならば勉強次第によつて深くも浅くもなるものでありますが、宗教の心はそんなものとは全く違うのであります。   讃岐に圧松といふ名高い妙好人がありましたが、そこへ加賀の山本良助という人が来まして、私は外ではありませぬが、後生のことが気になりまして心配で堪りませんから一言教へを願い度い」と言ふのであります。さうすると庄松は何とも返事をしないので、山本良助は当惑して、「ああまことに頼りないことで御座る、わざわざ遠方から訪れて、一言の教へなく、この儘帰つて死んだら何としませう」と言つたのであります。さうすると今迄黙つて居ました圧松が「阿弥陀樣に任せてしまへ」と言つたのであります。そこで良助が「死んで任すのですか一と聞いた。さうすると庄松は今迄浦團の中に居つたが、そこから出て来て「頼む一念の往生は治定」と言つた。そこで良助は又、頼む一念の往生を聞かせて呉れとたづねた。庄松は「それは仏様のいることぢや、己れは知らぬ」と言つたといふことであります。  お経などに仏様がお助けになると書いてありますが、自分の心持から申せば助けられるのであります。助けられるといふことを感ずればよろこびより外ないのであります。自分の心をはたらかせていろいろなことを考へますから、死んで委すのか、生きて委すのかといふやうな問題が起きるのでありますが、この場合の庄松の心持が宗教でありませう。我々人間はどんなえらい人間でも死んだ後のことは分るものでありませぬ。天気予報にしても当らぬことが多いのであります。況して明後日以後のことは分るものではありませぬ。  人間の世の中はすべて、学問で始末がつくと思ふのは大きな間違いであります。人間が生きて居るということもただ不思議の力に助けられて生きて居るのでありまして、死ぬるのも又不思議の力の中で死ぬのでありまして、それは学問の研究が如何に進んでも、解決のつくものではないのであります。宗教と申す心のはたらきは、人間の智慧のはたらきをやめて、我といふものの値打をなくしたときに誰でも感ずるところのよろこびの心持を申すのであります。それをいろいろに説明致しますけれども、それは宗教そのものを説明してあるのではなくして、宗教の心のあらはれてくる状態をいふのであります。この宗教の心のはたらきがありましてはじめて人間の世界がうまくまとまつてゆくものでありませう。 (昭和十五年五月十七日)  本書に収載したところの四篇は先生の晩年に隨筆風に書かれたものと、その頃講話せられたものの筆録である。宗教の講話も、この頃は系統立つた論述は稀になつて、隨筆的な譚を語々と愉しみて話されるといふ風であつた。前三篇は先生が自ら筆録せられたものであるが、「生活と宗教」は講演の速記録を秋山不二氏が整理して、桐原が章の題名を附したものである。その文脈、語感等力めて故先生の好んで用ゐられたところに似つたのであるが、却つて夢を犯してゐるかも知れないことを懼れる次第である。 (監修者桐原保見記) 昭和十六年十二日八日印刷 昭和十六年十二月十二日発行 東京市麹町内幸町一丁目二番地 中山文化研発行者右代表者永井千秋 日本出版配給株式